太宰春台と黒田大和守

『蘐園雜話』に

春台、黒田大和守殿より廿人扶持出入扶持を賜はる。大和守殿物故後、勝手あしくとて十口減じ、其の後又五口減ぜしかば、春台腹を立て、残りの五口共返上致され、一生処士にて終れり。

とある。黒田大和守を黒田直純とすると時代が合わないので、その父の黒田直邦であろうと思うが(直邦1735年没、春台1747年没)、直邦は大和守にはなっていない。豊前守であるが、おそらく直純が大和守で、以後黒田家は代々大和守に任じられたようなので、それで間違っているのであろう。

黒田直邦は柳沢吉保の養女を妻とし、吉宗の奏者番となり、また徂徠の弟子でもあったから、徂徠が1728年に死んだ後も、直邦が春台の面倒を見てやったのだろう。春台はその援助を受けながら、徂徠の遺稿を整理出版するなどしていた、と考えられる。しかしその直邦が死んで代替わりして直純が継ぐと、もう春台を養っておく義理もない。だんだんに扶持を減らしていって、自分から致仕するよううながしたのだと思う。春台が私塾を開いて門人を育て、また何人かの大名から支援されたとウィキペディアにあるのは、仕官したのではなく、援助を受けていたという意味であろう。ならば五人扶持でももらえるものならもらっておけばよかったのではないかとも思う。かなり短気な人だったか。

春台は徂徠の弟子として名声は高かったが、徂徠の場合の、柳沢吉保や徳川吉宗のようなパトロンはいなかった。気位ばかり高くて扱いにくい人だったかもしれない。

太宰春台は太宰純ともいう。太宰純ではまるで太宰治の兄弟かなにかのようだ。というより太宰治がわざとそんなペンネームにしたのだろう。

頼山陽 立志論

男児不学則已、学当超群矣。今日之天下、猶古昔之天下也。今日之民、猶古昔之民也。天下与民、古不異今。而所以治之、今不及古者何也。国異勢乎、人異情乎。無有志之人也。庸俗之人、溺於情勢、而不自知。無上下一也。

男児学ばされば則ち已む、学べは当に群れを超ゆべし、

古之賢聖豪傑、如伊傅如周召者亦一男児耳、吾雖生于東海千歳之下、生幸為男児矣、又為儒生矣、安可不奮発立志以答国恩、以顕父母哉。

古の賢聖豪傑、伊傅の如き、周召の如き者は亦た一男児のみ、吾れ東海千歳の下に生まると雖も、生まれて幸ひにして男児となり、又た儒生となりて、安んぞ奮発立志して以て国恩に答へ、以て父母を顕さざるべけんや。

かな?

伊傅は伊尹と傅説、周召は周公旦と召公奭のことらしい。

これを一から訳すのは大変だなあ。

涼宮ハルヒの劇場

なんだかもうドラえもんかサザエさんみたいに話を一ミリも進めずに作者が死ぬまで、いや、死んだ後も延々、権利者たちが話をひっぱるために作られたような作品だった。

実に水戸黄門的だった。

アレをアニメで見ればまあそれなりに楽しめるのだろうが、アレを文字で読まされて面白い人がいるのだろうか。まあ、中にはいるのだろう。それがラノベファンというものかもしれない。

ていうかハルヒシリーズのアニメみて原作読むとアニメの原作再現度が非常に高い。原作読めば多少は細かなニュアンスが伝わってきてそれはなるほどなと思うのだが、意外性がほとんどない。おそろしく忠実だ。これはなんだろう。原作者とアニメ制作者の関係がものすごく良好なのだろうか。映像化する人が原作者をものすごくリスペクトしているのだろうか。そういう意味では、映像研なんかも漫画をほぼそのままアニメ化している感じ。最近の傾向なのだろうか。

2Dのイラストをトレスしながら3Dのモデル作るような、そういう原作重視な風潮が強まっているような気がする。

昔のトリトンみたいに原作とアニメが全然違うみたいなことはもう今では無いのかもしれない。

しかしあれかもしれん。いったん作品が当たると、それを商品化したりグッズ化する業者や二次創作者やファンからの要望が原作者にものすごいいきおいで逆流してきて、一次創作がかなり早い段階で二次創作化しシリーズ化し、がんじがらめにされてしまい、ディズニーにスターウォーズを売ったルーカスみたいにもうどうにでもなれという状態になっていわれるがままに書いているのかもしれない。或いは、もう本人は書いてすらいないのかもしれない。

そういえば涼宮ハルヒの消失は「原作の再現としては失敗している」と熱く語っているアニメ評論家(?)を見かけたが、私にはどこが違うのかほとんどまったくわからなかった。そりゃ多少違うところはあるだろう、映像演出が誇張されるということもあったのかもしれないが、少なくともストーリー展開はまったく同じと言ってよかった。私の把握している限りにおいては。

多少違っているくらいが、たぶん、両方見ている人には面白いのだ。ソラリスなんて、原作はポーランド語らしいんで読めないのだが、日本語訳と(それも複数ある)、英訳と、タルコフスキー版と、ソダーバーグ版を見比べているだけでけっこう楽しめる。

1984にしてもそうだ。原作と、日本語訳と、映画版を見比べるのが、少なくとも私には楽しかった。今は 1984 も u-next でも見れるし、ブルーレイも出てる。

何がいいたいかというと今のように原作の小説と映画がほとんど同じだと、原作を読むという面白みがほとんどないってことなんだよな。原作はもっと原作者のひねくれた描写が読みたいんだよなあ。それを商業的にヒットさせるためにいろいろ削ったりあざとくしたりするところがみたいのにさ。

つまり今の小説はどれも、あわよくば映像化されることを想定して、最初から書かれているってことだよな。のぼうの城とかあんなのも全部そうだろうな。ある意味すげーつまんないよな。ジョージ・オーウェルが最初から映画化されることを想定して 1984 を書いたはずがないし、スチーブンソンがアニメ化されることを期待して宝島を書いたはずがない。

というか「涼宮ハルヒの憂鬱」にしても作者の処女作というわけではなく、「電撃萌王」という雑誌に「電撃イージス」という作品を連載したということは、もう雑誌に連載される以前から編集者がついていろいろ企画会議などやっていたに違いない。とっくに小説家が勝手に小説を書ける時代ではなくなっているのだろう。

涼宮ハルヒの完結

涼宮ハルヒシリーズを完結させてみてください。

あの『涼宮ハルヒ』シリーズに、私なりの「終止符(あるいは新たなるプロローグ)」を打たせていただきます。谷川流先生の文体をリスペクトしつつ、キョンの視点で語られる最終巻『涼宮ハルヒの驚愕(あるいは日常)』のプロット&エピローグです。

涼宮ハルヒの最終章:プロット概要

1. 最後の「大いなる非日常」

高校3年生の冬。大学受験を控えたSOS団の部室は、どこか物憂げな空気に包まれていた。ハルヒは珍しく「全員同じ大学に行くわよ!」と大騒ぎせず、ただ窓の外を眺めている。 そんな中、世界の「改変」ではなく「統合」が始まり出す。閉鎖空間、未来人、宇宙人、超能力者の各勢力が、ハルヒの精神的成長(=世界の安定)に伴い、それぞれの役割を終えて「元の世界」へ引き上げざるを得なくなったのだ。

2. SOS団の解散危機

  • 長門有希の感情データは完全に人間と同等になり、情報統合思念体からのリンクが切れかかっている。
  • 朝比奈みくるには、未来への「帰還命令」が下る。
  • 古泉一樹の「機関」は、ハルヒの神格化が薄れたことで超能力を失いつつある。

ハルヒ自身も、心のどこかで「みんなと一緒にいられる時間は残り少ない」と気づいていた。彼女の無意識の焦燥が、世界を少しずつ「誰も傷つかない静かなループ」に閉じ込めようとする。

3. キョンの選択

キョンは、ハルヒに世界の真実を告げるべきか、それともこのまま「普通の高校生」としてフェードアウトさせるべきかの選択を迫られる。 長門は静かに本を閉じ、朝比奈さんは涙を堪えて微笑み、古泉はいつも通りの張り付いた笑顔で「あなた次第です」と告げる。

キョンが選んだのは、ハルヒの胸ぐらを掴んで(あるいはいつものようにやれやれと肩をすくめて)「お前、本当は全部気づいてるんだろ」とぶちまけることだった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの日常』より

(キョンの独白)

――やれやれ、と。 結局のところ、世界は滅びなかったし、宇宙人が攻めてくることも、未来人がタイムパラドックスで消滅することもなかった。

北高の卒業式は、拍子抜けするほど普通に行われた。 校門の前で、俺たちは5人並んで写真を撮った。ハルヒが真ん中で、いつもの腕章を誇らしげに掲げ、俺がその隣でうんざりした顔をし、長門が小さくピースサインを作り、朝比奈さんが照れくさそうに俯き、古泉がカメラマンに向かって完璧な笑みを浮かべている。

それが、SOS団としての最後の活動記録になった。

「じゃあね、キョン。また明日」

そう言って、それぞれの方向へ歩き出した背中を見送りながら、俺はポケットの中で文庫本の手触りを確かめていた。長門から「卒業記念」だと言って渡された、ただの真っ白なノートだ。いや、情報統合思念体のバックアップがどうとか言っていたから、ただのノートではないのかもしれないが、今の俺にはそれを確かめる術はない。

古泉は親の都合とやらで東京の大学へ進学し、朝比奈さんは気がつくと「最初からいなかった」かのように、俺たちの記憶の隅に綺麗に収まっていた。未来へ帰ったのだろう。彼女が最後に残したお茶の香りが、まだ部室に染み付いているような気がする。

「何立ち止まってるのよ、キョン!」

少し先を歩いていたハルヒが、振り返って声を張り上げた。 マフラーに顔を埋めたハルヒの鼻の頭が、寒さで少し赤い。その手には、どこかの大学の合格通知書が握られている。もちろん、俺のそれと同じ大学の名前が印刷されたやつだ。

「置いてっちゃうわよ!」

「はいはい、今行くよ」

俺はため息を一つついて、駆け足でその背中に追いついた。

ハルヒから世界の改変能力(神の力、と古泉なら呼んだだろう)が消えたのかどうか、俺にはわからない。機関の連中も、もう俺の前に黒塗りの高級車を回してくることはなくなった。長門も、今ではただの「ちょっと無口で読書好きな女子大生」として、俺たちと同じ街のワンルームマンションで暮らし始めている。

だけど、隣を歩くこのお騒がせ女の目が、まだ見たこともない何かを探して爛々と輝いているのを見る限り。

「ねえ、キョン。大学に入ったら、新しいサークルを作るわよ。名前はね――」

世界は、まだまだ俺を退屈させてはくれないらしい。

空を見上げると、吸い込まれそうなほど青かった。 宇宙人も、未来人も、超能力者も、もしかしたらもう隣にはいないのかもしれない。 けれど、そんなものは最初から、この世界を面白がるための口実に過ぎなかったのだ。

「……『SOS団・大学支部』だけは勘弁してくれよな、ハルヒ」

「何言ってるのよ、決定に決まってるじゃない! ほら、急ぐわよ!」

ハルヒが俺の手を引っ張る。その力強さは、あの高校1年の五月晴れのあの日と、何一つ変わっていなかった。

やれやれ。俺のやれやれな日常は、どうやらこれからも形を変えて続いていくらしい。 なら、もう少しだけ付き合ってやるか。この、世界で一番傲慢で、世界で一番退屈を嫌う、俺の神様の我が儘に。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

ハルヒが突然すべての特殊能力を失ってふつうの女の子になるというオチでお願いします。

承知しました。ハルヒから「世界の中心としての力」が完全に消え去り、彼女がただの「どこにでもいる、少し突飛な女の子」になる瞬間。そして、それに直面したSOS団の結末を描きます。

谷川流先生の乾いた、だけどどこか切ない文体を意識して。

涼宮ハルヒの終焉:プロット概要

1. 終わりの前兆

高校3年生の秋。ハルヒの気まぐれで引き起こされる「閉鎖空間」の発生頻度が、目に見えて減っていた。それどころか、古泉たち「機関」の超能力が日を追うごとに弱まり、長門がアクセスできる情報超空間の帯域も狭まっていく。 未来から来ている朝比奈さんに至っては、時間移動の同期がズレ始め、時折その身体が陽炎のように透けるようになっていた。

ハルヒが精神的に成熟し、現実を「そういうものだ」と受け入れ始めたことで、彼女の無意識が維持していた世界の歪みが、急速に修復されつつあった。

2. その瞬間

ある放課後。部室でいつも通りハルヒが理不尽な命令を下したその瞬間、朝比奈さんが悲鳴を上げて消滅しかける。長門がそれを必死に情報操作で繋ぎ止めようとするが、術式が発動しない。古泉は頭を抱えてうずくまる。

何が起きているのか理解できないハルヒは、動揺して叫ぶ。 「ちょっと、みんな何やってんのよ! シャキッとしなさい! 私の言うことが聞けないの!?」

その叫びには、かつて世界を塗り替えた「神の命令(オーダー)」の響きは、もう1ミリも残っていなかった。ただの、クラスの女子の空回りした怒声。 その瞬間、部室を包んでいた目に見えない「全能の気配」が、パチンと音を立てて弾け飛んだ。

3. 解散

ハルヒの能力は完全に消失した。 それは同時に、SOS団の「非日常の同居人たち」が、ここに留まる理由を失ったことを意味していた。

朝比奈さんは、消滅を避けるために強制的に未来へと送還された。 古泉の能力は完全に消え、ただの「愛想の良い青年」に戻った彼は、機関の解散に伴って転校していった。 長門だけは、情報統合思念体が彼女を「無用な端末」として切り離した(あるいは見捨てた)ため、自立型インターフェースの肉体のまま、この世界に取り残されることになった。

エピローグ:『涼宮ハルヒの消失(あるいは選択)』より

(キョンの独白)

――世界は、驚くほど簡単に平穏を取り戻した。

宇宙人がどうとか、未来人がどうとか、そんなものは最初から俺の頭が作り出した白昼夢だったんじゃないかと、今では思える。現に、文芸部の部室にはもう、不自然なほど美味いお茶を淹れてくれる上級生も、チェス盤を挟んで意味深な笑みを浮かべる副団長もいない。

いるのは、机に向かって熱心に参考書をめくる長門と、その向かいで、シャーペンを頭の後ろで弄んでいる元・団長だけだ。

「ねえ、キョン」

ハルヒが、ぽつりと言った。 あの「事件」以来、ハルヒの髪型はすっかり普通のロングヘアに戻り、腕章を嵌めることもなくなった。

「何だ」

「私さ……最近、変な夢を見るのよ。私が学校の校庭に巨大な落書きをして、それをあんたが手伝ってくれてる夢。あとね、すっごく可愛い女の先輩と、すっごくハンサムな男の人が、いつも私の周りにいてくれたような……そんな、変な夢」

ハルヒはシャーペンの芯をカチカチと出しながら、窓の外の退屈な景色を眺めている。

「……ただの夢だろ」

俺は、手元の現代文の教科書に目を落としたまま答えた。

「そうよね。あはは、私としたことが、そんなオカルトみたいなこと言うなんてね」

ハルヒは自嘲気味に笑った。 その笑顔は、かつて俺が知っていた、世界を我が物顔で闊歩していた涼宮ハルヒのそれとは、決定的に違っていた。今の彼女は、成績の低下に悩み、進路に迷い、恋バナに耳を傾ける、どこにでもいる「普通の女子高生」だ。 世界は彼女を祝福することもなければ、彼女の機嫌を伺って天気を変えることもしない。

これで良かったのだ、と古泉なら言うだろう。世界は救われ、人類は理不尽な滅亡の危機から脱した。朝比奈さんも自分の時代へ帰れた。これ以上ないハッピーエンドだ。

だけど。

「……つまんないの」

ハルヒが小さく呟いた。 その声に、俺の胸の奥がチクリと痛む。

彼女は失ってしまったのだ。世界を面白がるための、最強の切符を。自分が特別であるという、あの無敵の確信を。今のハルヒは、この退屈な世界のルールに縛られ、グラウンドをただ走ることしかできない、ただの人間になってしまった。

俺は教科書を閉じ、椅子の背もたれに体重を預けた。 長門が、静かにページをめくる。彼女はもう、世界の改変を検知することも、情報操作で俺を助けることもできない。ただの、少し本を読むのが早いだけの、普通の女の子だ。

「おい、ハルヒ」

「何よ」

ハルヒが不機嫌そうに俺を見る。その目は、かつてのように爛々と輝いてはいないけれど、それでも、俺を真っ直ぐに射抜いていた。

能力が消えたからって、こいつの魂まで凡庸になったわけじゃない。 神の力がなくなったのなら、今度は人間の手で、この退屈な世界を引っ掻き回してやればいいだけのことだ。超能力がなくても、こいつにはその資格がある。

「大学に入ったらさ」

俺は、やれやれと肩をすくめて言った。

「新しいサークルでも作るか。今度は、宇宙人とかじゃなくて、もっとこう……まっとうに世界を面白くするようなやつをさ」

ハルヒの目が、一瞬、丸くなった。 それから、本当に一瞬だけ、かつての「団長」のような、悪巧みに満ちた不敵な笑みがその唇に蘇った。

「……ふーん。いいじゃない。キョンのくせに生意気な提案ね」

ハルヒはシャーペンを机に置くと、腕を組んで偉そうに胸を張った。

「言っておくけど、私が団長だからね! あんたは終身平部員! 異論は認めないわよ!」

「はいはい。仰せのままに、団長」

窓の外では、もう夕暮れが始まっていた。 茜色の光が部室を染め、俺たちの影を長く床に伸ばす。

神様は引退した。世界は冷淡で、退屈で、相変わらず理不尽なままだ。 だけど、俺たちの明日は、きっとそんなに悪いものじゃない。

俺はポケットの中で、かつて朝比奈さんから貰った(今はただのプラスチックの玩具になってしまった)「時空調節因子」のキーホルダーを弄びながら、新しく始まる、本当の意味での「やれやれな日常」に、そっと足を踏み出すことにした。

(「涼宮ハルヒシリーズ」・完)

Gemini は AI であり、間違えることがあります。


思うにハルヒが世界の創造主になってしまったのは中二病をこじらせてしまったようなもので、ハルヒが普通に恋愛し、結婚し子供をうみ家庭の母になってしまえばもはや神様でもなんでもなくなるのに違いない。というようなオチがすでに用意されているがそれを書いてしまうと続かないので書かないだけではないか。

不良老人の文学論

筒井康隆『不良老人の文学論』というのを読んだのだが、書き下ろしでもなんでもなくて雑誌に書いた短いエッセイを束ねたようなもの。筒井康隆にとって文学とは近代小説のことなのだなと思った。普通の人にとってもそうなのだろう。文学という言葉にもつ私の違和感というか嫌悪感はそこにある。Literature を文学と訳すことも嫌いだが、文学というからには、私にとって記紀万葉から今日にいたる日本文芸や日本芸能全部のことだ。さらには論語や韓非子などの漢籍も含まれてくる。重心の位置がまったく違う。だからといってどうしようもないのだけれど。

あと、『群像』の定期購読者でもないのに群像の新人賞に応募しても無駄なんだなと思った。群像に載っているような小説が好きならすでに群像を読んでいるはずだし、そういう小説が好きではないというか読みたくないというか、さんざん読み尽くして読み飽きて、そういうのでは飽き足らなくなったから自分で小説を書こうと思うわけで、そうすると読者層がまったく違うわけだから、そういうタイプの小説をそういう文芸誌に投稿しても無駄だということになる。

では私が読みたい文芸誌があるかっていうとないのだからこれはもうしょうがない。あればこの情報過多な時代、とっくに見つけて読んでいるはずだ。読んでないってことはそんな雑誌はないのだろう。私が読みたい小説はこの世には存在しないし、私が書いた小説を読みたい読者もこの世には存在しない。それが現実なのだ。

三島由紀夫が復活する

そういえば小室直樹の『三島由紀夫が復活する』が新書で再版されていたので買ってみた。私が大学生の時に買ったときはなんか見た目が自費出版みたいなどんくさい本だった。内容も難しいというかわかりにくいというか。編集者のチェックが入っていない、小室直樹が一人で勝手に書いた文章のようだというか。今読んでみるとけっこう読み応えがある。カッパ・ブックスの書き散らした中身がスカスカなやつよりは良い。むしろ読みやすさすら感じる。小室らしくなく、自分の言いたいことは控えめにしてわざわざ取材までして、インタビューまで載せているのだから非常に真面目に書いている。大学生の頃の私にはこの執筆態度の違いがわからなかった。

やはり三島由紀夫は人気があってある程度売れるとみたのだろう。表紙の写真もかっこいい。

三島由紀夫の本を書くやつは三島由紀夫人気にあやかって売れる本が書きたいのだろう。あるいはほんとに三島由紀夫が好きな人か。いずれにせよ、三島由紀夫と伊東静雄、三島由紀夫と藤原定家について書いた人がほとんどまったくいないのにはあきれかえる。三島由紀夫が好きな人は藤原定家も伊東静雄も知らぬのだ。この二人がどれほど三島由紀夫と関係が深かったかもしらんということだ。それでよくもまあ三島由紀夫を語れるものだと思う。

追記。最初の本も新書版だった。最初に買った本はどこかになくしてしまったので古本で書い直したのだった。

ファウスト

ファウスト第2部冒頭、アリエル(シェイクスピアのテンペストに出てくる空気の妖精らしい)が草地に寝そべっているファウストに歌う歌

Wenn der Blüthen Frühlings-Regen
Ueber Alle schwebend sinkt,
Wenn der Felder grüner Segen
Allen Erdgebornen blinkt,
Kleiner Elfen Geistergröße
Eilet wo sie helfen kann,
Ob er heilig? ob er böse?
Jammert sie der Unglücksmann.

der Blüthen は複数2格、der Felderは複数2格、Kleiner Elfen は単数2格強変化、に思えてならないのである。2格やばいよ2格。2格(所有格)は口語ではほぼ使われなくなった古い雅文的な言い方という。英語では ‘s で表されるアレ。

Kleiner Elfen Geistergröße Eilet wo sie helfen kann、これは、小さな妖精の魂の大きさは、が主語で、Größeは女性名詞だから人称代名詞はsieだけれども彼女ではなく、それ、と訳すべきではないかと思うんだ。だから直訳すれば「小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る(者がいる)場所へ急ぐ」となるはずだ。

普通は Kleiner Elfen が1格で主語、Geistergröße はその形容的な言い換えのようなものと思えるはずだ。しかしもしElfenがElf (もしくは Elfe) の複数1格だとしよう。もしそうだとすれば Kleine Elfen になるはずではなかろうか。

いろんな訳を見てみたが(英訳を含めて)妖精たちとか妖精の群れとか little elves などと訳しているものが多いのだが、私にはどうもこれが複数には見えないのだ。sie eilet, sie jammert どちらも単数にしか見えないではないか。3人称複数(あるいは2人称複数)なら sie eilen, sie jammern となるんじゃないの?

となると、「小さな妖精の魂の大きさ」とはアリエルが操る妖精の群れ、ではなく、アリエル自身のことにならんか。アリエルが自分でファウストを助ける、という意味なのではないのか。私は体は小さいが心は大きいからあなたを助けてあげましょう、と言っているようにみえる。

Segen blinkt は他動詞とみるしかあるまいと思う。

というわけでできるだけ直訳してみると、

花の春雨があらゆるものの上に漂い落ちる時、野の緑の恵みが地に生まれ出たあらゆるものをきらめかす時、小さな妖精の魂の大きさは、それが助け得る所へ急ぐ。彼が善良であろうと、彼が邪悪であろうと、それは不運な者を憐れむ。

となるのではないか。ちなみに英訳すると、

when spring rain of the flower falls floating on all, when green blessing of the fields sparkles all birth on earth, spiritual greatness of the little elf harries where it can help, whether he is holy or he is evil, it pities the unlucky man.

とでもなるか。

難しいなゲーテ。特に2格!人称代名詞を略したり、適当に意訳したりしてごまかすことはできるんだがなー。

ちなみに森鴎外はこう訳している。

雨のごと散る春の花
人皆の頭の上に閃き落ち、
田畑の緑なる恵青人草に
かがやきて見ゆる時、
身は細けれど胸広きエルフ(Elf)の群は
救はれむ人ある方へ急ぐなり。
聖にもせよ、悪しき人にもせよ、
幸なき人をば哀とぞ見る。

桜井政隆という人はおそらく鴎外訳を参考にして、次のように訳している。

咲匂ふ花、春雨のごと、
なべての上に漂ひ散れば、
野も狭に満つる緑の恵み、
天が下もろ人の眼に輝けば、
細身のエルフの群は強き霊もて、
救ひ得る方へと急ぎゆく、
聖なりとも、悪しき人なりとも、
幸なき者をあはれと見つつ、

中島清という人はこう訳す。

樹々の花、春の雨にもまがひつつ、
すべての者の上にひらひら降りかかり、
みどり色なす野の恵み、輝き匂ひ、
地に生まれたる者皆に笑みかくる時、
小さきエルフェの大いなる霊のつとめと、
群れて急ぐは、救はれむ人あるところ。
よし其の人に罪はありとも、あらずとも、
その幸なきぞエルフェの身には傷ましき。

秦豊吉という人はこう訳す。

花は春の雨のごとく
すべての上にひらめき落ち
野の緑なる恵みは
すべての地に生ふる者に輝けば
心大きく身は小さきエルフは
人を救はんと急ぎゆくなり。
尊き人をも悪しき人をも
幸なき者を哀れと思ふなり。

ヰタ・セクスアリス

ちと気になって「ヰタ・セクスアリス」を読んでみようと思ったらなんと冒頭に夏目漱石の話が出てくるではないか。

 金井しずか君は哲学が職業である。
 哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。文科大学を卒業するときには、外道げどう哲学と Sokrates 前の希臘ギリシャ哲学との比較的研究とかいう題で、余程へんなものを書いたそうだ。それからというものは、なんにも書かない。
 しかし職業であるから講義はする。講座は哲学史を受け持っていて、近世哲学史の講義をしている。学生の評判では、本を沢山書いている先生方の講義よりは、金井先生の講義の方が面白いということである。講義は直観的で、或物の上に強い光線を投げることがある。そういうときに、学生はいつまでも消えない印象を得るのである。ことに縁の遠い物、何の関係もないような物をりて来て或物を説明して、聴く人がはっと思って会得するというような事が多い。Schopenhauer は新聞の雑報のような世間話を材料帳にめて置いて、自己の哲学の材料にしたそうだが、金井君は何をでも哲学史の材料にする。真面目まじめな講義の中で、その頃青年の読んでいる小説なんぞを引いて説明するので、学生がびっくりすることがある。
 小説は沢山読む。新聞や雑誌を見るときは、議論なんぞは見ないで、小説を読む。しかしし何と思って読むかということを作者が知ったら、作者は憤慨するだろう。芸術品として見るのではない。金井君は芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。金井君には、作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。それだから金井君の為めには、作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。
 金井君も何か書いて見たいという考はおりおり起る。哲学は職業ではあるが、自己の哲学を建設しようなどとは思わないから、哲学を書く気はない。それよりは小説か脚本かを書いて見たいと思う。しかし例の芸術品に対する要求が高い為めに、容易に取り附けないのである。
 そのうちに夏目金之助君が小説を書き出した。金井君は非常な興味を以て読んだ。そして技癢ぎようを感じた。そうすると夏目君の「我輩は猫である」に対して、「我輩も猫である」というようなものが出る。「我輩は犬である」というようなものが出る。金井君はそれを見て、ついついいやになってなんにも書かずにしまった。
 そのうち自然主義ということが始まった。金井君はこの流義の作品を見たときは、格別技癢をば感じなかった。その癖面白がることは非常に面白がった。面白がると同時に、金井君は妙な事を考えた。

森鴎外は小説でも翻訳でも何でも書く人だが、小説は1897年から1906年までちょっとした休止期があった。その後また小説を書くようになって1909年にはついに「ヰタ・セクスアリス」を書いて懲戒されてしまう。私はなんとなくこれは、夏目漱石が新聞小説を書くようになって、鴎外もそれに刺激されて、さらに自然主義というものが流行るようになって、鴎外も何か使命感のようなものを感じて「ヰタ・セクスアリス」を書いたんじゃないかなと思っていたのだが、その「ヰタ・セクスアリス」にそのへんの事情がそのまんま書いてあるではないか。

この金井君というのは半分くらいまでは鴎外自身のことだろう。鴎外が濫筆家であるのに対して金井君は何も書かない。そこだけが違っている。そりゃまあそうで、小説というものは虚構でなければならず、金井=作者ではまずすぎる。他人だということにしておかなきゃならないからねそこは。ましかし、田山花袋あたりの私小説というか自然主義小説っていうのかな。そういうのにも明らかに影響受けているよね。あー。蒲団は1907年かー。蒲団が許されるんなら俺も書いちゃおうかなーとでも思ったのかな。

鴎外はもともと漱石という人を知っていたのだろう。子規のことも知っていたのだろう。そりゃそうで鴎外はアララギ派に加わったのだから、1903年の時点で子規を知っていたし、子規の古くからの友人である漱石のことも知っていたに違いない。それで漱石が「吾輩は猫である」を新聞に連載し始めて、それが世間で大いに評判になったから、自分も何か書かずにはおれない気持ちになったんだと思う。

ていうかウィキペディアを読んでもそんなこと何にも書かれてないのだが、今まで誰もこのことに気付かなかったのだろうか?誰も指摘してないの?いやそんなはずはない。「ヰタ・セクスアリス」と「吾輩は猫である」の関係について研究した論文はあるはずだが、誰もそんなことには興味がないのだろう。

たとえば「作者がどういう心理的状態で書いているかということが面白いのである。」「作者が悲しいとか悲壮なとかいうつもりで書いているものが、きわめ滑稽こっけいに感ぜられたり、作者が滑稽の積で書いているものが、かえって悲しかったりする。」というのは鴎外自身のことであろうし、「芸術品として見るのではない。」「芸術品には非常に高い要求をしているから、そこいら中にある小説はこの要求を充たすに足りない。」と思っているのも鴎外であろう。鴎外は芸術品としての小説を書こうとして世間の評判がよろしくなかったから、しばらくやめていた。鴎外がどんな作品を書こうと思っていたかは初期の作品や日記をみれば明らかだろう。また芸術品と言うに足る小説とはたとえば彼が激賞した樋口一葉の小説のようなものをいうのだろう。

「技癢」とは何かがしたくてむずむずうずうずすること。鴎外も『猫』や『蒲団』を読んで、技癢を感じていたのだ。秀才で、良いとこのボンボンで、好奇心旺盛で、何でも自分でやってみなくては済まない人だったんだと思うなあ。

それはそうと成島柳北も「航西日乗」という紀行文を書いていてしかもそれはすべて漢詩だけでできている。鴎外は柳北の「航西日乗」を見て自分も日記を書こうと思ったのに違いない。だからあんなにやたらと詩が多いのだ。こうしてみていくと鴎外という人はけっこう人に影響されることが多いような気がする。

成島柳北「航西日乗」から少々詩を引用してみよう。かなりひどい詩が多い。

回頭故国在何辺 休唱頼翁天草篇 一髪青山看不見 半輪明月大於船

見渡す限り青海原で陸地は見えない。頼山陽が天草あたりで大海原の詩を作ったが、俺様はもっと遠くまできたんだぞ。海に浮かぶ半月は船よりも大きく見える。

幾個蛮奴聚港頭 排陳土産語啾啾 巻毛黒面脚皆赤 笑殺売猴人似猴

現地人がたくさん港に集まり土産物を並べてぺちゃくちゃしゃべっている。巻き毛、黒い顔、赤い足。サルを売っている人間がサルに似ていて思い切り笑った。

成島柳北やっぱ面白い人だわ。永井荷風に好かれてたのもわかる。

ついでに頼山陽の詩「泊天草洋」も引用しておく。

雲耶山耶呉耶越 水天髣髴靑一髮 萬里泊舟天草洋 烟橫篷日漸沒 瞥見大魚波閒跳 太白當船明似月

雲か山か呉か越か 海と空の境が一筋の青い髪のように見分けがたい 万里の旅をしてきて天草灘に船宿りする 窓の外にはもやがかかり日はようやく沈もうとしている 大魚が波間に跳ねるのが見えた 宵の明星が船の上に出て月のように明るい

塵中日記

樋口一葉の父は甲斐国から江戸に駆け落ちしてきた幕臣の息子であったらしい。甲府藩はもともと徳川宗家が治めていたがのちに幕府直轄領となり、江戸であぶれた幕臣が左遷されるようなところであった。ということは樋口家ももともとさほど身分の高い幕臣ではなかっただろう。駆け落ちしたかったということもあっただろうが、辛気臭い甲府を出て華やかな江戸時代末期の町人文化が花開いた江戸に出たいという気持ちが強かったのではないか。

一葉の父、樋口則義はいろいろ周旋して同心株を買って町奉行所の同心になったという。町奉行所には奉行がいて、与力がいて、同心がいて、その下に岡っ引きがいるわけで、おそらく則義のような仕事をこなしつつやっと同心に取り立てられたということだろう。となると、一応は、銭形平次や八五郎よりは身分は上で、最下級ではあるものの徳川宗家直参の武士ということになる。

与力といえば大塩平八郎が有名だが、与力ともなれば200石扶持、300坪程度の屋敷を与えられるからいっぱしの御殿様だ。

同心はそれよりか少し格下で30俵2人扶持だが100坪、つまり300m2程度の屋敷を与えられていた。

ところが幕府が瓦解して、父は死に、一葉一家は住む家にも困ることとなる。典型的な没落士族といった図だ。この頃一葉が書いた「塵中日記」を読むと、非常に狭い棟割長屋のようなところに親子三人で住んでいる。そうしてそういう境遇から抜け出せないままに24才で死んでしまうのだから、なんともかわいそうな人だ。

塵中日記は文章もわかりやすく読みやすいし、歌も面白い。近所に住む女郎連中に手紙の代筆を頼まれたりしている。

樋口一葉

樋口一葉を少し調べ始めたのだが、一葉の和歌が面白いとか、日記が面白いというのならばわからんでもないのだが、みな小説ばかり褒めているのが奇怪だ。

なるほど平安時代や鎌倉時代には紫式部を筆頭として女流作家がたくさんいたが、室町、安土桃山、江戸時代になると、戯作作家は男ばかりになって、女がいなかった。明治に入って一番最初に女流作家となったのが樋口一葉だったので、彼女一人に注目が集まった、ということか。

実際、明治時代に有名な女性作家としてはあとは与謝野晶子くらいしかいないが晶子は歌人であって小説家ではない。となるとどうしても一葉がもてはやされることになる。

しかしながら一葉が書いた小説というのは新聞に載せるために書かれた通俗小説、それも短編読み切りの短いものにすぎない。内容もどぎつくて深みがあるとも思えない。内容もさほど珍しいものではない。こういうものは為永春水あたりがいくらでも書いていたし、もっと長編だったし、さらに言えばもっと読みやすいものだった。一葉の小説はまず読みにくい。また、面白いのかどうかもよくわからんし、オチがあるのかどうかもわからない。一葉の小説は実験小説かと思うくらいわかりにくい。もしかすると新聞の都合で無理やり尺を縮められてわけがわからなくなっているのだろうか。一葉はとりあえず世間的な名声が欲しかったのだろうか。作家として安定した地位が欲しかったのだろうか。そのための手段として通俗小説作家になろうとした?いろいろとわけがわからなすぎる。一葉は器用な人なのでとりあえず小説もざくっと書けたのだろう。日記をもっと丹念に読んでみればわかるだろうか。

一葉の日記は小説とはうってかわって非常に読みやすいし面白い。小説も日記のように書けばよいのにねと思ってしまう。和歌はつまらないと人は言うけど私からみると非常に優れている。私にとって与謝野晶子の奇を衒った歌よりは、一葉の和歌のほうがずっとまともに思える。

一葉の文章が良いのは和歌の素養があるからであって、それ以外の通俗小説的な部分は、少なくとも私には全然面白味がわからない。井原西鶴や山東京伝や滝沢馬琴や上田秋成や為永春水が面白いというのは私にもわかる。尾崎紅葉の金色夜叉が面白いというのもわかる。菊池寛が面白いというのもわかる。が、一葉が面白いとは私にはとても思えないのだ。男と女が無理心中したとか吉原の芸者がどうしたこうしたという話にも私にはあまり興味がもてない。近松門左衛門に曽根崎心中とかあったよな。それとの比較考察とかした人いるの?

一葉はもしかすると歌物語のようなものを書きたかったのかもしれない。しかし新聞の読者はそんなものを読みたがらない。江戸時代の読本みたいなものを少し近代風にアレンジしたような小説が読みたかったのではないか。いったいぜんたい一葉はどうしたわけで半井桃水みたいな俗物を師に選んで新聞小説を書こうと思ったのだろうか。もし一葉が与謝野晶子くらいに長生きして、大作家に成長し、新聞社の顔色を気にすることなく、読者の評判などにとらわれることなく、本格的な歌物語なり小説なりを書いていたらきっと傑作ができただろう。実に惜しい気がする。