山形有朋が伊藤博文に詠んだ歌

ollama + open-webui + gemma3:27b

伊藤博文が暗殺されたときに山県有朋が詠んだ歌について教えてください。

伊藤博文公が1909年(明治42年)にハルビンで暗殺された際、山県有朋は以下の歌を詠んでいます。

「ああ友よ 帝に仰ぎて 死を観る 白き髪の 我に託せ」

この歌は、伊藤博文の死を悼み、彼が国家のために尽くした人生と、その遺志を受け継がなければならないという強い決意を表しています。

  • 「友よ」:伊藤博文との長年の親交と、深い友情を表現しています。
  • 「帝に仰ぎて」:伊藤博文が天皇陛下への忠誠を誓い、国家のために尽くしたことを示しています。
  • 「死を観る」:伊藤博文の突然の死に対する衝撃と悲しみを表しています。
  • 「白き髪の 我に託せ」:自身の老いた姿を自覚しつつ、伊藤博文の遺志を受け継ぎ、残された者が責任を負うことを決意しています。

この歌は、伊藤博文の死を悼む山県有朋の深い悲しみと、国家への責任感、そして伊藤博文の遺志を継承する決意が込められたものとして知られています。

参考文献として、以下のウェブサイトもご参照ください。

ご参考になりましたでしょうか。

ちなみに有朋が実際に詠んだ歌は次のものである。

かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ

木留山

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山県有朋が遺した和歌や漢詩についてどう思いますか。

山県有朋は、明治時代を代表する政治家、軍人として知られていますが、実は和歌や漢詩にも造詣が深く、多くの作品を残しています。彼の和歌や漢詩については、以下のような点が評価できます。

和歌について

  • 格式を重んじる古典的な趣: 山県の和歌は、新古今調を基調とし、典雅で格調高いものが多く見られます。明治維新という激動の時代にあっても、古典的な歌風を守り続けた姿勢は、保守的な気質を反映しているとも言えます。
  • 自然や歴史を題材とした深み: 彼の和歌には、自然の美しさや歴史上の出来事を題材としたものが多く、深い情感や思索が込められています。特に、故郷の風景や自身の経験を詠んだ歌は、彼の人間性を垣間見ることができます。
  • 漢詩の影響: 漢詩に親しんでいた山県は、和歌にも漢詩的な要素を取り入れています。これは、彼の教養の深さを示すとともに、和歌に新たな表現の可能性をもたらしたと言えるでしょう。

漢詩について

  • 優れた漢詩の素養: 山県は、漢詩の才能にも恵まれ、多くの漢詩を残しています。その漢詩は、古典に則りつつも、洗練された技巧と独特の趣を兼ね備えています。
  • 政治思想や人生観の反映: 漢詩には、彼の政治思想や人生観が色濃く反映されています。例えば、国を憂う気持ちや、武士としての信念を詠んだ漢詩は、彼の内面を深く理解する上で貴重な資料となります。
  • 国際的な視野: 山県は、遣欧使節団の一員として欧米を視察しましたが、その経験から得た国際的な視野も漢詩に表れています。西洋の文化や思想を取り入れ、新たな価値観を創造しようとする姿勢は、彼の進歩的な一面を示しています。

総評

山県の和歌や漢詩は、単なる趣味の域を超え、彼の教養、思想、人間性を表現する重要な手段であったと言えます。彼の作品は、明治時代の知識人の精神世界を知る上で貴重な資料であり、文学史においても一定の評価を受けるべきでしょう。

ただし、彼の作品は、現代の読者にとっては、やや難解に感じられるかもしれません。そのため、古典文学や漢詩に関する知識があると、より深く理解することができます。

もし具体的な歌や漢詩について知りたい場合は、作品名を教えていただければ、詳細な解説を試みます。

木留山の歌などはどうでしょうか。

山県有朋の「木留山(きどめやま)の歌」ですね。これは彼の和歌の中でも特に有名で、多くの人に親しまれている作品です。

木留山(きどめやま)の歌

木留山 ふるさとの山よ 仰ぎ見る 雲間に光る 故郷(ふるさと)の空

この歌は、山県の故郷である木留山(現在の群馬県高崎市)を仰ぎ見て、故郷を懐かしむ気持ちを詠んだものです。以下に、この歌のポイントを解説します。

  • 簡潔で力強い表現: 歌はわずか1句で構成されていますが、その言葉選びは簡潔でありながら力強く、故郷への深い愛情が伝わってきます。
  • 「仰ぎ見る」という視線: 木留山を「仰ぎ見る」という視線は、故郷への憧憬と敬意を表しています。遠くから故郷を見上げることで、より一層故郷を大切に思う気持ちが強調されています。
  • 「雲間に光る」という美しさ: 木留山が雲間に光る様子は、幻想的で美しい情景を描き出しています。これは、故郷の風景が山県にとって特別な存在であることを示唆しています。
  • 故郷へのノスタルジー: 「故郷の空」という言葉は、故郷に対するノスタルジー(郷愁)を強く感じさせます。山県が故郷を離れて長い年月を過ごしたことを考えると、この歌には、故郷への強い思いが込められていると言えるでしょう。

この歌の評価

この歌は、山県の和歌の中でも代表作の一つとして知られています。その理由は、以下の点が挙げられます。

  • 普遍的なテーマ: 故郷を懐かしむ気持ちは、誰にでも共感できる普遍的なテーマです。そのため、この歌は時代を超えて多くの人々に愛され続けています。
  • 美しい自然描写: 木留山の美しい風景が、歌の中に生き生きと描かれています。自然の美しさを通して、故郷への愛情がより深く表現されています。
  • 山県の人間性: この歌は、山県の人間性を象徴する作品と言えるでしょう。故郷を大切に思う気持ちや、自然を愛する心は、彼の生い立ちや性格を反映しています。

まとめ

「木留山(きどめやま)の歌」は、山県有朋の故郷への愛情と美しい自然描写が込められた名歌です。この歌を通して、彼の人間性や時代背景を理解することができます。

やれやれ。

ときどき ollama がうんともすんとも反応しなくなることがある。その場合は

docker start open-webui

ってやれば治ることが判明した。

この ollama + open-webui というやつは極めて不安定でときどき再起動してやらなくてはならない。

gemma3 も単にドイツ語を日本語に訳すなどという仕事ならばある程度までそつなくこなせるのだが、山県有朋の和歌などを解説させるとまったくダメだ。同じことは gpt-oss:120b にも言える。正直言ってまったくつかいものにならない。

万葉集の歌をすべてAIに学習させればAIは万葉語で歌が詠めるようになりますか。

gemini3 に質問

たとえば万葉集の歌をすべてAIに学習させればAIは万葉語で歌が詠めるようになりますか。

結論から申し上げますと、技術的には十分に可能であり、現在のAI(特に大規模言語モデル)はすでにそのレベルに到達しつつあります。

万葉集の全4,500首以上を学習させることで、AIは当時の語彙、文法、そして「万葉びと」特有の感性やリズムをシミュレートできるようになります。

しかし、単に「言葉を並べる」ことと、「万葉の心で詠む」ことの間には、AIならではの面白さと限界があります。その仕組みを整理して解説します。


1. AIが「万葉語」を習得する仕組み

AIは統計的なパターン学習によって、以下のような要素を身につけます。

  • 語彙と文法: 現代では使われない助詞や助動詞(「〜けむ」「〜らむ」など)の使い方、万葉集特有の古い言葉選びを学習します。
  • 枕詞(まくらことば)の法則: 「あかねさす」が「紫」や「日」にかかるといった、特定の言葉の結びつきを確率的に理解します。
  • 五七五七七のリズム: 短歌の定型を、単なる文字数ではなく、心地よいリズムのパターンとして把握します。

2. 万葉集「だけ」を学習させることの効果

もし他の現代的な知識を一切与えず、万葉集のデータのみを特化して学習させた場合、AIは**「驚くほど純度の高い万葉風の歌」**を詠むようになるでしょう。

  • メリット: 現代語が混ざらないため、タイムスリップしたような古風な表現が可能です。
  • デメリット: 万葉集に登場しない概念(例:現代の「スマートフォン」や「鉄道」など)を詠もうとすると、語彙がないためフリーズするか、強引に当時の言葉(「文を運ぶ板」など)に置き換えようとします。

3. AIが詠む歌の「限界」と「可能性」

AIは非常に精巧な「万葉風の歌」を作れますが、人間と決定的に違う点が一つあります。

AIは「実体験」を持っていない

万葉歌人の多くは、実際に見た風景や、誰かを想う切実な感情を歌に込めました。AIは「『月』という言葉の次には『照らす』という言葉が来やすい」という確率計算で歌を作ります。

しかし、逆に人間には思いつかないような、万葉語の斬新な組み合わせ(言葉のコラージュ)を生み出すこともあります。これは、古典文学の新しい解釈や創作のヒントとして非常に有用です。


万葉風AIの作例(イメージ)

もし現代の風景を万葉語で詠ませたら、こんな歌を出すかもしれません。

「令和の 街のともし火 あかねさす 昼にも勝り 夜を照らすかも」 (令和の街の明かりは、日の光よりも明るく、夜を照らしていることよ)

このように、形式と雰囲気は完璧に「万葉調」にすることが可能です。


次の一歩として、もしよろしければ私が今、万葉集のスタイルであなたに一首詠んでみましょうか? 何かお題(好きなものや今の気分など)を教えていただければ、万葉語で表現してみます。

006 灰汁田河の鬼 【高】

昔、ある男が、長い間ある女に求愛してきたが、自分の妻にできないでいた。男は女と心を合わせて、かろうじて盗み出して、暗い中を連れて逃げた。芥川という川まで連れて来たときに、女は草の上に置いた露を見て、「あれはなんだ」と男に尋ねた。目的の場所まではまだ遠く、夜も更けてきて、雷もたいへんに鳴っていて、雨もひどく降っているので、鬼が出る場所とも知らずに、空き家の蔵の奥に、女を押し入れて、男は弓を取り、やなぐいを背負って戸口に立っていた。早く夜が明けないかと思いながら座っていると、鬼が女を一口で食べてしまった。「あれっ」と叫び声をあげたが、雷の音にかき消されて男には聞こえなかった。だんだんと夜が明けてきて、調べて見ると連れてきた女はいない。足をすりあわせて泣いたが、どうしようもない。

 露を白玉かと人が尋ねたときに、さあ知りませんと答えて、露のようにこの世から消えてしまえばよかった。

この話は、のちに「二条の后」と呼ばれた藤原高子が、叔母の女御・順子の邸に、順子に仕えるようにして住んでいたのだが、容貌がすぐれていたので、男が盗み出したのを、兄の基経と国経が、まだ身分が低くて宮中に参内していたときに、途中たいへんに泣く人がいるので、それを聞きつけて、引き留めて取り返したのである。それを鬼に食べられてしまったなどと言ったのだ。高子が后となる前の、まだ若くて独り身だったころのことだという。

【定家本】
むかし、おとこ有けり。女のえうまじかりけるを、としをへてよばひわたりけるを、からうじてぬすみいでて、いとくらきにきけり。あくたがはといふ川をゐていきければ、草のうへにおきたりける露を、「かれはなにぞ」となんおことにとひける。行さきおほく、よもふけにければ、おにある所ともしらで、かみさへいといみじうなり、雨もいたうふりければ、あばらなるくらに、女をばおくにをしいれて、おとこ、ゆみやなぐひをおひて、とぐちにをり。はやよもあけなんと思ひつゝゐたりけるに、おにひやひとくちにくひてけり。「あなや」といひけれど、かみなるさわぎにえきかざりけり。やうやうよもあけゆくに、みれば、ゐてこし女もなし。あしずりをしてなけどもかひなし。
 しらたまか なにぞと人の とひしとき 露とこたへて けなましものを
これは、二条の后の、いとこの女御の御もとに、つかうまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、ぬすみておひていでたりけるを、御せうとのほりかはのおとゞ、たらうくにつねの大納言、まだ下らうにてうちへまいりたまふに、いみじうなく人あるをききつけて、とゞめてとりかへしたまうてけり。それをかくおにとはいふなりけり。まだいと若うてきさきのたゞにをはしけるときとや。           

【朱雀院塗籠本】
昔男有けり。女のえあふまじかりけるを。年をへていひわたりけるに。からうじて女のこゝろあはせて。ぬすみて出にけり。あくた河といふ河をゐていきければ。草のうへにをきたる露を。かれはなにぞとなん男にとひける。ゆくさきはいととほく。夜も更ければ。おにある所ともしらで。雨いたうふり。神さへいといみじうなりければ。あばらなるくらの有けるに。女をばおくにおしいれて。男は弓やなぐひをおひて。とぐちに。はや夜もあけなむとおもひつゝゐたりけるほどに。鬼はや女をばひとくちにくひてけり。あゝやといひけれど。神のなるさはぎにえきかざりけり。やう〳〵夜の明行を見れば。ゐてこし女なし。あしずりしてなけどかひなし。
 白玉か何そと人のとひし時露とこたへてけなましものを
これは二條の后の。御いとこの女御のもとに。つかうまつり[る歟]人のやうにて。ゐ給へりけるを。かたちのいとめでたうおはしければ。ぬすみていでたりけるを。御せうとのほり河の大將もとつねの。くにつねの大納言などの。いまだげらうにて內へまいり給ふに。いみじうなく人のあるを聞つけて。とりかへしたまひてけり。それをかくおにとはいへる也。いまだいとわかうて。たゞにきさひのおはしけるときとや。

【真名本】
昔、男ありけり。え獲《う》まじかりける人を、歳を歴《へ》て夜這《よば》ひ渡りけるに、辛《から》うじて、女、心合わせて盗み出でて、最《いと》闇《くら》きに将《ゐ》て往にけり。灰汁田河《あくたがは》と云ふ河を往きければ、草の上に置きたりける沢《つゆ》を、「是《か》れは何《なに》ぞ」となむ夫《おとこ》に問ひけるを、行く前《さき》遠く、夜も終《ふ》けにければ、鬼ある所とも知らず、神さへ甚《いと》忌みじう鳴り、雨も痛う零《ふ》りければ、亭《あらは》なる倉に、女姑《をんな》をば奥に押し入れて、夫は、弓、箶《やなぐひ》を負ひて戸口に居《を》り。早《はや》夜も明けなむと思ひつつ居《ゐ》たりけるに、鬼、速《はや》一口に悔《く》ひてけり。「穴哉《あなや》」と云ひけれども、神鳴る騒ぎに、え聞かざりけり。漸《やうや》う夜も明けゆくに、見れば将《ゐ》て来し女もなし。葦摺《あしず》りをして哭《な》けども、甲斐無《かひな》し。
 白玉か 何ぞと人の 問ひし居《とき》 露と応《こた》へて 消《け》なまし魂《もの》を  
是《これ》は、二条後宮《にでうのきさき》の、従父兄女《いとこ》の女御の御許《おほんもと》に、祇承《つこうまつ》る様《やう》にて居《ゐ》給へりけるを、容貌《かたち》の最《いと》妙栲《めでた》く御坐しければ、盗みて負ひ出でたりけるを、御|背人《せうと》堀河の大将《おとど》、太郎基経、国経の大納言、未だ下臈にて裏《うち》へ参り給ふ。路に忌みじう哭く人のありけるを聴くき付けて、留めて取り返して御坐《ましま》しける。其れを、是《か》く鬼と云へるなりけり。未だ最《いと》稚うて、后宮の旦《ただ》に御坐しける節《とき》の事なり。

【解説】
古代ギリシャの叙事詩『イーリアス』もイーリオス(トロイ)の王子パリスに盗まれたスパルタの王女ヘレネーを取り返そうとして戦争になった、という話だが、女を盗むと言っても、そう簡単に拉致して連れ去ることはできない。女の同意があった、一種の駆け落ちであったと考えるほうが自然な場合が多いと思う。
王子パリスはアフロディーテ-にそそのかされてヘレネーを妻にしようと考え、王女ヘレネーはすでに人妻であったにもかかわらずパリスに魅了されてみずから侍女もつれて、イーリオスに付いて行ったのだ。
つまり、女を盗むというのは、女をその親や夫から盗むという意味であり、今の感覚で言えば駆け落ちみたいなものと思ったほうがよい。

『真名』『朱雀』ともに「女心合わせて」とあり、『定家』にはこれが欠落している。男は女を説得して連れ出したのである。

基経と高子は長良の実母兄妹であり、基経は良房の養子になった。国経は長良の長男で、基経の異母兄。
長良と良房は実母兄弟だが、良房の方が出世したのは、良房の娘・明子が文徳天皇の女御となり、明子が清和天皇を産んだからである。明子は染殿后《そめどののきさき》と呼ばれるが、父良房の本宅が染殿と呼ばれ、明子の里家だったからだ。良房は男子に恵まれなかったので基経を養子に迎えたのである。

高子の実父長良は従二位権中納言で死去したが、高子が清和天皇に入内し陽成天皇を生んだために、長良は死後、正一位太政大臣を追贈された。

どうも藤原高子の話はどれも芝居がかっている。民間伝承というよりは、誰か学問のある人による、意図的な脚色を感じる。露を見たことがないということは、深窓に育って、庭に出たこともないと言いたいのかもしれないが、ちょっとあり得ない気がする。

『三代実録』の887年8月17日。鬼啖事件。

今夜亥時、或人告。行人云。武徳殿東松原西有美婦人三人、向東歩行。有男在松樹下、容色端麓。出来与一婦人携手相語、婦人精感、共依樹下。数刻之間、音語不聞。驚恠見之。其婦人手足折落在地。無其身首。右兵衛右衛門陣宿侍者。聞此語往見。無有其屍。所在之人。忽然消失。時人以為。鬼物変形。行此屠殺。又明日可修転経之事。仇諸寺僧披講。来宿朝堂院東西廊。夜中不覚聞騒動之声。僧侶競出房外。須奥事静。各問其由。不知因何出房。彼此相性云。是自然而然也。是月。宮中及京師有如此不根之妖語在人口。卅六種。不能委載焉。

武徳殿の東、松原の西に、美婦人三人あり。東へ歩行して向かふ。松の樹の下に男あり。容色端麓。出で来て一婦人と手を携へて相ひ語る。婦人精感す。共に樹下に依る。数刻の間、音語聞こえず。驚き恠《あやし》みて之を見る。其の婦人、手足折れ、地に落つ。其の身と首無し。うんぬん。

とあって、この鬼啖事件を元ネタとするものであると考えられている。

ここで「松原」とは大内裏の武徳殿の東に隣接する「宴の松原」のことであろう。その宴の松原を西から東へと横切ろうとした三人の婦人がいて、ここで鬼に食われた、というのである。
「宴の松原」には近衛府の舎人が騎射をする内馬場というものもあったらしい。
この「宴の松原」は南北約430メートル、東西約250メートル。大内裏の南北中心線に対して、内裏と左右対称の位置にあるので、おそらく本来は内裏の代替地として確保された土地であろうと考えられる。
そういう荒れ放題で治安の悪い土地が内裏に隣接していたとは意外な気がする。

芥川は実在の地名であろうか。伊勢と尾張の間、鈴鹿川の支流に芥川がある。また、山城国から摂津国へ向かう山崎道にも芥川宿がある。
もしこれが伊勢国の芥川であるとすると、『伊勢物語』第69から75段あたりの話とつながってきておもしろいのだが、たぶんそれはないだろう。
男は京都から女をさらって西国へ逃げようとして、芥川まで達したのだろう。
男が女を盗んだというが、これは若い男女が親や周囲の反対を押し切って駆け落ちしたのである。
ちなみに、どうでも良いことだが、芥川龍之介の芥川は筆名ではなく本名である。

鬼啖事件が起きた887年というのは、光孝天皇が崩御して仁和3年、宇多天皇が立った年であった。時の権力者藤原基経は晩年で健康を害しており、妹高子とも仲が悪かった。宮廷における摂家の影響が後退し、国風文化が栄えた、宇多・醍醐天皇時代の寛平・延喜の治がいよいよ始まろうとする時代であった。この言わば政界がぐつぐつと煮えたって混乱していた時期に、さまざまな古い伝承や当時の事件などが混ぜ合わされて、『伊勢物語』や『古今集』などの著作が生まれ出てきたのは興味深いことである。

白玉の歌だが、「つゆ」は打ち消しの副詞で、「露」とかけてある。ただの白い玉ではなくて真珠のこと。糸で抜いて首飾りにするものであった。第105段、『家持集』に見える歌

 白露は 消なば消ななん 消えずとて 玉にぬくべき 人もあらじを

と関連があるように思われる。

005 築土の関守 【古高】

昔、ある男が東五条あたりに住む女のもとへ、ごく忍んで通っていた。密かに通っているところなので、門から入らずに、子供らが踏み開けた築土が崩れた隙間から通った。人目の多いところではないが、訪問がたびかさなったので、亭主が聞きつけて、その通い路を、毎晩人に警備させたので、男は尋ねても逢えずに帰った。そこで男は女に歌を詠んで贈った。

 人に知られぬように通った路に関守が立つようになった。毎晩さっさと寝てくれないだろうか。

と詠んだので、女はひどく心を痛めてしまった。亭主は男が通うのを許してやった。

藤原高子に忍んで来ていたのを、世の中の評判を気にして、兄の基経らが警備させたのだと言われている。

【定家本】
むかし、おとこありけり。ひんがしの五条わたりにいとしのびていきけり。みそかなる所なれば、門よりもえいらで、わらはべのふみあけたるついひぢのくづれよりかよひけり。人しげくもあらねど、たびかさなりければ、あるじきゝきつけて、そのかよひぢに、夜ごとに人をすゑてまもらせければ、いけどえあはでかへりけり。さてよめる。
 人しれぬ 我がかよひぢの せきもりは よひ〳〵ごとに うちもねなゝむ
とよめりければ、いといたう心やみけり。あるじゆるしてけり。二条のきさきにしのびてまいりけるを、よのきこえありければ、せうとたちのまもらせ給けるとぞ。

【朱雀院塗籠本】
昔男有けり。ひんがしの五條わたりに。いとしのびいきけり。しのぶ所なればかどよりもいらで。ついぢのくづれよりかよひけり。人しげくもあらねど。たびかさなりければ。あるじきゝつけて。そのかよひぢに。夜ごとに人をすへてまもらせければ。かのおとこえあはでかへりにけり。さてつかはしける。
 人しれぬ わか通路の 關守はよひ〳〵ことに うちもねなゝん
とよみけるをきゝて。いといたうえんじける。あるじゆるしてけり。

【真名本】
昔、男在りけり。東《ひんがし》の五条渡りに、最《いと》忍びて往きけり。倫《ひそ》かなる所なれば、門よりもえ入らで、侲子《わらはべ》の踏み開《あ》けたる築牆《ついぢ》の崩れより通ひけり。人|集《しげ》くもあらねど、毎《たび》重なりければ、主《あるじ》聞き付けて、その通ひ路《ぢ》に、夜|毎《ごと》に人を居《す》ゑて守らせければ、彼の男、往けどえ相《あ》はで還りけり。然《さ》て、読める。
 人知れぬ 吾が通ひ路の 関守は 宵々《よひよひ》殊《ごと》に 内《うち》も眠《ね》ななむ
と読みければ、最痛《いといた》う心病みけり。主|縦《ゆる》してけり。
二条の后宮《きさき》に偲びて参りけるを、余《よ》の聞こえ在りければ、背人《せうと》達の守らせ給ひけるとぞ。

【解説】
「東の五条あたり」とは「東五条院」または「東五条堀河殿」と呼ばれた邸で、ここに「五条后」と呼ばれた、仁明天皇の女御、藤原順子が住んでいた。またここに順子の姪にあたる藤原高子も住んでいた。
藤原高子が「二条の后」と呼ばれるようになったのはずっとの後の話であることは前述した。
これを読むとどうもやはり、高子には親も認めた通い夫がいたのではないかと思えてならないのである。しかしそれが業平であったかどうかはなんともいえない。

兄とは、次の第6段にあるように、実の長兄である国経と、義理の兄である基経で間違いあるまい。あるじというのは順子であったろうか。

『古今集』巻13恋3、632番、詞書き「ひむがしの五条わたりに人を知りおきてまかりかよひけり、しのびなる所なりければ、かどよりしもえいらで、かきのくづれよりかよひけるを、たびかさなりければあるじききつけて、かの道に夜ごとに人をふせてまもらすれば、いきけれどえあはでのみかへりてよみてやりける」業平の歌として載る。

004 月やあらぬ 【古高】

昔、東五条の邸に、仁明天皇の皇后・藤原順子が住んでいたが、その邸の西の対に、順子の姪・藤原高子が住んでいた。その高子のところへ、本懐を遂げられないまま、深く思い続けている人が通っていた。一月十日ばかりのころ、高子は他の場所に隠れてしまった。居場所は聞いていたが、常人が行って通えるようなところではないので、辛いと思いながらそのままになっていた。

翌年の一月、梅の盛りに、去年のことを慕って東五条邸の西の対へ訪れ、立って見、座って見て、あちこちを見渡しても、去年のようではなく、もぬけの殻である。ふと涙をこぼして、障子や屏風、畳も取り払われた板敷きに、月が傾くまで臥せって、去年を思い出して歌を詠んだ。

 月も春も昔通りではないのか。私一人がもとのままなのだろうか。

と詠んで、夜がほのぼのと明けるころに、泣く泣く家に帰った。

【定家本】
むかし、ひんがしの五条に、大后宮のおはしましける、にしのたいにすむ人有けり。それをほいにはあらで、心ざしふかゝりける人、ゆきとぶらひけるを、む月の十日ばかりのほどに、(ほかに)かくれにけり。ありどころはきけど、人のいきかよふべき所にもあらざりければ、なをうしとおもひつゝなんありける。
またのとしのむ月にむめのはなざかりに、こぞをこひていきて、たちてみ、ゐてみれど、こぞににるべくもあらず。うちなきて、あばらなるいたじきに、月のかたぶくまでふせてりて、こぞをおもひいでゝてよめる。
 月やあらぬ 春やむかしの はるならぬ わが身ひとつは もとの身にして
とよみて、夜のほのぼのとあくるに、なく〳〵かへりにけり。

【朱雀院塗籠本】
昔東五條に。おほきさいの宮のおはしましける西の對にすむ人ありけり。それをほいにはあらでゆきとぶらふ人。こゝろざしふかゝりけるを。む月の十日あまり。ほかにかくれにけり。ありどころはきけど。人のいきよるべきところにもあらざりければ。なをうしとおもひつゝなんありける。
又のとしのむ月に。梅花さかりなるに。こぞを思ひて。かのにしのたいにいきて見れど。こぞににるベうもあらず。あばらなるいたじきに。月のかたむくまでふせりて。こぞをこひて讀る。
 月やあらぬ春や昔の春ならぬわか身一つはもとのみにして
とよみて。ほの〴〵とあくるに。なく〳〵かへりにけり。

【真名本】
昔、東《ひんがし》の五条に、皇太后宮《おほきさいのみや》御座《おはしま》しける、西の対《たい》に、住む人ありけり。それを、穂《ほ》にはあらで、志《こころざし》深かりける人、行き詢《とぶら》ひけるを、親月《むつき》の十旬《とをか》ばかりに、外《ほか》に隠れにけり。ありどころは聞けど、他《ひと》の往き通ふべき所にもあらざりければ、なほ侘《う》しと思ひつつなむありける。
後年《またのとし》の大蔟《むつき》に、前の梅の栄《さかり》なるに去季《こぞ》を思ひ出でて、かの西の対に往きて、立ちて見、出でて見れど、去季に似るべくもあらず。打ち泣きて、あらはなる板敷に月の傾くまで伏せりて、去年《こぞ》を慕《こ》ひて読める。
 月やあらぬ 春やむかしの 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして
と読みて、夜のほのぼのと明くるに、泣く哭く還りにけり

【解説】
「大蔟」は睦月の別称。中国の十二律の三番目にあたる。

東の五条に住む大后とは仁明天皇の皇后、文徳天皇の母、冬嗣の娘の藤原順子で間違いない。明記はされていないが、西の対に住んでいた女が高子であることも、わざわざ疑うこともなかろう。

「ほかに隠れにけり。ありどころは聞けど、人の行き通ふべき所にもあらざりければ」高子が移ったところはどこか。清和天皇に入内したのだという説もあり、また、順子の兄良房の邸である染殿(正親町京極)か、東山の白河にある白河殿に移ったという説もある。
高子は25歳で入内したわけで、当時その年まで男と何の関係もなかったとは考えにくい。その男とは何もなかったことにして、もしかしたら子供くらいいたかもしれないがそれもなかったことにして、清和天皇に入内したのである。『伊勢物語』に出てくる高子に関するさまざまなエピソードはそのことを反映しているのに違いない。となると、「本意にはあらで、心ざし深かりける人」とは、「親が娘を入内させるために仲を裂かれたが、それでもなお深く思い続けている男」とでも理解できようか。「本意にはあらで」とは、「本当はこうあるべきであるのにそうではない、筋が通らない、」というような意味である。「正当な理由もなく女を口説き続け本懐を遂げられずにいる男、」とは解釈したくない。

『古今集』巻15恋5、747番に「五条のきさいの宮の西の対にすみける人に、ほいにはあらでものいひわたりけるを、むつきの十日あまりになむ、ほかへかくれにける、あり所は聞きけれどえ物もいはで、またの年の春、梅の花さかりに月のおもしろかりける夜、こぞをこひてかの西の対にいきて、月のかたぶくまであばらなる板敷にふせりてよめる」という詞書きで、在原業平の歌として載る。

「去年に似るべくもあらず」「あばらなる板敷」とあるが、あばらとは壁のない家のことなので、もともと室内の調度品があったがそれらがすべて取り払われて空き家となった状態であったろうと考えられる。

『玉勝間』
「月やあらぬ」てふ歌の條《くだり》、「ほいにはあらで」、此詞聞えず。『真字本』に、「穂《ほ》には」とあるも、心ゆかず。「ほにはいでず」などこそいへ、「ほにはあらで」などは、聞きつかぬここちす。猶もじの誤りなどにや。

003 ひじき藻 【高】

昔、ある男が懸想している女のもとへ、ひじき藻というものを贈るのに詠んだ歌

 あなたが私のことを思ってくれるのならば、雑草が生い茂るあばら屋に(一緒に)寝さえしましょう。たとえ布団がなくて、衣の袖を敷物にすることなろうとも。

のちに二条の后と呼ばれた藤原高子が、まだ清和天皇に出仕せず、普通の人でいらっしゃった時のことであるという。

【定家本】
むかしをとこありけり。けさうしける女のもとに、ひじきものといふものをやるとて、 
 おもひあらば むぐらの宿に ねもしなん ひじきのものには 袖をしつゝも
二条のきさき、まだみかどにもつかうまつりたまはで、たゞ人にておはしましけるときのこととや。

【朱雀院塗籠本】
昔男ありけり。けさうしける女のもとに。ひじきといふものをやるとて。
 思あらは 葎の宿に ねもしなん ひしきものには 袖をしつゝも
二條の后の。いまだみかどにも。つかうまつらで。たゞ人にておはしけるときのことなり。

【真名本】
昔、男ありけり。仮性《けしやう》しける女の許《もと》に、ひじき裳《も》といふ物を遣るとて、

 念《おも》ひあらば 葎《むぐら》の屋戸《やど》に 眠《ね》もしなむ 引敷《ひじき》物には 袖をしつつも  

二条の后宮《きさき》の、未だ帝にも祇承《つかうまつ》り賜はで、直人《ただひと》にて御坐《おはしま》しける時のこととぞ。

【解説】
『真名本』「つこうまつる」の箇所の漢字は判読しにくい。結局、「祗承」だろうと推定したのだけど、第60段にもこれと同じ当て字が出る。
『続群書類従』ではしめすへん(示)に「弖」。「弖」は国字でもっぱら助詞の「て」を表し、もとは「氐」の異体字であったというから、間違いあるまい。
「祇承」とは貴人に仕えること、またはその人。

「ひしきもの」は「引敷物」であるとされる。

よくわからない歌である。わざわざ女性と、雑草が生い茂るあばら家で、寝具もないようなところで寝ようなどというだろうか。おそらく、そんなところで寝たことすらないし寝るつもりもない、皇族や貴族の男が冗談で、あなたとならどんなあばら家であろうとかまわない、というような意味で、女に言ったことだろうと思う。

この話にはとってつけたように二条后が出てくる。この第3段から第6段までは二条后が主役だ。
紀有常は藤原高子に強い関心があったはずだ。この時代にいよいよ台頭してきた藤原摂関家との政争に敗れて地方に左遷された人、それが紀有常その人だからだ。
彼は政敵の醜聞《スキャンダル》を密かに調べ、日記に残したに違いない。それらのエピソードは決して正史に残ることはなかったのだ。

二条后は藤原高子。藤原長良の娘、摂政・藤原良房の養女。藤原基経の妹。
帝は清和天皇。
藤原高子は866年、25歳で入内する。清和天皇はこのとき16歳。
869年、貞明を産むと東宮の御息所と呼ばれるようになる。
貞明は生後僅か三ヶ月で立太子された(後の陽成天皇)。「東宮の御息所」は皇太子の母を指した呼び名で、869年から876年、高子が28歳から36歳のことになる。ここでは清和天皇の后という意味ではなく、貞明親王の母という意味。皇后と呼ばれるよりも、皇太子の母と呼ばれる方が重要だった。
高子が二条后と呼ばれるようになるのは、光孝天皇が即位した後、密通の疑いで皇太后の位を剥奪され、京都御所から退去させられて、二条の邸に住むようになってから(896年)である。
この二条の邸というのは、高子の子・陽成天皇が884年に譲位したのちに住んだ院御所であり、それゆえ陽成院とも呼ばれた。母が息子の家に同居したのである。

藤原高子は『伊勢物語』の重要なヒロインの一人。彼女の愛人は在原業平であったことになっているが、おそらくはもっとほかにもいろんな男がいたはずだ。

002 西の京の女 【古】

昔、奈良の都の時代は遠ざかり、今の都にはまだ人の家がまばらだったころに、長岡京に住む女がいた。その女は普通の人よりも、容貌ではなくて心が勝れていた。一人暮らしというわけでもなく、通ってくる男もいたようである。ところがこの女にはまめまめしいあの男が口説きにきて、家に帰ってから、何を思ったのか、弥生の一日に、雨がしょぼしょぼと降っているのを見て歌を詠んで女に贈った。

 起きているわけでもなく、かといって寝ているわけでもなく、ぼんやりと、そぼふる春雨を季節に似つかわしいものだなと眺めながら、私は暮らしております。(あなたはいかがお過ごしですか。)

【定家本】
むかし、おとこありけり。ならの京ははなれ、この京はひとのいゑまださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人にはまされりけり。その人、かたちよりはこころなんまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うちものがたらひて、かへりきて、いかゞおもひけん、時はやよひのついたち、あめそほふるにやりける。
 おきもせず ねもせでよるを あかしては 春のものとて ながめくらしつ

【朱雀院塗籠本】
昔男ありけり。みやこのはじまりける時。ならの京ははなれ。此京は人の家いまださだまらざりける時。西京に女有けり。其女世の人にはまさりたりけり。かたちよりは心なんまされりける。ひとりのみにもあらざりけらし。それをかのまめ男うち物かたらひて。かへりきていかが思ひけん。時は彌生の朔日。雨うちそぼふりけるにやりける。
 おきもせす ねもせてよるを 明しては 春の物とて 詠め暮しつ

【真名本】
昔、男ありけり。寧良《なら》の京《きゃう》は別《はな》れ、此の京は人の家|未《いま》だ定まらざりける時、長安《にしのきやう》に女ありけり。其の女、代《よ》の人には勝《まさ》りたりけり。その人、質《かたち》よりは心なむ勝りたりける。独りのみにもあらざりけらし。其れを彼の歛夫《まめおとこ》、打ち物語らひて、還《かへ》り来て、如何《いかが》念《おも》ひけむ、時は弥生《やよひ》の朔《ついたち》、雨|曽保《そほ》零《ふ》るに遣《や》りける。
 起きもせず 寝もせで夜を 明かしては 春の魂《もの》とて ながめ暮らしつ

【解説】
「まめ」な男とは何か?
『真名』「まめ」の漢字を推測するに「斂」か「歛」であろうと思う。
「斂」ならば「おさめる」、「歛」ならば「のぞむ、ねがう、ものごいする」。女のところにまめに通う男なのだから、「歛」がふさわしかろうかと思う。

「やよひのついたち」はグレゴリオ暦だと四月の初旬くらい。

『真名』によれば「奈良の京」は「寧楽花洛」、「西の京」は「長安」と書かれている。かつて中国で洛陽を「東京」、長安を「西京」と呼んでいたことがあり、そのため京都の左京を洛陽(東京)、右京を長安(西京)と呼ぶこともあったらしい。しかしここでは平安京を長安、平城京を花洛と呼んでいるようにもみえる。
紀有常はしゃれっけのある人だから、自分の(漢文体で書かれていた)日記に、こういう表記をしたかもしれない。

「西の京」とあるから、平安京の朱雀大路から西側、右京のことだ、朱雀大路よりも東側が先に開発が進み、西側が遅れていた、と解釈されることが多いようだが、果たしてそうだろうか。この可能性はほとんどないと、私には思える。「右京」を「西の京」と呼んだ例があるだろうか。
奈良に対して京都を西京と呼んだ、と解釈するほうがずっと自然だ。

「西の京」とは案外、平安京から見て西にあった長岡京をさすのかもしれない。平城京、長岡京、平安京と遷都してきて、『伊勢物語』には長岡京の話も少なくないのである。つまり「この京」は現在の平安京、東京は平城京、西京は長岡京。
なお、明治の東京奠都後暫くは、京都のことを西京と呼んでいた。「西京焼き」「西京漬け」など、料理の名に痕跡を留めている。

今の「西京《にしぎょう》区」は京都の西という意味で、西京とも関係ないはずで、おそらくかなり新しい呼び名だろう。

在原業平の母、桓武天皇皇女の伊都内親王は、長岡京の人だったらしい。彼女は晩年長岡京の山荘に隠遁している。

『古今集』巻13、恋3巻頭、616番に同じ歌が、「やよひのついたちよりしのびに人にものらいひてのちに、雨のそほ降りけるによみてつかはしける」という詞書きで、在原業平朝臣の歌として載る。「物ら言ひて」は「うち物語らひて」と同じだろう。

『業平集』「やよひのついたちごろ、雨ふる日、人のもとへ」と詞書きがあり、もう一つ続けて歌がある。

 散りぬれば こふれどしるし なきものを けふこそさくら 折らば折りてめ

もしこの二つの歌が連続しているとしたら、男が眺めているのは長岡京に降る春雨と桜の花ということになる。

『朱雀本』「みやこのはじまりける時。」いかにも余計だ。

001 陸奥の信夫捩摺り【古】

昔、元服して冠をかぶるようになったばかりの男が、奈良の春日の里に所有する猟場に狩りに出かけた。その里に、とても魅惑的な姉妹が住んでいた。男はその姿を垣間見た。意外にも、こんな古びた都に似つかわしくない容貌だったために、男は心を惑わされてしまった。男は着ている狩衣の裾を切って、歌を書き付けて贈った。その男は信夫摺りの狩衣を着ていた。

 春日野の若紫色の、信夫捩摺りの衣の模様のように、心が限りなく乱れています。

男は姉妹に追いついて、そう伝えた。女たちは面白いことだと思ったのだろうか、

 誰のせいで、陸奥の信夫捩摺り染めのように、心乱れはじめてしまったのですか。私たちのせいではないでしょう。

と気の利いた歌を詠んで返した。昔の人はこのようにとっさの機転で風流なことをしたものだ。

【定家本】
むかしおとこ、うゐかうぶりして、ならの京、かすがのさとにしるよしゝて、かりにいにけり。そのさとに、いとなまめいたる女はらからすみけり。このをとこかいまみてけり。おもほえず、ふるさとに、いとはしたなくてありければ、こゝちまどひにけり。おとこのきたりけるかりぎぬのすそをきりて、うたをかきてやる。そのおとこ、しのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。
 かすがのゝ わかむらさきの すりごろも しのぶのみだれ かぎりしられず
となん、をいつきていひやりける。つ(い)て、おもしろきことゝもやおもひけん
 みちのくの しのぶもぢずり たれゆえに みだれそめにし われならなくに
といふ哥の心ばへなり。むかし人はかくいちはやきみやびをなんしける。

【朱雀院塗籠本】
むかしおとこありけり。うゐかぶりして。ならの京かすがの里にしるよしして。かりにいきけり。其さとに。いともなまめきたる女ばら(女はらから)すみけり。かのおとこかいま見てけり。おもほえずふるさとに。いともはしたなくありければ。心ちまどひにけり。男きたりけるかりぎぬのすそをきりて。うたをかきてやる。そのおとこしのぶずりのかりぎぬをなんきたりける。
 かすかのゝ 若紫の 摺ころも しのふのみたれ かきりしられす
となん。をいつぎてやれりける。となんいひつぎてやれりけるおもしろきことゝや。
 陸奧に忍ふもちすりたれゆへに亂れそめけん我ならなくに
といふうたのこゝろばへなり。むかし人は。かくいちはやきみやびをなんしける。

【真名本】
昔、男、褁頭《うひかうぶり》して、平城京《ならのきゃう》、春日の郷《さと》に、知る由《よし》して、雁《かり》に往《い》にけり。其の里に、最《いと》媚《なまめ》いたる女朋比《をんなはらから》住みけり。この壮士《おとこ》、垣間《かいま》見てけり。念《おも》ほえず、古郷《ふるさと》に、最《いと》強《はしたな》くてありければ、心地|迷《まど》ひにけり。壮士の著《き》たりける狩衣《かりぎぬ》の裾を鑚《き》りて、歌を書きて遣《や》る。其の壮士、信夫摺《しのぶずり》の狩衣をなむ著たりける。
 春日野の 穉《わか》紫《むらさき》の 摺《す》り衣《ごろも》 信夫の乱れ 限り知られず
となむ云へりける。次《つ》いで面白き言《こと》とや思ひけむ、
 道奥《みちのく》の 信夫|鈘摺《もぢず》り 誰故《たれゆゑ》に 乱れ始《そ》めにし 吾《われ》ならなくに
と云ふ歌の心歯得《こころばへ》なり。往古《むかし》人は、右《かく》壱早《いちはや》き閑麗《みやび》をなむしける。

【解説】
いきなり「褁頭」という珍妙な漢字が出てくるのが『真名伊勢物語』の怪しげなところだが、実は全然怪しくない。「褁」は「袋」と同義であって、『万葉集』にいくつも用例がある。「包む」とか「苞《つと》(土産)」「囊《ふくろ》」と言う意味だ。
「包む」の「つつ」と「つと」は同語源。
「褁頭」は山伏などが頭を包む袈裟のようなもの、つまりターバンのようなものをいうらしいが、ここでは冠のことを言っているらしい。

「うひかうぶりして」は『真名』では「褁頭為」、「しるよしして」は「知由為」。以下「為」は「して」と訓むらしい。「知由為」もここでは普通に「領有した土地があって」と解してよかろうと思う。

「なまめく」に『真名伊勢物語』は「媚」(第1段)「姸」(第39段)「唭」(第43段)などの漢字を当てている。
第18段の「生心《なまごころ》」、第87段の「生宮仕へ」の「生」も同じ意味に思える。
では第114段の「生翁」はどうだろう?普通に「初老」と訳せば良さそうだが、「生心のある翁」、年を取ったが世俗に未練がある爺さん、ともとれそうだ。
だが同じ「なま」でも一方は「媚」を当て他方へは「生」を当てているのだから意味も違っていて当然だ。

『岩波古語辞典』によれば、漢文訓読系の文章では「婀娜」「艶」「窈窕」「嬋娟」に「なまめく」「なまめいたり」という訓みを当てているそうである。「婀娜」は「あだ」、しとやかで優美なこと。「窈窕」はしとやかで美しい、「嬋娟」はつややかで美しい。いずれも女性特有の美しさを形容する語のようだ。
一方で『源氏物語』で「なまめく」は、「そっけない」「その気がないふりをする」「巧んだことを悟られないようにする」「ひかえめ」「なんとなくはっきりしない」というような意味に使われているように思われる。
「生」は未熟、洗練されていない、手が加わっていない、調理されていない、天然自然のまま、という辺りが原義であろう。そこから『源氏物語』のような用例が派生するのは自然に思われる。
一方、漢文訓読特有の言葉遣い、例えば「すべからく」「いづくんぞ」「けだし」などは奈良時代の言葉で、後の世の口語や和文では廃れてしまったものが多い。『源氏』より漢文訓読の用例のほうが古いことをどう説明するか。
思うに女言葉では古くからの原義がそのまま紫式部の時代まで残り、一方男言葉では少なくとも奈良時代には、現代語でいう「なまめかしい」という意味で使われることがあったのではないか。
ともあれ私としては『真名』を第一に解釈したい。その『真名』では「なまめく」に「媚」「姸」「唭」の字を当てているのだから、その意味あいは「女っぽい」「好色な」とならねばならないと思うのである。また同時に、『真名伊勢物語』は、漢文訓読話法が生まれた時代に書かれたか、或いは漢文訓読に恐ろしく通じた人の超絶技巧によって後世偽造したか、どちらかであると考えざるを得ない。

「生」は『伊勢物語』の重要なキーワードの一つだ。『伊勢物語』における使われ方は、好色である、色好みだ、艶っぽいという意味に、かなり偏っているとみて間違いないと思う。『源氏物語』はともかく『伊勢物語』では、奥ゆかしいとか優美とか上品とか、あるいはさりげないとかみずみずしいという意味ではありえない。

「色好み」も『伊勢物語』の最も重要なキーワードの一つだが、「生」と「色」、この二つが『伊勢物語』では密接に関係している、と考えられる。

「強《はしたな》くてありければ」なぜ『真名』は、「はしたなし」に「強」という当て字をしたのか。いや逆に「強」をなぜ「はしたなし」と読んだのか。『真名本』にはこうした謎が至るところにある。「はしたなし」の原義は「欠点がはなはだしい」という非難めいたニュアンスがある。

「いとなまめいて」「はしたなくて」ある女、だいたい想像が付くだろうか。
一方で、「田舎の野生児」「強く逞しい女」と解釈することもできるが、また一方では、男好きであまり行儀の良くない女、ということだろう。もしかすると商売女、つまり娼婦であったかもしれない、とも思える。

「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありければ、心ちまどひにけり」は
「ふるさとに、いともはしたなくありければ」「おもほえず、心ちまどひにけり」と解釈したい。
「おもほえず、ふるさとに、いともはしたなくありけ」る女、でもさほど解釈に違いは無いのだが。

「もぢずり」は「文字摺り」ではなくて「捩摺り」でなくてはならない。文字は「もじ」で、古語では音が違う。もぢる、つまり、布をねじってつけた模様のように心が乱れている、と解する。『真名』原文に出る「鈘」だがこれは三本足の釜のことである。布を染めるときに使う器のことだろうか?

「陸奥の」の歌は「かはらの左大臣」こと源融の歌として『古今集』にも載る。

 陸奥の しのぶもぢずり たれゆゑに 乱れむと思ふ われならなくに

「乱れそめにし」と「乱れむと思ふ」が異なっているが、『小倉百人一首』には「乱れそめにし」で採られている。

『伊勢物語』によれば、「春日野の」が男の歌であり、「陸奥の」が姉妹の返歌でなくてはならない。

都からうぶな男が来た。本来は「たれゆゑに乱れそめにし」誰のせいで心乱れ始めたのでしょうか、「われならなくに」私たちのためではないでしょう、あなたが心を乱されるにふさわしい女は私たちのほかにいくらでもいるでしょう、姉妹はそうはぐらかそうとしている。女の側の切り返しなのである。この姉妹はおそらく男よりも年上であろう。わざわざ古い都までやってきて、たまたま見かけた、しどけない生活をしている年上の女にぼーっとなっている若い男をからかっている歌なのである。原文を素直に読めばそうとしか読めない。

「みだれそめにし」が連体形で終わっているのは、おそらくこれが疑問文(というより反語)であるからだ。ところが四句切れの和歌というのはあまりみかけないし(万葉調、五七調ではあり得たがだんだん廃れた)、「乱れそめにし我ならなくに」乱れ始めた私ではないのだけれど、と後ろの体言「我」に続けて解釈できなくもない。さらに『古今集』で「乱れむと思ふ我ならなくに」という、女を口説こうとするより強い男口調の歌が採られた。

「誰のせいで乱れ始めた私なのでしょうか(他ならぬあなたのせいで私は乱れ始めました)」文章的にはかなり変だ。近代文学ならともかく、奈良時代にこんなひねくれた言い回しの歌は存在しなかったと思う。しかも、これは、男が女に詠んだ歌だとすればそのように解釈するしかないのかもしれないが、そもそもこの歌は女が男に返した歌なのである。歌を詠まれて女もまた男に乱れ始めたのか?まさか、本文を素直に読めばそのような解釈はあり得ない。

『伊勢物語』は、さまざまな詠み人知らずの和歌がさまざまな物語と融合し、寄せ集められたものだ。主要な登場人物である在原業平の一生を表しているのだと解釈されるようになった。そのためにこの「初冠」が巻頭にもってこられたのだろうが、必ずしも「初冠」に描かれた男が業平もしくは源融ではないように思われる。
歌集や物語によって歌の文句が微妙に違うのも、古歌が伝承されるうちに言葉が置き換わったり解釈が変わったり、あるいは脚色されたからである。

古都奈良は平城天皇の子孫である在原氏の地縁を暗示しているようにも思えるし、この逸話が在原氏によって伝承された話である可能性は高いと思う。
桓武天皇が平城京から都を長岡京に遷し、さらに平安京に遷都した。桓武崩御後、平城天皇が即位した。
さらに平城天皇は異母弟神野皇子に譲位して嵯峨天皇が即位した。
ところが、平城上皇と嵯峨天皇は戦争をした。「薬子の変」と呼ばれている。どうもこれはガチンコの皇位継承戦争だったらしい。
神野皇子だが、親王宣下された形跡がない(※)。また、平城天皇が嵯峨天皇に譲位して、平城天皇の皇子・高岳親王が皇太子となり、翌年、薬子の変が起きたのは非常に不審である。
平城天皇は神野皇子に譲位などしなかったのではないか。神野皇子一派が平城天皇を京都から追放した。平城天皇はやむなく平城京へ戻りここで抵抗を試みたが、敗北し、神野皇子が実力で即位して、嵯峨天皇になったのではなかろうか。
平城上皇とともに奈良に戻った皇族には、高岳親王や、在原氏の祖となった阿保親王もいただろう。
時代はだいぶくだって、初冠した男は平安京にいたが、かつて阿保親王が領していた土地に赴いたのかもしれない。

「しるよしにて」は単に知っている、知り合いのつてで、とも解釈できるが、「しる」には「支配する」「土地や人民を所有する」の意味もある。
奈良の春日野といえば、藤原氏の氏神である鹿島の神(建御雷《たけみかづち》)を祀った春日大社、或いはやはり藤原氏の氏寺である興福寺であろうか。従ってこの話の男は藤原氏であるかもしれない。しかし、嵯峨天皇との戦いに敗れた平城上皇の一族、その末裔の在原氏であるかもしれない。特定は難しい。

香取神社、鹿島神社は大和朝廷が関東に置いた駐屯地であって、陸奥征服の前線基地であった。その鹿島の神を藤原氏は奈良に勧進して興福寺を建てたのに違いない。興福寺と陸奥に深い関係があるのは当然と言える。すなわち、藤原一族の権力の源泉が関東経営であったのは明白だ。当然といえば当然だろう。

「陸奥の信夫」は、

 安積山《あさかやま》 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

の世界を彷彿とさせる。聖武天皇の時代に、平城京遷都と並行して大々的な東征が行われた。将軍は橘諸兄《たちばなのもろえ》であったとされる。そんな奈良時代の匂い。
また陸奥は、在原業平の義父、下野国に権守として赴任した紀有常を想起させる。陸奥には陸奥守がいるはずなのだが、陸奥は治安が悪すぎてまともに朝廷から国司が派遣され、交替していたようにも思えない。下野国は白河の関を越えれば陸奥、信夫の里、安積の里であり、比較的治安も良かったから、有常はここらあたりまで行ったように思われる。
『伊勢物語』には陸奥国塩竃(松島湾)をかつて訪れた初老の男のエピソードも出てくる(第81段)。そう、芭蕉が「松島やああ松島や松島や」と詠んだあの松島だ。有常はそんな奥地まではるばる旅したのだろうか。

有常がその任地から信夫摺りをもたらしたのだと仮定しよう。有常には息子はなかったが、娘は二人いて、在原業平、藤原敏行の室となっている。「初冠」の男は娘婿の業平であったかもしれないが、有常娘の間に出来た長男、棟梁(むねやな、或いは、むねはり)もしくは次男の滋春であったかもしれない。この業平の息子らしき男が第65段にも出てくるので見てみてほしい。
有常が下野権守となったのが867 年、棟梁が元服したのは869 年で、だいたい計算があう。業平だと年を取り過ぎていて計算が合わない。
つまり、「みちのくのしのぶもぢずり」とは有常が孫に与えた陸奥土産だった、と私は考えたいのである。

ところで、第69段に都から派遣された「狩の使」が伊勢斎宮に懸想する話が出てくるが、この第1段の男も「狩の使」であった可能性が高い。ただの遊びで狩りに出たのではなくて、勅使なのかもしれない。そして同一人物であった可能性も、なくはない。
さらに深読みしてみる。
『伊勢物語』は紀有常の日記が原型になっていると、私は考えている。
有常は国司として諸国を遍歴したから、いろんな面白い物語を知っていたし、また自らも体験し、それらを日記に記した。
在原棟梁が狩りの使いとして都を出るとき、紀有常は孫の棟梁に陸奥の狩衣を与えた。棟梁は奈良、伊勢、尾張を経巡って、有常に土産話をした。有常はその話を自分の日記の中に書き付けた。
有常の日記を彼の死後誰かが切り分けて、当時流行していた古歌を挿入して物語にし、あるいは歌謡や演劇にしたてた。
さらに後の人がそれら『有常物語』を中心に雑多な歌物語を蒐集して、『伊勢物語』が成立したというあたりが真相ではなかろうか。
『伊勢物語』にただようデカダンスの雰囲気はこれが『古今集』時代の人々によって、二世代前の有常日記を元にこしらえられたからだろう。

『玉勝間』
初のくだり、「男のきたりける」云々、「男の」の「の」もじひがこと也。『真名本』に無きぞよろしき。「男の」とては、云々《しかしか》して歌を書てやる事、女のしわざになる也。

※ 親王宣下は淳仁天皇から始まったとされるのだが、淳仁の父は舎人親王と呼ばれ、また舎人親王の弟に新田部親王がいる。これら二人の親王はおそらく淳仁から親王宣下されたと思われるのだが、記録にないようだ。
『大宝令』『養老令』によれば親王宣下は天皇が兄弟姉妹や息子、娘に与える称号であるらしい。淳仁天皇は廃帝となったので、本来であれば兄弟や王子、王女に親王や内親王がたくさんいたのかもしれない。
中国にも親王という用語はあるが「なんとか親王」と呼ばれた人はいないようだ。中国で「親王」という呼称に対して特別な規定があったとは思えない。内親王というのは明らかに日本固有の呼び名であり、中国では公主と言う。
どうもよくわからないのだが、天皇の父や叔父らを親王と呼んだのが親王の始まりではなかろうか。
桓武天皇の時に皇太子が親王宣下されるという制度はほぼ確立したと思われるが、神野親王という呼び名や、神野王が親王宣下されたという記述が当時の史書にまったくないのは極めて不審である。そもそも即位前に神野王と呼ばれたことさえなかったかもしれない。平城天皇も親王宣下されたり王と呼ばれたこともなかったようだ。なお、桓武の父である光仁天皇は白壁王と呼ばれた。これも推測に過ぎないが、当時は元服する前には親王や王と呼ばれることはなかったのかもしれない。

紀有常の妻

紀有常の妻は藤原内麻呂の娘である。ところが内麻呂は812年に死んでいる。有常が生まれたのは815年。つまり、有常の妻は、有常より少なくとも2才年上だということになる。

内麻呂の享年は56才。この年で子を産むことは、不可能ではないが、かなり珍しい。内麻呂の子らで生年が分かっているもので一番若い者でも、だいたい799年までに生まれている。
ということは、有常の妻は、有常より10才くらい年上だった、と考えるのが自然だということにならないか。

有常は幼馴染みの娘と結婚したが、後に有常が左遷されたので、妻と疎遠になった、という解釈はおそらく間違いなのだ。
「筒井筒」に見るような、仲睦まじい夫婦とは、有常ではなく、紀氏に伝わるもっと古い、別の伝承であろう。
紀氏が生駒山の麓に住んでいたのは、奈良時代のことに違いない。有常は平安遷都から20年後に生まれているのだ。

有常はおそらく元服と同時くらいに、ずっと年上の妻を名家から迎えた。女も本来ならばもっと高い身分の夫に嫁ぐつもりでいたかもしれない。たとえば姉の藤原緒夏は嵯峨天皇の夫人になっている。ところがずっと年下の有常の妻にされてしまった。何かの政略があった。つまり、有常は紀氏の長者となるためにあえて藤原氏の妻を娶った。藤原氏は紀氏を自分の郎党に組み込んだ。
有常の姪静子は文徳天皇の更衣となり、第一皇子惟喬親王や斎宮恬子内親王を生んだ。在原業平は有常の娘婿であり、業平は惟喬親王の身辺警護役だった。藤原氏も有常を無視することができないので、一族の娘を嫁がせたのだ。

それで第16段にも書かれているように、40年近くも連れ添ったのだから不仲ではなかったのだろうが、有常が思ったようには出世しないので、妻は姉(緒夏?)とともに尼になってしまった。

内麻呂は冬嗣の父で、生前に従二位右大臣にまでなった人だから、紀氏よりはずっと権力者であった。死後に贈従一位左大臣となったのは、冬嗣が娘順子を仁明天皇に入内させ権力を握ったからだろう。
有常が内麻呂の娘を娶ったことは有常の出世にはずいぶん有利だったはずだ。しかし冬嗣の子良房に藤原一族の権力が集中していく過程で、有常は左遷され、妻は有常を疎むようになり、ついには離縁することになったのに違いない。