『古今和歌集の真相』を出したのは今から2年も前のことになってしまった。
それで読み返してみるともうほとんど何もかも忘れてすごく新鮮に読める。
この頃からすでに藤原定家とか古今伝授とか後鳥羽院の話を書いている。

『虚構の歌人』には自分の歌もけっこう載せた。
『古今和歌集の真相』には一つも無い。
『虚構の歌人』はそういう意味では『民葉和歌集』に近く、
一種の私撰集+解説というものだと思って読んでもらえると良いかもしれない。
『古今和歌集の真相』は最初は小説にしようと思ってたんだな。

『古今和歌集の真相』はも少し描き直して改訂版をだそう。
『虚構の歌人』はもはや電子データには戻らなそうな気がする。InDesign で作ればよかったのに。Illustrator で作っちゃったからなあ。ま、あとルビとか多すぎる。
今度出る『ヨハンナ・シュピリ初期短編集』は InDesign で組んでる。安定感が全然違う。

『民葉和歌集』はいつ完成するかわからん。
これの仮名序は小澤蘆庵の歌論かなんかを参考にしたんだが(なんだっけ)、
今読むとかなり陳腐だ。
しかもこの仮名序にも定家とか後鳥羽院とか承久の乱とか書いてて『虚構の歌人』にかなりかぶってるな。
とにかくいろいろ手直ししなきゃならん。

『スメラミコトの歌の力』というWeb連載をすることになっている。
これはいきなり紙の本を出すのではないので気が楽だ。
いずれにせよこれ以上迷惑はかけられない。
『ヨハンナ・シュピリ』がそこそこ売れてくれなかったら当分(永久に?)紙の本から撤退することになるだろう。

『万葉集』や『記紀歌謡』までさかのぼってやるかどうかはなんとも言えないが、
『古今和歌集の真相』『虚構の歌人』『民葉和歌集』『スメラミコトの歌の力』は全部一つにつながったものであるともいえる。

『ヨハンナ・シュピリ』はたぶん二月頃に出るだろう。
どんな装丁になるのかわからない。
スイスとかハイジっぽくなるらしい。
ゲーテとかドイツ詩にどっぷり浸れて楽しかったのだが、
日本はあんまりドイツの古典文芸ははやらないらしい。
どちらかといえば哲学系のほうがはやると。なぜなのか。
あと現代ドイツ文学といえばやはりナチスとか。そっち系だよなあ。
屈折してるよな。

また道玄坂に行ってきたのだが、今の世の中、本を読む人はどんどん減っていて、逆に本を書く人、小説家になりたい人がどんどん増えている。そして今や本を読む人と本を書く人がほとんど同じくらいになってしまっている、らしい。本を読む人は自分も書いてみようと思う。両者が同数になってしまうのは仕方のないことらしい。

紙に字を書いてた頃は、多くの人が、書いてるうちに諦めた。今はワープロなりなんなりでそれなりのものが書けてしまう。絵だってそうだ。絵を見る人はたいてい自分でも描く。

需要は少なく供給が多いとなれば、本は売れない。本が世の中に満ちあふれていても、本の読者はごく一部に限られている。ほんとに良いものなら売れるかといえば、それが十分条件でないことは明らかだ。新しく出る本のほとんどは古い本の焼き直しであって、何も新しさがない。新しくないということは内容がないということだ。馬鹿みたいな内容のない本でもそこそこ売れる。そういう本にもそれなりの需要があり、消費されるからだ。つまらない本が淘汰されるようになったわけではない。マーケティングとかそういうものがあればつまらない本でもいまだに売れるということは、限界効用というものは、我々が思ったよりはずっと大きいのだ。普通の人は限界効用ぎりぎりまで、つまり、マーケティングを完全に活用した状態で本を売れるわけではない。なんか限界効用の意味を間違って使っているような気がするがそこは雰囲気で理解してほしい。まったく売れない本とミリオンセラーの間には特に何の違いも無い。

のちの時代に残るようなものを書くしかないと思う。そこそこ売れても、何も新しさがなく、死んだら忘れられるような本など書いても仕方ない。

ほんの30年ほど前まで、情報の血流というものは本だった。紙というものを強制的に循環させて情報を流していた。今は紙が必要なくなった。だからその分の部数は減る。紙の本はまさに「文芸作品」という名の「工芸品」となり、純粋に所有欲を満たすものになりつつある。所有欲と知識欲が分離されつつある。それらはもともと別のものだったのだ。紙の本というものは、読まない人が大量に買わない限り売れない。つまり所有して棚に飾っておくだけで満足する人が世の中に大量にいないと成立しない。昔の人のほうがたくさん文字を読んだわけでもない。昔は一期一会で、とりあえず読むか読まないかわからなくても書斎に備蓄したものだ。今はそんなふうな本の買い方はしない。

酔ひてかも寝む

実はこないだ久しぶりに中編くらいの小説を書いて新人賞に応募したのだが、これは落ちてもKDPで出す予定がない。新人賞が取れれば多少恥をかいてもよいが、そうでないのなら人目にさらしたくはない、そういうものだからだ。

私の場合あまりネタを使い回すことはなく、一つのネタを使うとネタが貯まるまで時間がかかる。通常複数のネタを組み合わせて一つの話を作る。まあ、二年くらいあければなんらかのネタはたまってくるから、今後も完全オリジナルな小説は書けなくもなさそうな気がする。しかし余り年を食うともう頭がぼけてくるから書かないほうが良いと思う。耄碌した老人を、たくさん見てきた。彼らも60歳くらいまでならまあ普通だが、それからだんだんあやしげになる。たぶん自分もそうなるだろうと思うから、早めに書いておかなきゃならんなと思う。

私の場合、積極的にネタを拾いに行くことはできるかもしれん。そう、根は非常に臆病者なので、天涯孤独ならできるかもしれんが、いろんなしがらみで動けない。あと病気持ちなんで怖い。旅行いくのも最近はおっくうになってしまった。もっと若いうちにいろいろ旅行しておけばよかった。熟年とか定年後によくみんな旅行にいこうと思うなって思う。

小説以外にもいろいろ書きたいものはあり、書き始めて、同時並行で下調べをしていて、
ものすごく大変だってことがわかって書けなくなる。いろんなものが途中で放ってある。
これがまあ、必ず売れるとわかっていればやるんだろうが、これまで売れたためしがない。

ツイッターは便利だが、危険でもある。ブログのほうが安全だなと思う。

なぞかかる 愚かなる世に生まれ来て 今日また酒に 酔ひてかも寝む

酔ってこういう感じの歌を詠んでそのまんまツイッターに書いて、翌朝忘れた頃にまた見て、びっくりするということがあった。そういう危険な歌の詠み方をしてはいかんなと思う。いったん紙とペンでメモるべきだ。

私はもともと理系だから理系の空気というものを身にまとっている。文系の人は文系の空気を、芸術系の人は芸術系の空気をまとっている。同族であるかどうかはその空気でわかる。理系の人間が文芸出版の世界へ入っていくのはその空気を身にまとっていないのでかなり難しいと思う。その、私から見ればなれ合いというか既得権益のようにしか思えないその空気をかき乱してやりたい気になる。そしてますます入り込めずにいる。だがまあ、文系の人間が文系の文芸を書くのは当たり前のことであり、そこで世界が閉じていて面白いわけがない。その世界の高度な専門性をもっていて敬服する人もいるのだが、単に閉じこもっているだけとしか思えない人もいる。