再構築中

SEO的に雑記とそれ以外は分けたほうが良いと言われたのでそうすることにした。

浅草地下商店街マップ

東京メトロのサイトにも銀座線浅草駅構内図に6, 7, 8番出口が記載されているが、非常にわかりにくい(特に浅草地下街から6番出口まではかなり省略されている)。A4、A5出口などは本来は都営浅草線の出口に振られた番号であろう。都営線と銀座線の連絡は極めて悪い(1番線到着ならば都営線への乗り換えは比較的スムーズだが、2番線に着くと面倒なので、その場合1駅前の田原町駅で降りて次の1番線到着の電車を待てなどと車内アナウンスがあるほどである。ただし雷門、浅草寺方面に行くには2番線到着のほうが便利。6, 7, 8番出口に向かうならば一番先頭の車両に乗るのが良い)。都営線と東武線に至っては直接の接続は無い(銀座線に入場することなく都営線と東武線をつなぐ地下通路は無い)。地上にいったん出るしかない。あまりにも設計が古すぎ、またあまりにも場当たり的なので、新宿や渋谷のようにいっそのこと完全に再開発してしまったほうがよいのだろうが、それでは浅草駅らしさが失われてしまうので、昭和遺産かなにかに指定して未来永劫現状のまま保存してはどうか。

6番出口と8番出口は幅が2メートルほどしかない。銀座線から新仲見世通りへの近道として機能させるにはあまりにも細すぎる(玉の井の「抜けられます」のようなものか。昭和30年、敗戦直後の貧乏性がなせるわざなのだろう)。浅草の要衝に位置しながら盲腸のような役割しか果たせていないのは、これら6, 8番出口のせいである。銀座線から地上に出る場合は普通1, 2, 3, 7番出口を使うだろう。4, 5番出口は隅田川のほうに出てしまうので普通こちらを利用することはない。

地下街の通路も幅4メートルしかない上にテーブルや陳列などが店からはみ出している。漏水は地下街全体に見られ、まったく手の施しようがない。エアコンも2025年夏になってやっと設置された。

地下街は深夜から朝6時までシャッターが降りて閉鎖されている。

浅草地下街商店一覧

関宿城

利根川流域の城というのは、古河公方が拠った古河城にしろ、石田三成が水攻めにしようとして失敗した忍城にしろ、或いは上杉家の五十子陣にしろ、太田道灌の川越城にしろ、みんな水上の城、浮き城なのである。日本の中でこの地域にしかない城の形態と言ってよい。関宿城ももとはそうした城であったようだ。

石田三成が秀吉の高松城攻めを真似して忍城を水攻めにしようとしたというのは、どうも信じられない。五十子、川越、古河、忍城。それらの城の形態をみればこれらの城に対して水攻めなんてものが全く効果がないってことは、三成だってすぐ気づいたに違いない。水攻めすればますます敵は守りを固くするだけだし、水上の城を水上封鎖しようとしても抜け道はいくらでもあるんだから失敗するに決まってる。

大阪にいた秀吉が水攻めにこだわり、むりやり三成に水攻めをやらせたということはあり得るかもしれないが、それもまた秀吉を貶めようという意図が感じられる。

そもそも忍城などというものは戦略的に重要な拠点ですらなかっただろう。単に後に忍城が三成を撃退したという盛った話にされただけではなかろうか。

関宿(せきやど)はチーバくんの鼻の先端にある。ここは武蔵、下総、常陸、下野、上野の国境であり、かつて香取海のど真ん中にあった。香取海がだんだんに干上がり干拓されていって、そのため国境が一点に集中したのである。さらに家康が利根川を付け替えたためにここが江戸川と利根川の分岐点になった。チーバ君の鼻はそうした低湿地に突き出た尾根にあたっていてここに流山街道が通っている。地形的には非常に興味深いところだし、江戸時代には戦略的にも重要なところだっただろう。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

京都巡り

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旅行に出かけて寺や神社に詣でるときには、
寺では鐘楼を、
神社では舞殿を撮るようにしている。
鐘楼を撮るのは「巨鐘を撞く者」を書いたからであるし、
舞殿を撮るのは「将軍放浪記」を書いたからである。

[鐘](/?p=12653)については以前も書いた。
上の写真は相国寺の鐘楼だ。
相国寺の近所に一泊した。
特に新しいとか珍しいものではなさそうだ。
相国寺は金閣寺や銀閣寺の総本山らしい。


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この写真は上賀茂神社の摂社の新宮神社というもので、
たまたま第二日曜日に参拝したので中まで見れたのである。
なかなか一般人が見る機会はないと思うが、
舞殿なのか拝殿なのかよくわからん。
というか、本殿があってそのそばに拝殿が作られ、
拝殿が舞殿としても機能するというのが古くからの使われ方だったと思う。

舞殿は、もともとは四本の柱で囲って〆縄をめぐらすものであったはずだ。
薪能の舞台もそうなっているし、相撲の土俵も古くはそうなっていたはずである。
石清水八幡宮で奉納される舞楽は今もそのようになっているようである。

したがって舞殿の柱は四隅に四本あるのが正しいのだということを、
これも以前[舞殿](/?p=12046)というのに書いた。
なぜそこにこだわるかというと頼朝、政子そして鎌倉武士らに囲まれて静御前が舞を舞ったのは、
鶴岡八幡宮の回廊の真ん中に設置された、
四隅に柱を立ててしめ縄を引き回した一種の結界であったはずだと思うからだ。
それが舞殿の原点であるはずだ。

本殿は神の依り代であり、
人にとっては神の表象である。
神の依り代はかつては自然そのものであり、人の手によるものではなかった。
後に鏡などがご神体というアイコンとなり、本殿に納められた。
上賀茂神社では神山が、後にはそれを模した砂の山が神のアイコンであり、
社殿ができたのはずっと後のことである。
といってもその社殿の創建も奈良時代のことであるという。

拝殿は神に対面する人間のための結界なのである。
結界に入って神に対面する人は当然貴人である。
貴人というのはつまり特に選ばれて潔斎したものという意味である。
そして拝殿に神遊びする貴人の姿を周りの一般人が眺めるから拝殿は舞殿ともなるのだ。
本殿と拝殿がこのように位置しているのが本来の姿なのではなかろうか。
舞殿はしばしば参道のど真ん中に本殿を遮るように建てられている。
我々はしばしば舞殿を迂回して本殿に進まねばならぬ。
本殿、拝殿、舞殿が直列に分裂してしまったからである。
社殿や伽藍建築が次第に宗教的な権威となってしまった。
いずれにしても「本殿を拝む」とか「本殿が依り代」という感覚は本来おかしいわけである。
将軍放浪記冒頭、

> 段葛を進み朱塗りの鳥居を二つ三つくぐると、参道を遮るように舞殿が設けられている。白木造りの吹きさらし、檜皮葺の屋根はあるが壁はない。まるでこの、屋根と四本の柱と舞台で切り取られた空虚な空間が、鶴岡八幡宮の神聖なる中心、本殿であるかのようだ。

結局人間中心に考えれば、神社の中心は舞殿なのである。
それほど重要なものだからあのようにわざと邪魔なところにあるのだ。

この新宮神社の拝殿がまさに四本柱なので私はうれしくなったのだ。
しかも、四本では強度が不足するためにか、柱に添え木がついている。
面白い。

上賀茂神社は平安京遷都前からある由緒のあるもので、
京都が世界遺産になる理由の一つともなったのだが、
北のはずれにあるせいか観光客はほとんどいない。
ていうか、上賀茂・下鴨神社だけでなく、八坂神社、上御霊神社、下御霊神社、平安神宮など、
神社はいずれも修学旅行の定番ルートから外れているのだが、
いったいどういうわけなのだろうか。
そういや京都御苑もルートから外れているわな。
あ、北野天満宮はかろうじて入るのか、修学旅行だけにな。
今回はたまたま気が向いて清水寺にも行こうかとしたのだが、
あんなひどいところはない。
五条からの参道は狭くて車が多いし、
建物も江戸時代のものなのに国宝になっている。
見た目が京都っぽいってことだろうか。
京都七不思議の一つにすべきだ。
上賀茂神社などにお詣りしたほうがずっと気持ち良いはずだが、
逆に中学生や高校生がわらわらたかってないほうが良いともいえる。
実際ああいう連中は太秦の映画村あたりに連れまわして、
京都御苑や上賀茂神社からは隔離したほうが良いとはいえるのだが、
教育効果的にはどうかと思う。

上賀茂神社は日曜日だからか、のんびり結婚式などやっていた。

銀閣寺にも行ったが、ここも参道も中もかなりひどい。
しかし建物はよかった。
義政の時代のものが珍しく残っていて地味だが面白い。


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これはどこで撮ったのだったか。
たぶん下鴨神社に隣接するなんとかという末社だったと思うが、
やはり柱は四本のみ。


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三十三間堂には今まであまり興味がなかったのだが、
「西行秘伝」を書いたので見に行った。
法住寺。
すごいなこれは。
清盛が後白河に建ててやったものだが、
京都にはこういう平安時代の建築は案外残っていないものだ。
他に何かあっただろうか。
まったく思いつかない。
後白河が大喜びしているのに息子の二条天皇が落成式に来なかったのでがっかりしたという逸話を思い出す。


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中は撮影できないから外だけ写したが、
ここで矢通しをしたわけだ。
不思議なことをしたものである。
西行の時代に通し矢があったかどうか。
たぶんなかっただろう。


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寺町通の三嶋屋というところですき焼きを食べたのだが、
ランチだったが、ずいぶん散財した。
よくよく考えると京都はすき焼き発祥の地ではない。
牛肉を食うのは横浜が先だし、
それよりか前は両国広小路でももんじ屋というのが鹿や猪などの肉を食わせたはずなのだ。
だからわざわざ京都ですき焼きを食う必要はなかった。
上野のガード下でもつ焼きでも食ったほうが正統な気もするのだが、
なんか京都的大正ロマンみたいなものを満喫できたので良かったということにしておく。
両国広小路のことは成島柳北を主人公とした「江都哀史」というものを書こうとしていろいろ調べた。
そのことは「川越素描」にちょっとだけ出てくる。
いずれほんとに書いてみたいとは思ってる。


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ついでにどうでも良いことだが、
鴨長明の方丈というのが下鴨神社の隣の河合神社にあったので、
めずらしくて撮影した。
鴨氏というのは平安京遷都前から鴨川流域、つまり京都盆地に住んでいた豪族だろう。
鴨長明はその子孫だからこんなところに家が復元されているわけである。
河合とは賀茂川と高野川が合流する地点だからそういう名なのだろう。


龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

石垣山と石橋山

たまたま小田原に行く機会があったので石垣山に行こうとおもった。一日空いていたから、時間があれば石橋山にも行こうとおもった。石垣山は有名な観光地であろうから、さくさくいけると思ったら甘かった。頂上までは農道しかなく歩行者ではなく農耕車が優先だなどと書いてある。こんな観光地はない。登り口の表示もわかりにくく結局は google maps に頼ることになった。できれば箱根登山鉄道の、博物館辺りから遊歩道が欲しいところだ。そしたらすごく良い観光地になるだろうにと思う。史跡はすばらしいのだから。
どうもこの自治体はやることがいろいろとちぐはぐだ。言いたいことは山ほどあるが、文句を言うのはこのくらいにしておこう。

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本丸跡からの眺め。小田原市街、相模湾が見える。酒匂川河口だけ砂浜が突起しているのがわかる。手前の芝生は二の丸跡。

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本丸跡の石垣。だいぶ崩れているが、これはすごい。こんなすごい山城跡は滅多にない。

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秀吉一夜城ともいうこの小田原攻めの主城は石垣山というだけあって、石垣がものすごくたくさん残っている。山城でこんだけ石積みがあるのは珍しいのではないか。まあ、熊本城とは比べものにならないかもしれないが。一応はテンポラリーな作りの城のはずだが、数年がかりの長期戦を予測していたのか。あるいは土木技術を見せつけた、ブラフのたぐいなのか。

本丸跡も天守台跡もなかなか立派だが、圧巻なのはこの写真にみるような井戸曲輪跡というもので、すり鉢状になった一番底の穴にはまだ水が湧いている。おそらく地形を利用して雨水を溜める機能もあったのだろう。

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海側に山を下りて石橋というところまでは国道沿いに歩道があったが、歩道はここまでで、あとは山の中の農道しかない。農道しかないのでは田舎と同じだが、田舎なんだから仕方ない。もう観光者気分はやめた。佐奈田霊社はそういう田舎のミカン畑の真ん中にある。おそらくみんな車で来るのだろう。小田原から歩いてくる人は皆無に違いない。いるとしても小田原市が作成した山歩きの地図を持っているはずだ。道ばたにたてられていたこの地図を写真に写して手がかりとし、あとはgoogle mapsを頼りになんとかたどりついた。

佐奈田霊社は石橋山の戦いという古戦場にあって、これは頼朝が伊豆で挙兵して最初に敗北し、佐奈田与一という味方を討たれて、いったん房総半島に逃げたという歴史的には非常に重要な場所なのだが、実にもったいないというかなんといえばよいのかわからない。鎌倉の混雑っぷりとここの過疎っぷりを見ると、観光業とはいったいなんなのだろうと思う。

佐奈田与一が討たれたという場所は普通のミカン畑だった。お土産に現地販売のミカンを買ってくるのを忘れた。

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小田原から根府川まで歩こうという人にはこの地図はあまりにも重要なので、まあフェアユースだと思うので掲載させてもらう。歩いてみて思うにハイキングコースとして悪くない。いや、かなり良いほうだと思う。景色もいいし。しかし何度も言うがこれは農道以外の何物でもない。農道でかつほとんど車が通らないので歩くのは快適だったがさんざん迷った。

根府川は駅前にコンビニすらない田舎の駅だった。

今回気づいたのだが、androidタブレットのgoogle maps は自分の wifi ルータが電池切れしても、自分が今いる位置がわかるのだ。つまりandroid端末は常に利用可能な周囲のwifiルータを検索しているから、その複数のルータから三角測量的に位置を推定している。検索機能などは使えないものの、位置だけはわかるのである。すごい。おそらくこれがkindleにはない。あるのかもしれないがgoogle mapsと連携してなくて非常に遅くなるのだろう。今回歩いたのは主に山道だったが、近くを東海道線とか西湘バイパスなどが走っているので、アンテナはたくさんあったのに違いない。

御衣黄

飯田橋で電車を降りて、東京大神宮、靖国神社、千鳥ヶ淵、皇居御苑などをぶらぶら歩く。
気持ちの良い一日だった。
最近は、テレビも「パワースポット」などという言葉を流行らせようとしているが、
これは要するに新手の霊感商法のようなもので、
こんなものに荷担するのはいかがなものかと思う。

飯田橋から東京大神宮の間にバーガーキングがあり、昼飯代わりに食べる。
日本で簡単にワッパーが食べられるようになり幸せ。
肉はニュージーランド産なのだな。

それはそうと東京大神宮はもともとは明治政府が作った伊勢神宮の遙拝所から始まり、今のところに移転したものらしい。
昔は高台にあったもののようだが、今やビルに囲まれて伊勢神宮の方角など見えないわけだが。
かつては、神社の前の、南西方向に延びた道が伊勢神宮を遙拝する目的の表参道だったのかもしれない、
今神殿は南面しているので、礼拝する人は伊勢神宮に背を向ける形になる。
遙拝所という意味ではかなりおかしいが、神明神社だと思えば別に変ではない。
神前結婚式がここで始まったというのもなんとなくそんなものかもしれんと思った。
もとは伊勢神宮の出張所で首都布教の拠点だったわけだからな。
その後大正時代になると明治神宮が出来、東郷神社や乃木神社などが出来ていく過程で広まっていったのだろう。
赤福を食べた。
東京大神宮を詠める:

> 武蔵野の原より はるか神風の 伊勢のやしろを 拝む丘かな

靖国神社は新緑がきれいだった。
八重桜がまだ咲いていた。
いろんな種類の桜があるようだが、花が咲いてないとよくわからない。
特に「吉野桜」というのがソメイヨシノを言うのかヤマザクラを言うのかがわからない。
ソメイヨシノという名前が紛らわしすぎる。
ここの桜は、ぎりぎりまで植え替えないのだろう。
またおそらくは、あまり農薬などは使わないのだろう。
かなり年を取った桜が見られる。
街路樹や公園の桜などは幹が黒々として太くごつごつしている。
ここの桜はどちらかと言えば細く、幹は苔むしていて緑色である。
育て方が根本的に違うと見える。

植ゑられし 古きさくらは 苔むして 朽ち折れてゆく やすくにの庭

苔むして 蟻むれたかる 一筋の 道さへとほる 朽ち桜かな

老いにける 桜なれども 宮人に まもられ保つ 命なるかな

朽ち木立つ このやすくにの 宮の庭 かたへに苗ぞ かつ植ゑらるる

植ゑられて あるがまにまに 生ひ育ち 老い朽ち果つる 宮桜かな

元宮と鎮霊社にもお参りする。
元宮は、京都に作られたほこらを移したというもので、特に問題もないが、
鎮霊社は、「靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている」
とのことでなにやらただ事ではない。
調べてみると賊軍として死んだ白虎隊の隊員や、西南戦争で死んだ西郷隆盛らが祭られているとのことだった。
靖国神社の献木としては桜が多いとは思うが、そうでない木、たとえばモッコクなどがたくさん植えられている。
何かいわれがあるのだろうか。

鎮霊社を詠める:

> やすくにの 庭居に百千 植ゑられし 木の間に暗き 隠れ宮かな

千鳥ケ淵戦没者墓苑。ほとんどひとけがない。比較的新しい施設のように思われる。

御製:

> 戦なき 世を歩みきて 思ひ出づ かのかたき日を 生きし人々

昭和天皇御製:

> 国のため いのちささげし 人々の ことを思えば むねせまりくる









千鳥ヶ淵沿いにかえで、西洋かえで、八重桜などが植えてあり、これがまた美しい。
皇居御苑には「御衣黄」という珍しい桜が咲いていたので、
少し写真を撮った。

花の形から八重桜の一種であることがわかる。
花びらに葉緑素があるので、黄色または黄緑色に見えるが、花心はピンク色。
栽培種で、日本全国の庭園など100箇所くらいで見られるという。


宮城の 千鳥が淵に 春たけて 散りそめにける 八重桜かな

大君の 千代田の宮の 苑におふる 浅葱桜の 盛りなるかな

九重の 千代田の苑も いにしへは 日比谷の海の 入り江なりけむ

今に見る 千代田の城の 石組みに もののふの世の いにしへを思ふ

もののふが 開きし海の あとなれや 千鳥が淵の 深き濃緑

春たくる 千鳥が淵を 見渡せば 水面も岸も みな青みたり

花散らす 風は吹けども 夏近き 千鳥が淵に さざなみもなし

城の濠 巡りて走る 外つ国の人は やまとの春を知るべし

外つ国の 人にみせばや 武蔵野の 千代田の城の 春の盛りを

鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。
未だに参拝客は多い。
車が多く道が狭い。
要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、
まずは宝戒寺に行く。
拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。
ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、
北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、
小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。
これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。
この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、
今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。
庭にリスが居る。
あと、ヤブツバキ。
東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。
今度の機会に訪れよう。
幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

> もののふのほろぼされたるやかたあととぶらふ寺となりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。
ボタンといえば花札では六月だが、
一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。
数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。
源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、
本宮を参拝。

> 鶴の岡のやはたの宮のきざはしをのぼれば君のおもほゆるかな

宝物殿200円。

> しづやしづしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

> いにしへのしづのをだまきくりかへし昔を今になすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、
静御前の「静」にかけてある。
まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

> 歌あはれその人あはれ実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。
[葛飾北斎筆「酔余美人図」](http://guide.city.kamakura.kanagawa.jp/Link/kokuhoukan/1ujiie-33.html)
(つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、
司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。
ここにも白旗神社がある。
ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。
墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、
大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。
も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。
毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、
島津忠久は島津氏の祖。
この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、
何か意味ありげはある。
[追記](/?p=2270)。

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、
ごく普通の天神さん。
大蔵幕府の鬼門に当たるという。

さらに行くと官幣中社[鎌倉宮](http://www.kamakuraguu.jp/)がある。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、
いわゆる[建武中興十五社](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%BA%E6%AD%A6%E4%B8%AD%E8%88%88%E5%8D%81%E4%BA%94%E7%A4%BE)の一つとして一括りにされているが、
創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、
明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。
そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。
本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。
よくわからないが中はかなり広い。
しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。
いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、
それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。
先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。
普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。
太平記の記述では土蔵となっているから、
実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、
しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

> すめらぎの皇子と生まれて野に山に仇と戦ひ果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。
また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は[宝物殿](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kamakura-gu_Treasure.jpg)となっていて、
かなり手狭な建物だが、
中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、
東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、
山本五十六「至誠奉公」の額、
乃木希典「忠孝」の額、
それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、
かなり無造作に展示されているのだが、
これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。
私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、
なんというおそるべき宝物群であろうか。
思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、
この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。
そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、
なんちゅうかあまりにももったいない。
こんだけのコンテンツがありながら、
あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、
本殿向かって右手に祭られている。
宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。
つまり、
「身代わり様」と呼ばれ、
「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。
また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、
この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。
吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、
村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

> 身代はりにいのちささげて今もなほ人を助くる神あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。
これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、
なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。
南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。
写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。
親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、
また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、
積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。
鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。
ここもまた岩窟。
他の墓同様にきわめてささやかなものだ。
ここは寿福寺という寺の裏の墓地。
寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。
墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。
鳴き声はかわいくない。

> もののふのふりにし墓をたづねむと登れば険し鎌倉の山


ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、
あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。
あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。
参道がやはり岩窟。
岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。
元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、
実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。
鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、
頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。
こんな華美ではなかっただろう。
鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、
あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。