薬飲み忘れ

つい最近、コロナだった、とか風邪ひいた、とか言う記事を書いたのだが、どうもこの時期薬をだいぶ飲み忘れていたらしくて、それで先週の検査で心房細動が出てしまったようなのだ。それでいつもより少し多めにアミオダロンを飲むようにした。

そしたら心房細動も収まってきたように思うが、まあまだよくはわからん。

来月2回また病院に行くのでそのとき止まってたら薬の飲み忘れのせいだとみてよいのではないか。

結局私の持病の拡張性心筋症なんだけど、心臓が膨らむことによって心房細動がおき、心房細動が起きることによってさらに心臓が膨らむという悪循環を起こす。この拡張性心筋症にかかる原因は結局わかってないらしく、運が悪いとしかいいようがない。酒を飲んだり飲まなかったり、運動をしたり、ストレスのせいだったりとか、そういうことはあんまり関係ないように思う。

で、アミオダロンという薬がこの特効薬なのだが飲み過ぎると私の場合甲状腺がいかれポンチになることがわかっているので、あまり量は増やせない。だから、飲み忘れの無いように毎日コツコツ飲むしかない。

このアミオダロンの成分は脂肪に蓄積されるらしいので、飲み忘れてしばらく経ってから影響が出るのかもしれない。

ま、ともかく、いつ何があって何をしたか記録しておくためにも、このブログは自分のためにもこまめに記しておいたほうがよい、という気がしてきた。

アミオダロンを1日2錠飲んでいたら甲状腺がやられて1日1錠に減らしたら心房細動が出っぱなしになるようになったので、2020年2月にアブレーションの手術をした。そしたらそれ以後心房細動が出ないようになった。それがこの7月になってまた出たので焦ってしまった。この頃の日記はなくて、twitterに若干記録が残っているのだが、やはりブログはきちんと書くべきだなあと思う。特に私のように持病をもっている人間は。

ここのBNP上昇というところでも薬飲み忘れなどと言っている。ここで出てくるアンカロンというのはアミオダロンと同じ。私は結局このアミオダロンという毒薬によって命をつないでいるのだなあ。

塵中日記

樋口一葉の父は甲斐国から江戸に駆け落ちしてきた幕臣の息子であったらしい。甲府藩はもともと徳川宗家が治めていたがのちに幕府直轄領となり、江戸であぶれた幕臣が左遷されるようなところであった。ということは樋口家ももともとさほど身分の高い幕臣ではなかっただろう。駆け落ちしたかったということもあっただろうが、辛気臭い甲府を出て華やかな江戸時代末期の町人文化が花開いた江戸に出たいという気持ちが強かったのではないか。

一葉の父、樋口則義はいろいろ周旋して同心株を買って町奉行所の同心になったという。町奉行所には奉行がいて、与力がいて、同心がいて、その下に岡っ引きがいるわけで、おそらく則義のような仕事をこなしつつやっと同心に取り立てられたということだろう。となると、一応は、銭形平次や八五郎よりは身分は上で、最下級ではあるものの徳川宗家直参の武士ということになる。

与力といえば大塩平八郎が有名だが、与力ともなれば200石扶持、300坪程度の屋敷を与えられるからいっぱしの御殿様だ。

同心はそれよりか少し格下で30俵2人扶持だが100坪、つまり300m2程度の屋敷を与えられていた。

ところが幕府が瓦解して、父は死に、一葉一家は住む家にも困ることとなる。典型的な没落士族といった図だ。この頃一葉が書いた「塵中日記」を読むと、非常に狭い棟割長屋のようなところに親子三人で住んでいる。そうしてそういう境遇から抜け出せないままに24才で死んでしまうのだから、なんともかわいそうな人だ。

塵中日記は文章もわかりやすく読みやすいし、歌も面白い。近所に住む女郎連中に手紙の代筆を頼まれたりしている。

首長の資格、民意の反映

雑な議論に書いたことの繰り返しになるが、ゼレンスキーだってもとはお笑いタレントだし、小池百合子も蓮舫もテレビタレントだし、青島幸男も横山ノックもそうだし、ロナルド・レーガンもシュワルツェネッガーもみんなそうだ。テレビに出て顔と名前を売らないことにはそもそも選挙に勝つことができない。政治的手腕なんてものは後付けにすぎぬ。

ゼレンスキーにしても、個人の勇気や決断というものはもちろんあっただろうが、彼を神輿に担いでロシアに一泡ふかせてやろうというやつらが大勢集まって金を出し合ったからあれほどのことができたのだ。ゼレンスキーと小池百合子に何の違いもないということは、じゃあ小池百合子でもいいんじゃんということになる。

要するに政治家というのはフロントエンドに過ぎず、バックヤードの有象無象が権力と金と人を動かして、その結果組織票を集めて、見た目、民意が反映されたというお墨付きを得ているだけなのだ。それは民意のようで民意でもなんでもない。民意などというものは浅はかで頼りにならぬもので、そもそも存在しているかどうかすらあやしい。匙加減しだいでどうとでもなる。株価の操作にしても似たようなものだろう。株式会社というものは経営の民主化のように言われているが実際には一部の資産家が結託して上げ下げしているのだろう。もちろん番狂わせのようなことや、予想以外の展開というものもあるのだろうが、だいたいは操縦可能なように、民衆は普段から飼い慣らされている。

私は町の立ち飲み屋で飲むとき客どうしの話をそれとなく聞いたりするが、どいつもこいつもみんな踊らされている。彼らの人生と都知事と何の関係があるのか。まったく無縁無関係のことになんであれほど、酒のつまみ替わりとはいえグダグダと議論するのだろう。実に不思議だ。ツイッターでは、話の向きは逆のことが多いが、踊らさされているという意味では同じだ。何かしらに踊らされて踊るように民衆は子供のころから調教されている。

首長なんて飾りで誰がなっても同じだとか、何もしない首長が良い首長だとかいうのはもっともだが、神輿のてっぺんに鳳凰の飾りが乗ってるように、飾りは飾りとして人目について機能しなくてはならんので、ランダムに無名の人を選んでは大衆が納得しないから、なんかもっともらしい学歴とか業績をくっつけて、結局タレント政治家が生まれるという仕掛けになっている。所詮選挙など売名行為以外の何物でもないのだ。

前にも書いたが選挙の結果みんなが納得して政治が安定して回るなら裏で何が行われていようと、民意が捏造されていようと、そりゃそれでいいのかもしれない。人がみなものわかりが悪くて暴動を起こして店を燃やしたり、監獄を襲撃したり国王をギロチンにかけたりするよりかずっとまし、という考え方もある。実際、選挙やってれば人民は納得して実力行使に走りにくいというのであれば、あいつらそれで気が済むんならやっときゃいいんじゃんという流れになるしかない。

しかしまた、民意なんてものが巧妙に仕立てられたヤラセに過ぎず、何の根拠もないのであれば、民意を(表向きは)無視した徳川幕府や足利幕府のような専制支配と本質的には何も違わぬということにならんか。徳川は足利を悪政と叩き、薩長は徳川を悪政と叩いたが、はたしてそんなに悪い政治だったのだろうか。今の政治のほうが良いという根拠はなんだろうか。ただの幻想ではないか。

帯状疱疹

私は2014年に帯状疱疹にかかっているので、コロナワクチンとは関係ない。

帯状疱疹の発症が増えているというが、昔は帯状疱疹と診断されることが少なかっただけではないのか。或いは昔は皮膚科が少なかったとか?

また帯状疱疹は50才以上の年寄りがかかるものなので高齢化すれば当然発症者は増えるよな。

樋口一葉

樋口一葉を少し調べ始めたのだが、一葉の和歌が面白いとか、日記が面白いというのならばわからんでもないのだが、みな小説ばかり褒めているのが奇怪だ。

なるほど平安時代や鎌倉時代には紫式部を筆頭として女流作家がたくさんいたが、室町、安土桃山、江戸時代になると、戯作作家は男ばかりになって、女がいなかった。明治に入って一番最初に女流作家となったのが樋口一葉だったので、彼女一人に注目が集まった、ということか。

実際、明治時代に有名な女性作家としてはあとは与謝野晶子くらいしかいないが晶子は歌人であって小説家ではない。となるとどうしても一葉がもてはやされることになる。

しかしながら一葉が書いた小説というのは新聞に載せるために書かれた通俗小説、それも短編読み切りの短いものにすぎない。内容もどぎつくて深みがあるとも思えない。内容もさほど珍しいものではない。こういうものは為永春水あたりがいくらでも書いていたし、もっと長編だったし、さらに言えばもっと読みやすいものだった。一葉の小説はまず読みにくい。また、面白いのかどうかもよくわからんし、オチがあるのかどうかもわからない。一葉の小説は実験小説かと思うくらいわかりにくい。もしかすると新聞の都合で無理やり尺を縮められてわけがわからなくなっているのだろうか。一葉はとりあえず世間的な名声が欲しかったのだろうか。作家として安定した地位が欲しかったのだろうか。そのための手段として通俗小説作家になろうとした?いろいろとわけがわからなすぎる。一葉は器用な人なのでとりあえず小説もざくっと書けたのだろう。日記をもっと丹念に読んでみればわかるだろうか。

一葉の日記は小説とはうってかわって非常に読みやすいし面白い。小説も日記のように書けばよいのにねと思ってしまう。和歌はつまらないと人は言うけど私からみると非常に優れている。私にとって与謝野晶子の奇を衒った歌よりは、一葉の和歌のほうがずっとまともに思える。

一葉の文章が良いのは和歌の素養があるからであって、それ以外の通俗小説的な部分は、少なくとも私には全然面白味がわからない。井原西鶴や山東京伝や滝沢馬琴や上田秋成や為永春水が面白いというのは私にもわかる。尾崎紅葉の金色夜叉が面白いというのもわかる。菊池寛が面白いというのもわかる。が、一葉が面白いとは私にはとても思えないのだ。男と女が無理心中したとか吉原の芸者がどうしたこうしたという話にも私にはあまり興味がもてない。近松門左衛門に曽根崎心中とかあったよな。それとの比較考察とかした人いるの?

一葉はもしかすると歌物語のようなものを書きたかったのかもしれない。しかし新聞の読者はそんなものを読みたがらない。江戸時代の読本みたいなものを少し近代風にアレンジしたような小説が読みたかったのではないか。いったいぜんたい一葉はどうしたわけで半井桃水みたいな俗物を師に選んで新聞小説を書こうと思ったのだろうか。もし一葉が与謝野晶子くらいに長生きして、大作家に成長し、新聞社の顔色を気にすることなく、読者の評判などにとらわれることなく、本格的な歌物語なり小説なりを書いていたらきっと傑作ができただろう。実に惜しい気がする。

酒を飲まなくても平気

最近なんだか酒を飲まなくても平気になってきた。

もともと一日のストレスを解消してさくっと寝るために酒を飲んできたのだが、今はそのストレスがたまってないのか、何かの〆切に追われる強迫観念がないのか、酒を飲むと楽しい以上に体が疲れるようになったか、年をとってもともと酒量が減ってきていたのがある限界を超えてもう飲まなくて良い体になったのか。

或いは酒を飲むことに飽きてきたのかもしれない。

ともかく年を取って体質も変わってきたし、髪質も変わったし、白髪も増えたし、酒を飲む量が減ってもおかしくはない。病気になったり体調が崩れて体が酒を受け付けなくなった可能性もないではないが、今のところ体調は良い。

酒を飲むことでストレス発散になるのは確かだが、酒を飲むこと自体がストレスになるので、プラスマイナスゼロかといえばどちらかと言えばトータルでマイナスだった気がする。飲まないほうがストレスが少なくて済んでいるように思える。

いずれにしても以前に比べて今は比較的ストレスが少ない状態だ。

雑な議論

世の中にはいろいろと雑な議論が多い。

私は民主主義というものに今のところ疑念を抱いているわけではないが、行政府の首長を直接選挙で選ぶのはおかしいと思っている。なぜおかしいかと言えば売名行為の泡沫候補がわらわらとわいてくるからではない。名指ししていえば小池百合子のような人が当選してしまうのが良くない。小池百合子には別に行政能力もなければ判断力もない。コロナ対策にしろ豊洲移転にしろ、ただ世の中の風評に流されているにすぎない。この人が選ばれるのは単なる知名度、人気投票の結果にすぎない。或いは何かの票田、もしくは後援者の力で選ばれているのであって、人を魅了する能力とか、金を集めたり動かしたりする能力が評価されたのでもない。

高須幹弥氏が内野愛里氏を評価していたのは面白かった。NHK党が供託金を払ってくれてそれに乗っかって内野愛里氏が立候補したのか、或いは自分で払ったのかは知らないが、内野氏は完全に計算づくで立候補しているし、政見放送も完璧に計算して演出されているし、自分がもつキャラクターを100%活用しているし、すべてを自分ひとりで考えてああいう行動をとったとすれば恐ろしく頭の良い人だなと私は思った。そりゃそうで、300万円も元手がかかっているんだから、入念にシナリオを書き、予行練習してあのビデオを撮ったのだろう。

こういうまったく無名の面白い人が世の中に出てくる機会を与えるという意味で東京都知事選もまんざら捨てたものではないと思える。しかし、都知事選は都知事を選ぶという本来の目的には何も機能していない、むしろ逆に、まともな首長が選ばれることを完全に阻害しているといわざるを得ない。

内野愛里の政見放送は今の首長選挙がただの人気投票になっていることを、意図してかどうかはともかく、如実にさらけ出しているという点でも良くできている。いやそもそも、人気投票であればまだ民意を反映しているといえるが、小池百合子が選ばれるということ自体、民意とはかけ離れた、ある種の組織票というか、ある種の集団催眠というか、大衆の無意識を扇動する何かが働いているとしか思えない。

安土桃山時代の日本が黒人奴隷を流行らせたという話は、確かにけしからん話ではある。これはアサクリだけの話ではなくディズニーがポリコレでやたらと黒人を映画に出すことへの反発、恐怖が根っこにある。海外でポリコレと歴史改変で日本が誤解される。確かに恐ろしい。日本人はこの話が好きらしい。好きというか頭に血がのぼるらしい。しかし歴史捏造ということならほかにもっと腹をたてなくてはならないことがたくさんある。

まず、奴隷というものは、かつて世界中にあった。異民族どうし戦争して捕虜になれば奴隷になった。イスラム教徒とキリスト教徒はしょっちゅう戦争していたから、イスラム圏にはキリスト教徒の奴隷が、キリスト教圏にはイスラム教徒の奴隷がいた。アラブ人はアフリカ人も奴隷にした。いわゆる奴隷貿易。イエズス会に限った話ではない。明白な歴史があるのに、黒人奴隷の責任をすべて日本にかぶせるなんてことができようはずがない。日本には日本で、やはり奴隷はいた。少なくとも人身売買は行われていた。夏目漱石の『坑夫』に周旋屋というのが出てきてみなしごの浮浪児を集めて鉱山に連れていくのだが、ああいう境遇の貧民はいくらでもいたに違いないし、周旋屋がいなきゃ乞食になるしかなかっただろう。

イスラムに奴隷王朝というのがあるが要するにイスラムではキリスト教徒の奴隷をイスラム教に改宗させてマムルークという軍団を作り、その軍団が独立して王朝を建てたというものだ。古代ペルシャでも僭主が奴隷を自分の後継者にしたという話がある。イブン・バトゥータも奴隷女を愛人にして世界旅行した。モーツァルトに後宮からの誘拐(Die Entführung aus dem Serail)というオペラがあるがこれもオスマン朝のハーレムを題材にしたもの。ベルモンテの婚約者コンスタンツェは海賊に囚われてスルタンに売られハーレムに閉じ込められたので救出するという話。

少し考えればそんなことにいちいち腹を立ててもしょうがない、もっとひどい話はほかにいくらでもあるのだけど、ほかにいろいろあるってことを知らず、たまたまネットで話題になったから腹を立てている。時間の無駄、人生の無駄としかいいようがない。

ChatGPTは嘘つきだ。役には立たない。

コロナのバカ騒ぎもそうで、いまだに「新型コロナ」などと言っているが、コロナウィルスは半年くらいの期間でどんどん変異していくのだから、コロナが新型なのはいつものことだし、もし2019年のCOVID-19をいまだに新型コロナと呼んでいるのだとするとおそろしい馬鹿ということになる。天然痘のように一度ワクチンを接種すれば一生かからないとか、風疹のように一生に一度もしくは二度くらい接種すれば有効なワクチンならばうてばよかろう。インフルエンザのように1度打てばだいたい数年は効果が期待できるというなら、打ちたいやつはうてばよかろう。しかしコロナは半年に一回ワクチンをうたねばならず、ワクチンの開発には半年以上かかるのだから、ワクチンはウィルスの変異にまったく間に合わない。だからコロナのワクチンを打つこと自体無意味だ。なのに今までインフルエンザのワクチンですらうってなかった人が頻繁にPCR検査を受けたり年に何度もワクチンをうったりするのはほんとみてて異様だ。本人もなぜ自分がそこまでコロナを恐れているのか自分で理解してないのではないか。

またマスクをしたとしてもコロナにかかるってことはもうほぼ確実なので、マスクをすることも無意味だ。というようなことは最初からわかっていたし2021年くらいにはあれこれやりつくして結論は出ていたにもかかわらず2023年までひきずった。そして2024年の今も大騒ぎしている。まったく人間は度し難い。

以前に選挙の効用というものを書いたのだが、あの石丸という人に働いていた重力場というものはどういうものだったのだろう。たぶんあれは、「二位ではダメなんですか」の蓮舫を二位にしたくない人たちが仕組んだ組織票だったのだろう。一位はほぼ小池て決まってたから、本気で小池を落とそうとした人がいるわけないと思う。蓮舫も二位を取りにいこうとしただけだと思う。あわよくばほんとうに都知事になれるかもしれないという欲はあったかもしれないが、とにかく二位を取ろうとした。石丸を担いだ連中の中身は自民党系であったり維新系であったりしたのだろう。若者の民意が石丸に集まったように見えるのは錯覚にすぎないのではないか。年寄りは蓮舫か小池に入れたがり、若者はそういう傾向が少なく分散した結果、若者が石丸を選んだように見えただけではないか。石丸という人は単に、小池に票を集めたくない、蓮舫に票を集めたくないと思った人たちが使った捨て石にすぎない。彼が何かのはずみで選ばれていたら大変なことになっていた。彼が有能な人だとはとても思えない。いずれにしても、内野愛里が売名行為のために立候補したなどということはどうでも良いことで、小池、石丸、蓮舫が上位三位を占めたということのほうがよほど大問題だ。そもそも売名行為でない選挙などあるはずがない。民意というものは結局選挙以外で知ることはできないのだが、その民意というものがそもそも虚無であって、もともと実体の無いものに選挙によってありもしないものがあるように錯覚させられているだけかもしれない。

銭形平次捕物控

ユーチューブのイグサ朗読というチャンネルでよく銭形平次を聞くのだけど、「女護の島異変」「江戸阿呆宮」も途中からだいたい真犯人がわかってオチもわかってしまうようになった。野村胡堂はいつも一番それらしくないやつを真犯人して、それらしいやつを冤罪にしたてるから、どれも結局はだいたい同じ筋書きになる。数は多いけども、パターンは案外少ない。

年寄りの未練

7月に入るとやはり銭湯なしで生きていくのは難しい。

銭湯で爺さんたちが80才過ぎると毎日もう何もやることがない、などと話していて、それもそうなんだろうが、60才も間近になるとすでにもうやることがない。体力や気力が続かないのと、だいたい何をやればどうなるか先に見えてしまいやる気が起きないってことと、なにより自分の内部から湧いてくる欲望が枯渇しつつあるのを感じる。

酒を飲みたい気持ちも薄れてきたような気がする。仕事のストレスで飲みたくなることは今もあるのだが、仕事をしない日、特に対人のストレスが無い日は酒を飲まなくても別に平気でいられるようになってきた。

80才という年もあとわずか20年で来てしまう。しかし年寄りが年寄りらしい気分になるのは良いことなんだろう。年寄りのくせに何か人生に未練があってもよくない。

天譴

天災は多くの場合人災でもあり、今中国が百年に一度の洪水などと言っているのは、地方政府の財政が破綻していて、治水工事に金をかけている場合じゃないからではないか。大雨というものは毎年年中降っているのであって、地方政府に潤沢に予算があれば堤防決壊などの被害はある程度未然に防げるのではなかろうか。

中国の王朝交代にはおおく天災、特に洪水や蝗害が起きたという。イナゴの被害が人的努力である程度防げるのかどうかしらんけど、中央政府はまだ息していても地方政府が疲弊してゾンビ状態になり、社会保障もできないから、そこから社会混乱が拡大して革命にいたるのではなかろうか。単なる自然災害のせいではないし、まして天譴などというようなたぐいのものではあるまい。

洪水だけではない。中国はおそらく道や橋、鉄道のメンテナンスをしていないのだろう。公共事業はやらないよりはやったほうが良いが、やりっぱなしではすまされない。技術者にはもちろん、作ったあとのメンテナンスが大事だという発想がある。財政に余裕があれば政府だって雇用創出のため支出するだろう。しかし今の中国の状況ではたぶんまず一番地味でわかりにくいところ、つまり社会的インフラのメンテナンス予算を削るに違いない。そうなると電車は脱線するし橋は落ちる。電気もガスも水道も止まる。すべては人災だ。