それから

> ぼんやりして、少時(しばらく)、赤ん坊の頭(あたま)程もある大きな花の色を見詰めてゐた彼は、急に思ひ出した様に、寐ながら胸の上に手を当(あ)てゝ、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈(みやく)を聴(き)いて見るのは彼の近来の癖になつてゐる。動悸は相変らず落ち付いて確(たしか)に打つてゐた。彼は胸に手を当(あ)てた儘、此鼓動の下に、温(あたた)かい紅(くれなゐ)の血潮の緩く流れる様(さま)を想像して見た。是が命(いのち)であると考へた。自分は今流れる命(いのち)を掌(てのひら)で抑へてゐるんだと考へた。それから、此掌(てのひら)に応(こた)へる、時計の針に似た響(ひゞき)は、自分を死(し)に誘(いざな)ふ警鐘の様なものであると考へた。此警鐘を聞くことなしに生(い)きてゐられたなら、――血を盛(も)る袋(ふくろ)が、時(とき)を盛(も)る袋(ふくろ)の用を兼ねなかつたなら、如何(いか)に自分は気楽だらう。如何に自分は絶対に生(せい)を味はひ得るだらう。けれども――代助(だいすけ)は覚えず悚(ぞつ)とした。彼は血潮(ちしほ)によつて打たるゝ掛念のない、静かな心臓を想像するに堪へぬ程に、生(い)きたがる男である。彼は時々(とき/″\)寐(ね)ながら、左の乳(ちゝ)の下(した)に手を置いて、もし、此所(こゝ)を鉄槌(かなづち)で一つ撲(どや)されたならと思ふ事がある。彼は健全に生きてゐながら、此生きてゐるといふ大丈夫な事実を、殆んど奇蹟の如き僥倖とのみ自覚し出す事さへある。

夏目漱石『それから』の冒頭部分だが、まあまさに今、そんな心境だわな。
漱石が42才頃の作品。うーむ。

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