筒井康隆『不良老人の文学論』というのを読んだのだが、書き下ろしでもなんでもなくて雑誌に書いた短いエッセイを束ねたようなもの。筒井康隆にとって文学とは近代小説のことなのだなと思った。普通の人にとってもそうなのだろう。文学という言葉にもつ私の違和感というか嫌悪感はそこにある。Literature を文学と訳すことも嫌いだが、文学というからには、私にとって記紀万葉から今日にいたる日本文芸や日本芸能全部のことだ。さらには論語や韓非子などの漢籍も含まれてくる。重心の位置がまったく違う。だからといってどうしようもないのだけれど。
三島由紀夫が復活する
そういえば小室直樹の『三島由紀夫が復活する』が新書で再版されていたので買ってみた。私が大学生の時に買ったときはなんか見た目が自費出版みたいなどんくさい本だった。内容も難しいというかわかりにくいというか。編集者のチェックが入っていない、小室直樹が一人で勝手に書いた文章のようだというか。今読んでみるとけっこう読み応えがある。カッパ・ブックスの書き散らした中身がスカスカなやつよりは良い。むしろ読みやすさすら感じる。小室らしくなく、自分の言いたいことは控えめにしてわざわざ取材までして、インタビューまで載せているのだから非常に真面目に書いている。大学生の頃の私にはこの執筆態度の違いがわからなかった。
やはり三島由紀夫は人気があってある程度売れるとみたのだろう。表紙の写真もかっこいい。
三島由紀夫の本を書くやつは三島由紀夫人気にあやかって売れる本が書きたいのだろう。あるいはほんとに三島由紀夫が好きな人か。いずれにせよ、三島由紀夫と伊東静雄、三島由紀夫と藤原定家について書いた人がほとんどまったくいないのにはあきれかえる。三島由紀夫が好きな人は藤原定家も伊東静雄も知らぬのだ。この二人がどれほど三島由紀夫と関係が深かったかもしらんということだ。それでよくもまあ三島由紀夫を語れるものだと思う。
追記。最初の本も新書版だった。最初に買った本はどこかになくしてしまったので古本で書い直したのだった。
新しいことはやらない
定年退職まであと五年なのでもう新しいことを探索して、未来の自分のために仕込むのはやめようと思っている。もう未来の自分のためのことなんて気にする必要はない。去年仕込んだネタをできるだけそのまま使い回して新しいことはしない。
去年までは少しヒマがあれば浅草に泊まりに行き、上野をぶらつき、博物館を見て回ったりしたのだが今はそれもしない。何もすることがなければ何もしない。今までは何かしなければならないという強迫観念があったように思う。まずそれを消す。それが最優先。
年金を頼りに、あとは株やったりブログ書いたりして死ぬまでの時間を適当に潰す。ほかに何かすることがあろうか。実は何もない。何も無いのに何かをしようとするのがよくない。今までそれを認めることを拒絶してただけで、それを素直に認めることにする。
外で飯を食ってももうほとんど何の感動もない。うまいものを食ったとして、確かにうまいが、別に大してうまくないものを食ったのとどう違うというのか。
株と本
株を始めてもう4年目だけれども、利益は出せていると思う。人の意見を参考にするよりは、自分の勘だけでやったほうがうまくいく気がするし、これまでそうしてきてだいたい外さなかったのだから、これからも同じようにやったほうが良いと思っている。なぜこのやり方でうまくいくのかうまく説明つかないのだけど、今のところ、失敗して退場する側の人にはなっていないので、やり方を変える理由もないのである。
私の場合定年退職に向けて貯金から株にお金を移さなくてはならないと考えている。いわば老後死ぬまでの資金を貯蓄する延長線上でやっているだけで、安い株を買って高い時に売るだけだ。今高くなりつつある株を買って下がる前に売り抜けるというのはデイトレのやり方であり、他に何もやることがないくらいヒマになったらやるかもしれないが、今はただ安物を買って値上がりするのを待つだけだ。つまり私は、明日はどの株が上がるかなーなどと考えて株を買ってはいない。逆にどの株が下がるかなーってことばかりいつも考えている。
業績とかはほとんどみてない。業績が悪いから安くなっているわけで、そのうち業績が回復すれば上がるだろう、今が底値かどうか見極めて、底値でなかった場合にナンピンするかどうかも見極めたうえで割安な株を買うのみ。業績が悪くなりすぎて上場廃止とかになれば洒落にならんのだがそういう銘柄にはいまだにであったことがないし、またそのリスクを避けるためにも分散投資している。
それでいろんな割安株を100株ずつくらい買っているのでこのやり方はたぶん自分で勝手に個別銘柄を買って投資信託してるようなもんだと思っている。
今回任天堂を買ったのは失敗だった。やはり他人のペースに巻き込まれてはいけない。長期的に任天堂の業績が回復しないということはほぼ考えにくいが(物価上昇に合わせて株価も値上がりするし、任天堂よりヤバい株はほかにいくらでもある)、しばらく塩漬けにしておかなきゃならん。後はフジッコにも困っている。上がったらすぐ売り抜けたい。大抵の場合はあがったりさがったりを繰り返しているだけなので上がった時に嫌なら売る。それでこれまではなんとかなっていた。
note の株が上がっているが、note に書く気はない。note を使ってみたこともあるが自分には向いてない気がする。カクヨムも同じ。ブログ感覚でちょこちょこ書き溜めていってときどき有料版にしたり、或いは広告を付けたりするんだろうけどそういう執筆スタイルが合わない。逆にここのように損得抜きでただ書き散らしているほうがまし。
3年位前から書き続けていたものがやっと今年の秋には出そうなのだが、3年間だらだら書き足したものだから分量がやばいことになっている。新書だと5万字くらいか。さらっとすぐに読める。今小室直樹のカッパ・ブックスなど読み直すとすごく読みやすい。中身もすかすかだ(センテンスごとに改行してるのは笑える。言ってることもいい加減で適当。ちゃんと事実を調べず思いつきだけで書いている)。高校生くらいの頃の私はこういうものを喜んで読んでいたのだと思う。文章の量という意味では『虚構の歌人 藤原定家』くらいがちょうど良いのだが今からこれを読んでみると悪くはないが中身が薄い。言いたいことが全然言えてない。定家の結論にまだ全然達していないうちに書いているから仕方ないのだが(ただ自分としては他人よりははるか先を行っているつもりではいるのだが)。
5万字くらいの新書をコンスタントに出し続けられればそれが一番良いような気がする。それができるには毎回1万部くらいは売れなくてはなるまい。それが難しい。私が書くことはたぶん世の中でそんなに需要がない。需要が無いからまとめて20万字とか40万字の本を、いろんなトピックを一つの本にまとめてだそうということになるが、それはよろしくない。私が今書いて出したいことは2、3冊の本では全然足りないことがわかってきた。
書きながら調べて、調べると主張や方向性もだんだんに変わってきて、たとえば最初は宣長の本を書いていたつもりがいつの間にか徂徠に重心が移ってきたりする。これが困る。『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』を書いていた頃と今では宣長に対する見方は全然違う。徂徠については何の興味もなかったが今はある。見方も全然違う(そもそも徂徠について書かれたどの本を読もうと徂徠がわかるはずがないのである。ということがわかった。もし徂徠について書かれたまともな本があったら中学生の頃の私でも理解できたと思う。徂徠は難しくないが、その全然難しくない徂徠を書いている本がどれもこれもどうでもよい、バカみたいな、的はずれなことばかり書いている。宣長についても同じことは言える。小林秀雄が書いている本も同じ。あれを読んで宣長や徂徠がわかるはずがない。とはいえ小林はまだずっとまともなほうだと思う)。
小林秀雄のように固定ファンがいればそうやって思いついたことをだらだら書いていても良いのかもしれないが、私の場合は宣長の本を出すなら宣長のことについて、徂徠の本を出すなら徂徠についてちゃんと結論まで到達したあとにまとめて書くしかない。しかしそれが難しい。書いているうちに書きたいことが変わってしまうのだから。
ともかく次出す本はぴしっとまとめて書いて出す。15万字以下にしたかったが結局20万字くらいになるだろう。これくらいの分量の本はいくらでもあるのだが、読みやすい分量とはいえない。読んでがっつり満足してもらえれば良いのだが。
これが売れなければ私が書いた本は未来永劫売れないってことがほぼ確定したようなもので、まだ書き残したことはたくさんあるが、書いても無駄だろう。少なくとも出版することには意味がないから、こういうブログにダラダラ書くか、kindle で出版することになると思う。kindle は嫌いではない。私の本を読まなくて困るのは私ではなくて人類である(笑)。もはや私は自分のやるべきことはやったと思っている。これ以上何かを書いて遺してやる義理はあるまいと思う。
思うにたまに思いつきでしか書かないこのブログでもそれなりのPVはあるらしいから真面目に毎日コツコツ書けばそれなりに読む人はいるのかもしれない。それで課金したければ note 辺りに有料記事を書いてそちらに誘導すれば良いのかもしれない。あるいは youtube で評論とかするかもしれない。定年退職してヒマになったらそういうことを試してみても良いかもしれない。今はそんな余裕はない。
youtube の登録チャンネルを片っ端から削ってみた。そしたら勧めてくる動画がガラッと変わった。今まではあまりにも雑多なチャンネルを登録していたから何を推薦していいか AI が混乱していたのだろう。登録チャンネルを削ることにも効用があることがわかった。
人間の体は一定量カロリーを備蓄しようとする。筋肉がついていれば筋肉にグリコーゲンを貯蓄できる。筋肉が落ちると脂肪細胞にカロリーを蓄えようとする。つまり食事量とか運動量などは本質的な意味がない。人間の身体がある一定のカロリー量を体内に維持しようとすることが本質だ。何km歩けば何kg分カロリーを消費するなど何の意味もない。運動せずただ単に筋トレだけすれば食おうが食うまいが痩せる。もちろん食いすぎれば太る。ただそれだけのことだ。実にバカげたことだ。腹がぽっこりしても気にしなれば何もする必要はない。そして誰も私の腹のことなど気にしてはいない。
戦後昭和史観
荻生徂徠について調べているんだけどいろいろヤバイ。
徂徠については昔からいろんな人がいろんなことを書いているのだが、戦後は吉川幸次郎という人が戦後昭和史観(笑)でちょっと新しいことを言ってそこで止まっていて、まったくアップデートされていない。石川淳もなぜか徂徠好きらしくていろいろ徂徠のことを書いているのだが、結局何が言いたいのかよくわからん。小林秀雄も石川淳と似たりよったり。
たいていの伝記は徂徠が生まれてからどうやって綱吉に謁見したかまでの経緯を書いて、それに『弁道』と『弁名』の解説みたいなもんをつけて終わり。ウィキペディアもそれに毛が生えた程度で、徂徠豆腐の話と赤穂義士の話がついているだけ。
これで徂徠がわかったら奇跡だと思う。
徂徠の詩についても、東洋文庫から徂徠全詩という画期的な本が令和になって出てこれが決定版かと思っていたが、よくよく読んでみるとこれは徂徠の詩業のやっと入り口までたどり着いたに過ぎない。徂徠の詩と漱石の詩の関連についてもまだほとんど研究は進展していないと思う。
たとえば吉川幸次郎が徂徠学案というもので徂徠について論じているのだけど、『徂徠集』というものから引用していて、『徂徠集』を国会図書館で調べるとだいたいが抜粋だ。完全なものは明治初期に出版された木版本(笑)みたいなものしかないらしい。『徂徠集』というのはだいたいが書簡なのだけど、これをちゃんと現代語訳したり解説したものはない。『弁道』と『弁名』、『学則』、『太平策』、あとは『徂徠先生問答集』あたりまでしかちゃんとしたものはなく、それ以外は放置されている。『徂徠全集』というのを見れば載っているのかもしれないが。『弁道』『弁名』にしてもこれらが徂徠の代表作だと言われればそうなのかもしれないけど、これだけでは徂徠はただの儒者と大差ないという結論にしかなるまい。徂徠はただの儒者ではないところが偉大で面白いのにその差がわからんというのではどうしようもない。徂徠に儒者の典型を見たいだけの人には十分なのかもしれんが。
先行研究も無しに『徂徠集』をガチンコで読むのは不可能に近いし、吉川幸次郎の解釈などを見てもほんとに正しいのかどうかわからん(吉川以外の人の解釈が無いから比べようもない)。戦前までは儒者の生き残りの中国学者みたいなのがいくらでもいたんだろうが今はほぼ絶滅したよな。
じゃあお前は徂徠をどうしたいんだ、おまえが徂徠の本を書けよといわれても困る。私はたぶんそんなに徂徠が好きなわけじゃない。もすこしちゃんとした解説書や全集があってよさそうなものなのにそれがなくて、もう徂徠は全部終わったことになっているのがヤバイとしかいいようがない。
こんな状況で誰かが徂徠のことを調べて書いたとしてもそれはAIがスクレイピングしたのと同じで何も徂徠についてはわからんということになるだろう。とても気持ち悪い。
そう、私が気持ち悪いとか恐怖に思ってるのはたぶん、近代文学史観とか戦後昭和史観とでもいうしかないものが、永遠にアップデートされないまま、それが当然の事実として世の中に受け入れられて固定してしまうんじゃないかということだ。
「徂徠」という号は、おそらくだが、自称として使われることはまずなかったのではなかろうか。「徂徠先生」のように弟子や他人が呼ぶ名だったのではないか。少なくとも綱吉時代にはまだ使われていなかったのではないか。コトバンクにも「物徂徠と自称」などと書かれているけれども、どうもあやしい。自称は通常公式には「物茂卿」、私的には「荻生惣右衛門」などではなかったか。「徂徠」の初出を調べようと思っても皆目わからん。
たぶん太宰春台や安積澹泊などは敬意をこめて「物徂徠」と号で呼んでいただろう。「物茂卿」と字(あざな)で呼ぶことは失礼に当たったからではなかろうか(号を自称として用いる人がいないと言いたいわけではない。紀峰は私の号のつもりだ)。
「蘐園随筆」というものは徂徠の手紙の中で自分が昔書いたなどと書いているので本人が書いたに違いないが(蘐園というからには綱吉が死んで茅場町に私塾を開いた後に書いたものだろう)、「蘐園雑話」などはほんとうに本人が書いたのか疑わしい。こういった「蘐園なんとか」という本がかなりある。どこからどこまでがほんとうなのか全然わからない。『弁道』『弁名』なども実は徂徠が死んだ後に太宰春台などが校正して出版しているらしくて、もう何を信じてよいのかわからん。
それと比較すると宣長なんかは出版物に関しては生前に本人が出版しているし、死後発見された手稿なんかはそのままの形で全集に収録されているから、宣長本人が書いたものであることはほぼ疑いようがない。
タイトルが決まらない。
新しいことは何も始めない。今やっている仕事を可能な限り中身を薄めていく。今までは退屈が怖くてガチガチに仕事を詰め込んだり新しいことに挑戦したりしていたが、もう六十過ぎて定年まで五年なので、やらんでも良いだろう。そのぶん楽をさせてもらい、退屈を飼いならして、のんきに生きる。
今書いているものは本文はほぼ書き終えたのだがタイトルと前書きがまだうまく決まらない。うまいアイディアを思いつこうと頑張っても出てこないことが多い。ぼーっとしているとアイディアが出ることが多いから、しばらく待つしかないか。
本居宣長
本というものは10代の女子くらいしか読まない。男子は本なんか読まない。大人はなおさら本は読まない。読むとしてもビジネス書みたいな恐ろしく中身のないつまらない本ばかり読むのは呆れる。なぜみんなあんなバカみたいな本ばかり読むのだろうか。まだ、youtubeでも見ていたほうがましではなかろうか。
10代の女子が読んでくれるような本を書くのは、60過ぎのおじいさんにはとても難しい。
本居宣長の本を書くとして、10代の女子に宣長に興味を持ってもらうにはどうすれば良いのだろうか。難しいけれどもなんとか読めると思わせるにはどうしたらよいか。
カードの使い分け
新しいことはもう何もしないことにしようと思うと、朝6時から何もやることがない。youtube もだいたい見飽きてしまった。面白いと思っても1周間くらい見続けるとパターンがわかってしまいつまらなくなる。新しい服もできるだけ買わず今ある古着だけで死ぬまで生きていきたい。靴下や下着やズボンなどは買い替えるかもしれないけど。できるだけ日本経済に貢献しないように生きていきたい。酒を飲まないのが一番だがそれはどうなるかまだわからない。年金ぐらしになったら酒はやめたほうが良いのかもしれない。
アマゾンプレミアムカードなんだけど中身は三井住友カードで、ウェブサイトのインターフェイスがいろいろうざい。現在の設定を確認したいだけなのに照会もしくは変更へいかされて、変更するにはワンタイムパスワードで認証とかもうめんどくさすぎる。たぶん使わないのが吉なのだろうと思い、アマゾンの支払いでポイント付ける以外では使わないようにしようと思う。
これまではパスモと小田急のクレカで支払うことが多かったのだが、今後基本的には楽天カードを使おうと思う。100円で1ポイント付くカードは他にもあるが、私にとっては楽天が一番使いやすそうに思う。ヨドバシは今も明細書が紙でもらえるようにしてて、これは経費で買うときようにしてあって、経費で買ったものと個人で買ったものが明細書でごっちゃになるのが嫌なので、ヨドバシは普段は使わない。
小田急だと 0.5ポイントなのでわざわざ小田急に義理立てする必要もない。小田急からパスモにオートチャージなのだが、楽天カードがパスモと同等に使えればそれでも良いがそうはいかないからとりあえず電車に乗る時はパスモにしておく。
新生銀行のキャッシュカードは現金を下ろすのに使っている。100万円以上預金を入れておけば新生銀行はコンビニのATMなどで手数料がかからないので非常に便利だ。
楽天証券と楽天銀行の間で自動入出金というものがあって、楽天カードから楽天銀行で引き落としをするようになると、この自動入出金というものが銀行の預金残高と楽天証券に預けた金がごちゃまぜになって非常にわかりにくい。なので自動入出金をやめてしまった。楽天銀行のほうは買い物してポイント貯めるために入れておく金。楽天証券は株の売買に使う金。
あとはAEONのWAONカードもマルエツでポイント貯めるために持ち歩いているんだが、これはマルエツカード作って切り替えたほうが良いかも。いや、違うな。楽天カードで楽天ポイントを付けてさらにwaonでwaonポイントを付けた方が良いのかな?
などというようなこまかいことを考えるようになったのはヒマになったせいかもしれない。
あと、デカい長財布を買った。これまではカードが8枚しかはいらなかったが今のは16枚入る。かさばるけどまあ良い。財布は大事だ。
宣長の結婚2
宣長の結婚の続き。
初婚の妻、美可が村田家の娘だというので、あれ、宣長の母も村田ではなかったっけと思ってウィキペディアなど見ると、やはり同族である。松坂で豪商で村田家というのが二つも三つもあるはずがない。
宣長の父は宣長が十才の時になくなっている。兄が家督を継いだが、この兄もなくなってしまい宣長が小津家の家督を継ぐことなる。しかし宣長はまったく家業を継ぐ意志がなく、店をたたんでしまう。
宣長が京都遊学中に母は酒を飲みすぎるななどという手紙を書いており、母との関係は悪くはなかったのだろうが良くもなかったのだろう。村田美可は母の斡旋であったに違いなく、母のお膳立てで結婚してみたが、まったく相性が合わずに離婚することになったのだろう。母はもしかすると宣長に村田家を継がせたかった(つまり宣長を村田家に養子縁組したかった)のかもしれないが、それこそ宣長にとっては大きなお世話だったに違いない。
再婚相手の深草たみは夫と死別していて、要するに、バツイチどうし片付けば都合よかろうという話になっただけのように思えるが、そのまま離縁しなかったのはそれなりに仲はよかったのだろう。たみは宣長の母の名、かつを継いでかつと改名したという。どうも宣長の母方の村田家というのはずいぶん宣長に対して干渉してきたように思える。
四月病
某アメリカ中華チェーン店に行ってみたのだが、アホみたいにまずい。チャーハン、焼きそばも縁日の屋台以下のレベルだし、白米がごまかしようがなくまずい。近所のドラッグストアで売ってる5kg 2900円くらいの国産ブレンド米なら銘柄米と比べてもほとんど遜色なく食えるのに、どういう調達をしてどういう調理をすればこんなにまずいコメができるのだろうか。すべてが安っぽいのに値段は高い。水も出ない。日本人をなめてるとしか思えない。店の雰囲気もスタッフもやる気がなく、一度食えばもう十分、早々に淘汰されるだろうと思う。名物の鶏のから揚げ甘酢あんかけオレンジ風味のアレだが、まずくはないというだけのことで、わざわざ食おうとは思わない。鶏肉なら町田のハマケイのほうがはるかにうまい。すき家のバッファローチキンのほうが百倍まし。
久しぶりに小室直樹のカッパ・ブックスなど読んでみたのだが、今からみるとひどい。真面目に書いているものもあるが、中には推敲もなし、下調べもなしに書き殴っているようなものもある。それはそれとして読んで面白いといえば面白いのだけど、流行作家になって、年に何冊も本を出しているとこうなるのかな。当時高校生だった私にはしかしちゃんと書かれたものと書き殴ったものの区別がつくはずもなく、ほぼ全部買って読んでいた。
特に栗山潜鋒の『保建大記』について書いたものなどはひどい。これは予備知識なく読まされた側は良いのか悪いのか嘘なのかほんとなのか判断しようがない。天皇論なども今からみるとかなり雑だ。小室直樹という人を知ったうえで面白がって読むならともかく、判断力の無い若い頃に読んで良い影響もあるかもしれないが悪い影響も無視できないと思う。
とはいえこのくらいおもしろおかしく書かないと本というものは売れないのだろう。これくらいひどくても面白ければ本は売れるものなのだろう。実際高校生の頃の私はこういうものを面白がって読んでいたわけだし。今私が書いているものを高校生の頃の私に読ませたらどう思うだろう。
五月病と言うが、私の場合はだいたい毎年三月くらいにそういうのが来ていた。今まさにその気分なのだと思う。とにかくやる気もでない。やりがいもない。何もしたくない。あれほど楽しかった浅草も今はどうということもない。