中国で南北朝と言えば、北と南で別々の王朝が立っている状態で、特に隋によって統一されるまでの時代をいう。
日本で南北朝というと京都が北朝で吉野が南朝という時代を言うのだが、これは別に全然南北朝でもなんでも無い。日本は南北に細長いから、関東以北と関西以南、だいたい木曽川あたりを境にして分裂した状態を南北朝というはずだ。しかし後醍醐天皇の南朝は単に一部の地方を掌握していた政権というだけであって、日本全体は東北から九州まで北朝が支配していた(九州や東北、信濃を、一時期南朝の皇子が支配していたことがあったが、要するに南朝と北朝が虫食い状態になっていただけで、南と北にきっぱり分かれていたのではない)。これを南北朝と言うから日本史の本質が見えなくなる。
日本における真の南北朝とは、足利時代に室町将軍と鎌倉公方が対立していた状態を言うべきだ。しかしこのことの重要性を認識している人はほとんどいない。なぜ対立したかといえば将軍が自ら関東を支配せず、京都になんかいたからだ。
室町将軍と鎌倉公方の対立は両家の血筋が離れていくにつれて深刻化していった。京都と関東と、二つの幕府があるかのような状態となった。そのため足利義教は鎌倉公方を滅ぼしたが、自らも暗殺された。これによって足利幕府の権威は失墜し、南北朝(足利幕府の)が成立した。室町将軍は関東に新しい鎌倉公方を送ろうとしたが失敗し、鎌倉公方は北関東に逃げて古河公方となり、関東の守護らは鎌倉を留守にして領地に住むようになった。つまり典型的な封建領主になった。これが戦国時代の始まりだ(伊豆における北条早雲の自立をもって戦国大名の嚆矢、守護職の崩壊とする説もまあ良いのだが、古河公方の成立を戦国時代の始まりとしたほうがもう少しわかりよい。応仁の乱を戦国時代の始めとするのは最悪の解釈だ。事実はまったく逆で、戦国時代が始まったので応仁の乱が起きたのだ)。同じことが京都でも起きて、応仁の乱によってそれが決定的となり、京都にいた守護らは京都を留守にして領地に住むようになった。
こうして足利幕府の守護職は有名無実化し、守護の時代から戦国大名の時代に移行した。
こうしてみると足利時代の歴史というのは極めて単純明快である。京都と関東の両方に同時に目を配ることで初めて足利時代とはなんだったかが、わかるのだ。日本人は南北朝というものが何かわかってないから室町時代がまったくわからないし、応仁の乱もさっぱりわかってない。関東は関東で、京都は京都で勝手にバラバラに戦争していた。日本人は政治音痴だった。将軍は政治をほったらかしにして能楽と茶の湯にふけっていた。応仁の乱は京都でなんとなく始まった東軍と西軍(つまり南北朝)の戦いがだらだら長期化しそれが戦国時代を招いた、などというバカげた認識しかいまだにない。日本の歴史学者はほんとうにバカしかいない。日本史ファンもみんなバカだ。足利時代ほど面白い時代はないのに、源平合戦とか、戦国時代か、幕末維新にしか興味がない。
足利時代に比べると徳川時代と鎌倉時代は、関東も京都も同じ幕府が同時に支配していて非常に安定していた。特に徳川時代は、当時としてはこれ以上望むべくもないほどに安定していた。それは徳川幕府時代の儒者らが足利時代や鎌倉時代を良く研究していたからだ。特に新井白石や松平定信が幕政に貢献したが、ほかにも多くの優れた学者がいた。
もし日本に関東平野のような広大な平野があと二つも三つもあったら日本という国の歴史はどうなっていたかわからん。南北に長いだけだったので二つに分かれることはよくあった。その場合常に関東が京都を制圧してきた(明治維新は例外だが。太平の世が続きすぎて坂東武者もすっかり腑抜けになってしまった。広大な荒野だった関東平野は完全に開発され尽くし、人民も飼いならされてしまった)。それでも皇統がゆらぐことはなかったが、関東に匹敵する武力の中心(つまり武士が疾駆する広大な原野)が、ほかにもあったら、地方政権がいくつもできてしまい、国や皇統も簡単に分裂し、また統一したりを繰り返したに違いない。そのことは日本にとってよかったのか悪かったのかなんとも言えない。
しかし日本には関東平野のような広大な未開拓の原野は一つしかなかった。狭苦しい横須賀を旅行していてそんなことを考えた。埼玉や千葉など、平らなのが当たり前なところに長い間住むことがなかったらそんなことを考えることもなかっただろうと思う。