摂政

日本では、摂政というのはずっと天皇の外戚のことだった。
具体的には藤原氏のことだった。
昭和天皇が即位する前に摂政宮となったのは例外であった。

藤原氏が摂政である場合、藤原氏は天皇家の祭祀まではやらない。
藤原氏には藤原氏の氏長者がいて、藤原氏の祭祀があるからだ。

天皇家の祭祀は天皇の専権事項であり続けた。
皇太子や上皇が行うことはあり得ない。
大正期の摂政宮がどうであったか。
詳しくは知らないが、天皇以外が天皇家の祭祀を行うことはちょっと考えにくい。
それはいかなる法律にも、憲法にも書き得ない、天皇家の家訓に関わることであって、
国民とか、日本という国家が変更のしようがない。
介入のしようがない。
昔ならば天皇が譲位して上皇になればよかったがそれは現在認められてない。
明言はまったくされてないが、

> 「天皇の高齢化に伴」い「行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」

とか

> 摂政を置いても「生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません」

とはこのことだろうと思う。
天皇が必ずやらなくてはならないこと、摂政に任せられないことは、他には考えにくい。
国事行為ならば、摂政や大臣が代行できる。
問題はそれ以外の部分なのだ。

摂政が全部代行すれば良い、と言っても、外戚の藤原氏が摂政だったという長い長い伝統があるし、
天皇家の内規では天皇しかできないことがあるのだ。
結局伝統に則るためには明治政府が作った皇室典範は邪魔になるのである。

今上天皇としては、フィリピンを訪問したことによって、為すべきことはすべてなし終えたと思ったのに違いない。
長い、戦後の贖罪の旅だった。
譲位の意向というのはその区切りを付けたことによると思う。

天皇と上皇がいる状態というのは、
もともと珍しくはなかったのだが、政治的にはあまりよろしい状態ではない。
天皇と上皇は政治的には対等だったという、これも長い長い伝統があるからだ。
天皇が上皇になっても上皇の権力は天皇の時とまったくそのまま、
或いはさらに権威づけられて存続するし、上皇が再び天皇に即位することだってあったわけだし、
上皇もまた国事行為を行ってもよいと解釈することは可能だし、
上皇もまた日本国の象徴だと見なすことすら可能だし、
とにかくいろいろややこしいことが発生する。
だから明治の元勲たちは、
天皇は譲位できず、その代わり摂政が天皇の国事行為のすべてを代行し得るというやり方を決めたのだったが、
国事行為ではない天皇家の身内の宗教的行事までは縛りようがない。
そこを修正しようと思うと、皇室典範だけではなく、憲法も、天皇のあり方も、
全部一度見直さなきゃならなくなる。

譲位を認めると、天皇を強制的に退位させられるようになるからダメだという意見もあるようだが、
これは、現代ではあまり関係ないのではないか。

戦後七十年という大きな節目を過ぎ、二年後には、平成三十年を迎えます。

 私も八十を越え、体力の面などから様々な制約を覚えることもあり、ここ数年、天皇としての自らの歩みを振り返るとともに、この先の自分の在り方や務めにつき、思いを致すようになりました。

 本日は、社会の高齢化が進む中、天皇もまた高齢となった場合、どのような在り方が望ましいか、天皇という立場上、現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら、私が個人として、これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

 そのような中、何年か前のことになりますが、二度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また、私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に八十を越え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。

 私が天皇の位についてから、ほぼ二十八年、この間(かん)私は、我が国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

 天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

 天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ二ヶ月にわたって続き、その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が、一年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

 始めにも述べましたように、憲法の下(もと)、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。

 国民の理解を得られることを、切に願っています。

三島由紀夫が復活する

小室直樹「三島由紀夫が復活する」の中に
坊城俊民 「焔の幻影 回想三島由紀夫」の次のくだりが引用されている。

>「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」

「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定していたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。

これの

> そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった

の箇所は坊城のセリフであって三島ではないのだろう。
「定家が自ら神になった」とは何が言いたいのか。
三島が抱いていた何かの虚像なのだろう。
三島由紀夫や小室直樹が定家を理解していたとはとても思えないのだが、
それはともかくとして
「ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
というセリフが私にはどきりときた。

私はこの「三島由紀夫が復活する」をその出版当時、つまり昭和60年2月26日頃に、
読んでいるのである。
当時私は19才だったはずだ。
そして私が「定家を書いた」のはちょうど私が50才の時であった。
実際には49才頃からすでに書き始めていて、構想はもっと前からあったのだが。
私の脳のどこかの無意識にこのセリフが刻み込まれていて、
それが時限装置のように働いて私に定家を書かせたのではないか、
そんな気がしてきたのだ。

小室直樹はこの本をその2年前から書き始めたと言っているのだが、
1932年9月9日生まれの小室直樹にしてみると、彼が50才の時のことだったはずだ。
小室直樹はだから、50才で定家を書くのではなく、三島由紀夫を書き始めて、
2年の歳月をへて、ちょうど226事件の日に、「三島由紀夫が復活する」を刊行したのである。

私はずっとこの「三島由紀夫が復活する」が、小室直樹の書いたものの中では一番難解だと思っていた。
カッパブックスなどの売れ筋の本は編集者の手が入っていて多少読みやすいが、
「三島」は小室直樹が好き勝手書いているからちんぷんかんぷんなんだと思っていた。
しかし50才になって「定家」を書き、「ヨハンナ・シュピリ」を書いて、
その他いろんなものも書いてみて、著者の気持ちというのがわかったような気がしてきた。
著作を深く理解するには自分も著作してみるとよいと思う。
読者を意識して書くという作業を通じて、著者が読者に何を言いたいかが読み取れるようになる。
というより、書こうと思って書き切れなかったことにも今なら気づけるのではないか。
私が「三島由紀夫が復活する」を理解できないのは小室直樹の執筆意図を理解せず誤読しているせいかもしれない。
そう思ってもう一度丹念に読んでみることにした。

それでまあこの本は小室直樹が真剣にまじめに書いたものであって、
きちんと一冊の書籍の体裁にまとまっているのはわかった。
しかしいろんな点でやはり納得はできない。
唯識論や三島理論と天皇制とは特に関係ないとしか言いようがない。

「ミリンダ王の問い」という仏典が引用されている。
これはギリシャ的哲学とインド的哲学の対立と捉えられているのだが、
例えばギリシャ人でもディオゲネスなどは明らかにインド思想の影響をうけている。
またギリシャの宗教でもギリシャ由来でないものは多い。
アドニス、アルテミス、デュオニソスなどは西アジアやインドの影響をうけている。
イエスにも仏教の影響は見える。
西洋と東洋を対立させてみるという考え方は本質を見誤らせるし、定家が自ら神になろうとした、
なんていう証拠はどこにもない。
そんなことを定家がやろうとしたはずがない。

それでもまあ、小室直樹や三島由紀夫を知るには貴重な本であるのには変わりないが、
三島由紀夫は結局50才で「定家」を書かずに45才で死ぬ。
三島由紀夫が1970年11月15日に割腹自殺したのは1971年1月14日に転生しなくてはならなかったからだ、と書かれていて、
おそらくこれは小室直樹の持論なのだろう。
そして1月14日は三島由紀夫の誕生日なのである。
小室直樹は三島由紀夫は自分自身に転生したかったのだと言いたいわけだ。

オリンピック

アリアッノスなんか見てると、
神前に犠牲を捧げて、体育の捧げ物とか音楽の捧げ物とか、競技などを催すのだけど、
これが近代オリンピックのひな形なのだろう。

この、古代ギリシャにおける、
神に捧げる体育競技というイメージと、
今のオリンピックはほぼ何の関係もないような気がする。
こんなものを捧げられた神様はたまったもんじゃない。

オリンピックなんてやめて、
個別競技の世界選手権で良いのではないか。
インフラ整備なんてものをいちいちやる必要ないし。
同じようなもので万博というのももう死んでしまったし。

一度リセットしてみるべきなのではなかろうか。