朝早く目が覚める。

酒を飲まないせいか、夜中に目が覚めてしまう。
五時とか五時半ならそのまま起きて仕事をするのだが、二時や三時に目が醒めると、どうしたものかと悩む。
酒、特にビールなどは利尿作用があるから割と早い時間におしっこが出てしまうが、
酒を飲まないと夜中にだらだらとトイレに立つことになる。
では水分をとらなきゃよさそうなものだが、水で腹をふくらませる方が満腹でカロリーも低いのだ。
単に年をとっただけかもしれんが。

仕方ないので、だいたい四時に起きて、夜は八時か九時に寝るようにしようかななどと思う。

私が小説を書くようになってまだ一年半も立たないのだが、一年以上前に書いたものを読むとすっかり忘れていて、
特に細部の描写などは完全に忘れているので、読み直すと新たな感動がある(笑)。
ああ、こんなこと書いてたんだふーん、というような。
ブログにもそんなことを感じていたが、小説でも同じ。
今書いている小説も早く忘れてしまって読み返してみたいものである。

世の中には、商業主義というものがあって、一方でかつて日本には終身雇用とかマル経などの社会主義思想というものがあって、
昭和末期のバブルの頃それらが組み合わさり、イビツな形の社会現象となったのだが、その中にいた我々は、
それがイビツだとは感じずに、ごく当たり前の世の中であり、世の中とはそういうものだ、と感じ、
また、それを他人や年下にも、「老婆心」というような言葉によって普遍化しようとした。
そしてその頃の異常な戦後昭和というものが心の原点みたいに思う人も多いが、単なる現初体験に過ぎない。

日本社会主義は去った。
震災があって、入院で食事制限などしてみると、その商業主義というのが単なる営業・セールスのたぐいであって、
別にそんなものはまったく無視して生きて行って何の問題もないということがわかる。
日本の経済にとっては必要なことかもしれんが、私個人の生活にはなんら関係のないものだ。

世の中には、司馬史観というものがあって、何か日本の明治維新というものが世界史的にも特別であり、
したがって日本人というのも何か特殊なものであり、
それは明治維新によって初めて発明されたかのように思えてくるのだが、
その考え方は根本的に間違っている。

『デーテ』など書いていて思うが、日本の明治維新というのは、イタリアやドイツの統一運動とそっくりだ。
伊藤博文がドイツを維新のモデルケースとしたのだから当たり前ではあるが、どちらかといえば、
イタリアと比較した方がよりわかりやすい。
イタリアと日本はまったく歴史的背景は違うのだが、ローマ教皇という宗教的権威があって、
同じイタリア語を話すが、文化は北と南で全然違い、
諸侯が分立割拠している、という状況。
しかし、産業革命によって、地方分権よりも、中央集権の方が都合が良い。
諸侯が割拠するよりも、民族とか言語ごとに大きくまとまった方が商圏を形成しやすい。
ということになって、イタリアもドイツもあっという間に国民国家になっていった。
このとき初めてイタリア人とかドイツ人というものが生まれた。
日本人というものが生まれたのとまったく同じ理由だ。

フランスは国家と民族が割と昔から一致していた。
イギリスやロシアもそれに近い。
アメリカは人造国家だ。
これらを参考にして、アジアという地域で見ると、日本の維新だけが特殊なように思えてしまうが、
実際には、日本は、ドイツやイタリアなどで起きたことを、十年遅れくらいでなぞっただけなのである。
日本固有の精神論など交えず、まして武士道などではなく、単なる社会現象と見た方が正確だ。

だから、明治維新を教えるときには、イタリア統一戦争やプロイセンの歴史を並行して教えるべきだ。
イギリスやフランスなどと比較していては、何がなにやらわからなくなってしまう。
だけど、イタリア、ドイツはかつての枢軸国だったせいで、余計にマスクがかかって見えにくくなっているよね。

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