線香

九州に来て見ていると線香を寝かせる人が多い。

浄土真宗では、香炉が狭いと折って寝かせることもあるという。
まあいろんな理由付けがされているようだが、
横浜中華街の関帝廟でも、
浅草観音でも線香は立てるわな。

線香というのはもともと道教に由来するものでインド由来ではないんじゃないか。

で、香炉というは香木を焚くものでもあるから、その種のお香を焚くのであれば寝かせるのが当たり前だと思う。

中国での線香の由来を調べようとしても、よくわからんな。
ともかく、線香を立てると、関帝廟や孔子廟みたいな道教臭というか先祖崇拝的、偶像崇拝的なものを感じるので、
浄土真宗ではそれを嫌っている(積極的に否定している)のではなかろうか。

思うに、本来仏教というのは先祖を敬うとか死者を弔うという意味はなかっただろう。
だが、葬式というのは、少なくとも中国や日本では先祖を敬い祭るものだから、
それが関帝廟のような偶像崇拝的儀礼となっていくのは至極当然であり、
線香にそのような意味合いを持たせることに浄土真宗が反発するのもまたあり得ることだ。
そもそも東アジアの「孝」という概念は仏教の根本教義とは相容れないものだ。
「孝」が仏教に取り込まれてしまったのが東アジアなのだから、どうしようもないのではないか。
いまさらどうにもならないし、どうかしようと努力することに意味があるとも思えない。

結論を言えば私は線香は立てる派だな。

立てるとやけどしやすいからというのはたぶん後付けの理屈ではなかろうか。
立てたくないのなら線香以外の形状のお香を使えば良いのでは。
だってそうめんをわざわざぼきぼき折ってからゆでたりしないだろ。
そうめんを食べたくなければワンタンでもそばがきでも食べればいい。

墨染めの袖

承久の乱後の後鳥羽院の歌を見るに「墨染めの袖」というフレーズが目立つのだが、
検索してみると一番最初に使ったのはどうも花山院らしい。

ただ単に墨染め、墨染めの衣、墨染めの衣の袖などならば、古今集に、上野岑雄

> 深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染めに咲け

壬生忠峯

> すみぞめの君がたもとは雲なれやたえず涙の雨とのみふる

または詠み人知らず

> あしひきの山へに今はすみぞめの衣の袖はひる時もなし

> 心にもあらぬうき世にすみぞめの衣の袖のぬれぬ日ぞなき

などたくさんある。「墨染め」を「住み初め」にかけている例が多い。

花山院

> 七夕に衣も脱ぎて貸すべきにゆゆしとや見む墨染めの袖

これはつまり、よくはわからんが、七夕に人に服を貸す習慣でもあったのだろうが、
それが僧侶の服、あるいは喪服であればあやしまれるだろう、という意味である。

がある。
後鳥羽院はおそらく花山院の境遇と自らを重ね合わせ、
「墨染めの袖」というフレーズを使ったのだろうと思う。
ただまあ、有名どころでは慈円の歌

> おほけなくうき世のたみにおほふかな我が立つ杣にすみぞめのそで

などがあって、墨染めの袖イコール花山院もしくは後鳥羽院、
というイメージに固まることはなかったかもしれない。

後鳥羽上皇

例によって wikipedia の「後鳥羽天皇」を読んでいたのだが、

> 伝統が重視される宮廷社会において、皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま治世を過ごした後鳥羽天皇にとって、このことは一種の「コンプレックス」であり続けた[1]。 また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[2]。 後鳥羽天皇は、一連の「コンプレックス」を克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[3]。

本気で言っているのか。
[1]はただの個人の感想ではないのか。
[2]は藤原定家ならそのくらいの悪口は言うだろう。ていうか定家が後鳥羽院に対してかなりネガティブなイメージを持っていた証拠にはなるだろう。それに定家が言いたいことは、即位のときに神器がなかった、という正統性の問題ではなく、神器のうちの宝剣が失われて戻ってこなかった、ということだけだ。三種の神器がそろってないから蹴鞠ばかりする、とまあその程度の意味だろう。
[3]だが、承久の乱の原因が、三種の神器を欠いて即位したコンプレックスによるものだとする、まあ、そんな意見もあるかもしれん、だが、戦前戦後のすべての学説を並べた中にこれがあるならともかく、こういう書き方は公平性を欠いているのではないか。かなり歪んだ記述だ。

丸谷才一は後鳥羽院が大好きだからたくさん書いている。
そのことは良い。ただの作家の一個人としての感想だからだ。
しかしおかげで丸谷才一史観みたいなものができてきて、それがまるでオーソリティのようになりつつあるのではないか。
極めて危険だ。司馬遼太郎くらいに危険だ。

後鳥羽院はものすごくたくさん和歌を詠んだ人だ。
そしてすごく優れた歌人だ。
ほんとうはもっとたくさん勅撰集に採られていてもおかしくない。
しかし承久の乱を起こしたので、のちの北条氏や足利氏には嫌がられただろう。
ごく一部の歌だけが知られている。
戦後はやはり、後鳥羽院の歌は半ば封じられた。
特に承久の乱の後、隠岐に流されたころの歌とか。
順徳院の歌も。

承久の乱がなんであったのかは今も良く理解されていないと思う。

白河院はものすごく勅撰集にコミットした。万葉集、古今集は必ずしも天皇の関心事ではなかった。
勅撰集というものは白河院が創始したと言っても良い。
だが、後鳥羽院という天才歌人天皇がいなければ、勅撰集は応仁の乱までもたず、
従って今日でははるかむかしに存在した文芸、ということになっていたはずだ。

コンプレックスだけで良い歌は詠めない。後鳥羽院はほんとうの天才だった。
むしろ何のコンプレックスもなく、王者としての万能感だけがあったのではないか。
だからつい承久の乱を起こしてしまったのだと思う。