亦不知其所終 田中久三 aka 田中紀峰のサイト。

朦朧趣味

11.27.2011 · Posted in 和歌

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良

朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人

飛鳥井雅経

初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの

慈円

かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。 慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、 単に貴族趣味という以上のものではない気がする。 さらに、

藤原為氏

人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、 それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、 土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。 これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家

見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。 しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。 単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。 その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。 為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、 為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、 どちらかと言えば古今調の機知に近い。 新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、 と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。 現代人は、自分で作らず、批評だけする。 和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。 だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、 江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。 和歌でもだいたい同じ。 もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。 彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。 多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。 だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。 「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは 「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。 アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。 自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、 初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。 それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。 価値観が違うのは当たり前だ。 しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、 定家と後鳥羽院が最高であり、 現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、 と主張する。 しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。 それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、 という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。 しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。 まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、 それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、 現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。 むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。 また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。 ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。 だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、 早くても鎌倉時代後期からだろう。 南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。 定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。 最初期で、家定の弟子の家良くらいか。 家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。 少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

Comments are closed