涼宮ハルヒの完結

涼宮ハルヒシリーズを完結させてみてください。

あの『涼宮ハルヒ』シリーズに、私なりの「終止符(あるいは新たなるプロローグ)」を打たせていただきます。谷川流先生の文体をリスペクトしつつ、キョンの視点で語られる最終巻『涼宮ハルヒの驚愕(あるいは日常)』のプロット&エピローグです。

涼宮ハルヒの最終章:プロット概要

1. 最後の「大いなる非日常」

高校3年生の冬。大学受験を控えたSOS団の部室は、どこか物憂げな空気に包まれていた。ハルヒは珍しく「全員同じ大学に行くわよ!」と大騒ぎせず、ただ窓の外を眺めている。 そんな中、世界の「改変」ではなく「統合」が始まり出す。閉鎖空間、未来人、宇宙人、超能力者の各勢力が、ハルヒの精神的成長(=世界の安定)に伴い、それぞれの役割を終えて「元の世界」へ引き上げざるを得なくなったのだ。

2. SOS団の解散危機

  • 長門有希の感情データは完全に人間と同等になり、情報統合思念体からのリンクが切れかかっている。
  • 朝比奈みくるには、未来への「帰還命令」が下る。
  • 古泉一樹の「機関」は、ハルヒの神格化が薄れたことで超能力を失いつつある。

ハルヒ自身も、心のどこかで「みんなと一緒にいられる時間は残り少ない」と気づいていた。彼女の無意識の焦燥が、世界を少しずつ「誰も傷つかない静かなループ」に閉じ込めようとする。

3. キョンの選択

キョンは、ハルヒに世界の真実を告げるべきか、それともこのまま「普通の高校生」としてフェードアウトさせるべきかの選択を迫られる。 長門は静かに本を閉じ、朝比奈さんは涙を堪えて微笑み、古泉はいつも通りの張り付いた笑顔で「あなた次第です」と告げる。

キョンが選んだのは、ハルヒの胸ぐらを掴んで(あるいはいつものようにやれやれと肩をすくめて)「お前、本当は全部気づいてるんだろ」とぶちまけることだった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの日常』より

(キョンの独白)

――やれやれ、と。 結局のところ、世界は滅びなかったし、宇宙人が攻めてくることも、未来人がタイムパラドックスで消滅することもなかった。

北高の卒業式は、拍子抜けするほど普通に行われた。 校門の前で、俺たちは5人並んで写真を撮った。ハルヒが真ん中で、いつもの腕章を誇らしげに掲げ、俺がその隣でうんざりした顔をし、長門が小さくピースサインを作り、朝比奈さんが照れくさそうに俯き、古泉がカメラマンに向かって完璧な笑みを浮かべている。

それが、SOS団としての最後の活動記録になった。

「じゃあね、キョン。また明日」

そう言って、それぞれの方向へ歩き出した背中を見送りながら、俺はポケットの中で文庫本の手触りを確かめていた。長門から「卒業記念」だと言って渡された、ただの真っ白なノートだ。いや、情報統合思念体のバックアップがどうとか言っていたから、ただのノートではないのかもしれないが、今の俺にはそれを確かめる術はない。

古泉は親の都合とやらで東京の大学へ進学し、朝比奈さんは気がつくと「最初からいなかった」かのように、俺たちの記憶の隅に綺麗に収まっていた。未来へ帰ったのだろう。彼女が最後に残したお茶の香りが、まだ部室に染み付いているような気がする。

「何立ち止まってるのよ、キョン!」

少し先を歩いていたハルヒが、振り返って声を張り上げた。 マフラーに顔を埋めたハルヒの鼻の頭が、寒さで少し赤い。その手には、どこかの大学の合格通知書が握られている。もちろん、俺のそれと同じ大学の名前が印刷されたやつだ。

「置いてっちゃうわよ!」

「はいはい、今行くよ」

俺はため息を一つついて、駆け足でその背中に追いついた。

ハルヒから世界の改変能力(神の力、と古泉なら呼んだだろう)が消えたのかどうか、俺にはわからない。機関の連中も、もう俺の前に黒塗りの高級車を回してくることはなくなった。長門も、今ではただの「ちょっと無口で読書好きな女子大生」として、俺たちと同じ街のワンルームマンションで暮らし始めている。

だけど、隣を歩くこのお騒がせ女の目が、まだ見たこともない何かを探して爛々と輝いているのを見る限り。

「ねえ、キョン。大学に入ったら、新しいサークルを作るわよ。名前はね――」

世界は、まだまだ俺を退屈させてはくれないらしい。

空を見上げると、吸い込まれそうなほど青かった。 宇宙人も、未来人も、超能力者も、もしかしたらもう隣にはいないのかもしれない。 けれど、そんなものは最初から、この世界を面白がるための口実に過ぎなかったのだ。

「……『SOS団・大学支部』だけは勘弁してくれよな、ハルヒ」

「何言ってるのよ、決定に決まってるじゃない! ほら、急ぐわよ!」

ハルヒが俺の手を引っ張る。その力強さは、あの高校1年の五月晴れのあの日と、何一つ変わっていなかった。

やれやれ。俺のやれやれな日常は、どうやらこれからも形を変えて続いていくらしい。 なら、もう少しだけ付き合ってやるか。この、世界で一番傲慢で、世界で一番退屈を嫌う、俺の神様の我が儘に。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

ハルヒが突然すべての特殊能力を失ってふつうの女の子になるというオチでお願いします。

承知しました。ハルヒから「世界の中心としての力」が完全に消え去り、彼女がただの「どこにでもいる、少し突飛な女の子」になる瞬間。そして、それに直面したSOS団の結末を描きます。

谷川流先生の乾いた、だけどどこか切ない文体を意識して。

涼宮ハルヒの終焉:プロット概要

1. 終わりの前兆

高校3年生の秋。ハルヒの気まぐれで引き起こされる「閉鎖空間」の発生頻度が、目に見えて減っていた。それどころか、古泉たち「機関」の超能力が日を追うごとに弱まり、長門がアクセスできる情報超空間の帯域も狭まっていく。 未来から来ている朝比奈さんに至っては、時間移動の同期がズレ始め、時折その身体が陽炎のように透けるようになっていた。

ハルヒが精神的に成熟し、現実を「そういうものだ」と受け入れ始めたことで、彼女の無意識が維持していた世界の歪みが、急速に修復されつつあった。

2. その瞬間

ある放課後。部室でいつも通りハルヒが理不尽な命令を下したその瞬間、朝比奈さんが悲鳴を上げて消滅しかける。長門がそれを必死に情報操作で繋ぎ止めようとするが、術式が発動しない。古泉は頭を抱えてうずくまる。

何が起きているのか理解できないハルヒは、動揺して叫ぶ。 「ちょっと、みんな何やってんのよ! シャキッとしなさい! 私の言うことが聞けないの!?」

その叫びには、かつて世界を塗り替えた「神の命令(オーダー)」の響きは、もう1ミリも残っていなかった。ただの、クラスの女子の空回りした怒声。 その瞬間、部室を包んでいた目に見えない「全能の気配」が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。

3. 解散

ハルヒの能力は完全に消失した。 それは同時に、SOS団の「非日常の同居人たち」が、ここに留まる理由を失ったことを意味していた。

朝比奈さんは、消滅を避けるために強制的に未来へと送還された。 古泉の能力は完全に消え、ただの「愛想の良い青年」に戻った彼は、機関の解散に伴って転校していった。 長門だけは、情報統合思念体が彼女を「無用な端末」として切り離した(あるいは見捨てた)ため、自立型インターフェースの肉体のまま、この世界に取り残されることになった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの消失(あるいは選択)』より

(キョンの独白)

――世界は、驚くほど簡単に平穏を取り戻した。

宇宙人がどうとか、未来人がどうとか、そんなものは最初から俺の頭が作り出した白昼夢だったんじゃないかと、今では思える。現に、文芸部の部室にはもう、不自然なほど美味いお茶を淹れてくれる上級生も、チェス盤を挟んで意味深な笑みを浮かべる副団長もいない。

いるのは、机に向かって熱心に参考書をめくる長門と、その向かいで、シャーペンを頭の後ろで弄んでいる元・団長だけだ。

「ねえ、キョン」

ハルヒが、ぽつりと言った。 あの「事件」以来、ハルヒの髪型はすっかり普通のロングヘアに戻り、腕章を嵌めることもなくなった。

「何だ」

「私さ……最近、変な夢を見るのよ。私が学校の校庭に巨大な落書きをして、それをあんたが手伝ってくれてる夢。あとね、すっごく可愛い女の先輩と、すっごくハンサムな男の人が、いつも私の周りにいてくれたような……そんな、変な夢」

ハルヒはシャーペンの芯をカチカチと出しながら、窓の外の退屈な景色を眺めている。

「……ただの夢だろ」

俺は、手元の現代文の教科書に目を落としたまま答えた。

「そうよね。あはは、私としたことが、そんなオカルトみたいなこと言うなんてね」

ハルヒは自嘲気味に笑った。 その笑顔は、かつて俺が知っていた、世界を我が物顔で闊歩していた涼宮ハルヒのそれとは、決定的に違っていた。今の彼女は、成績の低下に悩み、進路に迷い、恋バナに耳を傾ける、どこにでもいる「普通の女子高生」だ。 世界は彼女を祝福することもなければ、彼女の機嫌を伺って天気を変えることもしない。

これで良かったのだ、と古泉なら言うだろう。世界は救われ、人類は理不尽な滅亡の危機から脱した。朝比奈さんも自分の時代へ帰れた。これ以上ないハッピーエンドだ。

だけど。

「……つまんないの」

ハルヒが小さく呟いた。 その声に、俺の胸の奥がチクリと痛む。

彼女は失ってしまったのだ。世界を面白がるための、最強の切符を。自分が特別であるという、あの無敵の確信を。今のハルヒは、この退屈な世界のルールに縛られ、グラウンドをただ走ることしかできない、ただの人間になってしまった。

俺は教科書を閉じ、椅子の背もたれに体重を預けた。 長門が、静かにページをめくる。彼女はもう、世界の改変を検知することも、情報操作で俺を助けることもできない。ただの、少し本を読むのが早いだけの、普通の女の子だ。

「おい、ハルヒ」

「何よ」

ハルヒが不機嫌そうに俺を見る。その目は、かつてのように爛々と輝いてはいないけれど、それでも、俺を真っ直ぐに射抜いていた。

能力が消えたからって、こいつの魂まで凡庸になったわけじゃない。 神の力がなくなったのなら、今度は人間の手で、この退屈な世界を引っ掻き回してやればいいだけのことだ。超能力がなくても、こいつにはその資格がある。

「大学に入ったらさ」

俺は、やれやれと肩をすくめて言った。

「新しいサークルでも作るか。今度は、宇宙人とかじゃなくて、もっとこう……まっとうに世界を面白くするようなやつをさ」

ハルヒの目が、一瞬、丸くなった。 それから、本当に一瞬だけ、かつての「団長」のような、悪巧みに満ちた不敵な笑みがその唇に蘇った。

「……ふーん。いいじゃない。キョンのくせに生意気な提案ね」

ハルヒはシャーペンを机に置くと、腕を組んで偉そうに胸を張った。

「言っておくけど、私が団長だからね! あんたは終身平部員! 異論は認めないわよ!」

「はいはい。仰せのままに、団長」

窓の外では、もう夕暮れが始まっていた。 茜色の光が部室を染め、俺たちの影を長く床に伸ばす。

神様は引退した。世界は冷淡で、退屈で、相変わらず理不尽なままだ。 だけど、俺たちの明日は、きっとそんなに悪いものじゃない。

俺はポケットの中で、かつて朝比奈さんから貰った(今はただのプラスチックの玩具になってしまった)「時空調節因子」のキーホルダーを弄びながら、新しく始まる、本当の意味での「やれやれな日常」に、そっと足を踏み出すことにした。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

Gemini は AI であり、間違えることがあります。


思うにハルヒが世界の創造主になってしまったのは中二病をこじらせてしまったようなもので、ハルヒが普通に恋愛し、結婚し子供をうみ家庭の母になってしまえばもはや神様でもなんでもなくなるのに違いない。というようなオチがすでに用意されているがそれを書いてしまうと続かないので書かないだけではないか。

退屈に耐えるテスト

ある知り合いが定年退職後に延々と書いている趣味のブログ(国内海外を旅行したというような)をみていると、人は何かやっていないと退屈で死んでしまうんだなと思う。

私の場合は定年まであと五年なのでもう新しいことはいっさい始めず、いままでの蓄積だけであと五年仕事しようと思っている。今私がやらされている仕事のほとんどは組織のマネージメントのようなものだが、正直私には何の興味もない。こんなことをいくらやったところで私が仕事を辞めて死んでしまえば何にも残らない。給料がもらえるからやっているのだけど、しかし、現役時代ずーっと組織のために仕事をして、定年後は誰のため何のためだかわからないブログをずっと書いているのは結局何かやってないとダメだからなのだろう。

永井荷風も「浅草。アリゾナで昼食」とかいうような日記を延々と書いている。永井荷風だからアレにも多少の価値はあるのだろうが、一般人が書いてもほとんど何の意味もない。それでも書く人は書くわけだ。ま、確かに鎌倉時代の公家の日記なんかはなんかの役に立つのかもしれんが、SNSで記録が溢れている今の世の中ではほとんどがむなしい。まあ、中にはそのうち歴史的価値が発生するものもあるのかもしれないが。

私はもうあまりにも今の仕事がばからしくて、仕事を減らすことばかり考えているのだが、それは今私がやらされている仕事のせいであって実はとても時間を無駄にしているようにも思えてくる。でもたぶん私が定年後にやらなきゃならないことはひたすら退屈に耐えて何もしないことだろうと思う。年寄りは何かやろうとして必ず周りに迷惑をかける。何もしなければ誰も気にしないし、自分がただ退屈で死にそうなだけで済む。つまり退屈に耐えることに今から慣れておかなくてはならない。

仕事が無いはずでもいきなりメイルが来て会議やるから日程調整しろとか言われて、気の休まる間もない。そういうのが好きな人は良いが私は嫌いだ。しかし五年後、いっさいそういう仕事から解放された後の私はどうなるのだろうな。確実に言えるのは今の仕事を続けてくれと言われても絶対に断るってことくらいだ。全然別の仕事なら暇つぶし程度にやるかもしれないが。

毎日毎日誰が読むともしれないブログを書く人もいれば、ある時間間隔で定期的に書く人もいる。私はどちらかというと無性に何かを書きたくなったときにまとめて吐き出すような書き方をする。ともかく何かものを書く仕事をしていた人は定年後も何か書いていないと落ち着かないのだろう。

新御徒町の佐竹商店街あたりに住んでみたいなと思う気持ちはある。あそこなら浅草にもすぐいけるし、上野も近いし、東京の西半分にはいい加減住み飽きたが、上野浅草あたりにはまだ未練もある。しかし部屋を借りるのはそれはそれで金もかかるしめんどくさい。本が売れて事務所代わりに借りられればありがたいがそんなに売れるはずもない。

松屋フーズの株がだだ下がりしていて、3年前くらいの水準まできている。こういう株はいくらでもある。つまり最近になって急に上がったのだけど、3年以上前安い時に買っていた人にとっては今売っても損はないので、痛くも痒くもないから、下がる余地があるわけである。

松屋買ってみようかなと思ったが配当は良くないし、優待はあるけど松屋にしょっちゅう食べに行くわけでもないし、酒は出ないから飲み屋代わりにはならんしで、株を買う意味が無い。

昔は牛丼屋を安い飲み屋代わりに使ったこともあったがコロナくらいから酒を出さなくなったからもう滅多に行ってない。ていうか松屋の自販機に殺意が湧いたことならある。

任天堂やサンリオの株も同じで、3年前の水準までは落ちても仕方ないと思う。ただ、任天堂はいずれ持ち直すだろうがサンリオが持ち直すかはかなり疑問だ。このまま低迷するかもしれない。

今の株はいわゆる戦争相場で、特に石油関係化学関係が異様に値上がりしている。ソフトバンクが値上がりしているのはわけわからない。AIだろうか。とにかく変な株ばかり値上がりして、普通の株は値下がりしている。値下がりしているが買いたいほど下がってはいないという状況。下がってくれるのは安値で仕込めるのでありがたいのだが。

それで全体としては日経平均はどんどん上がってる。非常にあやうい相場なのには違いない。

私が日本株を買っているのはなんだかんだいって日本は製造業がしっかりしているから国全体がダメになるってことはあるまいと思って信用しているからだ。しかしアメリカや中国は違う。今は景気が良くてもいつか国自体が潰れることもありそうで怖い。ドルと円もそうだ。円安でもまあ別にいいやと思ってる。ドルはどう動くかわからんから怖くて持ちたくない。

私の場合は現金(銀行預金、郵便貯金)を持っていても利子が少なくて目減りするだけなので株に資産を移しているだけにすぎない。少なくとも今は相場で儲けようと思って株を買っているわけではない。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

なるほどと思ったので貼っておく。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

スター・ウォーズの続三部作(シークエル・トリロジー、エピソード7・8・9)は、ファンの間でも特に熱い議論を巻き起こした作品群です。だからこそ、これらの作品を高く評価している人々が、具体的にどういった点に魅力を感じているのかを知ることは、作品の多面的な価値を理解する上で非常に興味深い視点です。

肯定派の意見を、特にお尋ねのあった『エピソード8/最後のジェダイ』にスポットを当てながら、要素ごとに分解してみていきましょう。

1. 『エピソード8/最後のジェダイ』が絶賛される理由

シークエルの中でも、最も評価が真っ二つに割れたのがライアン・ジョンソン監督による『エピソード8』です。しかし、この作品を「シリーズ最高傑作の一つ」と推す声も少なくありません。彼らが熱狂したポイントは主に以下の3点です。

  • 「何者でもない者」への視点とジェダイの民主化
    • 旧作が「スカイウォーカー家という特別な血筋の物語」だったのに対し、本作では主人公レイの親が「ただの一般人(名もなき人々)」だったと明かされます。また、ラストシーンの「箒を持つ少年」に象徴されるように、「血統に関係なく、誰もがフォースの希望になり得る」というメッセージは、スター・ウォーズの排他性を壊し、真の意味で世界を広げたと高く評価されています。
  • 神格化されたルーク・スカイウォーカーの「人間らしい苦悩」
    • かつての英雄ルークが、失敗に打ちのめされ、引きこもっている姿にショックを受けたファンもいましたが、肯定派はこれを「非常に人間的で深いドラマ」と捉えました。完璧な聖人ではなく、過ちを犯し、それを乗り越えて最後に「伝説(レジェンド)」としてレジスタンスを救う姿(クレイトでの幻影の対決)は、彼の物語の最高の締めくくりだったという意見です。
  • 圧倒的な映像美と様式美
    • 赤い塩の惑星クレイトでのバトル、ホルド提督による光速特攻の静寂(ハイパースペース・トラッキング)、スノークの玉座の間でのレイとカイロ・レンの共闘など、視覚的な美しさと構図の完璧さはシリーズ随一と言われています。

2. シークエル・トリロジー(7・8・9)全体の肯定的な意見

三部作全体を通してみた場合、以下のようなポイントが評価されています。

① 「ライトとダークの境界」の深化(レイとカイロ・レンのダイナミズム)

血筋に縛られず光を求めるレイと、偉大な血筋(スカイウォーカー家)に縛られて闇に落ちようとするカイロ・レン。この2人の対照的なキャラクター造形と、フォースを通じて精神的に繋がる描写(ダイアド)は、従来の「絶対的な善 vs 絶対的な悪」という構図よりも心理描写がモダンで、現代の映画として非常に引き込まれるという声が多いです。アダム・ドライバーとデイジー・リドリーの演技力も絶賛されています。

② 新旧の世代交代というテーマ

エピソード7では「過去へのノスタルジー」から始まり、8で「過去の呪縛からの脱却(過去を葬れ)」を突きつけ、9で「過去を受け入れて未来へ進む」という、三部作を通したメタ的なテーマ設定が評価されています。単なる懐古趣味に終わらせず、新しい世代が自分たちの力で立ち上がる物語としての意義を見出す意見です。

③ 映画としての純粋なクオリティの高さ

J.J.エイブラムスが監督した7と9は、テンポの良い古典的なスペースオペラの興奮を現代の最新VFXと実物セット(アニマトロニクス)の融合で再現しました。ジョン・ウィリアムズによる音楽も健在で、「映画館で体験するエンターテインメント」としての純粋な楽しさは圧倒的であるという評価です。

肯定派の視点のまとめ シークエルを支持する人々は、この三部作を「過去の焼き直し」としてではなく、「スター・ウォーズという巨大な神話を、21世紀の新しい世代のためにどうアップデートし、着地させるか」という大胆な挑戦として捉え、その作家性やテーマの深さを愛しています。

ハリー・ポッターでも血筋は重要ですよね。そこを否定するとハリー・ポッターの世界観が崩れてファンは怒るのではないですか。

非常に鋭いご指摘です。まさにその「血筋や伝統の扱い方」へのスタンスの違いこそが、スター・ウォーズのシークエル(特にエピソード8)でファンが激しく対立した決定的なポイントでした。

ハリー・ポッターとスター・ウォーズを比較してみると、両者が持つ「世界観の構造」と「ファンが求めたもの」の違いがよく見えてきます。

1. 『ハリー・ポッター』における血筋の構造

ご指摘の通り、ハリー・ポッターにおいて「血筋(血統)」は物語の根幹をなす絶対に外せない要素です。

  • 血筋が「設定」と「テーマ」の双方に直結している
    • ハリーがヴォルデモートの攻撃を生き延びたのは「母親の血の保護」のおかげですし、ヴォルデモートとの因縁も「スリザリンの血筋」や予言が絡んでいます。
    • 同時に、作中では「純血主義(マグル生まれを差別する悪)」vs「能力や選択の自由(ハーマイオニーのような優秀なマグル生まれの肯定)」という形で、血筋の特権性を否定するテーマが描かれます。
  • もしハリー・ポッターでこれを全否定したら?
    • もし続編で「実はハリーの母親の愛なんて関係なくて、ただの偶然だった」「ヴォルデモートの血筋も嘘だった」となったら、ファンが怒るのも当然です。なぜなら、それは原作者が築き上げた魔法界のルールや、物語の前提そのものを破壊してしまうからです。

2. なぜスター・ウォーズのエピソード8でファンは怒ったのか?

翻ってスター・ウォーズを考えてみると、エピソード8でファンが激怒した理由は、まさにハリー・ポッターで懸念されるような「これまでの前提(ルール)がひっくり返された」と感じたからです。

スター・ウォーズの世界(特に旧三部作や前日譚)は、良くも悪くも「スカイウォーカー家」という、フォースの意志によって生み出された特別な血筋を中心に回っていました。

  • ファンの期待: 「エピソード7であれだけ引っ張ったんだから、レイもオビ=ワンの孫か、ルークの娘か、何かしら特別な血筋に違いない」
  • エピソード8の回答: 「彼女の親は、酒代のために娘を売った、何者でもない一般人(クズ)だった」

伝統的なファンからすれば、これは「神話の否定」であり、「これまでの伏線や歴史への裏切り」だと映りました。だからこそ、今でも許せないというファンが多く存在するのです。

3. では、なぜ肯定派はそれを「素晴らしい」と評価したのか?

ここが一番面白いポイントです。肯定派がエピソード8を支持したのは、ハリー・ポッターのように「血筋の設定を壊したから」ではなく、むしろ「スター・ウォーズの初期の精神(原点)に立ち返ったから」という理由からでした。

実は、初期のスター・ウォーズにおいて、フォースは「特定の血筋だけのもの」ではありませんでした。

  • ヨーダの教え: フォースはあらゆる生き物の間に流れるエネルギーであり、血統書付きのエリートだけのものではない。
  • オビ=ワンや他のジェダイたち: そもそもジェダイは結婚を禁止されていたため、過去の何千、何万というジェダイのほとんどは「普通の家庭から生まれた、名もなき子どもたち」だった。

肯定派の視点では、アナキンとルークという「スカイウォーカー家の物語」があまりにも強大になりすぎた結果、いつの間にかスター・ウォーズの世界が「偉大な王家の血統劇(貴族主義)」のようになってしまっていた、と捉えられています。

そのため、エピソード8が提示した「レイは何者でもない」という展開は、世界観の破壊ではなく、むしろ「フォースを一部の特権階級から、世界中のすべての人々(ファン自身を含む)の手へと取り戻した(民主化した)」という、非常に熱く、神話として正しいアップデートだったと受け止められたのです。

結論として 『ハリー・ポッター』における血筋の否定は、その魔法界の理(ことわり)自体を壊す行為になり得ます。 一方で『スター・ウォーズ』における血筋の否定は、「スカイウォーカー家という一族の物語」としては裏切りに見えますが、「フォースという宇宙の普遍的な力の物語」としては原点回帰に見える。このどちらの側面を重視するかで、評価が180度変わってしまったと言えます。

削りしろ

削りにけずって11万字くらいにした。削った分は、この本が売れれば次の本を書いてそこに入れることもできよう。売れなければそもそも出版する意味もなかろう。けずった分を活かすためにも次の本は売れなくてはならない。私が億万長者でいくらでも自費出版できる身分だったら勝手にどんどん本を出すだろうか。わからない。やはり何か緊張感がなくてはならない気がする。書けばそのまま出版できるというのであれば kindle でもうやったわけだしな。問題はただ書いただけでなく、読者を獲得することなんだろうな。読者が今の世にいなくても良いんだけど、そのうち現れば、でもそういう問題とも少し違う気がする。私の本を読みたい人はたぶんこの世に一定数存在していると思うんだ。しかしそういう人たちとの接点がない。マーケティングしようにもできない。そこがもどかしいんだと思う。正直私の本を読む気が無い人には私も興味がない。私の本を読もうという人がいるとしてそんな人がどこにいてどんな人かはすごく知りたい。そんな人に出会うことはこれまでほとんどまったくなかったのだが。

不良老人の文学論

筒井康隆『不良老人の文学論』というのを読んだのだが、書き下ろしでもなんでもなくて雑誌に書いた短いエッセイを束ねたようなもの。筒井康隆にとって文学とは近代小説のことなのだなと思った。普通の人にとってもそうなのだろう。文学という言葉にもつ私の違和感というか嫌悪感はそこにある。Literature を文学と訳すことも嫌いだが、文学というからには、私にとって記紀万葉から今日にいたる日本文芸や日本芸能全部のことだ。さらには論語や韓非子などの漢籍も含まれてくる。重心の位置がまったく違う。だからといってどうしようもないのだけれど。

あと、『群像』の定期購読者でもないのに群像の新人賞に応募しても無駄なんだなと思った。群像に載っているような小説が好きならすでに群像を読んでいるはずだし、そういう小説が好きではないというか読みたくないというか、さんざん読み尽くして読み飽きて、そういうのでは飽き足らなくなったから自分で小説を書こうと思うわけで、そうすると読者層がまったく違うわけだから、そういうタイプの小説をそういう文芸誌に投稿しても無駄だということになる。

では私が読みたい文芸誌があるかっていうとないのだからこれはもうしょうがない。あればこの情報過多な時代、とっくに見つけて読んでいるはずだ。読んでないってことはそんな雑誌はないのだろう。私が読みたい小説はこの世には存在しないし、私が書いた小説を読みたい読者もこの世には存在しない。それが現実なのだ。

三島由紀夫が復活する

そういえば小室直樹の『三島由紀夫が復活する』が新書で再版されていたので買ってみた。私が大学生の時に買ったときはなんか見た目が自費出版みたいなどんくさい本だった。内容も難しいというかわかりにくいというか。編集者のチェックが入っていない、小室直樹が一人で勝手に書いた文章のようだというか。今読んでみるとけっこう読み応えがある。カッパ・ブックスの書き散らした中身がスカスカなやつよりは良い。むしろ読みやすさすら感じる。小室らしくなく、自分の言いたいことは控えめにしてわざわざ取材までして、インタビューまで載せているのだから非常に真面目に書いている。大学生の頃の私にはこの執筆態度の違いがわからなかった。

やはり三島由紀夫は人気があってある程度売れるとみたのだろう。表紙の写真もかっこいい。

三島由紀夫の本を書くやつは三島由紀夫人気にあやかって売れる本が書きたいのだろう。あるいはほんとに三島由紀夫が好きな人か。いずれにせよ、三島由紀夫と伊東静雄、三島由紀夫と藤原定家について書いた人がほとんどまったくいないのにはあきれかえる。三島由紀夫が好きな人は藤原定家も伊東静雄も知らぬのだ。この二人がどれほど三島由紀夫と関係が深かったかもしらんということだ。それでよくもまあ三島由紀夫を語れるものだと思う。

追記。最初の本も新書版だった。最初に買った本はどこかになくしてしまったので古本で書い直したのだった。

新しいことはやらない

定年退職まであと五年なのでもう新しいことを探索して、未来の自分のために仕込むのはやめようと思っている。もう未来の自分のためのことなんて気にする必要はない。去年仕込んだネタをできるだけそのまま使い回して新しいことはしない。

去年までは少しヒマがあれば浅草に泊まりに行き、上野をぶらつき、博物館を見て回ったりしたのだが今はそれもしない。何もすることがなければ何もしない。今までは何かしなければならないという強迫観念があったように思う。まずそれを消す。それが最優先。

年金を頼りに、あとは株やったりブログ書いたりして死ぬまでの時間を適当に潰す。ほかに何かすることがあろうか。実は何もない。何も無いのに何かをしようとするのがよくない。今までそれを認めることを拒絶してただけで、それを素直に認めることにする。

外で飯を食ってももうほとんど何の感動もない。うまいものを食ったとして、確かにうまいが、別に大してうまくないものを食ったのとどう違うというのか。

株と本

株を始めてもう4年目だけれども、利益は出せていると思う。人の意見を参考にするよりは、自分の勘だけでやったほうがうまくいく気がするし、これまでそうしてきてだいたい外さなかったのだから、これからも同じようにやったほうが良いと思っている。なぜこのやり方でうまくいくのかうまく説明つかないのだけど、今のところ、失敗して退場する側の人にはなっていないので、やり方を変える理由もないのである。

私の場合定年退職に向けて貯金から株にお金を移さなくてはならないと考えている。いわば老後死ぬまでの資金を貯蓄する延長線上でやっているだけで、安い株を買って高い時に売るだけだ。今高くなりつつある株を買って下がる前に売り抜けるというのはデイトレのやり方であり、他に何もやることがないくらいヒマになったらやるかもしれないが、今はただ安物を買って値上がりするのを待つだけだ。つまり私は、明日はどの株が上がるかなーなどと考えて株を買ってはいない。逆にどの株が下がるかなーってことばかりいつも考えている。

業績とかはほとんどみてない。業績が悪いから安くなっているわけで、そのうち業績が回復すれば上がるだろう、今が底値かどうか見極めて、底値でなかった場合にナンピンするかどうかも見極めたうえで割安な株を買うのみ。業績が悪くなりすぎて上場廃止とかになれば洒落にならんのだがそういう銘柄にはいまだにであったことがないし、またそのリスクを避けるためにも分散投資している。

それでいろんな割安株を100株ずつくらい買っているのでこのやり方はたぶん自分で勝手に個別銘柄を買って投資信託してるようなもんだと思っている。

今回任天堂を買ったのは失敗だった。やはり他人のペースに巻き込まれてはいけない。長期的に任天堂の業績が回復しないということはほぼ考えにくいが(物価上昇に合わせて株価も値上がりするし、任天堂よりヤバい株はほかにいくらでもある)、しばらく塩漬けにしておかなきゃならん。後はフジッコにも困っている。上がったらすぐ売り抜けたい。大抵の場合はあがったりさがったりを繰り返しているだけなので上がった時に嫌なら売る。それでこれまではなんとかなっていた。

note の株が上がっているが、note に書く気はない。note を使ってみたこともあるが自分には向いてない気がする。カクヨムも同じ。ブログ感覚でちょこちょこ書き溜めていってときどき有料版にしたり、或いは広告を付けたりするんだろうけどそういう執筆スタイルが合わない。逆にここのように損得抜きでただ書き散らしているほうがまし。

3年位前から書き続けていたものがやっと今年の秋には出そうなのだが、3年間だらだら書き足したものだから分量がやばいことになっている。新書だと5万字くらいか。さらっとすぐに読める。今小室直樹のカッパ・ブックスなど読み直すとすごく読みやすい。中身もすかすかだ(センテンスごとに改行してるのは笑える。言ってることもいい加減で適当。ちゃんと事実を調べず思いつきだけで書いている)。高校生くらいの頃の私はこういうものを喜んで読んでいたのだと思う。文章の量という意味では『虚構の歌人 藤原定家』くらいがちょうど良いのだが今からこれを読んでみると悪くはないが中身が薄い。言いたいことが全然言えてない。定家の結論にまだ全然達していないうちに書いているから仕方ないのだが(ただ自分としては他人よりははるか先を行っているつもりではいるのだが)。

5万字くらいの新書をコンスタントに出し続けられればそれが一番良いような気がする。それができるには毎回1万部くらいは売れなくてはなるまい。それが難しい。私が書くことはたぶん世の中でそんなに需要がない。需要が無いからまとめて20万字とか40万字の本を、いろんなトピックを一つの本にまとめてだそうということになるが、それはよろしくない。私が今書いて出したいことは2、3冊の本では全然足りないことがわかってきた。

書きながら調べて、調べると主張や方向性もだんだんに変わってきて、たとえば最初は宣長の本を書いていたつもりがいつの間にか徂徠に重心が移ってきたりする。これが困る。『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』を書いていた頃と今では宣長に対する見方は全然違う。徂徠については何の興味もなかったが今はある。見方も全然違う(そもそも徂徠について書かれたどの本を読もうと徂徠がわかるはずがないのである。ということがわかった。もし徂徠について書かれたまともな本があったら中学生の頃の私でも理解できたと思う。徂徠は難しくないが、その全然難しくない徂徠を書いている本がどれもこれもどうでもよい、バカみたいな、的はずれなことばかり書いている。宣長についても同じことは言える。小林秀雄が書いている本も同じ。あれを読んで宣長や徂徠がわかるはずがない。とはいえ小林はまだずっとまともなほうだと思う)。

小林秀雄のように固定ファンがいればそうやって思いついたことをだらだら書いていても良いのかもしれないが、私の場合は宣長の本を出すなら宣長のことについて、徂徠の本を出すなら徂徠についてちゃんと結論まで到達したあとにまとめて書くしかない。しかしそれが難しい。書いているうちに書きたいことが変わってしまうのだから。

ともかく次出す本はぴしっとまとめて書いて出す。15万字以下にしたかったが結局20万字くらいになるだろう。これくらいの分量の本はいくらでもあるのだが、読みやすい分量とはいえない。読んでがっつり満足してもらえれば良いのだが。

これが売れなければ私が書いた本は未来永劫売れないってことがほぼ確定したようなもので、まだ書き残したことはたくさんあるが、書いても無駄だろう。少なくとも出版することには意味がないから、こういうブログにダラダラ書くか、kindle で出版することになると思う。kindle は嫌いではない。私の本を読まなくて困るのは私ではなくて人類である(笑)。もはや私は自分のやるべきことはやったと思っている。これ以上何かを書いて遺してやる義理はあるまいと思う。

思うにたまに思いつきでしか書かないこのブログでもそれなりのPVはあるらしいから真面目に毎日コツコツ書けばそれなりに読む人はいるのかもしれない。それで課金したければ note 辺りに有料記事を書いてそちらに誘導すれば良いのかもしれない。あるいは youtube で評論とかするかもしれない。定年退職してヒマになったらそういうことを試してみても良いかもしれない。今はそんな余裕はない。

youtube の登録チャンネルを片っ端から削ってみた。そしたら勧めてくる動画がガラッと変わった。今まではあまりにも雑多なチャンネルを登録していたから何を推薦していいか AI が混乱していたのだろう。登録チャンネルを削ることにも効用があることがわかった。

人間の体は一定量カロリーを備蓄しようとする。筋肉がついていれば筋肉にグリコーゲンを貯蓄できる。筋肉が落ちると脂肪細胞にカロリーを蓄えようとする。つまり食事量とか運動量などは本質的な意味がない。人間の身体がある一定のカロリー量を体内に維持しようとすることが本質だ。何km歩けば何kg分カロリーを消費するなど何の意味もない。運動せずただ単に筋トレだけすれば食おうが食うまいが痩せる。もちろん食いすぎれば太る。ただそれだけのことだ。実にバカげたことだ。腹がぽっこりしても気にしなれば何もする必要はない。そして誰も私の腹のことなど気にしてはいない。

戦後昭和史観

荻生徂徠について調べているんだけどいろいろヤバイ。

徂徠については昔からいろんな人がいろんなことを書いているのだが、戦後は吉川幸次郎という人が戦後昭和史観(笑)でちょっと新しいことを言ってそこで止まっていて、まったくアップデートされていない。石川淳もなぜか徂徠好きらしくていろいろ徂徠のことを書いているのだが、結局何が言いたいのかよくわからん。小林秀雄も石川淳と似たりよったり。

たいていの伝記は徂徠が生まれてからどうやって綱吉に謁見したかまでの経緯を書いて、それに『弁道』と『弁名』の解説みたいなもんをつけて終わり。ウィキペディアもそれに毛が生えた程度で、徂徠豆腐の話と赤穂義士の話がついているだけ。

これで徂徠がわかったら奇跡だと思う。

徂徠の詩についても、東洋文庫から徂徠全詩という画期的な本が令和になって出てこれが決定版かと思っていたが、よくよく読んでみるとこれは徂徠の詩業のやっと入り口までたどり着いたに過ぎない。徂徠の詩と漱石の詩の関連についてもまだほとんど研究は進展していないと思う。

たとえば吉川幸次郎が徂徠学案というもので徂徠について論じているのだけど、『徂徠集』というものから引用していて、『徂徠集』を国会図書館で調べるとだいたいが抜粋だ。完全なものは明治初期に出版された木版本(笑)みたいなものしかないらしい。『徂徠集』というのはだいたいが書簡なのだけど、これをちゃんと現代語訳したり解説したものはない。『弁道』と『弁名』、『学則』、『太平策』、あとは『徂徠先生問答集』あたりまでしかちゃんとしたものはなく、それ以外は放置されている。『徂徠全集』というのを見れば載っているのかもしれないが。『弁道』『弁名』にしてもこれらが徂徠の代表作だと言われればそうなのかもしれないけど、これだけでは徂徠はただの儒者と大差ないという結論にしかなるまい。徂徠はただの儒者ではないところが偉大で面白いのにその差がわからんというのではどうしようもない。徂徠に儒者の典型を見たいだけの人には十分なのかもしれんが。

先行研究も無しに『徂徠集』をガチンコで読むのは不可能に近いし、吉川幸次郎の解釈などを見てもほんとに正しいのかどうかわからん(吉川以外の人の解釈が無いから比べようもない)。戦前までは儒者の生き残りの中国学者みたいなのがいくらでもいたんだろうが今はほぼ絶滅したよな。

じゃあお前は徂徠をどうしたいんだ、おまえが徂徠の本を書けよといわれても困る。私はたぶんそんなに徂徠が好きなわけじゃない。もすこしちゃんとした解説書や全集があってよさそうなものなのにそれがなくて、もう徂徠は全部終わったことになっているのがヤバイとしかいいようがない。

こんな状況で誰かが徂徠のことを調べて書いたとしてもそれはAIがスクレイピングしたのと同じで何も徂徠についてはわからんということになるだろう。とても気持ち悪い。

そう、私が気持ち悪いとか恐怖に思ってるのはたぶん、近代文学史観とか戦後昭和史観とでもいうしかないものが、永遠にアップデートされないまま、それが当然の事実として世の中に受け入れられて固定してしまうんじゃないかということだ。

「徂徠」という号は、おそらくだが、自称として使われることはまずなかったのではなかろうか。「徂徠先生」のように弟子や他人が呼ぶ名だったのではないか。少なくとも綱吉時代にはまだ使われていなかったのではないか。コトバンクにも「物徂徠と自称」などと書かれているけれども、どうもあやしい。自称は通常公式には「物茂卿」、私的には「荻生惣右衛門」などではなかったか。「徂徠」の初出を調べようと思っても皆目わからん。

たぶん太宰春台や安積澹泊などは敬意をこめて「物徂徠」と号で呼んでいただろう。「物茂卿」と字(あざな)で呼ぶことは失礼に当たったからではなかろうか(号を自称として用いる人がいないと言いたいわけではない。紀峰は私の号のつもりだ)。

「蘐園随筆」というものは徂徠の手紙の中で自分が昔書いたなどと書いているので本人が書いたに違いないが(蘐園というからには綱吉が死んで茅場町に私塾を開いた後に書いたものだろう)、「蘐園雑話」などはほんとうに本人が書いたのか疑わしい。こういった「蘐園なんとか」という本がかなりある。どこからどこまでがほんとうなのか全然わからない。『弁道』『弁名』なども実は徂徠が死んだ後に太宰春台などが校正して出版しているらしくて、もう何を信じてよいのかわからん。

それと比較すると宣長なんかは出版物に関しては生前に本人が出版しているし、死後発見された手稿なんかはそのままの形で全集に収録されているから、宣長本人が書いたものであることはほぼ疑いようがない。