ギュライ軍の謎

ギュライがミラノを出たのが1859年4月29日。ヴェルチェッリに着いたのが5月14日。50kmの行程に2週間かかっている。50kmといえば東京と川越の道のりくらいだ。夏目漱石の『坑夫』という小説では東京から川越まで川越街道を歩いて2日で着いた、などという描写がある。素人が歩いて2日で着くところをなぜ2週間もかけたのか。遅れればフランス軍が参戦してくる可能性があることくらい、ギュライにはわかっていたはずだ。ミラノから100km離れたトリノを目指していたのならば、強行軍で1週間くらいで到着できていたはず。その頃はまだフランス軍はピエモンテに入ったばかりで、すでにトリノに入城していたとしても、態勢が整っていなかったはずだ。オーストリアにとって、開戦後の1週間こそが、勝機であったはず。いくらポー川が氾濫していたからといって、たとえば最悪、タイの洪水のような状態だったとしても、軍隊というものは、歩兵というものはある程度は前進できるはずであって、2週間で50kmしか進めなかったはずがない。謎だらけだ。

一般に負けた方の戦史は失われて残らないことが多い。ギュライがなぜ負けたのか。なぜあんなへたくそな戦をしたのか。わからん。調べようもなさそうな気がする。

もしかすると、ギュライには、トリノにフランス軍が到着した知らせが入っていて、トリノまで行くのをためらったのかもしれない。それで代わりにアレッサンドリアを取ろうと進路を変更したが、こちらも先にナポレオン三世に入られてしまった。そういうことかもしれん。

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