涼宮ハルヒの劇場

なんだかもうドラえもんかサザエさんみたいに話を一ミリも進めずに作者が死ぬまで、いや、死んだ後も延々、権利者たちが話をひっぱるために作られたような作品だった。

実に水戸黄門的だった。

アレをアニメで見ればまあそれなりに楽しめるのだろうが、アレを文字で読まされて面白い人がいるのだろうか。まあ、中にはいるのだろう。それがラノベファンというものかもしれない。

ていうかハルヒシリーズのアニメみて原作読むとアニメの原作再現度が非常に高い。原作読めば多少は細かなニュアンスが伝わってきてそれはなるほどなと思うのだが、意外性がほとんどない。おそろしく忠実だ。これはなんだろう。原作者とアニメ制作者の関係がものすごく良好なのだろうか。映像化する人が原作者をものすごくリスペクトしているのだろうか。そういう意味では、映像研なんかも漫画をほぼそのままアニメ化している感じ。最近の傾向なのだろうか。

2Dのイラストをトレスしながら3Dのモデル作るような、そういう原作重視な風潮が強まっているような気がする。

昔のトリトンみたいに原作とアニメが全然違うみたいなことはもう今では無いのかもしれない。

しかしあれかもしれん。いったん作品が当たると、それを商品化したりグッズ化する業者や二次創作者やファンからの要望が原作者にものすごいいきおいで逆流してきて、一次創作がかなり早い段階で二次創作化しシリーズ化し、がんじがらめにされてしまい、ディズニーにスターウォーズを売ったルーカスみたいにもうどうにでもなれという状態になっていわれるがままに書いているのかもしれない。或いは、もう本人は書いてすらいないのかもしれない。

そういえば涼宮ハルヒの消失は「原作の再現としては失敗している」と熱く語っているアニメ評論家(?)を見かけたが、私にはどこが違うのかほとんどまったくわからなかった。そりゃ多少違うところはあるだろう、映像演出が誇張されるということもあったのかもしれないが、少なくともストーリー展開はまったく同じと言ってよかった。私の把握している限りにおいては。

多少違っているくらいが、たぶん、両方見ている人には面白いのだ。ソラリスなんて、原作はポーランド語らしいんで読めないのだが、日本語訳と(それも複数ある)、英訳と、タルコフスキー版と、ソダーバーグ版を見比べているだけでけっこう楽しめる。

1984にしてもそうだ。原作と、日本語訳と、映画版を見比べるのが、少なくとも私には楽しかった。今は 1984 も u-next でも見れるし、ブルーレイも出てる。

何がいいたいかというと今のように原作の小説と映画がほとんど同じだと、原作を読むという面白みがほとんどないってことなんだよな。原作はもっと原作者のひねくれた描写が読みたいんだよなあ。それを商業的にヒットさせるためにいろいろ削ったりあざとくしたりするところがみたいのにさ。

つまり今の小説はどれも、あわよくば映像化されることを想定して、最初から書かれているってことだよな。のぼうの城とかあんなのも全部そうだろうな。ある意味すげーつまんないよな。ジョージ・オーウェルが最初から映画化されることを想定して 1984 を書いたはずがないし、スチーブンソンがアニメ化されることを期待して宝島を書いたはずがない。

というか「涼宮ハルヒの憂鬱」にしても作者の処女作というわけではなく、「電撃萌王」という雑誌に「電撃イージス」という作品を連載したということは、もう雑誌に連載される以前から編集者がついていろいろ企画会議などやっていたに違いない。とっくに小説家が勝手に小説を書ける時代ではなくなっているのだろう。

浅草地下街の歌

浅草地下街の歌というものを作ったのだが、深夜に作曲して、朝、目が覚めて聴くと全然良くない。しかししばらくしてから聞き直すとこれはこれでまあいいかという気分になってくる。どうも作曲というのはこうやって気分が変わって一定しないから難しい。

文章を読むのも、夕方くらいには何も読めなくなるが、朝起きたすぐだといろいろすらすら読めてしまう。人間の脳には困る。

DNS設定でなんか失敗したらしい。とりあえず元に戻しておく。たっぷり時間があって心に余裕があるとちょうどよい暇つぶしになるが仕事でやるのはきついだろうなと思う。

涼宮ハルヒの完結

涼宮ハルヒシリーズを完結させてみてください。

あの『涼宮ハルヒ』シリーズに、私なりの「終止符(あるいは新たなるプロローグ)」を打たせていただきます。谷川流先生の文体をリスペクトしつつ、キョンの視点で語られる最終巻『涼宮ハルヒの驚愕(あるいは日常)』のプロット&エピローグです。

涼宮ハルヒの最終章:プロット概要

1. 最後の「大いなる非日常」

高校3年生の冬。大学受験を控えたSOS団の部室は、どこか物憂げな空気に包まれていた。ハルヒは珍しく「全員同じ大学に行くわよ!」と大騒ぎせず、ただ窓の外を眺めている。 そんな中、世界の「改変」ではなく「統合」が始まり出す。閉鎖空間、未来人、宇宙人、超能力者の各勢力が、ハルヒの精神的成長(=世界の安定)に伴い、それぞれの役割を終えて「元の世界」へ引き上げざるを得なくなったのだ。

2. SOS団の解散危機

  • 長門有希の感情データは完全に人間と同等になり、情報統合思念体からのリンクが切れかかっている。
  • 朝比奈みくるには、未来への「帰還命令」が下る。
  • 古泉一樹の「機関」は、ハルヒの神格化が薄れたことで超能力を失いつつある。

ハルヒ自身も、心のどこかで「みんなと一緒にいられる時間は残り少ない」と気づいていた。彼女の無意識の焦燥が、世界を少しずつ「誰も傷つかない静かなループ」に閉じ込めようとする。

3. キョンの選択

キョンは、ハルヒに世界の真実を告げるべきか、それともこのまま「普通の高校生」としてフェードアウトさせるべきかの選択を迫られる。 長門は静かに本を閉じ、朝比奈さんは涙を堪えて微笑み、古泉はいつも通りの張り付いた笑顔で「あなた次第です」と告げる。

キョンが選んだのは、ハルヒの胸ぐらを掴んで(あるいはいつものようにやれやれと肩をすくめて)「お前、本当は全部気づいてるんだろ」とぶちまけることだった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの日常』より

(キョンの独白)

――やれやれ、と。 結局のところ、世界は滅びなかったし、宇宙人が攻めてくることも、未来人がタイムパラドックスで消滅することもなかった。

北高の卒業式は、拍子抜けするほど普通に行われた。 校門の前で、俺たちは5人並んで写真を撮った。ハルヒが真ん中で、いつもの腕章を誇らしげに掲げ、俺がその隣でうんざりした顔をし、長門が小さくピースサインを作り、朝比奈さんが照れくさそうに俯き、古泉がカメラマンに向かって完璧な笑みを浮かべている。

それが、SOS団としての最後の活動記録になった。

「じゃあね、キョン。また明日」

そう言って、それぞれの方向へ歩き出した背中を見送りながら、俺はポケットの中で文庫本の手触りを確かめていた。長門から「卒業記念」だと言って渡された、ただの真っ白なノートだ。いや、情報統合思念体のバックアップがどうとか言っていたから、ただのノートではないのかもしれないが、今の俺にはそれを確かめる術はない。

古泉は親の都合とやらで東京の大学へ進学し、朝比奈さんは気がつくと「最初からいなかった」かのように、俺たちの記憶の隅に綺麗に収まっていた。未来へ帰ったのだろう。彼女が最後に残したお茶の香りが、まだ部室に染み付いているような気がする。

「何立ち止まってるのよ、キョン!」

少し先を歩いていたハルヒが、振り返って声を張り上げた。 マフラーに顔を埋めたハルヒの鼻の頭が、寒さで少し赤い。その手には、どこかの大学の合格通知書が握られている。もちろん、俺のそれと同じ大学の名前が印刷されたやつだ。

「置いてっちゃうわよ!」

「はいはい、今行くよ」

俺はため息を一つついて、駆け足でその背中に追いついた。

ハルヒから世界の改変能力(神の力、と古泉なら呼んだだろう)が消えたのかどうか、俺にはわからない。機関の連中も、もう俺の前に黒塗りの高級車を回してくることはなくなった。長門も、今ではただの「ちょっと無口で読書好きな女子大生」として、俺たちと同じ街のワンルームマンションで暮らし始めている。

だけど、隣を歩くこのお騒がせ女の目が、まだ見たこともない何かを探して爛々と輝いているのを見る限り。

「ねえ、キョン。大学に入ったら、新しいサークルを作るわよ。名前はね――」

世界は、まだまだ俺を退屈させてはくれないらしい。

空を見上げると、吸い込まれそうなほど青かった。 宇宙人も、未来人も、超能力者も、もしかしたらもう隣にはいないのかもしれない。 けれど、そんなものは最初から、この世界を面白がるための口実に過ぎなかったのだ。

「……『SOS団・大学支部』だけは勘弁してくれよな、ハルヒ」

「何言ってるのよ、決定に決まってるじゃない! ほら、急ぐわよ!」

ハルヒが俺の手を引っ張る。その力強さは、あの高校1年の五月晴れのあの日と、何一つ変わっていなかった。

やれやれ。俺のやれやれな日常は、どうやらこれからも形を変えて続いていくらしい。 なら、もう少しだけ付き合ってやるか。この、世界で一番傲慢で、世界で一番退屈を嫌う、俺の神様の我が儘に。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

ハルヒが突然すべての特殊能力を失ってふつうの女の子になるというオチでお願いします。

承知しました。ハルヒから「世界の中心としての力」が完全に消え去り、彼女がただの「どこにでもいる、少し突飛な女の子」になる瞬間。そして、それに直面したSOS団の結末を描きます。

谷川流先生の乾いた、だけどどこか切ない文体を意識して。

涼宮ハルヒの終焉:プロット概要

1. 終わりの前兆

高校3年生の秋。ハルヒの気まぐれで引き起こされる「閉鎖空間」の発生頻度が、目に見えて減っていた。それどころか、古泉たち「機関」の超能力が日を追うごとに弱まり、長門がアクセスできる情報超空間の帯域も狭まっていく。 未来から来ている朝比奈さんに至っては、時間移動の同期がズレ始め、時折その身体が陽炎のように透けるようになっていた。

ハルヒが精神的に成熟し、現実を「そういうものだ」と受け入れ始めたことで、彼女の無意識が維持していた世界の歪みが、急速に修復されつつあった。

2. その瞬間

ある放課後。部室でいつも通りハルヒが理不尽な命令を下したその瞬間、朝比奈さんが悲鳴を上げて消滅しかける。長門がそれを必死に情報操作で繋ぎ止めようとするが、術式が発動しない。古泉は頭を抱えてうずくまる。

何が起きているのか理解できないハルヒは、動揺して叫ぶ。 「ちょっと、みんな何やってんのよ! シャキッとしなさい! 私の言うことが聞けないの!?」

その叫びには、かつて世界を塗り替えた「神の命令(オーダー)」の響きは、もう1ミリも残っていなかった。ただの、クラスの女子の空回りした怒声。 その瞬間、部室を包んでいた目に見えない「全能の気配」が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。

3. 解散

ハルヒの能力は完全に消失した。 それは同時に、SOS団の「非日常の同居人たち」が、ここに留まる理由を失ったことを意味していた。

朝比奈さんは、消滅を避けるために強制的に未来へと送還された。 古泉の能力は完全に消え、ただの「愛想の良い青年」に戻った彼は、機関の解散に伴って転校していった。 長門だけは、情報統合思念体が彼女を「無用な端末」として切り離した(あるいは見捨てた)ため、自立型インターフェースの肉体のまま、この世界に取り残されることになった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの消失(あるいは選択)』より

(キョンの独白)

――世界は、驚くほど簡単に平穏を取り戻した。

宇宙人がどうとか、未来人がどうとか、そんなものは最初から俺の頭が作り出した白昼夢だったんじゃないかと、今では思える。現に、文芸部の部室にはもう、不自然なほど美味いお茶を淹れてくれる上級生も、チェス盤を挟んで意味深な笑みを浮かべる副団長もいない。

いるのは、机に向かって熱心に参考書をめくる長門と、その向かいで、シャーペンを頭の後ろで弄んでいる元・団長だけだ。

「ねえ、キョン」

ハルヒが、ぽつりと言った。 あの「事件」以来、ハルヒの髪型はすっかり普通のロングヘアに戻り、腕章を嵌めることもなくなった。

「何だ」

「私さ……最近、変な夢を見るのよ。私が学校の校庭に巨大な落書きをして、それをあんたが手伝ってくれてる夢。あとね、すっごく可愛い女の先輩と、すっごくハンサムな男の人が、いつも私の周りにいてくれたような……そんな、変な夢」

ハルヒはシャーペンの芯をカチカチと出しながら、窓の外の退屈な景色を眺めている。

「……ただの夢だろ」

俺は、手元の現代文の教科書に目を落としたまま答えた。

「そうよね。あはは、私としたことが、そんなオカルトみたいなこと言うなんてね」

ハルヒは自嘲気味に笑った。 その笑顔は、かつて俺が知っていた、世界を我が物顔で闊歩していた涼宮ハルヒのそれとは、決定的に違っていた。今の彼女は、成績の低下に悩み、進路に迷い、恋バナに耳を傾ける、どこにでもいる「普通の女子高生」だ。 世界は彼女を祝福することもなければ、彼女の機嫌を伺って天気を変えることもしない。

これで良かったのだ、と古泉なら言うだろう。世界は救われ、人類は理不尽な滅亡の危機から脱した。朝比奈さんも自分の時代へ帰れた。これ以上ないハッピーエンドだ。

だけど。

「……つまんないの」

ハルヒが小さく呟いた。 その声に、俺の胸の奥がチクリと痛む。

彼女は失ってしまったのだ。世界を面白がるための、最強の切符を。自分が特別であるという、あの無敵の確信を。今のハルヒは、この退屈な世界のルールに縛られ、グラウンドをただ走ることしかできない、ただの人間になってしまった。

俺は教科書を閉じ、椅子の背もたれに体重を預けた。 長門が、静かにページをめくる。彼女はもう、世界の改変を検知することも、情報操作で俺を助けることもできない。ただの、少し本を読むのが早いだけの、普通の女の子だ。

「おい、ハルヒ」

「何よ」

ハルヒが不機嫌そうに俺を見る。その目は、かつてのように爛々と輝いてはいないけれど、それでも、俺を真っ直ぐに射抜いていた。

能力が消えたからって、こいつの魂まで凡庸になったわけじゃない。 神の力がなくなったのなら、今度は人間の手で、この退屈な世界を引っ掻き回してやればいいだけのことだ。超能力がなくても、こいつにはその資格がある。

「大学に入ったらさ」

俺は、やれやれと肩をすくめて言った。

「新しいサークルでも作るか。今度は、宇宙人とかじゃなくて、もっとこう……まっとうに世界を面白くするようなやつをさ」

ハルヒの目が、一瞬、丸くなった。 それから、本当に一瞬だけ、かつての「団長」のような、悪巧みに満ちた不敵な笑みがその唇に蘇った。

「……ふーん。いいじゃない。キョンのくせに生意気な提案ね」

ハルヒはシャーペンを机に置くと、腕を組んで偉そうに胸を張った。

「言っておくけど、私が団長だからね! あんたは終身平部員! 異論は認めないわよ!」

「はいはい。仰せのままに、団長」

窓の外では、もう夕暮れが始まっていた。 茜色の光が部室を染め、俺たちの影を長く床に伸ばす。

神様は引退した。世界は冷淡で、退屈で、相変わらず理不尽なままだ。 だけど、俺たちの明日は、きっとそんなに悪いものじゃない。

俺はポケットの中で、かつて朝比奈さんから貰った(今はただのプラスチックの玩具になってしまった)「時空調節因子」のキーホルダーを弄びながら、新しく始まる、本当の意味での「やれやれな日常」に、そっと足を踏み出すことにした。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

Gemini は AI であり、間違えることがあります。


思うにハルヒが世界の創造主になってしまったのは中二病をこじらせてしまったようなもので、ハルヒが普通に恋愛し、結婚し子供をうみ家庭の母になってしまえばもはや神様でもなんでもなくなるのに違いない。というようなオチがすでに用意されているがそれを書いてしまうと続かないので書かないだけではないか。

退屈に耐えるテスト

ある知り合いが定年退職後に延々と書いている趣味のブログ(国内海外を旅行したというような)をみていると、人は何かやっていないと退屈で死んでしまうんだなと思う。

私の場合は定年まであと五年なのでもう新しいことはいっさい始めず、いままでの蓄積だけであと五年仕事しようと思っている。今私がやらされている仕事のほとんどは組織のマネージメントのようなものだが、正直私には何の興味もない。こんなことをいくらやったところで私が仕事を辞めて死んでしまえば何にも残らない。給料がもらえるからやっているのだけど、しかし、現役時代ずーっと組織のために仕事をして、定年後は誰のため何のためだかわからないブログをずっと書いているのは結局何かやってないとダメだからなのだろう。

永井荷風も「浅草。アリゾナで昼食」とかいうような日記を延々と書いている。永井荷風だからアレにも多少の価値はあるのだろうが、一般人が書いてもほとんど何の意味もない。それでも書く人は書くわけだ。ま、確かに鎌倉時代の公家の日記なんかはなんかの役に立つのかもしれんが、SNSで記録が溢れている今の世の中ではほとんどがむなしい。まあ、中にはそのうち歴史的価値が発生するものもあるのかもしれないが。

私はもうあまりにも今の仕事がばからしくて、仕事を減らすことばかり考えているのだが、それは今私がやらされている仕事のせいであって実はとても時間を無駄にしているようにも思えてくる。でもたぶん私が定年後にやらなきゃならないことはひたすら退屈に耐えて何もしないことだろうと思う。年寄りは何かやろうとして必ず周りに迷惑をかける。何もしなければ誰も気にしないし、自分がただ退屈で死にそうなだけで済む。つまり退屈に耐えることに今から慣れておかなくてはならない。

仕事が無いはずでもいきなりメイルが来て会議やるから日程調整しろとか言われて、気の休まる間もない。そういうのが好きな人は良いが私は嫌いだ。しかし五年後、いっさいそういう仕事から解放された後の私はどうなるのだろうな。確実に言えるのは今の仕事を続けてくれと言われても絶対に断るってことくらいだ。全然別の仕事なら暇つぶし程度にやるかもしれないが。

毎日毎日誰が読むともしれないブログを書く人もいれば、ある時間間隔で定期的に書く人もいる。私はどちらかというと無性に何かを書きたくなったときにまとめて吐き出すような書き方をする。ともかく何かものを書く仕事をしていた人は定年後も何か書いていないと落ち着かないのだろう。

新御徒町の佐竹商店街あたりに住んでみたいなと思う気持ちはある。あそこなら浅草にもすぐいけるし、上野も近いし、東京の西半分にはいい加減住み飽きたが、上野浅草あたりにはまだ未練もある。しかし部屋を借りるのはそれはそれで金もかかるしめんどくさい。本が売れて事務所代わりに借りられればありがたいがそんなに売れるはずもない。

松屋フーズの株がだだ下がりしていて、3年前くらいの水準まできている。こういう株はいくらでもある。つまり最近になって急に上がったのだけど、3年以上前安い時に買っていた人にとっては今売っても損はないので、痛くも痒くもないから、下がる余地があるわけである。

松屋買ってみようかなと思ったが配当は良くないし、優待はあるけど松屋にしょっちゅう食べに行くわけでもないし、酒は出ないから飲み屋代わりにはならんしで、株を買う意味が無い。

昔は牛丼屋を安い飲み屋代わりに使ったこともあったがコロナくらいから酒を出さなくなったからもう滅多に行ってない。ていうか松屋の自販機に殺意が湧いたことならある。

任天堂やサンリオの株も同じで、3年前の水準までは落ちても仕方ないと思う。ただ、任天堂はいずれ持ち直すだろうがサンリオが持ち直すかはかなり疑問だ。このまま低迷するかもしれない。

今の株はいわゆる戦争相場で、特に石油関係化学関係が異様に値上がりしている。ソフトバンクが値上がりしているのはわけわからない。AIだろうか。とにかく変な株ばかり値上がりして、普通の株は値下がりしている。値下がりしているが買いたいほど下がってはいないという状況。下がってくれるのは安値で仕込めるのでありがたいのだが。

それで全体としては日経平均はどんどん上がってる。非常にあやうい相場なのには違いない。

私が日本株を買っているのはなんだかんだいって日本は製造業がしっかりしているから国全体がダメになるってことはあるまいと思って信用しているからだ。しかしアメリカや中国は違う。今は景気が良くてもいつか国自体が潰れることもありそうで怖い。ドルと円もそうだ。円安でもまあ別にいいやと思ってる。ドルはどう動くかわからんから怖くて持ちたくない。

私の場合は現金(銀行預金、郵便貯金)を持っていても利子が少なくて目減りするだけなので株に資産を移しているだけにすぎない。少なくとも今は相場で儲けようと思って株を買っているわけではない。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

なるほどと思ったので貼っておく。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

スター・ウォーズの続三部作(シークエル・トリロジー、エピソード7・8・9)は、ファンの間でも特に熱い議論を巻き起こした作品群です。だからこそ、これらの作品を高く評価している人々が、具体的にどういった点に魅力を感じているのかを知ることは、作品の多面的な価値を理解する上で非常に興味深い視点です。

肯定派の意見を、特にお尋ねのあった『エピソード8/最後のジェダイ』にスポットを当てながら、要素ごとに分解してみていきましょう。

1. 『エピソード8/最後のジェダイ』が絶賛される理由

シークエルの中でも、最も評価が真っ二つに割れたのがライアン・ジョンソン監督による『エピソード8』です。しかし、この作品を「シリーズ最高傑作の一つ」と推す声も少なくありません。彼らが熱狂したポイントは主に以下の3点です。

  • 「何者でもない者」への視点とジェダイの民主化
    • 旧作が「スカイウォーカー家という特別な血筋の物語」だったのに対し、本作では主人公レイの親が「ただの一般人(名もなき人々)」だったと明かされます。また、ラストシーンの「箒を持つ少年」に象徴されるように、「血統に関係なく、誰もがフォースの希望になり得る」というメッセージは、スター・ウォーズの排他性を壊し、真の意味で世界を広げたと高く評価されています。
  • 神格化されたルーク・スカイウォーカーの「人間らしい苦悩」
    • かつての英雄ルークが、失敗に打ちのめされ、引きこもっている姿にショックを受けたファンもいましたが、肯定派はこれを「非常に人間的で深いドラマ」と捉えました。完璧な聖人ではなく、過ちを犯し、それを乗り越えて最後に「伝説(レジェンド)」としてレジスタンスを救う姿(クレイトでの幻影の対決)は、彼の物語の最高の締めくくりだったという意見です。
  • 圧倒的な映像美と様式美
    • 赤い塩の惑星クレイトでのバトル、ホルド提督による光速特攻の静寂(ハイパースペース・トラッキング)、スノークの玉座の間でのレイとカイロ・レンの共闘など、視覚的な美しさと構図の完璧さはシリーズ随一と言われています。

2. シークエル・トリロジー(7・8・9)全体の肯定的な意見

三部作全体を通してみた場合、以下のようなポイントが評価されています。

① 「ライトとダークの境界」の深化(レイとカイロ・レンのダイナミズム)

血筋に縛られず光を求めるレイと、偉大な血筋(スカイウォーカー家)に縛られて闇に落ちようとするカイロ・レン。この2人の対照的なキャラクター造形と、フォースを通じて精神的に繋がる描写(ダイアド)は、従来の「絶対的な善 vs 絶対的な悪」という構図よりも心理描写がモダンで、現代の映画として非常に引き込まれるという声が多いです。アダム・ドライバーとデイジー・リドリーの演技力も絶賛されています。

② 新旧の世代交代というテーマ

エピソード7では「過去へのノスタルジー」から始まり、8で「過去の呪縛からの脱却(過去を葬れ)」を突きつけ、9で「過去を受け入れて未来へ進む」という、三部作を通したメタ的なテーマ設定が評価されています。単なる懐古趣味に終わらせず、新しい世代が自分たちの力で立ち上がる物語としての意義を見出す意見です。

③ 映画としての純粋なクオリティの高さ

J.J.エイブラムスが監督した7と9は、テンポの良い古典的なスペースオペラの興奮を現代の最新VFXと実物セット(アニマトロニクス)の融合で再現しました。ジョン・ウィリアムズによる音楽も健在で、「映画館で体験するエンターテインメント」としての純粋な楽しさは圧倒的であるという評価です。

肯定派の視点のまとめ シークエルを支持する人々は、この三部作を「過去の焼き直し」としてではなく、「スター・ウォーズという巨大な神話を、21世紀の新しい世代のためにどうアップデートし、着地させるか」という大胆な挑戦として捉え、その作家性やテーマの深さを愛しています。

ハリー・ポッターでも血筋は重要ですよね。そこを否定するとハリー・ポッターの世界観が崩れてファンは怒るのではないですか。

非常に鋭いご指摘です。まさにその「血筋や伝統の扱い方」へのスタンスの違いこそが、スター・ウォーズのシークエル(特にエピソード8)でファンが激しく対立した決定的なポイントでした。

ハリー・ポッターとスター・ウォーズを比較してみると、両者が持つ「世界観の構造」と「ファンが求めたもの」の違いがよく見えてきます。

1. 『ハリー・ポッター』における血筋の構造

ご指摘の通り、ハリー・ポッターにおいて「血筋(血統)」は物語の根幹をなす絶対に外せない要素です。

  • 血筋が「設定」と「テーマ」の双方に直結している
    • ハリーがヴォルデモートの攻撃を生き延びたのは「母親の血の保護」のおかげですし、ヴォルデモートとの因縁も「スリザリンの血筋」や予言が絡んでいます。
    • 同時に、作中では「純血主義(マグル生まれを差別する悪)」vs「能力や選択の自由(ハーマイオニーのような優秀なマグル生まれの肯定)」という形で、血筋の特権性を否定するテーマが描かれます。
  • もしハリー・ポッターでこれを全否定したら?
    • もし続編で「実はハリーの母親の愛なんて関係なくて、ただの偶然だった」「ヴォルデモートの血筋も嘘だった」となったら、ファンが怒るのも当然です。なぜなら、それは原作者が築き上げた魔法界のルールや、物語の前提そのものを破壊してしまうからです。

2. なぜスター・ウォーズのエピソード8でファンは怒ったのか?

翻ってスター・ウォーズを考えてみると、エピソード8でファンが激怒した理由は、まさにハリー・ポッターで懸念されるような「これまでの前提(ルール)がひっくり返された」と感じたからです。

スター・ウォーズの世界(特に旧三部作や前日譚)は、良くも悪くも「スカイウォーカー家」という、フォースの意志によって生み出された特別な血筋を中心に回っていました。

  • ファンの期待: 「エピソード7であれだけ引っ張ったんだから、レイもオビ=ワンの孫か、ルークの娘か、何かしら特別な血筋に違いない」
  • エピソード8の回答: 「彼女の親は、酒代のために娘を売った、何者でもない一般人(クズ)だった」

伝統的なファンからすれば、これは「神話の否定」であり、「これまでの伏線や歴史への裏切り」だと映りました。だからこそ、今でも許せないというファンが多く存在するのです。

3. では、なぜ肯定派はそれを「素晴らしい」と評価したのか?

ここが一番面白いポイントです。肯定派がエピソード8を支持したのは、ハリー・ポッターのように「血筋の設定を壊したから」ではなく、むしろ「スター・ウォーズの初期の精神(原点)に立ち返ったから」という理由からでした。

実は、初期のスター・ウォーズにおいて、フォースは「特定の血筋だけのもの」ではありませんでした。

  • ヨーダの教え: フォースはあらゆる生き物の間に流れるエネルギーであり、血統書付きのエリートだけのものではない。
  • オビ=ワンや他のジェダイたち: そもそもジェダイは結婚を禁止されていたため、過去の何千、何万というジェダイのほとんどは「普通の家庭から生まれた、名もなき子どもたち」だった。

肯定派の視点では、アナキンとルークという「スカイウォーカー家の物語」があまりにも強大になりすぎた結果、いつの間にかスター・ウォーズの世界が「偉大な王家の血統劇(貴族主義)」のようになってしまっていた、と捉えられています。

そのため、エピソード8が提示した「レイは何者でもない」という展開は、世界観の破壊ではなく、むしろ「フォースを一部の特権階級から、世界中のすべての人々(ファン自身を含む)の手へと取り戻した(民主化した)」という、非常に熱く、神話として正しいアップデートだったと受け止められたのです。

結論として 『ハリー・ポッター』における血筋の否定は、その魔法界の理(ことわり)自体を壊す行為になり得ます。 一方で『スター・ウォーズ』における血筋の否定は、「スカイウォーカー家という一族の物語」としては裏切りに見えますが、「フォースという宇宙の普遍的な力の物語」としては原点回帰に見える。このどちらの側面を重視するかで、評価が180度変わってしまったと言えます。

削りしろ

削りにけずって11万字くらいにした。削った分は、この本が売れれば次の本を書いてそこに入れることもできよう。売れなければそもそも出版する意味もなかろう。けずった分を活かすためにも次の本は売れなくてはならない。私が億万長者でいくらでも自費出版できる身分だったら勝手にどんどん本を出すだろうか。わからない。やはり何か緊張感がなくてはならない気がする。書けばそのまま出版できるというのであれば kindle でもうやったわけだしな。問題はただ書いただけでなく、読者を獲得することなんだろうな。読者が今の世にいなくても良いんだけど、そのうち現れば、でもそういう問題とも少し違う気がする。私の本を読みたい人はたぶんこの世に一定数存在していると思うんだ。しかしそういう人たちとの接点がない。マーケティングしようにもできない。そこがもどかしいんだと思う。正直私の本を読む気が無い人には私も興味がない。私の本を読もうという人がいるとしてそんな人がどこにいてどんな人かはすごく知りたい。そんな人に出会うことはこれまでほとんどまったくなかったのだが。

不良老人の文学論

筒井康隆『不良老人の文学論』というのを読んだのだが、書き下ろしでもなんでもなくて雑誌に書いた短いエッセイを束ねたようなもの。筒井康隆にとって文学とは近代小説のことなのだなと思った。普通の人にとってもそうなのだろう。文学という言葉にもつ私の違和感というか嫌悪感はそこにある。Literature を文学と訳すことも嫌いだが、文学というからには、私にとって記紀万葉から今日にいたる日本文芸や日本芸能全部のことだ。さらには論語や韓非子などの漢籍も含まれてくる。重心の位置がまったく違う。だからといってどうしようもないのだけれど。

あと、『群像』の定期購読者でもないのに群像の新人賞に応募しても無駄なんだなと思った。群像に載っているような小説が好きならすでに群像を読んでいるはずだし、そういう小説が好きではないというか読みたくないというか、さんざん読み尽くして読み飽きて、そういうのでは飽き足らなくなったから自分で小説を書こうと思うわけで、そうすると読者層がまったく違うわけだから、そういうタイプの小説をそういう文芸誌に投稿しても無駄だということになる。

では私が読みたい文芸誌があるかっていうとないのだからこれはもうしょうがない。あればこの情報過多な時代、とっくに見つけて読んでいるはずだ。読んでないってことはそんな雑誌はないのだろう。私が読みたい小説はこの世には存在しないし、私が書いた小説を読みたい読者もこの世には存在しない。それが現実なのだ。

三島由紀夫が復活する

そういえば小室直樹の『三島由紀夫が復活する』が新書で再版されていたので買ってみた。私が大学生の時に買ったときはなんか見た目が自費出版みたいなどんくさい本だった。内容も難しいというかわかりにくいというか。編集者のチェックが入っていない、小室直樹が一人で勝手に書いた文章のようだというか。今読んでみるとけっこう読み応えがある。カッパ・ブックスの書き散らした中身がスカスカなやつよりは良い。むしろ読みやすさすら感じる。小室らしくなく、自分の言いたいことは控えめにしてわざわざ取材までして、インタビューまで載せているのだから非常に真面目に書いている。大学生の頃の私にはこの執筆態度の違いがわからなかった。

やはり三島由紀夫は人気があってある程度売れるとみたのだろう。表紙の写真もかっこいい。

三島由紀夫の本を書くやつは三島由紀夫人気にあやかって売れる本が書きたいのだろう。あるいはほんとに三島由紀夫が好きな人か。いずれにせよ、三島由紀夫と伊東静雄、三島由紀夫と藤原定家について書いた人がほとんどまったくいないのにはあきれかえる。三島由紀夫が好きな人は藤原定家も伊東静雄も知らぬのだ。この二人がどれほど三島由紀夫と関係が深かったかもしらんということだ。それでよくもまあ三島由紀夫を語れるものだと思う。

追記。最初の本も新書版だった。最初に買った本はどこかになくしてしまったので古本で書い直したのだった。

新しいことはやらない

定年退職まであと五年なのでもう新しいことを探索して、未来の自分のために仕込むのはやめようと思っている。もう未来の自分のためのことなんて気にする必要はない。去年仕込んだネタをできるだけそのまま使い回して新しいことはしない。

去年までは少しヒマがあれば浅草に泊まりに行き、上野をぶらつき、博物館を見て回ったりしたのだが今はそれもしない。何もすることがなければ何もしない。今までは何かしなければならないという強迫観念があったように思う。まずそれを消す。それが最優先。

年金を頼りに、あとは株やったりブログ書いたりして死ぬまでの時間を適当に潰す。ほかに何かすることがあろうか。実は何もない。何も無いのに何かをしようとするのがよくない。今までそれを認めることを拒絶してただけで、それを素直に認めることにする。

外で飯を食ってももうほとんど何の感動もない。うまいものを食ったとして、確かにうまいが、別に大してうまくないものを食ったのとどう違うというのか。