001 陸奥の信夫捩摺り【古】

昔、元服して冠をかぶるようになったばかりの男が、奈良の春日の里に所有する猟場に狩りに出かけた。その里に、とても魅惑的な姉妹が住んでいた。男はその姿を垣間見た。意外にも、こんな古びた都に似つかわしくない容貌だったために、男は心を惑わされてしまった。男は着ている狩衣の裾を切って、歌を書き付けて贈った。その男は信夫摺りの狩衣を着ていた。

 春日野の若紫色の、信夫捩摺りの衣の模様のように、心が限りなく乱れています。

男は姉妹に追いついて、そう伝えた。女たちは面白いことだと思ったのだろうか、

 誰のせいで、陸奥の信夫捩摺り染めのように、心乱れはじめてしまったのですか。私たちのせいではないでしょう。

と気の利いた歌を詠んで返した。昔の人はこのようにとっさの機転で風流なことをしたものだ。

【定家本】
むかしおとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすがのさとにしるよしゝて、かりにいにけり。そのさとに、いとなまめいたる女はらからすみけり。このをとこかいまみてけり。おもほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、こゝちまどひにけり。おとこのきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。
 かすがのゝ わかむらさきの すりごろも しのぶのみだれ かぎりしられず
となん、をいつきていひやりける。つ(い)て、おもしろきことゝもやおもひけん
 みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに
といふ哥の心ばへなり。むかし人はかくいちはやきみやびをなんしける。

【朱雀院塗籠本】
むかしおとこありけり。うゐかぶりして。ならの京かすがの里にしるよしして。かりにいきけり。其さとに。いともなまめきたる女ばら(女はらから)すみけり。かのおとこかいま見てけり。おもほえずふるさとに。いともはしたなくありければ。心ちまどひにけり。男きたりけるかりぎぬのすそをきりて。うたをかきてやる。そのおとこしのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。
 かすかのゝ 若紫の 摺ころも しのふのみたれ かきりしられす
となん。をいつぎてやれりける。となんいひつぎてやれりけるおもしろきことゝや。
 陸奧に忍ふもちすりたれゆへに亂れそめけん我ならなくに
といふうたのこゝろばへなり。むかし人は。かくいちはやきみやびをなんしける。

【真名本】
昔、男、褁頭《うひかうぶり》して、平城京《ならのきゃう》、春日の郷《さと》に、知る由《よし》して、雁《かり》に往《い》にけり。其の里に、最《いと》媚《なまめ》いたる女朋比《をんなはらから》住みけり。この壮士《おとこ》、垣間《かいま》見てけり。念《おも》ほえず、古郷《ふるさと》に、最《いと》強《はしたな》くてありければ、心地|迷《まど》ひにけり。壮士の著《き》たりける狩衣《かりぎぬ》の裾を鑚《き》りて、歌を書きて遣《や》る。其の壮士、信夫摺《しのぶずり》の狩衣をなむ著たりける。
 春日野の 穉《わか》紫《むらさき》の 摺《す》り衣《ごろも》 信夫の乱れ 限り知られず
となむ云へりける。次《つ》いで面白き言《こと》とや思ひけむ、
 道奥《みちのく》の 信夫|鈘摺《もぢず》り 誰故《たれゆゑ》に 乱れ始《そ》めにし 吾《われ》ならなくに
と云ふ歌の心歯得《こころばへ》なり。往古《むかし》人は、右《かく》壱早《いちはや》き閑麗《みやび》をなむしける。

【解説】
いきなり「褁頭」という珍妙な漢字が出てくるのが『真名伊勢物語』の怪しげなところだが、実は全然怪しくない。「褁」は「袋」と同義であって、『万葉集』にいくつも用例がある。「包む」とか「苞《つと》(土産)」「囊《ふくろ》」と言う意味だ。
「包む」の「つつ」と「つと」は同語源。
「褁頭」は山伏などが頭を包む袈裟のようなもの、つまりターバンのようなものをいうらしいが、ここでは冠のことを言っているらしい。

「うひかうぶりして」は『真名』では「褁頭為」、「しるよしして」は「知由為」。以下「為」は「して」と訓むらしい。「知由為」もここでは普通に「領有した土地があって」と解してよかろうと思う。

「なまめく」に『真名伊勢物語』は「媚」(第1段)「姸」(第39段)「唭」(第43段)などの漢字を当てている。
第18段の「生心《なまごころ》」、第87段の「生宮仕へ」の「生」も同じ意味に思える。
では第114段の「生翁」はどうだろう?普通に「初老」と訳せば良さそうだが、「生心のある翁」、年を取ったが世俗に未練がある爺さん、ともとれそうだ。
だが同じ「なま」でも一方は「媚」を当て他方へは「生」を当てているのだから意味も違っていて当然だ。

『岩波古語辞典』によれば、漢文訓読系の文章では「婀娜」「艶」「窈窕」「嬋娟」に「なまめく」「なまめいたり」という訓みを当てているそうである。「婀娜」は「あだ」、しとやかで優美なこと。「窈窕」はしとやかで美しい、「嬋娟」はつややかで美しい。いずれも女性特有の美しさを形容する語のようだ。
一方で『源氏物語』で「なまめく」は、「そっけない」「その気がないふりをする」「巧んだことを悟られないようにする」「ひかえめ」「なんとなくはっきりしない」というような意味に使われているように思われる。
「生」は未熟、洗練されていない、手が加わっていない、調理されていない、天然自然のまま、という辺りが原義であろう。そこから『源氏物語』のような用例が派生するのは自然に思われる。
一方、漢文訓読特有の言葉遣い、例えば「すべからく」「いづくんぞ」「けだし」などは奈良時代の言葉で、後の世の口語や和文では廃れてしまったものが多い。『源氏』より漢文訓読の用例のほうが古いことをどう説明するか。
思うに女言葉では古くからの原義がそのまま紫式部の時代まで残り、一方男言葉では少なくとも奈良時代には、現代語でいう「なまめかしい」という意味で使われることがあったのではないか。
ともあれ私としては『真名』を第一に解釈したい。その『真名』では「なまめく」に「媚」「姸」「唭」の字を当てているのだから、その意味あいは「女っぽい」「好色な」とならねばならないと思うのである。また同時に、『真名伊勢物語』は、漢文訓読話法が生まれた時代に書かれたか、或いは漢文訓読に恐ろしく通じた人の超絶技巧によって後世偽造したか、どちらかであると考えざるを得ない。

「生」は『伊勢物語』の重要なキーワードの一つだ。『伊勢物語』における使われ方は、好色である、色好みだ、艶っぽいという意味に、かなり偏っているとみて間違いないと思う。『源氏物語』はともかく『伊勢物語』では、奥ゆかしいとか優美とか上品とか、あるいはさりげないとかみずみずしいという意味ではありえない。

「色好み」も『伊勢物語』の最も重要なキーワードの一つだが、「生」と「色」、この二つが『伊勢物語』では密接に関係している、と考えられる。

「強《はしたな》くてありければ」なぜ『真名』は、「はしたなし」に「強」という当て字をしたのか。いや逆に「強」をなぜ「はしたなし」と読んだのか。『真名本』にはこうした謎が至るところにある。「はしたなし」の原義は「欠点がはなはだしい」という非難めいたニュアンスがある。

「いとなまめいて」「はしたなくて」ある女、だいたい想像が付くだろうか。
一方で、「田舎の野生児」「強く逞しい女」と解釈することもできるが、また一方では、男好きであまり行儀の良くない女、ということだろう。もしかすると商売女、つまり娼婦であったかもしれない、とも思える。

「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありければ、心ちまどひにけり」は
「ふるさとに、いともはしたなくありければ」「おもほえず、心ちまどひにけり」と解釈したい。
「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありけ」る女、でもさほど解釈に違いは無いのだが。

「もぢずり」は「文字摺り」ではなくて「捩摺り」でなくてはならない。文字は「もじ」で、古語では音が違う。もぢる、つまり、布をねじってつけた模様のように心が乱れている、と解する。『真名』原文に出る「鈘」だがこれは三本足の釜のことである。布を染めるときに使う器のことだろうか?

「陸奥の」の歌は「かはらの左大臣」こと源融の歌として『古今集』にも載る。

 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむと思ふ われならなくに

「乱れそめにし」と「乱れむと思ふ」が異なっているが、『小倉百人一首』には「乱れそめにし」で採られている。

『伊勢物語』によれば、「春日野の」が男の歌であり、「陸奥の」が姉妹の返歌でなくてはならない。

都からうぶな男が来た。本来は「たれゆゑに乱れそめにし」誰のせいで心乱れ始めたのでしょうか、「われならなくに」私たちのためではないでしょう、あなたが心を乱されるにふさわしい女は私たちのほかにいくらでもいるでしょう、姉妹はそうはぐらかそうとしている。女の側の切り返しなのである。この姉妹はおそらく男よりも年上であろう。わざわざ古い都までやってきて、たまたま見かけた、しどけない生活をしている年上の女にぼーっとなっている若い男をからかっている歌なのである。原文を素直に読めばそうとしか読めない。

「みだれそめにし」が連体形で終わっているのは、おそらくこれが疑問文(というより反語)であるからだ。ところが四句切れの和歌というのはあまりみかけないし(万葉調、五七調ではあり得たがだんだん廃れた)、「乱れそめにし我ならなくに」乱れ始めた私ではないのだけれど、と後ろの体言「我」に続けて解釈できなくもない。さらに『古今集』で「乱れむと思ふ我ならなくに」という、女を口説こうとするより強い男口調の歌が採られた。

「誰のせいで乱れ始めた私なのでしょうか(他ならぬあなたのせいで私は乱れ始めました)」文章的にはかなり変だ。近代文学ならともかく、奈良時代にこんなひねくれた言い回しの歌は存在しなかったと思う。しかも、これは、男が女に詠んだ歌だとすればそのように解釈するしかないのかもしれないが、そもそもこの歌は女が男に返した歌なのである。歌を詠まれて女もまた男に乱れ始めたのか?まさか、本文を素直に読めばそのような解釈はあり得ない。

『伊勢物語』は、さまざまな詠み人知らずの和歌がさまざまな物語と融合し、寄せ集められたものだ。主要な登場人物である在原業平の一生を表しているのだと解釈されるようになった。そのためにこの「初冠」が巻頭にもってこられたのだろうが、必ずしも「初冠」に描かれた男が業平もしくは源融ではないように思われる。
歌集や物語によって歌の文句が微妙に違うのも、古歌が伝承されるうちに言葉が置き換わったり解釈が変わったり、あるいは脚色されたからである。

古都奈良は平城天皇の子孫である在原氏の地縁を暗示しているようにも思えるし、この逸話が在原氏によって伝承された話である可能性は高いと思う。
桓武天皇が平城京から都を長岡京に遷し、さらに平安京に遷都した。桓武崩御後、平城天皇が即位した。
さらに平城天皇は異母弟神野皇子に譲位して嵯峨天皇が即位した。
ところが、平城上皇と嵯峨天皇は戦争をした。「薬子の変」と呼ばれている。どうもこれはガチンコの皇位継承戦争だったらしい。
神野皇子だが、親王宣下された形跡がない(※)。また、平城天皇が嵯峨天皇に譲位して、平城天皇の皇子・高岳親王が皇太子となり、翌年、薬子の変が起きたのは非常に不審である。
平城天皇は神野皇子に譲位などしなかったのではないか。神野皇子一派が平城天皇を京都から追放した。平城天皇はやむなく平城京へ戻りここで抵抗を試みたが、敗北し、神野皇子が実力で即位して、嵯峨天皇になったのではなかろうか。
平城上皇とともに奈良に戻った皇族には、高岳親王や、在原氏の祖となった阿保親王もいただろう。
時代はだいぶくだって、初冠した男は平安京にいたが、かつて阿保親王が領していた土地に赴いたのかもしれない。

「しるよしにて」は単に知っている、知り合いのつてで、とも解釈できるが、「しる」には「支配する」「土地や人民を所有する」の意味もある。
奈良の春日野といえば、藤原氏の氏神である鹿島の神(建御雷《たけみかづち》)を祀った春日大社、或いはやはり藤原氏の氏寺である興福寺であろうか。従ってこの話の男は藤原氏であるかもしれない。しかし、嵯峨天皇との戦いに敗れた平城上皇の一族、その末裔の在原氏であるかもしれない。特定は難しい。

香取神社、鹿島神社は大和朝廷が関東に置いた駐屯地であって、陸奥征服の前線基地であった。その鹿島の神を藤原氏は奈良に勧進して興福寺を建てたのに違いない。興福寺と陸奥に深い関係があるのは当然と言える。すなわち、藤原一族の権力の源泉が関東経営であったのは明白だ。当然といえば当然だろう。

「陸奥の信夫」は、

 安積山《あさかやま》 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

の世界を彷彿とさせる。聖武天皇の時代に、平城京遷都と並行して大々的な東征が行われた。将軍は橘諸兄《たちばなのもろえ》であったとされる。そんな奈良時代の匂い。
また陸奥は、在原業平の義父、下野国に権守として赴任した紀有常を想起させる。陸奥には陸奥守がいるはずなのだが、陸奥は治安が悪すぎてまともに朝廷から国司が派遣され、交替していたようにも思えない。下野国は白河の関を越えれば陸奥、信夫の里、安積の里であり、比較的治安も良かったから、有常はここらあたりまで行ったように思われる。
『伊勢物語』には陸奥国塩竃(松島湾)をかつて訪れた初老の男のエピソードも出てくる(第81段)。そう、芭蕉が「松島やああ松島や松島や」と詠んだあの松島だ。有常はそんな奥地まではるばる旅したのだろうか。

有常がその任地から信夫摺りをもたらしたのだと仮定しよう。有常には息子はなかったが、娘は二人いて、在原業平、藤原敏行の室となっている。「初冠」の男は娘婿の業平であったかもしれないが、有常娘の間に出来た長男、棟梁(むねやな、或いは、むねはり)もしくは次男の滋春であったかもしれない。この業平の息子らしき男が第65段にも出てくるので見てみてほしい。
有常が下野権守となったのが867 年、棟梁が元服したのは869 年で、だいたい計算があう。業平だと年を取り過ぎていて計算が合わない。
つまり、「みちのくのしのぶもぢずり」とは有常が孫に与えた陸奥土産だった、と私は考えたいのである。

ところで、第69段に都から派遣された「狩の使」が伊勢斎宮に懸想する話が出てくるが、この第1段の男も「狩の使」であった可能性が高い。ただの遊びで狩りに出たのではなくて、勅使なのかもしれない。そして同一人物であった可能性も、なくはない。
さらに深読みしてみる。
『伊勢物語』は紀有常の日記が原型になっていると、私は考えている。
有常は国司として諸国を遍歴したから、いろんな面白い物語を知っていたし、また自らも体験し、それらを日記に記した。
在原棟梁が狩りの使いとして都を出るとき、紀有常は孫の棟梁に陸奥の狩衣を与えた。棟梁は奈良、伊勢、尾張を経巡って、有常に土産話をした。有常はその話を自分の日記の中に書き付けた。
有常の日記を彼の死後誰かが切り分けて、当時流行していた古歌を挿入して物語にし、あるいは歌謡や演劇にしたてた。
さらに後の人がそれら『有常物語』を中心に雑多な歌物語を蒐集して、『伊勢物語』が成立したというあたりが真相ではなかろうか。
『伊勢物語』にただようデカダンスの雰囲気はこれが『古今集』時代の人々によって、二世代前の有常日記を元にこしらえられたからだろう。

『玉勝間』
初のくだり、「男のきたりける」云々、「男の」の「の」もじひがこと也。『真名本』に無きぞよろしき。「男の」とては、云々《しかしか》して歌を書てやる事、女のしわざになる也。

※ 親王宣下は淳仁天皇から始まったとされるのだが、淳仁の父は舎人親王と呼ばれ、また舎人親王の弟に新田部親王がいる。これら二人の親王はおそらく淳仁から親王宣下されたと思われるのだが、記録にないようだ。
『大宝令』『養老令』によれば親王宣下は天皇が兄弟姉妹や息子、娘に与える称号であるらしい。淳仁天皇は廃帝となったので、本来であれば兄弟や王子、王女に親王や内親王がたくさんいたのかもしれない。
中国にも親王という用語はあるが「なんとか親王」と呼ばれた人はいないようだ。中国で「親王」という呼称に対して特別な規定があったとは思えない。内親王というのは明らかに日本固有の呼び名であり、中国では公主と言う。
どうもよくわからないのだが、天皇の父や叔父らを親王と呼んだのが親王の始まりではなかろうか。
桓武天皇の時に皇太子が親王宣下されるという制度はほぼ確立したと思われるが、神野親王という呼び名や、神野王が親王宣下されたという記述が当時の史書にまったくないのは極めて不審である。そもそも即位前に神野王と呼ばれたことさえなかったかもしれない。平城天皇も親王宣下されたり王と呼ばれたこともなかったようだ。なお、桓武の父である光仁天皇は白壁王と呼ばれた。これも推測に過ぎないが、当時は元服する前には親王や王と呼ばれることはなかったのかもしれない。

紀有常の妻

紀有常の妻は藤原内麻呂の娘である。ところが内麻呂は812年に死んでいる。有常が生まれたのは815年。つまり、有常の妻は、有常より少なくとも2才年上だということになる。

内麻呂の享年は56才。この年で子を産むことは、不可能ではないが、かなり珍しい。内麻呂の子らで生年が分かっているもので一番若い者でも、だいたい799年までに生まれている。
ということは、有常の妻は、有常より10才くらい年上だった、と考えるのが自然だということにならないか。

有常は幼馴染みの娘と結婚したが、後に有常が左遷されたので、妻と疎遠になった、という解釈はおそらく間違いなのだ。
「筒井筒」に見るような、仲睦まじい夫婦とは、有常ではなく、紀氏に伝わるもっと古い、別の伝承であろう。
紀氏が生駒山の麓に住んでいたのは、奈良時代のことに違いない。有常は平安遷都から20年後に生まれているのだ。

有常はおそらく元服と同時くらいに、ずっと年上の妻を名家から迎えた。女も本来ならばもっと高い身分の夫に嫁ぐつもりでいたかもしれない。たとえば姉の藤原緒夏は嵯峨天皇の夫人になっている。ところがずっと年下の有常の妻にされてしまった。何かの政略があった。つまり、有常は紀氏の長者となるためにあえて藤原氏の妻を娶った。藤原氏は紀氏を自分の郎党に組み込んだ。
有常の姪静子は文徳天皇の更衣となり、第一皇子惟喬親王や斎宮恬子内親王を生んだ。在原業平は有常の娘婿であり、業平は惟喬親王の身辺警護役だった。藤原氏も有常を無視することができないので、一族の娘を嫁がせたのだ。

それで第16段にも書かれているように、40年近くも連れ添ったのだから不仲ではなかったのだろうが、有常が思ったようには出世しないので、妻は姉(緒夏?)とともに尼になってしまった。

内麻呂は冬嗣の父で、生前に従二位右大臣にまでなった人だから、紀氏よりはずっと権力者であった。死後に贈従一位左大臣となったのは、冬嗣が娘順子を仁明天皇に入内させ権力を握ったからだろう。
有常が内麻呂の娘を娶ったことは有常の出世にはずいぶん有利だったはずだ。しかし冬嗣の子良房に藤原一族の権力が集中していく過程で、有常は左遷され、妻は有常を疎むようになり、ついには離縁することになったのに違いない。

伊勢物語 一つの仮説

『伊勢物語』には、もともと一つの話だったのではないかと思われるほどよく似た話が複数ある。一つの話が何かの理由でいくつかのバリエーションに分かれたのではなかろうかと思われるのである。
また、歌が全然関係のない万葉集などからもってきて、割と無理矢理に挿入されたり配置された感のあるものが少なくない。

これらのことから一つの仮説が成立し得ると思う。

まず最初に、歌のない原作とでも言い得るものがあった。
これはたとえば、紀有常じいさんの昔語り、のようなものであったかもしれない。明治時代の軍人に比志島義輝という人がいて、この人の小説を書いたことがあるのだが、彼の談話というのはいくつかバリエーションがある。つまり、年を取って偉くなってから若い頃の思い出話を何度か語って聞かせたのだが、話すたびに少しずつ内容も違ってくるだろうし、詳しいときもあり、忘れてしまったり、記憶が改変されてしまうこともあっただろう。書き手が脚色したこともあっただろう。そんなこんなで、そもそも原作の段階から、同じ話なのだがいくつものバリエーションがあった、ということがあり得ると思う。

で、まず、原作があった。それは歌のない、今昔物語とか古今著聞集のようなものだった。
ここに後の人が、古歌や自分が詠んだ歌や、その他もともと原作とは関係なかった歌を挿入して歌物語にしようとした。
今も良くあることだ。映画化したりドラマ化したりコミカライズしたりする。メディアミックスというやつだ。それでおそらくは、より多くの人々に物語として広めたり、子供や女子にもわかりやすく楽しい話に作り替えたのだ。
そのとき、一つの原作が、挿入する歌によって別々の話のように作り替えられる、ということがあっただろうと思う。

たとえば第69, 70, 71, 72, 75段などは、そうやって、一つ話がいくつも並列にリメイクされてできたのではなかったか。
この部分、ざっくりと原作を復元してみると、こうなる。紀有常が伊勢国守兼伊勢斎宮頭だった頃のこと。朝廷から狩りの使いがやってきた。斎宮に仕えていた女が、都人が珍しくて、夜中に斎垣を越えて男に会いに行った。女は大淀まで男を見送り、男は女を京都に連れ帰ろうとしたが、女は拒んだので男は泣いた。男は尾張へ旅立った。
こういう感じのことを、紀有常が、昔ワシが伊勢守だったころ、こんなことがあったのじゃ、と子や孫に語り、それが彼の死後も語り伝えられたとして何の違和感もない。

今昔物語や古今著聞集はではなぜ歌物語に作り替えられなかったのか?
おそらくは恋愛物ではなかったからだ。歌は春夏秋冬恋が相場と決まっている。今昔物語とは相性が悪い。語り手も違ったかもしれない。歌物語は女子供、遊女などの芸能だった。今昔物語はたぶん坊さんの説話のようなものだ。

歌物語となったことによって、挿入された歌は、実際語られるときには歌ったり舞ったり、楽器で伴奏したりしたのかもしれない。今で言うミュージカルのように。一種の演劇となって、上演された可能性もなくはない。というか、わざわざ歌物語に仕立て直したりするからには、それくらいの理由があったとみるべきではななかろうか。

東下りの話なども、同様な生成過程を経て、もともとは紀有常の体験談のようなものだったのだが、次第に和歌が挿入され、話が分岐して別々の話のようになっていった。
それらをあとで全部蒐集してひとまとめにしたのが『伊勢物語』なのではないか。

藤原高子の話もそうだ。もともとは歌の無い伝記のようなものだったのだが、あとから歌を付けたりしたりして分岐していったのだ。

ただし、惟喬親王と在原業平、紀有常の三人が出てくる話は、おそらくもともと、業平が詠んだ歌をメインに、最初から歌物語として成立したに違いない。なぜなら、ストーリーと歌とが、何の矛盾も無く親和しているからだ。
他の段によく見られるように、歌とストーリーがちぐはぐではない。ここからほかへ歌をもっていくこともできないし、他の歌を持ってきて入れることもできない。この状況で、在原業平ならこの歌しか詠まないだろうと思われるくらい、歌とストーリーが不可分に一体化している。ここだけ非常に完成度が高い歌物語になっているのである。

まとめると、まず、紀有常の体験談を書き留めた人がいた。本人かもしれない。
その体験談をもとに、適当に歌を拾ってきて歌物語に作り替えて広めた人がいた。これは複数人いたかもしれない。
そうして世の中に『伊勢物語』の物語群というものが広まり、有名になり、しかも異同が生まれると、これらを蒐集して、整理して、一つの本にまとめようとする人が出たに違いない。これがたぶん『新選万葉集』、つまり、菅原道真とか宇多天皇の時代のことだっただろう。『真字伊勢物語』はこの時代の面影を強く残している。
そしてその直後、おそらくは紀貫之によって、『仮名伊勢物語』という形で、完全な和文として、体裁が整えられたのではなかろうか。この頃になると紀有常の時代のことはほぼ昔話になってしまっていた。この時代の人に理解しやすいような脚色が加えられたと思う。伊勢の斎宮に仕えた女の話が伊勢の斎宮の話になったり、紀有常の話が在原業平の話になったり、いろいろな後付けのつじつま合わせが行われた。

伊勢物語 年表

延暦3 (784) 長岡京遷都。
延暦13 (794) 平安京遷都。
大同5 (810) 薬子の変。
弘仁6 (815) 紀有常、誕生。
弘仁7 (816) 良岑宗貞(遍昭。素性の父)、誕生。
天長2 (825) 在原業平、誕生。
承和6 (839) 紀種子、この頃、仁明天皇の更衣となる。
承和9 (842) 藤原高子、誕生。
承和11 (844) 紀有常の妹静子が文徳皇子惟喬を生む。
承和12 (845) 在原業平、左近衛将監(20才)。
承和14 (847) 紀名虎、死去。
嘉祥3 (850) 仁明天皇、崩御。良岑宗貞、出家して遍昭と号す。文徳天皇、即位。藤原良房の娘明子が文徳皇子惟仁(清和天皇)を生む。紀静子、この頃、文徳天皇の更衣となる。
天安1 (857) 紀有常、伊勢権守。事実上の左遷。
天安2 (858) 文徳天皇、崩御。清和天皇、即位。藤原多賀幾子、死去。
貞観1 (859) 藤原高子(17才)、清和天皇の大嘗祭で五節舞姫をつとめ従五位下に叙される(禁色勅許か)。
貞観5 (863) 在原業平、左兵衛権佐。
貞観7 (865) 在原業平、右馬頭。
貞観8 (866) 藤原高子入内、女御(24才)。三条の大御幸。
貞観9 (867) 紀有常、下野権守。東国に下る。
貞観10 (868) 高子、貞明(のちの陽成天皇)を生む。貞明、立太子。高子、「東宮の御息所」と呼ばれるようになる。
貞観11 (869) 遍昭、雲林院の別当(高子の援助によるか)。
貞観13 (871) 紀有常、兼信濃権守。
貞観14 (872) 藤原良房、死去。惟喬親王、出家。藤原基経、摂政右大臣。源融、左大臣。
貞観18 (876) 陽成天皇、即位。
貞観19 (877) 紀有常、死去。藤原高子、皇太夫人。遍昭、元慶寺を建立(高子の援助によるか)。
元慶3 (879) 清和上皇、出家。
元慶4 (880) 清和上皇、崩御。藤原基経、関白太政大臣。業平死去。
元慶6 (882) 藤原高子、皇太后。
元慶8 (884) 光孝天皇、即位。在民部卿家歌合。
仁和1 (885) 芹河行幸。
仁和3 (887) 宇多天皇、即位。鬼啖事件。
寛平1 (889)~寛平5 (893) 寛平御時后宮歌合(紀友則、紀貫之、在原棟梁、藤原敏行)。
寛平3 (891) 藤原基経、死去。
寛平7 (895) 源融、薨去。
寛平8 (896) 藤原高子、皇太后を廃され、「二位后」と呼ばれるようになる。
延喜1 (901) 菅原道真、左遷。
延喜3 (903) 菅原道真、死去。
延喜5 (905) 『古今集』成立。
延喜10 (910) 藤原高子、死去。
承平5 (934) 『土佐日記』成立。
天慶8 (945) 紀貫之、死去。
天暦5 (951) 梨壺の五人(大中臣能宣、源順、清原元輔、坂上望城、紀時文)、『後撰集』編纂開始。
寛弘5 (1008) 『源氏物語』この頃成立。
寛弘6 (1009) 具平親王、薨去(45才)。

伊勢物語 凡例

【定家本】は人文学オープンデータ共同利用センターのものをできるだけ忠実に翻刻した(現在作業中)。句読点や濁点などは、読みやすいように私が適宜付したもので、もともとはない。
藤原定家の孫、二条為氏の筆とされる(定家とは明らかに筆跡が異なるからだろう。定家直筆とされる写本はあるのだろうか。なさそうだが)。
http://codh.rois.ac.jp/pmjt/book/200024135/

段数(段の通し番号)は『定家本』によった。
「井」「身」はそれぞれ仮名「ゐ」「み」として使われるが、真名として使われることがある。意味と音が一致していると思われるときには真名とみなし、漢字表記とした。
この写本には「を」と「お」、「わ」と「は」、「え」と「へ」と「ゑ」の違いは無いように思われる。
「おとこ」「をとこ」など、単に変体仮名のいずれを使うかの違いでしかないのだが、念のため原文に忠実に区別した。

【朱雀院塗籠本】は Wikisource による。
群書類從卷第三百七 物語部一 編者:塙保己一
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【真名本】は続群書類從卷第五百一 物語部一 編者:塙保己一(続群書類従. 第拾八輯上 続群書類従完成会出版、国会図書館永続的識別子 info:ndljp/pid/1789716)と、早稲田大学所蔵のもの(請求記号 Call No. ヘ12 00472)を参照した。
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he12/he12_00472/index.html

まず、こまかいことだが、『真名本』か『真字本』か。
宣長などが『真名本』と言っている本が『真字伊勢物語』寛永20 (1643) 二條通(京都) :沢田庄左衛門。早稲田大学所蔵、なのはほぼ間違いないのだが、これ、表紙には『真字』と書かれているが本文冒頭には『真名』と書かれているのである。
非常に紛らわしいのだが、本来は本文にあるように『真名伊勢物語《まなのいせものがたり》』というのが正しいと思われる。

『玉勝間』伊勢物語真名本の事
『伊勢物語』に『真名本』といふ本あり。萬葉の書きざまにならひて、真字して書きたる物なり。六條ノ宮ノ御撰と、はじめにあげたれば、その親王《みこ》の御しわざかと、見もてゆけば、あらぬ 僞《いつはり》にて、後の物なり。まづすべての字《もじ》のあてざま、いとつたなくして、しどけなく正しからず、心得ぬことのみぞ多かる。そが中に、「闇《くら》う」を「苦労《くらう》」、「指之血《およびのち》」を「及後《およびのち》」などやうに書けるは、「たはぶれ書き」にて、『万葉』にもさるたぐひあり。又「|東《あづま》」を「熱間《あつま》」、「云々《《にけり》》」を「迯利《にけり》」など書けるも、清濁こそたがへれ、なほゆるさるべきを、「なん」といふ辞に、「何」の字を用ひ、「ぞ」に「社」、「と」に「諾」の字を用ひたるたぐひ、こと心得ず。
しかのみならず、「思へる」を「思恵流《おもえる》」、「給へ」を「給江《たまえ》」、又「ここ《《へ》》」「かしこ《《へ》》」などの「へ」をも、みな「江《え》」と書き、「身《《をも》》」、「これ《《をや》》」などの、「をも」「をや」といふ辞を、「面《おも》」「親《おや》」と書き、「忘《わすれ》」を「者摺《はすれ》」と書けるなど、これらの仮字は、今の世とても、歌よむほどのものなどは、をさをさ誤ることなきをだに、かく誤れるは、むげに物かくやうをもわきまへしらぬ 、えせもののしわざと見えて、真字《まな》はすべてとりがたきもの也。
然はあれども、詞は、よのつねの『仮字本』とくらべて考ふるに、たがひのよきあしきところありて、『仮名本』のあしきに、此本のよきも、すくなからず。そを思へば、これもむかしの一つの本なりしを、後に真名には書きなしたるにぞあるべき。されば今も、一本にはそなふべきもの也。
然るにいといと心得ぬことは、わが縣居《あがたゐ》の大人《うし》(賀茂真淵)の、此物語を解《と》かれたるには、よのつねの仮字本をば、今本といひて、ひたふるにわろしとして、此『真名本』をしも、「古本」といひて、こちたくほめて、ことごとくよろしとして用ひ、ともすれば此つたなき真字《まな》を、物の鐙《あかし》にさへ引かれたるは、いかなることにかあらん、さばかり古ヘの仮字の事を、つねにいはるるにも似ず、此本の、さばかり仮字のいたくみだれて、よにつたなきなどをも、いかに見られけむ、かへすかへすこころえぬことぞかし。
さて又ちかきころ、ある人の出だせる、『旧本』といふなる、真名の本も一つ有り。それはかのもとのとは、こよなくまさりて、大かた今の京になりての世の人の、およびがたき真字の書きざまなる所多し。さればこれもまことのふるき本《まき》にはあらず、やがて出だせる人の、みづからのしわざにぞありける。然いふ故は、まづ今の京となりての書《ふみ》どもは、すべて仮字の清濁は、をさをさ差別《わき》なく用ひたるを、此本は、ことごとく清濁を分けて、みだりならず、こは近く古学てふこと始まりて後の人ならでは、さはえあらぬこと也、又「かきつばたといふ五言を、句の頭にすゑて」と書ける、これむかし人ならば、「五もじ」とこそいふべきを、「五言」といひ、歌の「かへし」を「和歌《かへし》」、「瀧」を「多芸《たぎ》」、「十一日」を「十麻里比止日《とまりひとひ》」と書けるたぐひ、時代《ときよ》のしなを思ひはからざるしわざ也。「十一日」など、此物語かけるころとなりては、「十一日」とこそ書べけれ、たとひなごめて書くとも、「とをかあまりひとひ」とこそ書くべけれ、それを「あまり」の「あ」をはぶけるは、古学者のしわざ、又「とをか」の「か」を言はざるは、さすがにいにしへの言ひざまを知らざるなり。又「うつの山」のくだりに、よのつねの本には、「修行者あひたり」とあるを、此本には、「修行者|仁逢有《にあひたり》」と、仁《に》てふ辞をそへたるなども、古ヘの雅言《みやびごと》の例を知らぬ 、今の世の俗意《さとびごころ》のさかしら也。かかるひがことも、をりをりまじれるにて、いよいよいつはりはほころびたるをや。


『真名伊勢物語』御撰「六条宮」は、早稲田大学の註に「伝六条宮具平親王撰」とあり、村上天皇の皇子、具平《ともひら》親王とされる。
あるいは、順徳天皇の皇子、雅成《まさなり》親王であろうか。

『真名本』には非常に古めかしい、奈良時代から平安初期に書かれたとおぼしき部分も多い。
古学が興り、万葉仮名の研究が相当に進んだ江戸中期以降に作られたのならともかく、鎌倉時代や室町時代にこのような本を偽造することは不可能であると思う。もしそのような時代に、『真名本』を一から偽造していたら、仮名遣いや語法にもっと明白な間違いが見つかるはずだ。
わざわざあんなことが出来る人は一人もいない。今日の学者にも無理だろう。というより、なぜ『仮名本』から『真名本』を作るのか。その動機は?いつの時代にそんな苦労してまで、こんな偽書をこしらえるような需要があっただろうか。

宣長も指摘しているように、「狩衣をなむ」を「狩衣乎何」と書き、「となむいへりける」を「諾何云計留」と書くなど、極めて特殊な万葉仮名遣いを用いていて、その他「五十戸」を「いへ」と読むなど、非常に珍妙な当て字がたくさんあって、これを後世の人がわざとそう書いたとは到底思えないのだ。
「諾」は『万葉集』では「うべ」もしくは「を」と読んでいて、どちらも承諾するという意味で、これを「と」と読む例は、この『真名伊勢物語』以外にはなさそうに思える。なぜそんな不可解なことをわざわざ偽書でやらねばならないのか。
偽書というものは人を信用させるためもうすこしわかりやすく書くものではないか。なぜあえて不審な当て字を使う必要があるのか。

このような異様な当て字や読み方など、後世の人に思いも付かないような書き方がされている。
また、『仮名本』と『真名本』を見比べたときに、どうにも『真名本』のほうが正しくて、『仮名本』は『真名本』を訳し間違えているように思える箇所もあるのだ。

荷田春満は『伊勢物語童子問』で『真名本』から『仮名本』が出来たと考えているし、賀茂真淵は荷田春満の弟子だから、春満と同じように、『真名本』のほうが古い形だと信じていたらしい。

伊勢物語の構成要素

紀貫之は「男もすなる日記というものを女もしてみむとてすなり」と前置きして、『土佐日記』を書いた。
この「男もすなる」の「男」とは誰か。
古来、公卿は漢文で日記を書いた。藤原定家も『明月記』を書いた。親王や僧侶など、多くの人が日記を残している。『吾妻鏡』は武家の日記が元になっていると考えられている。

「男というものはだれも日記を書くものなのだ、その日記というものを女の私も書いてみよう」貫之はそう言って、自分を女と仮定して『土佐日記』を書いたと解釈されてきた。
はたしてそうなのか。たくさんの「男」が日記を書いてきたが、一般論として、男はみな日記を書くものなのだろうか。

私はずばりこの紀貫之が言う「男」とは『伊勢物語』で「昔、男ありけり」と書かれた「男」だと思っている。

つまり、貫之が「男もすなる日記」といった「男」とは『伊勢物語』の元となった日記を書いた特定の男なのだ。

『伊勢物語』を『在五中将の日記』などとも言うが、在原業平は歌は詠むが自分で日記を書くような性格ではなかったはずだ。
業平の妻の父、つまり業平の義父に、紀有常という人がいる。紀貫之の遠い親戚だ。業平が仕えた文徳天皇第一皇子惟喬親王は有常の妹の孫に当たる。有常には、業平を日記に書き記す十分な動機がある。

『紀有常日記』には、下野守となって東下りしたときの紀行文や、伊勢守となって斎宮頭を兼ねたときの記録などが書かれていただろう。業平とともに惟喬親王に仕えた話、また、摂家のスキャンダルなども書かれていたはずだ。
有常は日本全国いろんなところへ行った。塩竃《しほがま》、つまり今でいう、宮城県の松島までも行ったらしい。
『紀有常日記』は漢文で書かれていたはずだ。しかし中には和歌や、万葉仮名で書かれた和文も含まれていたはずだ。それはちょうど大伴家持が編纂した『万葉集』のような体裁であったはずだ(もしかすると『竹取物語』も最初は漢文で書かれていたかもしれない。しかしこの話題にはいまここでは触れない)。その日記は時代を経るにつれてだんだん読みづらくなっていったので、和文に訳し、ふりがなを振ったりした。
それを見た貫之は、じゃあ俺が、最初から仮名で日記を書いてやろうと思って書いた紀行文が『土佐日記』なのだと思う。『土佐日記』と『伊勢物語』の東下りは雰囲気が良く似ているではないか。

紀貫之はまだ、『紀有常日記』をじかに読んでいたのではないかと思う。すなわち『男もすなる日記』とは、ずばり『紀有常日記』のことなのだ。しかし、紀貫之が死んだ後、つまり、梨壺の五人が『後撰集』を編み始めた頃には、『伊勢物語』を真似た二次創作みたいなのがわんさと出てきた。
もう、藤原高子が不倫して皇太后位を剥奪されてどうしたこうしたという時代からだいぶたって、それで昔ほどタブー視されなくなり、禁断の書だった『有常日記』がいろんな人の目に触れるようになって、収拾付かない状態になっていたと思われる。
それらを、梨壺の五人などの、六条宮具平親王を中心とする『後撰集』歌壇の連中が蒐集校正して、一個の『伊勢物語』としてまとめた。おそらく『拾遺集』が編纂された頃だ。原作も改編も二次創作も全部ごっちゃにしたから、似たような話がいくつも収録されることになった。この頃にはいつの間にか在原業平が主人公だと見なされるようになり、『在五が物語』とか『在五中将の日記』などと呼ばれるようになった。

『真名伊勢物語』は『紀有常日記』で用いられていた真名、つまり漢字をできるだけ残す形で作られたものだろう。六条宮具平親王が選んだことになっていて、彼の晩年は紫式部が活躍した時代と重なっている。

朱雀院は陽成院とも言い、二条邸とも呼ばれた。『朱雀院塗籠本』はその朱雀院の壁の中に塗り籠められていたというのが由来でそう言うのだろうが、この朱雀院というのは、『伊勢物語』の舞台の一つ、つまり二条の后こと藤原高子が住んだ所なので、そういう伝説が生まれたのだろう。

『定家本』はおそらく定家が手に入れたいろんな写本を校合して編んだものだろう。今『伊勢物語』と呼ばれているのはほとんどがこの『定家本』である。

『真名本』は、荷田春満や賀茂真淵が高く評価している一方で、本居宣長は、一定の評価はしつつも、かなり批判的である。
およそ今日に残っている古写本の多くは、定家の校正を経ている。さもなくば、源俊頼あたりの手によって仮名遣いが修正されている、と私には思われる。
具平親王の時代にはもう、「へfe」「えe」「ゑwe」「江ye」の違いは失われており、「はfa」「わwa」も混同され、「ゐwi」「いi」「ひfi」や「をwo」「おo」も曖昧になっていたと思う。だが、徐々に万葉仮名の研究が進み、「正しい仮名遣い」というものが意識されるようになって、『古今集』最古の写本(元永本)が出る源俊頼の時代には、意識して「へ」「え」「ゑ」「へ」、あるいは「ゐ」「い」「ひ」が書き分けられるようになった。これを完成させたのが定家で、それゆえこの時代の仮名遣いを「定家仮名遣い」とも言うのだが、江戸時代後期になると、記紀万葉の仮名遣いの研究成果に基づいて宣長などによって「定家仮名遣い」に含まれる間違いも指摘されて、明治の「歴史的仮名遣い」となるのだ。
たとえば宣長は若い頃は「用ひる」と書いていたが、晩年は「用ゐる」と書くようになった。

それで私たちは、紫式部が正しい仮名遣いで、というより、当時の話し言葉のままで『源氏物語』を書いたと考えているのだが、そんな証拠は全くない。というのも、『源氏物語』最古の写本は定家が写したものだからだ。定家はいろんな写本を見比べ、『万葉集』まで遡って正しい「てにをは」、正しい仮名遣いを推定して、『源氏物語』を書き直した。に違いない。『古今集』にしろ『後撰集』にしろ手当たり次第に書き直したに違いない。定家なら絶対そうする。
『真名伊勢物語』に仮名遣いの間違いが多く含まれているのは、当時すでに仮名遣いが乱れていて、しかも何が正しいかってことがまだわからない時代だったからだ、とすれば説明が付く。逆に、定家は、『真名伊勢物語』をいじってないし、読んでもいなかったはずだ。
紫式部の時代にはすでに仮名遣いは乱れまくってたはずだ(いや、有常の時代にすでに仮名遣いは乱れていたんだ、いやそもそも大伴家持もまた、試行錯誤ですでに乱れ始めていた仮名遣いを直そうとした結果が『万葉集』なのだ、と考えられなくもないが、話がそれるのでやめておいたほうがよさそうだ)。

というわけで私は、『真名伊勢物語』は六条宮具平親王御撰の、最古の写本である可能性が捨てきれないと思う。
あれは、仮名に無理矢理漢字を当てたのではなく、逆にもともと漢文だったものを無理矢理訓読している感じのものだ。
少なくとも仮名本にしたときに欠落した漢文本来のニュアンスを、つまりは有常の肉声を、『真名本』から再現することは可能だろうと思う。

『定家本』の不完全なところを後世の人が補完して『真名本』を作ったとはちと考えにくい。『真名本』を写し損ねて、『定家本』ができたと考えるほうが、ずっと自然に思える。

私は『古今和歌集の真相』というものを書いていて『伊勢物語』も調べる必要を感じ書き始めたのだが、こんな大作になるとは考えてもいなかった。

斎宮とタブー

少女の頃、賀茂の斎院となった式子内親王は、恋多き女だった。
誰が彼女の恋人であったか。特定はされてないし、実在も確認されてないが、少なくとも、その誰かわからぬ相手に対して少なからぬ歌を詠んで残した。

式子は待つ人であった。
「松」とは「待つ」である。

山深み 春とも知らぬ 松の戸に 絶え絶えかかる 雪の玉水

彼女は激情的な恋歌ばかりを詠んだのではない。『新古今和歌集』の冒頭から三つ目に載るこの有名な歌でさえ、実は単なる初春の叙景歌ではないのかもしれない。

「松の戸」とはある人が開けて入ってこないかと待っている戸である。
「松の戸」にかかる玉水は、その人の訪れが「絶え絶え」であることを意味する。
山が深く雪が積もっているから来ないと言っている人を式子はただひたすら、自分の部屋に閉じ籠もって待っている。
雪の玉水は式子の涙を暗示しているだろう。
もしこの解釈があっているなら、まさしくこの歌は『新古今』を代表する超絶技巧の歌だ。そしてこの歌の真意はおそらく定家以外は気付いていなかっただろう。式子の恋は人に決して知られてはいけない恋だったのだから。
式子は自分の境遇について、自分の恋について、人に語りたかっただろう。しかしそんなことは許されない。絶対に秘密にしなくてはならない。だから、遠い未来に、わかる人が現れたときにわかるように、歌にヒントを残した。そのヒントに最初に気づいたのはもしかしたら私なのかもしれない、と驚くとともに意外な気持ちもした。

『新古今』冒頭、式子の前に掲げられた二つの歌は、九条良経と後鳥羽院。二人とも、式子の子供くらいの年齢で、恋の相手ではあり得ない。ただし、これらの歌が、つれづれを嘆いている式子を慰めるために贈られた歌だった可能性はあろう。

みよしのは 山もかすみて しらゆきの ふりにし里に 春はきにけり
ほのぼのと はるこそそらに きにけらし あまの香具山 かすみたなびく

なめらかでやさしい歌ではあるが、あまりにも形式的で、特に優れた歌には見えないが、式子の歌を導き出すプレリュードとしては完璧である。と同時に式子の歌をカモフラージュする役割も果たしている。式子の歌もまた、前の二つの歌と同様に、単なる叙景の歌であろうと、人々に思わせたのだ。
しかし、式子の歌を前後から切り離して単独に見てみれば。あるいは式子の恋の歌の中に投入してみれば。あるいはこの歌を『恋』の部に挿入してみたら。この歌が意図するところはあまりにも明白ではなかろうか。
これらの仕掛けについて当然、九条良経と後鳥羽院は知っていたはずだし、そのアレンジをしたのはほかでもない、藤原定家であったはずだ。この三人だけが真相を知っていた。そのような意味において、『新古今』は実は極めて私的な歌集であった、と言うこともできる。

式子が待っていた人とは、九条兼実だったのでないか。
通常、式子のお相手は定家だと考えられているが、式子のほうが定家よりはるかに年上で、どうもあまり考えにくい。
式子と兼実は同い年で、内親王と摂家の御曹司、幼い頃から二人に接点が無いはずがなく、恋仲だったかどうかはともかく、ごく親密な関係であったはず。
私は、式子内親王が賀茂の斎院を退下したのは、彼女が兼実の子を身籠もったせいではなかろうかと思った。
もし式子が出産したとして、その子はどうなっただろう。内親王は天皇や皇族としか結婚できないが、当時、余った皇子は寺に入って法親王となるならわしで、僧侶である法親王もまた表向きは結婚できないし、子も持てない。ともかく内親王が夫や子を持つのは原則不可能であり、いたとしても公表はできない。社会の表舞台には出られないのだ。母が、そして父が、我が子にそんな味気ない人生を望むだろうか?

式子斎院退下の時期と良経の生年は完全に一致するのである。
式子と良経は歌を詠み交わしている。式子が子や夫と密に連絡を取りあっていた証拠ではないか。
式子に恋の相手はいただろう。
でなきゃ恋の歌なんて詠まない。詠めまい。あのように激情的な歌が単なるフィクションであるはずがない。
では誰か。誰が式子の相手だったのか。その候補を検討していくと、最後まで残るのは兼実しかいないのである。
これは、かつて『虚構の歌人 藤原定家』に書いた、まだ誰も指摘してないと思われる説である。定家が秘してのち、八百年余り誰にも知られていなかった真実?

内親王の子というものは、ほとんど知られていない。
内親王が皆、一生不犯であったなどとどうして信じられようか。内親王はものすごくたくさんいる。何百人といるのに誰も男性経験がないなんて信じられない。
そんな荒唐無稽な話を信じられるのは斎宮や斎院が実在しなくなった現代に生きる人だけだ。非実在キャラクターにはどんな属性も付加できる。斎宮や斎院といえど普通の女だ。そういう女性が一般人に交じってたくさん生きていた時代に、非現実的なまでに厳格な純潔を期待する人がいただろうか。

そもそも神道は、そんなに性的に厳格なものではない。せいぜい、伊勢神宮の境内の中では、血で穢れるから出産してはいけません、という程度のものだ。

ちはやぶる 神の斎垣も越えぬべし 今は我が身の 惜しけくもなし

このような歌が人麻呂の歌として平気で人々の口に上っていたのである。通い婚の時代に、高貴な、聖なる女性に通っていくことには、当然暗黙の了解があった。

『伊勢物語』に伊勢斎宮の駆け落ち事件が採られていることは、伊勢斎宮のスキャンダルが、決して皆無ではなかったことを意味しているように思う。
ただ、『伊勢物語』は明らかに後世の人が脚色している。皇太后藤原高子や、恬子内親王が名指しで登場する。彼女らに浮いた話がなかったとは言えない。しかし、『伊勢物語』に出てくる話はもとは別の人の話で、後世それが有名人、高貴な女性にむすびつられただけではないかという疑いは捨てきれない。誰もが知っている人の話にしてしまうことも巧妙なカモフラージュの一種だ。

かつて伊勢神宮には斎宮が、上賀茂神社には斎院という未婚女性が派遣されていた。
伊勢神宮の縁起についてはいろんな伝説があるようだが、天武天皇2年、673年に天武天皇の皇女、大来皇女《おおくのひめみこ》が12才で初代斎宮となった。
賀茂斎院は、810年に嵯峨天皇の皇女、有智子《うちこ》内親王が3才で初代斎院となった。
建武の新政が瓦解して斎宮はとだえた。1334年のことだ。
斎院は承久の乱によって途絶えた。1221年のことだ。
しかし斎宮・斎院が、いずれも古墳時代から中世武家社会まで連綿として継続したおかげで、おそらく日本太古の風習であるシャーマニズムが、かなり純粋な形で残ったのである。
この風習はかつて広く世界中に見られたはずだ。ギリシャにもデルフォイやドードーナに託宣を授ける巫女《シビュッラ》がいた。今日でも特に東アジアではシャーマンが存続している。天照大神もシャーマンであった。斎宮や斎院は明らかに、そのシャーマンの系譜を受け継ぐものだ。

現在でも、ネパールの首都カトマンドゥには、生き女神クマリがいる。クマリとはサンスクリット語で処女という意味だ。クマリと日本の斎宮、斎院の類似性は疑いようもない。太古のアジアに広く、女神が処女に宿るという信仰があった証拠に違いない。

斎宮や斎院には極めて厳格な禁忌がある。これが、儒教や仏教などの外来宗教と、神道が完全に混淆してしまうことをかろうじて防いだ。シャーマニズムは儒教や仏教とは相容れない。というよりも、シャーマニズムのような原始宗教を否定し駆逐することによって、キリスト教や仏教のような普遍宗教は生まれてきたのである。あたかも現代医学が原始社会を衛生的に滅菌してしまうように。
ユダヤ教も預言者というシャーマンに依存し、シャーマンによって生み出されたが、シャーマニズムを否定することによってキリスト教となり、イスラム教となった。仏教もバラモン教を否定することによって普遍宗教となった。ギリシャ、ローマ、エジプトの宗教もみなきれいさっぱりと現実社会から拭い去られ、過去の記憶にされてしまった。

神道は仏教によって侵食されていった。
奈良県桜井市初瀬に長谷寺があるが、ここは雄略天皇時代の王都であった。しかしここにはもはや密教しか残っていない。高野山も同じ。ここは原始神道の揺籃であったはずなのだ。
長谷や高野山などの辺鄙なところに太古から脈々と密教が受け継がれているのは、ここがかつて原始神道の本場であって、それが仏教の影響を受けて密教化したからに違いない。
我々は、長谷観音信仰に、シャーマニズムの残像を見る思いがするが、ここでは神道は完全に真言密教と混淆していて、痕跡しか残っておらず、原型を推測するのは難しい。
別の言い方をすると真言密教と原始神道には密接な関係があって、宇多天皇や後醍醐天皇はそのことに気付いていた可能性がある。

渡来系の神道、たとえば宇佐八幡などは容易に仏教と混淆した。
春日大社は興福寺と混淆し、熱田神宮でも平安時代にはすでに写経が行われている。延暦寺などはわざわざ日枝神社を作り出して垂迹説を流行らせた。そういった仏教の影響を受けなかったのは、伊勢神宮と、上賀茂神社と、(ごく一部の)宮中祭祀しかないのである。上皇は出家することもあったが、天皇はかなりの程度、仏教から切り離されていたし、今もそうである(外来の即位礼は仏教の影響を受けたが大嘗祭はほとんど受けなかった)。それら外来宗教との混淆を峻拒し続けたのは男性である天皇ではなく女性である斎宮なのである。天皇は女性、つまり斎宮を兼ねることもあり得た。それゆえに、天皇にまつわるタブーは残った。また斎宮を持つ伊勢神宮と上賀茂神社にもタブーが残り得た。
伊勢神宮にも無数の神宮寺が寄生し取り巻いていた。しかしその中心に、仏教が立ち入ることができない聖域は残ったのである。
このわずかに残った聖域のおかげで、明治の神仏分離令によって、神宮寺はほぼ完全に消滅した。神宮寺は、今では人の名字くらいにしか残ってはいない。

頼山陽の和歌

昔書いた喀血歌など見ると頼山陽が香川景樹から薩摩産の牛肉をもらって食べたなどとあって、事実なのかフィクションなのかはなはだあやしいのだが、頼山陽と香川景樹がごく親しかったのは確かで、それは山陽の母飯岡梅颸頼が景樹の門人であり、山陽自身も景樹に入門している。ウィキペディアには頼梅颸となっているが、江戸時代の武家や公家は夫婦別姓だったのだから旧姓で飯岡梅颸もしくは飯岡静子と称するのが正しいはずである。近衛家の娘が天皇の后になっても近衛のままで皇族にはならないし、徳川家に嫁しても近衛のままであって、徳川氏になるわけではない。それが公家、武家本来の規範であって、庶民や商家の屋号などが苗字として使われ夫婦同姓のごとき風習があったとして、それが戦国武将や江戸時代の武士に遡及してたとえば、明智玉子を細川ガラシャと書くなども同様の間違いである。

市島謙吉 『頼山陽:随筆』「山陽の和歌」によれば山陽もわずかであるが和歌を詠んだらしいが、叔父や母の付き合い程度であったことがわかる。

和歌を詠むということ

近藤真彦が60才になって聴力検査に行こうなどという車内中吊り広告が出ていたが、私もつい最近60才になった。それで

はたちにて 絵は描き尽くし よそぢにて 歌は詠みはて 今さらに なすことも無き むそぢなりけり

などという歌を詠んだのだが、まったく今はそういう心境である。

明治天皇は59才で亡くなった。自分がもう明治天皇よりも年上だというのが、なんだか非常に不思議で奇妙な気分だ。

明治の帝の勅諭を体し

と佐佐木信綱は歌ったのだが、戦後生まれの私もその雰囲気の中で生まれ育った。昭和40年。敗戦後20年しか経ってはいなかったのだ。

私は画材屋の息子に生まれた。爺さんは尋常小学校の絵の教師だったので、子供の頃から絵を習って描いていた。絵を描くのは好きだった。しかし20才くらいになると自分の絵の才能というものはだいたいわかってくる。描き尽くすというよりは、もうこれ以上描いたところで自分が描くような絵はせいぜいどのようなものか、ということが見切れてしまう、ということだ。にたりよったりの絵を数多く描くことは不可能ではあるまい。今CGを仕事にしているのもやはり絵を描くのが好きだからだが、CGなんてものは私よりうまい人はいくらでもいる。どんなに頑張っても世の中に爪痕を遺すことすらできない。

しかしながら歌には、私は多少自負がある。歌ならば少しくらいは世の中に生きた痕跡を残せるかもしれないと。

古語文法を習い始めるのが高校一年生、15才くらいからで、歌をなんとか詠めるようになったのは21才くらいだった。途中ずっと歌を詠んでいたわけではなく、しかしながら、歌の形が固まってきたのは45才くらいだったと思う。若い頃は現代口語で詠んだり古語で詠んだり、字余りしていたり、いろんな歌を詠んでいたのだが、私はそこから現代歌人のほうへは行かず、かっちりした古典文法にのっとって歌を詠むようになっていった。たとえば、20代で詠んだ歌40代半ばで詠んだ歌

はかはかと 部屋片付けて 暑さのみ いかにもえせで 過ぐすよはかな

こういうへんてこな歌は今ではもう詠めぬかもしれん。

天長節に参賀したる日、本丸跡にて詠める

すずかけの 葉もこそしげれ かなへびは 穴より出でて 石垣をはへ

そう。和歌を詠むからには、こういうかっちりとした古語で詠みたい、そうでない歌も詠めなくはないかもしれないが、そういう歌はプライオリティが高くないというか、都々逸でも俳句でも、ほかに表現手段はあると思うし、現代口語を駆使した歌を詠みたいというよりも、和歌を純粋に保ちたいという気持ちのほうが勝るのである。だから自然と、もっぱら古語で、和歌を詠むようになった。茶道にしろ能楽にしろ、最初は単におもしろおかしい娯楽であったものが、だんだんに純化していったのだと思う。自分の中の気持ちはそれと同じだと思う。

みそのふに 春雨ふれば 人を無み しめ野にひとり あるここちする

春雨の ふれる宮路を 踏みゆけば しめりてきしむ さざれ石かな

きもをなめ たきぎにふせし つらき世を 知らずなりゆく わがくに民は

こうした歌ももう詠んだことをすっかり忘れてしまっていた。

歌もまた詠み尽くしたというよりは、これから先、だいたいどういう歌をどういう時に詠むかというのを見切ってしまった、今まで詠み遺した歌で予測可能な範囲でしか歌は詠めないだろう、それ以外の歌をいまさら詠みたいとも思わない、要するに年を取ってもうこれ以上変化のしようがない、ということになる。

明治天皇が59年間の人生で詠んだ9万首の歌をAIに学習させれば、明治天皇と同じような歌は詠めるようになるだろうと思う。明治天皇が学習に用いたテキストも合わせて学習すればなお正確に詠めるようになるだろう。昔の人(明治以降の人、という意味だが)には同じような歌を来る日も来る日も大量に詠んで、詠草に残しておくことの意味がわからなかったようだ。今の人ならわかるだろう。ありとあらゆるパターンの歌を遺しておけば、自分が死んだ後もそれに習って同じような歌を詠むデータベースになってくれるのだ。ときたまに気の利いた歌を詠んで遺せば良い、自分の最高傑作だけをいくつか残せば良いというものではない。明治天皇にはある程度までそのことがわかっていたはずだ。和歌はごく短い詩形ではあるけれども、一つ一つの歌を見ただけではその価値がわかるわけではないのだ。

同じように私が生涯詠んだ歌を全部AIに学習させれば、そのAIが私が死んだあとも代わりに永遠に私の歌を詠んでくれるのに違いない。もうそうなってしまえばわざわざ私が生きている必要もない気がする。

歌を詠む 人もなき世に 歌詠めば ひとり狂へる ここちこそすれ

歌詠まぬ 人に問はばや 歌詠まで 大和心は ありやなしやと

天下之糸平の碑を詠める

いしぶみを あふげばむなし とはに名を のこさむとする 人のこころは

いしぶみを すみだの岸に 建つるより こころに残る 歌を詠ままし

草枕3

草枕草枕2の続き。

「草枕」だが漱石が自分で作った詩がまだあった。

青春二三月 青春二三月
愁隋芳草長 愁ひは芳草に隋ひて長し
閑花落空庭 閑花は空庭に落ち
素琴横虚堂 素琴は虚堂に横たふ
蠨蛸挂不動 蠨蛸(あしたかぐも)、挂(かか)りて動かず
篆烟繞竹梁 篆烟(篆書のようにくねくねと立ち上る煙)、竹梁を繞(めぐ)る
獨坐無隻語 獨坐し隻語無し
方寸認微光 方寸、微光を認む
人間徒多事 人間、徒(いたづ)らに事多し
此境孰可忘 此境、孰れか忘るべけむ
曾得一日靜 曾て一日の靜を得て
正知百年忙 正に百年の忙を知る
遐懐寄何處 遐懐(遠く眺める)、何處にか寄せむ
緬邈白雲鄕 緬邈(はるかかなたに)、白雲の鄕

墨場必携:漢詩 春日靜坐 夏目漱石

きたね白雲きたね。

これも押韻はしているが平仄はけっこう適当(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.73に五言古詩として載る)。

たぶんこの出来だと平仄警察がわらわらわいてきて漱石は相当、詩人としてのプライドを傷つけられたと思うなあ。

夏目漱石が「草枕」を書いたのは明治39年、処女作「我が輩は猫である」は明治38年。しかしこれらの詩は明治31年、漱石が31才の時に作ったという。つまり「草枕」に出てくる画家と同じ年に作ったものだということになる。正岡子規が死ぬのは明治35年なので当時子規はまだ生きていた。

ウィキペディアによれば(書簡を見ればわかるというがそこまで調べるのはめんどくさい。よっぽどヒマがあったら調べてみるか)、熊本で英語教師をしていた漱石は、明治30年の大晦日、つまり明治31年の正月に、友人であった山川信次郎とともに熊本の小天温泉に出かけ、そのときの体験をもとに『草枕』を執筆したとある。漱石の誕生日は2月9日なので、明治31年正月の時点で彼はちょうど30才だった。まさに当時「三十我欲老」という心境だったのだ。やはり漱石は売れっ子作家になる以前の自分に回帰しようとして、自分自身をモデルとして、『草枕』を書いたのであろう。

漱石は「正岡子規」と題する談話で、「大将(子規)の漢文たるや甚だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いたようなものであった。けれども詩になると彼は僕よりもたくさん作っており、平仄もたくさん知っておる。僕のは整わんが、彼のは整っておる。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼のほうがうまかった。」などと評している。つまり若い頃漱石はあまり平仄の整わない漢詩を作っていた、それに対して子規の漢詩はきちんと整っていたのだった。だいたいつじつまが合う。

漱石が本気で(まじめに)漢詩を作り始めたのは、明治43年、修善寺で喀血した後のことだろう。『こころ』なんかを書いたのはさらにあと、大正3年頃。

岸には大きな柳がある。下に小さな舟を
つな
いで、一人の男がしきりに垂綸
いと
を見詰めている。一行の舟が、ゆるく波足
なみあし
を引いて、その前を通った時、この男はふと顔をあげて、久一さんと眼を見合せた。眼を見合せた両人
ふたり
の間には何らの電気も通わぬ。男は魚の事ばかり考えている。久一さんの頭の中には一尾の
ふな
宿
やど
る余地がない。一行の舟は静かに太公望
たいこうぼう
の前を通り越す。(中略)
かえ
り見ると、安心して浮標
うき
を見詰めている。おおかた日露戦争
にちろせんそう
が済むまで見詰める気だろう。

といった具合に日露戦争中であるような記述がある。日露戦争は明治37年から38年にかけてだから、その正月あたりの状況を写したものだろう。つまりちょうど203高地が陥ちた頃だ。久一さんとは徴兵で取られていく人のように思われる。「草枕」の発表は明治39年だから、執筆中、その頃の記憶も新しかったはずだ。つまり「草枕」は7年ほど前の30才の時の自分を日露戦争当時の世相に埋め込んで作られた話だということになる。

「やっぱり駄目かね」
「駄目さあ」
「牛のように胃袋が二つあると、いいなあ」
「二つあれば申し分はなえさ、一つがるくなりゃ、切ってしまえば済むから」
 この田舎者いなかものは胃病と見える。彼らは満洲の野に吹く風のにおいも知らぬ。現代文明のへいをも見認みとめぬ。革命とはいかなるものか、文字さえ聞いた事もあるまい。あるいは自己の胃袋が一つあるか二つあるかそれすら弁じ得んだろう。余は写生帖を出して、二人の姿をき取った。

これは主人公の画家がスケッチした町中の人だが、胃病なのは漱石のほうだ。漱石はやはりこのころすでに胃潰瘍で苦しんでいた。

漱石の妻、鏡子が書いた『漱石の思ひ出』の中に

俳句には随分と熱心で、松山時代から熊本に居る間の五年間ばかりが、一番俳句の出来た時で、生涯の句の殆んど三分の二はこの五年間に出来たもののやうです。それには中央を離れて熊本のやうな田舎に居りまして、自然文学の話などする友達もなかつたので、ただ子規さんあたりに動かされて、一生懸命で句作したといふことがあづかつて力がございませう。後には漢詩も作りましたが、とても俳句程の熱心は見られませんでした。

などとあるが、漱石の日記などみるに、確かに俳句は数は多いが、思いつくまま詠みちらかしているといったふうで、中には面白い、よく出来たものもあるようだが、どちらかと言えば単なる気晴らし、気分転換、多くはちょっとしたメモかなにかのようなものだったと思う。真剣に身構えて詠んだものではあるまい。『草枕』にも

何でも
でも手当り次第十七字にまとめて見るのが一番いい。十七字は詩形としてもっとも軽便であるから、顔を洗う時にも、
かわや

のぼ
った時にも、電車に乗った時にも、容易に出来る。十七字が容易に出来ると云う意味は安直
あんちょく
に詩人になれると云う意味であって、詩人になると云うのは一種の
さと
りであるから軽便だと云って侮蔑
ぶべつ
する必要はない。軽便であればあるほど功徳
くどく
になるからかえって尊重すべきものと思う。まあちょっと腹が立つと仮定する。腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。腹を立ったり、俳句を作ったり、そう一人
ひとり
が同時に働けるものではない。ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや
いな
やうれしくなる。涙を十七字に
まと
めた時には、苦しみの涙は自分から遊離
ゆうり
して、おれは泣く事の出来る男だと云う
うれ
しさだけの自分になる。

などとある。要するに俳句は詩の中では最も簡便なわけだ。

「後には漢詩も作りましたが」というのはほんとうに晩年の『こころ』なんかを書いてた頃のことを言っているのだと思う。鏡子さんが自分で書いているように漱石は子供の頃から漢詩に志があって、若い頃からけっこう作っていたはずで、日本人が漢詩を一つ作るというのは俳句を百詠むより難しいし、随分心構えが必要で、てまひまがかかるものであるから、そんなに量産できるはずがない。鏡子はその数だけを言っているように思える。

※追記。吉川幸次郎「漱石詩注」序に、「漢詩は夏目氏の文学において、相当の比重を占める。おそらくは俳句よりも、より多くの比重を占める。少なくともその自覚においては、そうである。」とある。