パルムの僧院

『パルムの僧院』を読もうと思うのだが、なかなか進まない。
『赤と黒』とあわせてよんでみるとわかりやすいのだが、スタンダールで出てくる「私」というのは作者自身のことだ。
今の小説で「私」というのは主人公の一人称であることが多い。
全然違う。

それから、当時のオーソドックスな小説というものは、主人公が生まれる二、三年前から書くものだったらしい。
そういえば源氏物語もそんな構成になっているわけだが、
これも現代の読者にしてみればわけわからない。
今の小説は多くの場合、いきなり主人公が現れて、主観視点的に語り始めるからだ。
桐壺を飛ばしていきなり箒木から始まるようなものだ(実際、箒木の成立が一番古く、桐壺は一番最後に付加されたという説がある)。
たとえ記述は三人称的であったとしても。

私も、最初は誰が主人公かわからない書き出しをするのが好きだ。最後まで読まないと実は誰が主人公かわからない。
あるいは、冒頭で主人公の役割を持たされているが、実は本論は別にあると言うような。

例えば『千夜一夜物語』の主人公は、一見シャフリヤール王とシエラザードのように見えるが、
本論はシンドバッドの冒険だったりする。
『千夜一夜物語』のあらすじは、王様とお姫様が千と一日の間、物語をして暮らしました。で終わりだが、
それではこの話の内容を何も反映していない。
つまり、入れ子の枠構造になっているから、一番外側の枠について説明しても、物語の内容を表したことにならないからだ。

しかし、現代の読者はそういう物語には慣れてない。
いきなり主人公が現れて、彼もしくは彼女に感情移入できないとそれ以上読者はついてこない。
そういうごくシンプルなわかりやすい構造になってないとついてきてくれない。
漫画やテレビのドラマと同じだ。
嫌な時代である。

『パルムの僧院』だが、ナポレオン戦争やイタリア統一戦争に予備知識や関心がないと、読むのは辛いだろうと思う。
さっぱりどこが良いのかわからないはずだ。
逆にあると、とても面白く読めるだろうと思う。

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