後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。
『新古今集』

> みこの宮と申しける時、太宰大弐[実政](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E6%94%BF)学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
> 後三条院御歌
> 思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

> 橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
> 忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

> むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
> 忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

> 忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。
思うに、初出は伊勢物語であろう。
意味も一番素直でわかりやすい。
後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。

『玉葉集』

> 御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
> ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
> と申して侍りければ、後三条院
> 色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

顕季

たづね来ぬ先にも散らで山桜見るをりにしも雪と降るらむ

山高みをのへに咲ける桜花散りなば雲の晴るるとや見む

しぐれつつかつ散る山のもみぢばはいかに吹く夜の嵐なるらむ

やまびこの答へざりせばほととぎす他に鳴く音をいかで聞かまし

さりともと思ふばかりや我が恋ひの命をかくるたのみなるらむ

秋風になびくすすきと知りながらいくたびそこに立ち止まるらむ

秋の夜は人待つとしもなけれども荻の葉風におどろかれつつ

ちとせまで君が摘むべき菊なれば露もあたには置かじとぞ思ふ

風はやみなびく稲葉の葉の上にいかでおくらむ秋の夜の露

霧晴れぬ小野の萩原咲きにけりゆきかふ人の袖にほふまで

散りかかる細谷川に山桜たづぬる人のしるべなりけり

試みにさてもや春はうれしきと花なき年にあふよしもがな

青柳の糸吹き乱る春風もいかに苦しきものとかは知る

雪のうちにつぼみにけりな梅の花散る明け方になりやしぬらむ

としまよりとわたる船のともやかたやかたつれなきいもが心か

心あらばこよひの月をからくにの人もながめてあらざらめやは

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歌論の源流

藤原清輔は藤原俊成より10歳年上であり、
清輔には歌論書『奥義抄』があり、
俊成には『古来風体抄』がある。
清輔は治承元年に死んでいるから、源平の争乱直前までしか知らなかった。
『古来風体抄』が『奥義抄』の影響を受けてなったのは間違いなかろう。
俊成は90歳まで生きており、晩年新古今集勅撰の院宣が下っているのだが、彼は後鳥羽院に自分よりも息子の定家を選者に推薦したのだろうと思われる。

定家や後鳥羽院の歌論が断片的、羅列的で、簡素明快なのに対して、
清輔や俊成の歌論の方が長大で体系的なのは不自然だと思う。
おそらくは、紀貫之の仮名序のような、ごく感覚的な文章や、
いくつかの歌に注釈を付けたようなものの集成があって、
それらは確かにもともと俊成や清輔が書いたのだろうが、
それを核として、多くが後の世に付け足された、と考える方が自然だと思う。
ただ、俊成はそうとうもうろくしていただろうから、老人の繰り言というかな、自分でくだらないことをくどくどと書いた可能性もあるわな。
ちゃんと調べてみないと。

天皇が和歌に深く関与したのは白河院が初めであり、
次には崇徳院が、その次には後鳥羽院が和歌を発展させた。
この時期に歌論が生まれ、さらに歌学へと体系化される下地ができた、と考えられる。
その生成過程は非常に興味深い。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。
いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

> ひとりもるしづが千代田の岡におふるまつてふ心君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。
他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。
たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、[これ](/?p=8071)。
今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。
四月四日、訓導にも動員令が下ったと、
祖父は「応招前記」という日記に書いている。
面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、
祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった
(もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

> きのふまで人ごととのみ思ひしに今日より我もいくさ人なり

悪くない。
明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

> 戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや

> 菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ

> 粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを

> 沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり

> 動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため

> 今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら

> メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける

> 我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ

> 皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな

> いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ

> みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。
そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。