私はもう『妻が僕を選んだ理由』を書き終えたつもりだったが、私の頭の中ではいまだに主人公たちが動きまわっていて、
私は仕方なく彼らの行動を追記しなくてはならない。
彼らが動かなくなったり、別の話で頭の中が置き換わるまでは、彼らによって僕の頭の中は支配されている。
彼らの過激な言動が私自身に影響を与えることがあり、少し困る。特に酔っ払ったときなど。
作者は自分自身を狂わせないと作品を作れないのかと思うこともある。

今年は精神的肉体的限界を感じた年だった。
たぶん外飲みはほとんどしなくなると思う。
私の精神はもう飲酒に耐えられない。きっぱりとやめられるといいんだが。

砧から渋谷へ

1Q84を頭から読み始めて、とりあえず第1章を読んでみた。

ヤナーチェクのシンフォニエッタから第一次大戦後のチェコスロバキアの話がでる。
ハプスブルク家の支配とヒトラーの侵攻のはざまでつかの間の平和を楽しんでいる。
この歴史認識からして私にはステレオタイプに見える。
わざとなのか?それともほんとうにそう思っているのか。
ハプスブルク家がいようといまいと、ヒトラーがいようといまいと、
中欧の小国はパワーポリティクスにふりまわされて、ひとときも安らぎなどなかったはずだ。
さらに日本で大正が終わり昭和になって「日本でも暗い嫌な時代がそろそろ始まろうとしていた。モダニズムとデモクラシーの短い間奏曲が終わり、ファシズムが幅をきかせるようになる。」
などと書いている。
わざとなのか。わざとこんな陳腐なことを書いてみせているのか。
青豆という人がそういう考え方をする人だといいたいのか。
それとも作者が本気でそう思っているのか。
大正を美化しすぎているし、昭和を、戦後民主主義史観でしかみようとしてないようにみえる。

それから、砧から渋谷へ、タクシーで行く、しかも首都高に乗ってという話なのだが、
まああり得ないことだと思う。
よほど土地勘がないのか、タクシーに乗るのが好きならともかく。
砧は確かに不便なところだが、少し歩けば新玉川線か小田急線がある。
タクシーが渋滞に巻き込まれたのが3:45。待ち合わせが4:30。
何時にタクシーを拾ったのだろうか。3:30くらい?
首都高や一般道が渋滞することは当然予測できるはずだ。
待ち合わせの時刻まで1時間しかないなら、普通の人なら安全確実な電車に乗る。
新玉川線ならそのまま渋谷まで出れるし、
小田急線なら下北沢で井の頭線に乗り換えるだけのことだ。

文章はところどころ非常に凝っていて、それ自体は少しおもしろい。

女性の姓が「青豆」でそれについてくどくど説明しているのはまあよいとする。

第2章も読んだ。
芥川賞うんぬん。
新人賞の下読みうんぬん。
どうなんだろうこれは。

第3章も読んだ。
なるほど。
青豆は4:30に人と待ち合わせたわけではなかったのか。
では4:30でなくてもよかったわけだ。
つまり、もともと急ぐ必要はなかったのだが、急にタクシーを降りてみたくなったのかもしれない。
それと、人に自分の特徴のある表情を見せたくなかった。
警官が自動拳銃を持っていてそれが9mmで13発入る、なんてことを普通の女性が気にするはずがないのだが、
それも理由があることだったわけだ。

まあ、ここがつかみだわな。
いきなり殺人事件がおきる。
主人公青豆は必殺仕置き人みたいな暗殺者だった。

あざやかなイントロだとは思う。多くの人はここで引き込まれてどんどん読んでいくんだろうなあ。

未捕狸算用皮

kobo ではまだ1冊もダウンロードされてない。

なんか設定がマズイのかなと思って、ジャンルを3つに増やし、説明も書いてみた。
しかし、ジャンルが大分類と中分類しかなくて、小分類は著者には指定できない。

表紙も文章も一瞬でアップロードできて一瞬で反映される。
KDPの「はがゆさ」を知っている人にとっては意外な感じがするだろうと思う。

やはりアマゾンという外圧がなければ KDP のようなものは自然と日本で生まれるはずがないのだと思う。
Puboo にはお世話になったが今は使ってない。
カクヨムは、今後使わない予定だ。伊勢物語は気が向いたら書き足すと思うけど。
私は一太郎メインで書く人なので、一太郎とカクヨムで両方執筆するのは結局は手間だ。
発作的に何か書きたくなったとき、特に短篇の場合、カクヨムや小説家になろうは便利かもしれないが、
後できちんと書こうというときに邪魔になる。
なら最初から一太郎で書いてKDPで出すのがよい。

とにかくアマゾン様のおかげで、『妻が僕を選んだ理由』は無料本の中で今も良い位置につけている。
この状態はいつまで続いてくれるのかな?
あまり期待しないほうがいいかな。
もし1ヶ月あまりも、
アマゾンkindle無料本「SF・ホラー・ファンタジー の 売れ筋ランキング」の1位に居座り続けたら、
私は何か勘違いしてしまうかもしれない。
でも要するに、ジャンル別で1位と言っても大してダウンロードされてはなかったということよね。
夏目漱石『こころ』なんかもおそらくせいぜい1日100部くらいだろう。
年で4万部。大したことない。
だからほんとなら『こころ』を凌駕するような個人出版がぽんぽん出てこないと嘘だということになる。
紙の本で1万部なんてのはざらにあるわけだから。

コンスタントに平均1日20部ずつダウンロードされたとして年で7300部。
無名の作家にとってはバカにならない数だ。
1年くらいで1万部突破するかもしれない計算だ。捕らぬ狸のなんとやらだが。
無料で、しかもどこにも話題になってないので、中身を読んでダウンロードしているはずがない。
なんとなく気になるタイトルだからとりあえずダウンロードしているのだろう。
それでランキングがあがり目立っててそれでまた違う人の目に触れてダウンロードしている。
ランキングが持続しているということは、これまでより、読者の裾野がずっと広いってことだ。いろんな読者がいる。
やっと魚影が濃そうな漁場を見つけたのかもしれない。

若い作家はラノベやファンタジーを書く傾向がある。
作家どうしで著者となり読者となるのなら、つまり同人的な著作活動ならそれで良いと思うが、
そうすると似たような小説ばかりになる。
同じような作品ばかりになると世の中の読書量の総和には限りがあるから、
作品一つ当たりの読まれる機会は減ってしまう。
『妻が僕を選んだ理由』というタイトルは今までありそうでなかったのだろう。
他に似たような名前の作品がないから私の作品を読むしかないという状態ではなかろうか。

婚活物語みたいな感じで読まれているのかもしれない。
何かの鉱脈に触れている手応えはある。

初出・初版一覧

私が最初に本を出したのは実は1990年で、出版社は工学社だった。共著だった。
それから新紀元社とかオーム社から出したが、これらも皆共著だった。
出版社からわかるように、当時は技術書しか書かなかった。しかも、いつも私の名前は共著者の中で最後だった。

そんなこともあって私は死ぬまでに単著の一本くらいは書きたいとずっと思っていた。

1. 『アルプスの少女デーテ』初出2004年9月、某Wiki(匿名)
2. 『超ヒモ理論: もし俺がヒモになったら』初出2011年4月Puboo(「山崎菜摘」名義、原題『超ヒモ理論』)
3. 『スース』初出2011年6月Puboo(「山崎菜摘」名義)
4. 『将軍放浪記』初出2011年8月Puboo
5. 『西行秘伝』初出2011年8月Puboo(原題『山家物語』)
6. 『川越素描』初出2011年8月Puboo
7. 『司書夢譚』初出2011年9月Puboo
8. 『安藤レイ』初出2011年11月Puboo
9. 『将軍家の仲人』初出2012年8月Puboo(原題『新井白石』)
10. 『紫峰軒』初出2013年1月Puboo
11. 『エウメネス1 ― ゲドロシア紀行 ―』初出2013年3月KDP(原題『エウメネス』)
12. 『巨鐘を撞く者』初出2013年4月KDP
13. 『特務内親王遼子』初出2013年7月ブログPDF版
14. 『古今和歌集の真相』初出2013年9月KDP
15. 『フローニの墓に一言』初出2014年1月KDP(現在非公開。『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』に再収録)
16. 『エウドキア: ローマの女王』初出2014年2月KDP
17. 『江の島合戦』初出2014年4月KDP
18. 『生命倫理研究会』初出2014年12月KDP
19. 『虚構の歌人 藤原定家』2015年6月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
20. 『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』2016年3月初版(田中紀峰名義、夏目書房新社)
21. 『エウメネス2 ― グラニコス川の戦い ―』初出2016年7月KDP
22. 『エウメネス3 ― イッソスの戦い ―』初出2016年7月KDP
23. 『斎藤さん ― アラカルト ―: 田中久三短編集』初出2016年8月KDP(『小説家になろう』に公開していた短篇などを集めたもの)
24. 『潜入捜査官マリナ』初出2016年9月KDP
25. 『妻が僕を選んだ理由』初出2016年11月カクヨム

『アルプスの少女デーテ』を最初に書いたのは2004年で、39歳。小説らしきものを書いたのはこれが初めてということになるが、
高校生くらいに書き殴って今はどうなったかわからないようなものとか、
そういえば小学生のころ書かされたものもあった気がするので、昔からその気はあった。
しかし私は自分で書いたものを読み返してみてやっぱり自分には才能がないと諦めていた。

で、最初に書いたまともな小説は『将軍放浪記』で、これは2009年ころに新人賞に応募したのを2011年にパブーで公開し、
その後も加筆や修正をしてある。
最初の頃は、新人賞に応募する作品は田中久三で、そのままPubooに載せるやつは山崎菜摘名義で書いていたような気がする。
或いは歴史小説は田中、現代小説は山崎、という書き分けだったかもしれない。
2011年頃Pubooにたくさん出てるのはもともと書きためていたものを(紙の本で出版される見込みはないと見切って)ウェブに公開したのだ。
この頃の作品には今では公開してないものがいくつかある。

『アルプスの少女デーテ』は最初はもっと短いものだったが、どんどん肉付けしていって今ではどちらかといえば長編になった。
『西行秘伝』も『巨鐘を撞く者』も、もとはもっと短かった。
この頃はいろいろ試行錯誤してた。

村上春樹が、ジャズのインプロビゼイションのように、同じリズムで同じ繰り返しで毎日欠かさず書くと言っていたが、
確かに村上春樹の作品はジャズの即興演奏に似てて、ただひたすら文章が積み上げられているだけのように私には思える。
私の執筆方法はそれとはまったくことなる。それは『デーテ』のころから同じで、
まずアイディアがあってその骨格を書いて、段々に肉付けしていく。
読書というのものが、ライブハウスでジャズを聴くようなものであれば、それは村上春樹の作品のようなものがふさわしいだろう。
私の作品はおそらくはコンピュータ言語で書かれたプログラムのようなものではなかろうか。
私の場合、こういうキャラクターを書こうというキャラクター設定がある。
それは NPC (non-player character) の AIプログラミングに似ている。
そのキャラクターをある環境(ゲームプログラミングでいうところの map)に置けばキャラクターは勝手に動き出す。
そこに別のキャラクターを置くとインタラクションが生まれて展開していく。
だからストーリーは細かく書けば書くほどに長くなる。
ゲームのプレイ動画の長さは、プレイ時間を長くすればいくらでも長くなる。それと同じ。まあ、あまり長くすると飽きるが。

小説を書く前からゲームプログラミングらしきことはやっていた。
modを作っていた。
その影響は確実にあると思う。
小説はそんなふうに書くものじゃありませんよと言われても困る。
私にはそういう書き方しかできないから。
私が表紙絵に3DCGのキャラを使うのも、もとはといえばmodをやってたからだ。
もともと文章を書こうと思っても、なんかもやっとした、納得いくものが書けなかった私が、
人に読ませるための文章を書き始めたのは、自分が比較的得意とするプログラミングのテクニックを導入したからかもしれない。
それでなんとかこうとか書けるようになった(気がした)。

ともかく私の作品の中ではキャラクターは勝手に喋って勝手に行動しているとしかいいようがない。
キャラクターがなぜ勝手に動くかといえば作者が実在の人物や歴史上の人物をモデルにしていて、
彼らがこういうシチュエーションに置かれたらきっとこう動くだろうと予測しているにすぎない。
少なくとも歴史小説に関して言えば、他の人はどういう書き方をしているかしらないが、
私はそういう書き方しかできない。
私の場合歴史小説の書き方を現代小説や未来小説、SFに応用している、とも言える。

『妻が僕を選んだ理由』は最初『ジオコミューン』という名前にするはずだった。
『ジオコミューン』は核シェルターみたいなものをイメージしていたが、
fallout の影響をうけているからだ。
表紙にゲッコーが描かれているのもそう。
これもサンプルのつもりで気軽に書き始めたのだが、結構な長編になってしまった。
fallout の他にもいろんなものがオマージュに使われている。
『キル・ビル』『バクダッド・カフェ』『僕の村は戦場だった』『ソラリス』『レヴェナント』『007スカイフォール』。
『Marooned with Ed Stafford』とか植村直己にもかなり影響受けてるよな。
わざといろんなものをこてこて付け足していったらこうなってしまった。

セレブな美女と一般男性の恋愛というのは、今までもずいぶん書いてきた。
源懿子と西行、遼子と稗島、アマストリーとエウメネス、喜世と新井白石など、みんな同じといえば同じだ。
全然違うことを書いているようで実は通して見ると、かなりネタがかぶっている。
『安藤レイ』はアンドロイドの話だが、『妻が僕を選んだ理由』はサイボーグと人工知能の話で、私の中では比較的近いテーマなのである。
なぜ私がそういうものを書きたがるのかということはもちろん自分でもわかっている。
村上春樹もまたいつも同じような作品を書くがそれは彼がそういうものをどうしても書いてしまう何か理由があるのだろう。
その根っこの原体験というものが彼と私は根本的に違うし、
村上春樹の作品が好まれるのは彼の原体験が多くの読者の原体験に近いからだろう。
私と同じ原体験を持つ人はたぶんそんなに多くはないと思うので、私の作品がどのくらい読まれるのか、かなり私は悲観している。