「濹」という字を林述斎や鳥居耀蔵らが勝手に作って「濫用」していたのはちょうど天保の改革の頃、
大塩平八郎の乱の頃だった。彼ら父子が勝手に使っていただけで、鳥居耀蔵が配流になってからは、
誰も使っていなかったのを、幕末維新の頃になって成島柳北が詩文などに使うようになり、
明治初期にやや流行った、つまり他の人(おそらくは柳北が興した出版関係の人たち)も使うことがあったが、
柳北が死んだ明治17年以後は忘れられてしまった。
それを永井荷風が、昭和の226事件の頃にわざわざ復活させた。

漢詩や漢文では「隅田川」などとは書かない。「墨水」「墨江」などと書く。
荻生徂徠は「澄江」と書いたなどと『濹東綺譚』にはある。
墨にさんずいをつけて「濹」とすれば一字で隅田川を表せて詩文的には非常に便利だ。
たとえば「濹上」は隅田川のほとり、「濹東」は隅田川の東岸の地、となる。

こういうことは漢詩にはよくある。淀川を「澱水」と書いたり、大阪城を浪華の城として「華城」と書いたり、
江戸城を「江城」、江戸を「江都」と書いたり、箱根を「函嶺」と書くようなもの。
こういう趣味は現代にはほとんど伝わってない。
江戸時代の漢詩など高校漢文では扱わないしな。

こういう文芸趣味は特に旗本の儒者に流行ったのだろう。
それを永井荷風がむりやり小説のタイトルとして復活させた。

> 寺島町五丁目から六七丁目にわたった狭斜の地は、白髯橋の東方四五町のところに在る。即ち墨田堤の東北に在るので、濹上となすには少し遠すぎるような気がした。依ってわたくしはこれを濹東と呼ぶことにしたのである。濹東綺譚はその初め稿を脱した時、直ちに地名を取って「玉の井雙紙」と題したのであるが、後に聊か思うところがあって、今の世には縁遠い濹字を用いて、殊更に風雅をよそおわせたのである。

という説明もあるので、ただ、「濹」という字をタイトルに使ってみたかっただけではなさそうだけど。

武総相接墨水流 武総 相い接して 墨水流れ
江都西方仰富嶽 江都 西の方(かた) 富嶽を仰ぐ
曾駐徳川八万騎 曾て駐す 徳川(とくせん)八万騎
今唯看是作夷郷 今唯看る 是れ夷郷と作(な)れるを

相変わらず、まったく押韻してない、めちゃくちゃな漢詩。そのうちこそっと直そう。

さらに思うのだが、永井荷風はたくさん小説を書いているはずなのだが、なぜこの『濹東綺譚』だけが、
後世にももてはやされ映画化もされたのだろう。
ふーむ。なんとなくだが、戦後の大衆映画に、ちょうどふさわしい内容だったからだろうかなあ。
戦前の深川とか向島とか、玉ノ井とか、そういう焼けてしまった風俗の世界への郷愁というか。
ついでに昔書いた[『濹東綺譚』感想文](/?p=7424)(笑)。

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