太宰春台と黒田大和守

『蘐園雜話』に

春台、黒田大和守殿より廿人扶持出入扶持を賜はる。大和守殿物故後、勝手あしくとて十口減じ、其の後又五口減ぜしかば、春台腹を立て、残りの五口共返上致され、一生処士にて終れり。

とある。黒田大和守を黒田直純とすると時代が合わないので、その父の黒田直邦であろうと思うが(直邦1735年没、春台1747年没)、直邦は大和守にはなっていない。豊前守であるが、おそらく直純が大和守で、以後黒田家は代々大和守に任じられたようなので、それで間違っているのであろう。

黒田直邦は柳沢吉保の養女を妻とし、吉宗の奏者番となり、また徂徠の弟子でもあったから、徂徠が1728年に死んだ後も、直邦が春台の面倒を見てやったのだろう。春台はその援助を受けながら、徂徠の遺稿を整理出版するなどしていた、と考えられる。しかしその直邦が死んで代替わりして直純が継ぐと、もう春台を養っておく義理もない。だんだんに扶持を減らしていって、自分から致仕するよううながしたのだと思う。春台が私塾を開いて門人を育て、また何人かの大名から支援されたとウィキペディアにあるのは、仕官したのではなく、援助を受けていたという意味であろう。ならば五人扶持でももらえるものならもらっておけばよかったのではないかとも思う。かなり短気な人だったか。

春台は徂徠の弟子として名声は高かったが、徂徠の場合の、柳沢吉保や徳川吉宗のようなパトロンはいなかった。気位ばかり高くて扱いにくい人だったかもしれない。

太宰春台は太宰純ともいう。太宰純ではまるで太宰治の兄弟かなにかのようだ。というより太宰治がわざとそんなペンネームにしたのだろう。

浅草退去

浅草に1年半住んでみて思ったのは、浅草に限らないが、都心で(一部の住宅専用区画を除く)、どんなに閑静な、車通りの少ない、新築工事のなさそうな辺りを選んで住んだとしても、どこかしらのビルで外装のメンテナンスがあり、どこかしらの道路を補修する工事をしている。犬を散歩に連れ回して、吠えないわけがない。やかましいのが嫌いな人にはとうてい住めないところだ。また、人が多すぎる。年を取るとどうしてもそういうのが嫌で我慢できなくなる。若いうちは私も平気で三軒茶屋のど真ん中あたりに住んでいたんだけど今ではもう無理。

古くて安い部屋はある。一人暮らしで狭くてもかまわんというのであればどうにか住める。しかし家賃その他を考えれば、月に数回、山谷の安ホテルかカプセルホテルにでも泊まったほうがずっと安上がりだ。原稿料だか印税ががっぽがっぽ入ってきて事務所代わりに借りるというならともかく住もうとはしないのが吉だ。

吉原の近くに部屋を借りていたのだが、もし今度住むとしたら新御徒町の佐竹商店街あたりに住みたい。私にとっては通勤に便利だし、上野にも近いし、浅草にも近い。とても便利なところだ。今の仕事がますます忙しくなれば、定年までのあと五年間、ここらに部屋を借りることもまあ悪くはないかもしれない。吉原あたりは悪くはないが地下鉄の駅がどれも遠くて不便だ。

浅草地下街地図のアクセスが最近増えてきている。注目されようとかアクセス数を稼ごうとか、そういうつもりで描いたわけではないのだが注目されるのは面白い。今までこういうまともな地図がなかったんだからみんな見にくるに決まってる。外人にもためになるだろう。世界的に必要とされるはずだ。それはそうと今はヨーロッパ往復で120万円くらいかかるそうだが、それでよく日本まで来るものだな。むこうの人の感覚だと50万円くらいなのかな。こっちは食べ物でもなんでも安いからお得感があるのかもしれん。

浅草素描というこのブログのタイトルだが、もう少し続けてみようかなとは思っている。

あとやはり、浅草に関わっていたせいで太り気味だったのは間違いないと思う。最近は外飲みがめんどくさくなり、何を食べても別に楽しくもないので、米と卵と野菜ジュースくらいで、腹がすきすぎて困らない程度に食っているのが健康にも良いかなと思っている。

太宰春台と平田鐵胤の墓

根津、天眼禅寺にある太宰春台のお墓にお参りした。享年1747年だから、今から300年近く前の墓にしては、きれいな墓石で、文字もはっきりと読める。手入れもされていて、苔むしたりはしていない。もともとそれなりに良い石を使ってあるのだろうか。

本堂には三つ葉葵の扉がある。松平家ゆかりの寺だが臨済宗なのは少しめずらしい。

今どきの御影石の墓石はきれいだが風情がない。最近はなんでもかんでも御影石だ。

そのあと巣鴨のとげぬき地蔵など行き、それから芥川龍之介、谷崎潤一郎などの墓などもお参りにいったのだが、途中珍しいお墓があったので寄ってみた。平田篤胤の娘と結婚して平田鐵胤(かねたね)と名乗った人だ。つまり篤胤に養子縁組した篤胤の弟子なのだ。このあたりは区画ごとに囲いがしてあって、なかなかたどり着けない。しかも一番奥で藪蚊がひどかった(クモの巣もある。行くには用心したほうがよい)。岡倉天心の墓のさらに奥。

平田篤胤は秋田の出身だが脱藩して江戸に住み、山鹿素行流兵学者の平田家に養子で入り、この墓はその平田家代々の墓であるらしい。平田篤胤の墓は本居宣長の墓の隣、つまり伊勢松坂にあるはずなので、ここではないということでよかろうか。

染井霊園は墓石の形はおおむね普通だが、明治政府が神葬祭地に指定し、東京府が管理したのだというから、ここのお墓はみな仏教徒ではなく神道家だということか。それから東京市に移管され、今は東京都が管理している都営霊園ということでよかろうか。なんかわからんことだらけだ。ウェブサイトなどもしっかりしていて万事ちゃんとしている。

このあたりはどこまでも墓地だが、寺が管理していたり都が管理していたり、その区画ごとに囲まれていて、かなり迷う。

護国寺や雑司ヶ谷霊園にも行こうと思ったのだが、眠いし暑いしで疲れ果ててしまった。荻生徂徠の墓は白金高輪のほうにあるし。正岡子規の墓は田端のほうだし。も少し時間をかけないとちゃんと墓参りはできない。

最近の株

最近の相場はなんか変だな、日経平均は上がるのにソニーや任天堂やNTTなどの優良株は上がらないのは、中国がデフレに突入して売ってるのかななどと想像したりしてたのだが、たぶんAIによる自動売買のせいじゃなかろうか。銘柄や業績なんかを総合的に判断して売り買いしているから人間から見るとなんでそんな値段になるのかまったく予測がつかないのではないか。

たとえば、任天堂とかソニーは、悪くはないんだが、そっちを持っておくよりは今はこっちを買っておいたほうが得するからそっちは売ってとりあえずこっちを買って儲けておく、みたいなことをやっているのではないか。そういうことは人間にはなかなか判断できないと思う。

では自分がAI自動売買に手を出すかというと、それはそれでAIというよりは誰かに踊らされる結果になりそうだからやらんと思うが。

で結局自分は、優良銘柄が安ければ買う、高くなったら売る、という以前からのやり方を続けるしかあるまいと思っている。

google adsense を仕込んでみた

あまりうざくない程度に試してみるのはありかなと思った(老後の楽しみのため?)。適当にはじっこのほうに表示させるのは良しとしよう。全画面を覆って閉じるボタンを押させるような広告はさすがにうざいのでやらないとか、自分で選べるのかな。

昔、adsense を一瞬やってやめた形跡がある。2014年くらいのことらしい。その頃のことなんてもう忘れてしまった。ずっと続けていればそれなりの収入にはなったのだろうか。

まあともかくやってみよう。

Kelvin TANAKA Channel

今まで作った曲を Kelvin TANAKA チャンネルに集めているのだが、まあ、人に見せてもいいかなって言うレベルのものから、わりと積極的に見てもらいたいものまであわせると現時点で 31曲ある。2021年くらいから作っているので 5年でこの程度。多いのか少ないのかよくわからん。最初は comptoser という自動作曲ソフト使ってたが一から自分で作ったほうが早いということになり一時期少しハマってた。

これらの曲に何か共通した特徴が分かる人は教えてほしい。作った自分にはまったくわからない。

頼山陽 立志論

男児不学則已、学当超群矣。今日之天下、猶古昔之天下也。今日之民、猶古昔之民也。天下与民、古不異今。而所以治之、今不及古者何也。国異勢乎、人異情乎。無有志之人也。庸俗之人、溺於情勢、而不自知。無上下一也。

男児学ばされば則ち已む、学べは当に群れを超ゆべし、

古之賢聖豪傑、如伊傅如周召者亦一男児耳、吾雖生于東海千歳之下、生幸為男児矣、又為儒生矣、安可不奮発立志以答国恩、以顕父母哉。

古の賢聖豪傑、伊傅の如き、周召の如き者は亦た一男児のみ、吾れ東海千歳の下に生まると雖も、生まれて幸ひにして男児となり、又た儒生となりて、安んぞ奮発立志して以て国恩に答へ、以て父母を顕さざるべけんや。

かな?

伊傅は伊尹と傅説、周召は周公旦と召公奭のことらしい。

これを一から訳すのは大変だなあ。

太宰春台

上田秋成『胆大小心録』に

聖人もだんだんご身代が大きうならしゃまして、悪人がたを加へねば、芝居がうてぬやうになつた事じゃ。ある儒者が、聖人とはなんでも国の乱れを治めたのが聖人じゃといふたは、末世の早算用なり。国を盗める候となる。候の心に仁義とはくだくだしいて聞こえにくい。その儒者どのが其の心ゆゑ、身持ちが悪くて、徂徠学じゃといへば、今の俳諧師のやうな相場じゃあったげな。太宰といふが力まれても、とかくに本家の評判が悪いから、とんとあとがない。

また頼山陽『山陽先生書後』「書徂徠集後」に

南郭の如きは王李に克肖し、其の師を踰ゆる有れど、而して観るに足らず。春台の能く其の師の非を悟るは豪傑と謂ふべし。

などとある。秋成の秋成節は何を言っているのかいつもながらよくわからんが、徂徠よりも春台のほうを高く評価しているようにもみえる。山陽も徂徠よりは春台のほうがまだましだと言っている。

しかし私が徂徠の書いたものと、春台が書いたものを見比べるに、春台は徂徠のおかげで名は売れて、文章も達者で、相当世間を騒がせたようだが、結局は徂徠の焼き直しにすぎず、徂徠と違うあたりには頭のおかしなことを言っているだけのようにみえる。それが「太宰といふが力まれても」という評になったか。

当時の人々にとって徂徠が有名だったのは間違いないが、何かしら徂徠はうとましい存在だったのかもしれない。春台のほうがなぜかしら好ましい人に見えたのかもしれない。しかし春台はろくに就職もしてないし、宮仕えなどできるような人でもなかったようにみえる。

要するには私には、山陽や秋成が春台を高く買っているのが不思議だということで、漱石も春台が嫌いではなかったし、春台がなぜそんなに評価されているのか、わけがわからないのである。

『山陽先生書後』なんだけど国会図書館デジタルコレクションには天保時代の木版本しかない。ふざけんなと言いたい。かっちりとした楷書で書かれているから読めるっちゃ読めるんだが(和文で、くずし字で書かれてたら死んでた。漢文だからまだ読めたのだ)、活字に起こして読み下し文とか現代語訳とか付けてほしい。ならおまえがやれ、と言われそうだが(追記。よく探したらあった)。

『徂徠集』にしてもいつの時代のものかしれぬ、出版者が松村九兵衛とかになってる木版本しかない。これはさすがに怒ってもいいんじゃないのか。国文学者らの怠慢ではないのか。

釈迢空

釈迢空はなぜ釈などと僧侶のような名にしたのでしょうか。

国文学者・民俗学者として知られる折口信夫(おりぐち しのぶ)が、歌人・詩人として活動する際に名乗ったのが「釈迢空(しゃく ちょうくう)」です。

なぜ彼が「釈」という、まるで仏門に入った僧侶のような名字を名乗ったのか。これには彼の生い立ち、独自の思想、そして終生抱き続けたある「覚悟」が深く関わっています。理由は大きく分けて3つあります。

1. 少年時代の「出家願望」と浄土真宗の影響

折口信夫の実家(大阪の薬種問屋)は、熱心な浄土真宗の門徒でした。そのため、幼い頃から仏教の文化になじみがありました。

彼が10代半ばの多感な時期、実家の家業の衰退や、自身の複雑な精神的苦悶(同性愛への目覚めや自殺未遂など)から、激しい出家願望を抱くようになります。13歳の頃には、奈良の大和巡礼の旅に出ており、その途中で出会った僧侶たちに強い憧れを抱きました。この「俗世を捨てて仏門に入りたい」という若い頃の思慕が、のちに「釈」を名乗る心理的な土台となりました。

2. 生涯「子孫を残さない」という決意の表明

「釈(しゃく)」という姓は、仏教(特に浄土真宗など)において出家した者が、俗世の姓を捨てて「釈尊(お釈迦様)の弟子」となった証しとして名乗るものです。

折口は、自身のセクシュアリティ(同性愛者であったこと)や、父親の放蕩に対する反発などから、「自分は生涯結婚せず、血のつながる子孫を残さない(=家系を自分の代で終わらせる)」という極めて強い覚悟を持っていました。

出家して仏門に入ることは、俗世の「家」制度から離脱することを意味します。彼は本名である「折口」の血筋を絶やすという自らの運命を、生前から「出家者(=釈)」の偽名を名乗ることで表現したのです。

実際に、文芸評論家の富岡多恵子らの研究では、この「釈迢空」という名は、彼が生前に自ら付けた「戒名(法名)」のような意味合いを持っていたと指摘されています。

3. 名付け親である僧侶・藤無染との関係

「迢空」という号の由来には諸説ありますが、折口が青年期に深く憧れ、精神的・文学的な影響を受けた浄土真宗の美貌の僧侶、藤無染(ふじ むぜん)から与えられた愛称、あるいは彼との交流の中で生まれたものと言われています。無染への強い情愛と、彼が象徴する仏教的な「世捨て人」の世界観への憧れが、「釈」という一字に集約されていきました。

まとめ

折口信夫にとって「釈迢空」とは、単なる文学的なペンネーム(雅号)ではありませんでした。

それは、「自分は俗世の家族制度には縛られず、血脈を残さずに生き、学問と芸術の道に殉ずる」という、一種の“生前葬”のような覚悟を込めた、彼にとって最も本質的な「仮面(アイデンティティ)」だったと言えます。

折口信夫は神道家ではないのですか。

結論から言うと、折口信夫はきわめて重要な「神道研究者(神道学者)」であり、國學院大學で神道や国文学を教えた人物です。しかし、いわゆる神社に奉職するような「神職」や、特定の教義を布教する「信仰家」という意味での神道家かというと、少しニュアンスが異なります。

彼が「釈」を名乗りながら神道を深く研究した背景には、折口独自のユニークなスタンスがあります。

1. 研究者としてのスタンス:神道の本質を追究した

折口信夫の学問(折口学)の核心は、「日本人の信仰の根源(神道の原型)は何だったのか」を突き詰めることにありました。

彼は、現在の神社神道のように制度化される前の、古代日本人の素朴な信仰心や、目に見えない精霊(カミ)との関わり方を、民俗学や国文学(万葉集など)のアプローチから解き明かそうとしました。彼が提唱した「マレビト(常世の国から時を定めてやってくるまれなる神)」の理論などは、神道思想の枠組みを大きく広げた研究として、現在の神道界や思想史でも決定的な重要性を持っています。

2. 仏教と神道の「折口流」の同居

先述の通り、彼は歌人として「釈」という仏教的な号を名乗っていましたが、同時に神道の実践者でもありました。

  • 祝詞(のりと)の重視: 折口は国学の伝統を引き継ぎ、独自の美しい祝詞を作って熱心に奏上していました。
  • 神道的な直感: 彼は論文を執筆する際、実証的なデータだけでなく、古代人の心に同化するような「霊感(インスピレーション)」や「神道的な直感」を非常に大切にしていました。

彼にとって、日本の固有信仰である「神道」と、のちに外からやってきて日本人の精神に深く根を下ろした「仏教」は、対立するものではなく、「日本人の心の古層」を形成する地続きの両輪だったのです。文学の世界では仏教的な「世捨て人(釈)」の孤独を生き、学問の世界では「神道」の根源を掘り起こすという、二面性が同居していました。

3. 国家神道への批判的眼差し

戦前・戦中、国によって管理された「国家神道」が軍国主義と結びついていく中、折口はこれに対して明確な違和感や批判的スタンスを持っていました。

彼が愛したのは、国家のための制度としての神道ではなく、地方の村々のお祭りや民間伝承の中に生き続ける、泥臭くも清らかな「民衆の信仰(神道)」でした。そのため、当時の政府やアカデミズムが推進した公的な神道界からは、やや距離を置いた独特の存在(孤高の学者)と見なされていました。

一言で言えば 折口信夫は、神社の神主(神職)ではありませんでしたが、誰よりも深く神道の根源を愛し、その本質を同時代に蘇らせようとした**「異端にして正統な、最高峰の神道学者」**です。

歌を詠むときは、俗世を捨てた「釈(僧侶)」の心境。 学問に向き合うときは、古代の「カミ」の声を聴く「神道家」の心境。

この一見矛盾するような二面性こそが、折口信夫という巨人の、最大の魅力であり複雑さです。

子孫を残さないという決意の出典はなんですか。

折口信夫が「結婚せず子孫を残さない(生殖を忌避する)」という強い意志を抱いていたこと、そしてそれが「釈迢空」という法名(戒名)のような筆名に繋がっているという指摘の、主な出典・研究ベースは富岡多恵子(詩人・小説家・文芸批評家)の評伝『釋迢空ノート』(1972年 / 現在は岩波現代文庫などに入手可能)です。

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富岡はこの著作の中で、折口の残した短歌や小説、ノートなどの記述、および彼の生い立ちを精緻に読み解き、彼の精神の核心に迫っています。

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具体的にどのような背景や記述が出典の根拠となっているのか、その内実を紐解くと以下のようになります。

1. 富岡多恵子『釋迢空ノート』による指摘

富岡多恵子は、折口信夫が「釈迢空」という、いわば死後の名前(法名)を生前から名乗った心理的動因を分析しました。 そこには、折口の父親の激しい放蕩(女性関係)を見て育ったことに対する嫌悪感や反発から生じた、「生殖嫌悪・生殖忌避」の思想があったと指摘しています。つまり、「自分は父の血を次世代へつながない」「家系を自分の代で終わらせる」という断絶の覚悟です。

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富岡は、折口が自身の同性愛的な傾向(男色への傾倒)や、そこから派生する孤独、そして「子を残さない」という選択を、世俗の家制度から離脱した「出家者(=釈)」の姿に重ね合わせていたと論じました。

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2. 折口自身の言葉(歌や文章)にみる出典

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折口信夫自身が「私は子孫を残さない」と直接的なスローガンのように書いた公的な宣言書があるわけではありません。しかし、彼の文学作品や随筆には、その強烈な意志が事実上の「出典」として刻まれています。

  • 小説『死者の書』や『身毒丸』のテーマ 折口の代表的短編小説『身毒丸(しんとくまる)』などでは、血縁や家族のグロテスクさ、あるいはそこからの解脱が色濃く描かれます。家脈の存続という世俗の幸福を拒絶する姿勢が、彼の創作の底流にあります。
  • 「血のつながり」ではなく「学問の紐帯」を選んだ事実 折口は生涯独身を通し、自らの血を分けた子供を作ることはありませんでした。その代わり、彼はお気に入りの教え子や弟子たち(藤井春洋など)と実質的な家族として共同生活を営み、のちに藤井を養子に迎えています。これは、「生物学的な子孫(血脈)を残すことを拒み、学問や芸術を通じた精神的な子孫(文脈)を残す」という、彼の生き方そのものが最大の出典・証拠となっています。

このように、折口が抱えていた生殖への忌避感と「家を断絶させる」という決意は、彼の人生の歩みそのもの、そしてそれを丹念に実証・分析した富岡多恵子の『釋迢空ノート』によって、近代文学史における定説として広く知られるようになりました。