「山田君。すまんが、本を買ってきてくれないか。」とゼミの教授に頼まれた。 「本は、生協に注文すればいいんじゃないですか?」研究費で図書を購入するときは、本の卸問屋だろうとアマゾンだろうと、大学生協を通して注文すれば良いはずだ。教授はいつもそうして、欲しい本を毎年何冊も買っていた。 「いやそれがね、」と教授が言うには、「出版社で絶版になっていて、今から注文すると入荷が三ヶ月後になってしまうんだ。そうすると年度をまたいでしまって今年度の予算で買えない。」 「はあ。それで。」「ネット通販のサイトで、中野の古本屋に在庫があることがわかったから、そこに直接行って、現金で支払って、領収書を書いてもらってきてほしいんだ。宛名は東京文化大学、但し書きは書籍代で。」 「どんな本です?」 「どんなって?」 「重くないですか。」 「ただの新書だよ。大してかさばりもしないし重くもない。」 俺は古本屋巡りするのも悪くないなと思い、教授に貸しを作るつもりでその頼みを引き受けた。
その古本屋はシャッターが降りていて「臨時休業。中に人はいますので、用のある人はインターホンで呼んでください。」と張り紙がしてある。 インターホン? あたりを見回すと、シャッターの横に扉があり、そこにインターホンが付いている。 「取り置きしてもらった本をもらいにきたんですが。」インターホンのボタンを押してそう言うと、パタパタと階段を降りる音がして中からおばあさんがでてきた。 「はい、これ領収書と本。」 領収書はすでに書いて用意してあったらしい。 俺は代わりにお金を手渡す。 何か世間話でもしたほうが良いかと思い、「壁と屋根のリフォームの営業ってよく来るんですか。」と聞いてみた。扉にそういう「セールスお断り」の張り紙がしてあったからだ。 おばあさんは、最初何を言われているかわからずきょとんとしていたが、「ええ、それがね」と張り紙のことを聞かれたんだと気付いたあとは、 しばらく饒舌に話し続けて、俺はいつ話を切りあげて帰ろうかとそればかり考えていた。
「山田君。悪いがまたこないだの店に行って、本を買ってきてくれないか。」 「こないだって、ああ、あの中野の店ですか?」どうせ学生なんてヒマを持て余しているんだろうと思われているのがシャクだが、あいにく今日は実際ヒマだったので、 「いいですよ、」と答えて、俺はまた教授のために例の店へお使いに行くことになってしまった。 その日、店のシャッターは開いていた。 あのおばあさんは俺のことをまだ覚えているだろうか、もうすっかり忘れているだろうか、今日はなんの話をしようかななどと考えながら、 横開きのアルミサッシのドアをガタガタと開けて本棚の隙間を抜けて一番奥のレジまでいくと、中には例のおばあさんじゃなくて、俺と同い年くらいの女がいた。 「すみません、取り置きの本を」と言いかけると女はチラっとこちらを見て、俺に無言で本を手渡した。 俺も慌てて代金を手渡し、女はお釣りと、領収書を入れた茶封筒を返した。 俺は何か世間話でもしたほうが良いかと思ったが、若い女に話しかけてストーカーかなにかに間違われるのは怖いなと思ったので、何も言わず、 本を物色するようなふりであたりを見回した。 そしたら、洋菓子が入っていた四角いアルミ缶の中に、レジのロール紙が巻かれたような巻物がいくつも詰め込まれているのが目に入った。 輪ゴムで止めてあったりなかったり、太かったり細かったりした。 それは明らかにレシートの控えとか伝票のたぐいではなかった。 その一つをつまみ上げて見てみると、それは縦書き一行で何やら小説のようなものが書かれているのだった。 その文字は手書きではなく、どうやって印刷したかしれないが、何かのインクで印刷されたものだった。 女は俺を睨みつけた。 俺は勝手に読んだので怒られているのだと思い「すみません。つい」と謝った。 「それ、ほしけりゃもってってもいいよ。」と女はぶっきらぼうに言った。 「えっ。これ売り物ですか。」 「タダであげるよ。」 「タダ?」 「そう。」 「なんですこれ。」 女は一瞬黙って、「読んでみりゃわかる。」と言った。 「はあ。」 「あんた、学生?」と女は聞いた。 「ええ、そうです。」 「先生のお使いで来た?」 「まあそんなところです。」 ちょっと気まずい沈黙ができた。 「あなたも学生ですか、この近所の大学の?ここはバイトで?」 女はまたぎろりと俺を睨んだ。しかし俺を避けたり、顔をそむけたりするわけではなさそうだった。 「そうよ。」と女は答えた。 「それじゃ一つもらっていきます。」そう言って俺は、そそくさと帰ることにした。
それはKさんの家の後ろにある二百坪ばかりの畑だった。 Kさんはそこに野菜のほかにもポンポン・ダリアを作っていた。 その畑を塞いでいるのは一日に五、六度汽車の通る一間ばかりの堤だった。 ある夏も暮れかかった午後、Kさんはこの畑へ出て、もう花もまれになったポンポン・ダリアにハサミを入れていた。 すると汽車は堤の上をどっと一息に通りすぎながら、何度も鋭い非常警笛を鳴らした。 同時に何か黒いものが一つ畑の隅へころげ落ちた。 Kさんはそちらを見る拍子に「またニワトリがやられたな」と思った。 それは実際黒い羽根に青い光沢を持っているミノルカ種のニワトリそっくりだった。 のみならず何かトサカらしいものもちらりと見えたのに違いなかった。 しかしニワトリと思ったのはKさんにはほんの一瞬間だった。 Kさんはそこに佇んだまま、あっけにとられずにはいられなかった。 その畑へころげこんだものは実は今汽車に轢かれた二十四五の男の頭だった。
「なんだこりゃ。」俺は電車の中でその巻物をあっという間に読み終わって、あっけにとられた。 それはなにかの短編小説らしかった。 家に帰ってからパソコンで検索してみるとそれが何かはすぐにわかった。 芥川龍之介の「素描三題 その二 裏畑」という話だった。 どうもこれはあの女の子の仕業らしい。俺にはそう思えてきた。 あの子は文学少女かなにかで、それで本屋の店員のバイトをしていて、自分が好きな芥川龍之介の小説を、どんなふうなやり方でやったかは知らないがこういうふうに巻物に印刷して、それを店に来た客や知り合いにタダで配っているんだろうと俺は想像した。 俺はまたあの子に会いに行きたくなった。 行きたくはなったけれども、俺たちはまだ見ず知らずの間柄で、たまたま店番と客として出会ったばかりで、あんまり馴れ馴れしくするのは気が引けた。 俺はしかしどうしても彼女ともう一度話をしておきたくなった。 向こうが俺になんの興味も示さなければそのまま帰ってくれば良い、でももしかしたら話し相手くらいにはなってくれるかもしれない。 ついでに俺が書いた小説を読んでもらおうかと思った。 気が合うかもしれないし、合わないかもしれないけど、もしかすると気に入ってくれるかもしれない。 もやもやくよくよ、うじうじ迷っているくらいなら行動したほうが良い。そうに決まってる。 世の中には感熱ロール紙というものが売ってありはするがそんなものに印刷するプリンターを俺は持ってないし買う気もなかった。 俺は画材屋で紙テープを買ってきて、それに手書きすることにした。 俺は無理に自分を励まして、彼女の店へ向かった。
彼女は今日もあの店で店番をしていた。だが二人先客があって彼女はその応対をしていた。 そいつらは三十か四十くらいの、私服ではあったがなんとなくサラリーマン風情の雰囲気が漂う男たちであった。彼らの言葉の端ばしには、太宰がとか三島が漱石がなどといった聞いたふうな作家の名前が混じり、彼女はニコニコと笑顔で相手をしていて、俺のときとは違ってずいぶんと愛想が良さそうに見えたが、俺には彼女が無理やり営業スマイルを作っているに違いないってことに気付いた。それは俺の錯覚か、もしかしたら一種の嫉妬であったかもしれないが。 彼女はレジの奥から出てきて、本棚と本の山の間をすり抜けて俺の方へ向かってきた。彼女は一瞬俺と目を合わせたが、すぐに目をそらして俺とすれすれに通り過ぎていった。何か良い匂いでもするかと思ったが彼女は無臭だった。ただあたりには古本屋独特のカビ臭い匂いが充満しているだけだった。そして彼女は日除けのカーテンごしに差し込む光でキラキラとホコリが舞っている店先に並べられ、すっかり日に焼けた本の中から何冊か単行本を抜いてそれを持ってレジに戻り、また男たちと何やら話し始めた。 俺はしばらく本棚を眺めながら時間をつぶしていたが、男たちがなかなか帰りそうもないので、ポケットの中に入れておいた紙テープを例のロール紙が詰まったアルミ缶にこっそり忍ばせて、ひやかしにきただけのふりをして外に出ようとした。 そしたら彼女が「あ、お客さん、ご注文の品、届いてますから。」と俺に声をかけた。 ご注文の品?そんなものはありもしないのだが、どうやら彼女は俺を帰らせたくないらしいと思い、俺は「ああそうですか。」と返事をした。 彼女が男たちに何やら話すと、男たちはそれぞれ一冊ずつ本を手に取り、それを買って帰って行った。 俺は彼女と二人きり店に残された。彼女は俺を引き止めておきながらなぜか無言だった。 俺はどう切り出したものか迷ったが、「やあ、こんにちは。」と曖昧に挨拶した。 「あんた、さっきそこに何か入れたでしょ。」 「えっ。」 「持ってきなさいよ。こっちに。」 「はあ。」 俺は紙テープをアルミ缶から取り出して、それをレジにいる彼女に手渡した。 「これ、あんたが書いたの?」 「そうです。読んでみますか。」 「余計なことするわね。」 「えっ。すみません。」 「あそこの、あんたが一つこないだ持って帰った巻紙は、さっきの連中が勝手に持ち込んであそこにおいて行ったものなのよ。」 「なんでそんなことするんです。」 「さあ。そういうのが世間で流行ってるんじゃないの?」 「どうでしょうか。」 「もしあいつらが、あんたが入れたこれに気付いてたら、あんたきっと、いろいろ因縁つけられたと思うよ。」 「因縁とは。」 「要するに、この店で勝手なことするな。とか。おまえ、明子さんの彼女かとか。」 「明子さんって、あなたのことですか。」 「そうよ。」 「誰です、あの人たち。」 「誰って、ただの常連客よ。」 つまり彼女を目当てにしょっちゅう通ってきている客、ということか。そりゃそうだろうな。こんなかわいらしい看板娘がいる店に、男が寄り付かないわけがない。 「なんか怖いですね。」 「怖かないけどいろいろとめんどうよね。」 「はあ。」 「あいつらいつも本を選ぶ相談するふりしてできるだけ長居しようとするから困ってるのよ。あなたが来てくれて助かったわ。」 「そうですか。」 「で、これはあんたが書いた小説ってわけ?」 「そうです。」 「ちょっとそこの椅子に座って待っててくれる。私、本読むの遅いのよ。」 「椅子って?」 「そこにあるでしょ。」 たしかに丸くて穴が空いてる、本棚の高いところから本を取り出すときに踏み台代わりに使ってるらしい、おそろしく古びたパイプ椅子がある。 「はあ。わかりました。」 どうやら彼女は俺の書いたものを一応読んでみる気らしい。 俺もその辺の本をパラパラめくりながら、彼女が読み終わるのを待つことにした。
直行直帰の仕事が午前で終わり、俺たち三人は昼飯を食って解散することになった。 「どこにいこうか?」 「せっかくだから生ビールくらい飲もう。ファミレスじゃつまらん。昼からがっつり飲める店はないかな。」 いつものように俺たちはそんなふうに見知らぬ街でよさげな飲み屋を探し始めた。 「平日の昼間から、お酒を飲むんですか?」 咎めるような声でそう言ったのは新人の内山範子だ。 「いいじゃないか。平日の昼間っから酒を飲むからおいしいんだよ。いやね、そもそもまじめに働いて日本経済に貢献している我々平凡なサラリーマンが、平日の昼間っから酒を飲んで人生を謳歌できるようでないと、何のための人生か、何のための日本経済かと思うではないか。」 三十代の上司岸川の持論に範子は露骨に顔をしかめる。 「そうですかあ。」 「いや、じゃあ、イタリアンでワインにしませんか、岸川さん。内山さんは飲みたければ飲めばいいし。」 「そうだなあ。そうしてみるか。」 緑、白、赤のトリコロールの旗を見かけて近寄るとメニューの黒板が立ててあり、地下にバーがあるらしい。 下りてみるとほぼ満席だが、都合良く一つだけテーブルが空いていた。 「すごく盛況だな。みんな有閑マダムばかりだ。」 「斎藤。こういう、住宅地のど真ん中にある街には、主婦を目当てにしたイタリアンバーがたくさんあるのさ。」 「そうですねえ。実際、我々のようなサラリーマンは一人もいない。」 「まったく日本経済というものは、日本社会というものはゆがんでいる。これがイタリアなら、主婦だけじゃなく、普通の勤め人がランチに酒を飲みに来るもんさ。」 「ほんとですか。」 「ああそうさ。」 「どうしてわかるんです。」 「だって「世界の居酒屋」っていうテレビ番組でいつもやってるよ。」 「なんだテレビか。」 しかし実際その光景は異様なものであった。主婦たちが大勢で店を占拠して平日の昼間からワインのボトルを何本も開けているのだから。 「内山もそのうち良い旦那を見つけて専業主婦にでもなりゃあこんなふうに昼間っから酒をかっくらうようになるのさ。」 「そうかもしれませんねえ。」 適当な相づちをうった俺を範子は 「斎藤さん?」 と言って、ぎゅっとにらみつける。テーブルの下で範子は俺の足を踏みつけていた。 俺はグラスワインを一杯だけにしておいて、範子に目配せした。 これから彼女と二人で別の店で飲み直そうというわけだ。 範子は「その前に買い物につきあってもらうわよ」という表情をする。 俺は「良いよ」と返事をする。 別に言葉で言ったわけではなく、目で合図したのだ。むろん岸川にはわからない。
「何これ?」彼女はプッと吹き出した。 「インターンに行ったときの体験を元に、ちょっと書いてみたんです。」 「インターンで。どこ行ったの?」 「よくある商事会社ですよ。」 「大手?」 「いや。株式上場なんかしてない、その辺の会社です。」 「その会社にそのまま就職する?」 「どうかなあ。」 「ということはこの斎藤ってのがあなたね?」 「そう、そして、俺たちインターンの教育係がその岸川っていう男。内川は、俺と同じときに、俺とは違う大学からインターンに来てた女子大生で。」 「実在のモデルがいる?」 「そう。」 「その子はあなたの彼女?」 「いやあ。ただの妄想ですよ。」 「どのくらいのつきあい?」 「夏休みの一ヶ月ほど、インターンで顔を合わせただけです。」 「でも二人で抜け出してどこかに飲みに行ったりした?」 「いえいえ。全部妄想ですってば。」 「ラインの交換くらいしたんでしょ。」 「してませんよ。俺ラインやりませんし。」 「私もラインはやらないわ。」 「嫌いですか。」 「うん。」 「俺もメールかディスコードくらいしかやらない。」 「ディスコードって?」 「まあ、ラインみたいなもんですね。」女子がディスコードを知らなくても仕方ない。 「その女の子とはそれっきりなの?」 「そうですね。インターン終わった後は。」 「どうして。」 「どうしてといわれても、」もう彼氏いたし、と言おうと思ったがやめておいた。俺は彼女がひっつめ髪で外回りのリクルートスーツを着ている姿しか知らない。 「怖いわ。」 「何が?」 「あなた、私のこともきっとモデルにするでしょ。」 「小説のモデルにできるほどまだあなたのことを知りませんし。」 「そうよね。」 「あなた自身、小説を書いたりしないんですか。」 「あたし?どうかなあ。できるかな。」 「無理しなくても良いですよ。でも、もし明子さんが書いたら読ませてほしいな。」 うまい具合に、彼女の名前が明子さんということまでは聞けた。 「斎藤ってあなたの本名?」 「違いますよ。ただの作中人物の名前です。俺の名前は山田です。」 「それってペンネーム?」 「いえいえ。本名が山田です。」 「山田君?」 「はい。」 「山田君って山田タカオ?」 「違いますよ。ユキオです。」 「三島由紀夫ね。」鳩山由紀夫と言われなくてよかった。 「いや、山田ユキオです。」 俺は彼女からこの店のメールアドレスを教えてもらった。 しかも彼女はこの店のただのバイトではなく、実はあのおばあさんの孫娘であることが判明した。 彼女は不思議なナリをしていた。工事現場の作業員が着るようなダブダブのスボンを履いていた。それ以外は男の俺にはなんとも言えないよくわからない服を着ていた。 彼女の親やおばあさんはメールを読まないらしいので、この店のメールアドレスということは彼女のアドレスだってことになる。 そして俺は、とりあえず適当に一冊本を買って、今日のところはまだこの店に客として来たというテイにしておいた。そして「また来ます。」とさりげなく布石を打っておいた。