祭如在、祭神如神在。

祭如在、祭神如神在。これが古いことわざか詩の引用であるのは間違いあるまい。在ます如く祭れ。神を祭るに神在ます如くにす。これに対して孔子が「吾れ与からざれば祭り在らざる如し」とコメントしているのである。

宮崎市定はこれを「祭如在祭、神如神在。」と四字ずつに切ったほうが良いという。つまり「祭如神在祭、神如神在。」と言いたいのだ。神の祭に在る如く祭れ。神は神在る如し。うーんどうかな。

言いたいことは同じだよな。祭りには神がほんとにいると思って祭れ。自分も直接祭りに関与しなきゃ祭りにならないよと言いたいのだ。

以徳報怨

日本が敗戦したとき、蒋介石が以徳報怨の精神でもって、日本に対応しようと演説したというのだが、どうもこれは怪しい。

以徳報怨は論語に由来するのだが、孔子は以徳報怨(徳を以て恨みに報いる)ということについてどう思うかと聞かれて、以直報怨(直を以て恨みに報いよ)、つまり恨みには平常心で報いよと言っているのである。さらに以徳報徳とも言っている。以徳報徳とは二宮金次郎の報徳論であるから、金次郎はちゃんと論語を理解していたといえる。

論語

いろいろあって論語を読み始めたのだが、この論語というものは、すべてが孔子の言葉、孔子と弟子の対話集というのではなくて、半分くらいは、当時のことわざ集、名言集のようなものではなかっただろうか。もとは複数のソースがあって、それが後にごちゃまぜになった。短いものもあれば長いものもあり、長いものはそらで暗記できるようなものではなく、最初から書いて記録されたものであろう。それに対して非常に短くて文字によらずに口承で伝えられたとおぼしきものがある。

宮崎市定も指摘しているが、論語には詩からの引用が多く、また今は伝わっていない詩や書からの引用がかなりあるように思われるのである。詩曰のように明示的に書かれなかったものは子曰のようになったのではないか。孔子自身がそうしたことわざを集める人であって、それを人に言ったのが子曰になったかもしれない。

詩を解釈するのも儒者の仕事であったかもしれない。

たとえば「朝聞道、夕死可」「徳不孤、必有隣」などはこれは詩でなければことわざであろう。わざわざこういった言葉をいくつもいくつも孔子自身が思いついて教える理由が無い。もしそんな人がいたらそういう人は今でいうコピーライターかなにかだろう。

当時の詩というのは主に四字単位になった、伴奏をつけて歌うのに便利な文句であっただろう。そういう目的には必ずしも適さない、短い句、ことわざを、孔子はたくさんコレクションしていた。それが当時の学者の仕事の一つであったかもしれない。

レオナルド・ダ・ビンチの手記にしてもあれはすべて彼が発明したのではなく、彼は単なるテクニカルイラストレーターであったという説が今では有力であるように、孔子ももともとはそうした人、つまり、稗田阿礼的な、詩文をいろいろ暗記して語れる人だったかもしれない。

伊勢物語も単一の著者によるものというより、いくつかの核となる物語があって、それに当時のさまざまな物語が合わさったコレクションというたぐいのものであろう。論語もそうして成立したと仮定するほうがしっくりくる。

ソクラテスの話なんかは、あれは明らかに最初から文字に書いて、おそらくは演劇の台本かなにかのようにして記録されたのだろう。政治劇として、実際に演じられたかもしれない。

釈迦釈空 老子談虚 孔子伏笑

太宰春台が初めて荻生徂徠に会ったときに、扇に釈迦と老子が並び立ち、孔子が平伏している絵を描いて、これに画讃を求めたところ、徂徠は

釈迦釈空 老子談虚 孔子伏笑(釈迦は空を釈き、老子は虚を談じ、孔子は伏して笑う)

と書いた。春台は徂徠の才、窺い難しと喜んで、弟子になったと『蘐園雑話』にある。よくできた作り話だなあ。

太宰春台と平田鐵胤の墓

根津、天眼禅寺にある太宰春台のお墓にお参りした。享年1747年だから、今から300年近く前の墓にしては、きれいな墓石で、文字もはっきりと読める。手入れもされていて、苔むしたりはしていない。もともとそれなりに良い石を使ってあるのだろうか。

本堂には三つ葉葵の扉がある。松平家ゆかりの寺だが臨済宗なのは少しめずらしい。

今どきの御影石の墓石はきれいだが風情がない。最近はなんでもかんでも御影石だ。

そのあと巣鴨のとげぬき地蔵など行き、それから芥川龍之介、谷崎潤一郎などの墓などもお参りにいったのだが、途中珍しいお墓があったので寄ってみた。平田篤胤の娘と結婚して平田鐵胤(かねたね)と名乗った人だ。つまり篤胤に養子縁組した篤胤の弟子なのだ。このあたりは区画ごとに囲いがしてあって、なかなかたどり着けない。しかも一番奥で藪蚊がひどかった(クモの巣もある。行くには用心したほうがよい)。岡倉天心の墓のさらに奥。

平田篤胤は秋田の出身だが脱藩して江戸に住み、山鹿素行流兵学者の平田家に養子で入り、この墓はその平田家代々の墓であるらしい。平田篤胤の墓は本居宣長の墓の隣、つまり伊勢松坂にあるはずなので、ここではないということでよかろうか。

染井霊園は墓石の形はおおむね普通だが、明治政府が神葬祭地に指定し、東京府が管理したのだというから、ここのお墓はみな仏教徒ではなく神道家だということか。それから東京市に移管され、今は東京都が管理している都営霊園ということでよかろうか。なんかわからんことだらけだ。ウェブサイトなどもしっかりしていて万事ちゃんとしている。

このあたりはどこまでも墓地だが、寺が管理していたり都が管理していたり、その区画ごとに囲まれていて、かなり迷う。

護国寺や雑司ヶ谷霊園にも行こうと思ったのだが、眠いし暑いしで疲れ果ててしまった。荻生徂徠の墓は白金高輪のほうにあるし。正岡子規の墓は田端のほうだし。も少し時間をかけないとちゃんと墓参りはできない。

太宰春台

上田秋成『胆大小心録』に

聖人もだんだんご身代が大きうならしゃまして、悪人がたを加へねば、芝居がうてぬやうになつた事じゃ。ある儒者が、聖人とはなんでも国の乱れを治めたのが聖人じゃといふたは、末世の早算用なり。国を盗める候となる。候の心に仁義とはくだくだしいて聞こえにくい。その儒者どのが其の心ゆゑ、身持ちが悪くて、徂徠学じゃといへば、今の俳諧師のやうな相場じゃあったげな。太宰といふが力まれても、とかくに本家の評判が悪いから、とんとあとがない。

また頼山陽『山陽先生書後』「書徂徠集後」に

南郭の如きは王李に克肖し、其の師を踰ゆる有れど、而して観るに足らず。春台の能く其の師の非を悟るは豪傑と謂ふべし。

などとある。秋成の秋成節は何を言っているのかいつもながらよくわからんが、徂徠よりも春台のほうを高く評価しているようにもみえる。山陽も徂徠よりは春台のほうがまだましだと言っている。

しかし私が徂徠の書いたものと、春台が書いたものを見比べるに、春台は徂徠のおかげで名は売れて、文章も達者で、相当世間を騒がせたようだが、結局は徂徠の焼き直しにすぎず、徂徠と違うあたりには頭のおかしなことを言っているだけのようにみえる。それが「太宰といふが力まれても」という評になったか。

当時の人々にとって徂徠が有名だったのは間違いないが、何かしら徂徠はうとましい存在だったのかもしれない。春台のほうがなぜかしら好ましい人に見えたのかもしれない。しかし春台はろくに就職もしてないし、宮仕えなどできるような人でもなかったようにみえる。

要するには私には、山陽や秋成が春台を高く買っているのが不思議だということで、漱石も春台が嫌いではなかったし、春台がなぜそんなに評価されているのか、わけがわからないのである。

『山陽先生書後』なんだけど国会図書館デジタルコレクションには天保時代の木版本しかない。ふざけんなと言いたい。かっちりとした楷書で書かれているから読めるっちゃ読めるんだが(和文で、くずし字で書かれてたら死んでた。漢文だからまだ読めたのだ)、活字に起こして読み下し文とか現代語訳とか付けてほしい。ならおまえがやれ、と言われそうだが(追記。よく探したらあった)。

『徂徠集』にしてもいつの時代のものかしれぬ、出版者が松村九兵衛とかになってる木版本しかない。これはさすがに怒ってもいいんじゃないのか。国文学者らの怠慢ではないのか。

釈迢空

釈迢空はなぜ釈などと僧侶のような名にしたのでしょうか。

国文学者・民俗学者として知られる折口信夫(おりぐち しのぶ)が、歌人・詩人として活動する際に名乗ったのが「釈迢空(しゃく ちょうくう)」です。

なぜ彼が「釈」という、まるで仏門に入った僧侶のような名字を名乗ったのか。これには彼の生い立ち、独自の思想、そして終生抱き続けたある「覚悟」が深く関わっています。理由は大きく分けて3つあります。

1. 少年時代の「出家願望」と浄土真宗の影響

折口信夫の実家(大阪の薬種問屋)は、熱心な浄土真宗の門徒でした。そのため、幼い頃から仏教の文化になじみがありました。

彼が10代半ばの多感な時期、実家の家業の衰退や、自身の複雑な精神的苦悶(同性愛への目覚めや自殺未遂など)から、激しい出家願望を抱くようになります。13歳の頃には、奈良の大和巡礼の旅に出ており、その途中で出会った僧侶たちに強い憧れを抱きました。この「俗世を捨てて仏門に入りたい」という若い頃の思慕が、のちに「釈」を名乗る心理的な土台となりました。

2. 生涯「子孫を残さない」という決意の表明

「釈(しゃく)」という姓は、仏教(特に浄土真宗など)において出家した者が、俗世の姓を捨てて「釈尊(お釈迦様)の弟子」となった証しとして名乗るものです。

折口は、自身のセクシュアリティ(同性愛者であったこと)や、父親の放蕩に対する反発などから、「自分は生涯結婚せず、血のつながる子孫を残さない(=家系を自分の代で終わらせる)」という極めて強い覚悟を持っていました。

出家して仏門に入ることは、俗世の「家」制度から離脱することを意味します。彼は本名である「折口」の血筋を絶やすという自らの運命を、生前から「出家者(=釈)」の偽名を名乗ることで表現したのです。

実際に、文芸評論家の富岡多恵子らの研究では、この「釈迢空」という名は、彼が生前に自ら付けた「戒名(法名)」のような意味合いを持っていたと指摘されています。

3. 名付け親である僧侶・藤無染との関係

「迢空」という号の由来には諸説ありますが、折口が青年期に深く憧れ、精神的・文学的な影響を受けた浄土真宗の美貌の僧侶、藤無染(ふじ むぜん)から与えられた愛称、あるいは彼との交流の中で生まれたものと言われています。無染への強い情愛と、彼が象徴する仏教的な「世捨て人」の世界観への憧れが、「釈」という一字に集約されていきました。

まとめ

折口信夫にとって「釈迢空」とは、単なる文学的なペンネーム(雅号)ではありませんでした。

それは、「自分は俗世の家族制度には縛られず、血脈を残さずに生き、学問と芸術の道に殉ずる」という、一種の“生前葬”のような覚悟を込めた、彼にとって最も本質的な「仮面(アイデンティティ)」だったと言えます。

折口信夫は神道家ではないのですか。

結論から言うと、折口信夫はきわめて重要な「神道研究者(神道学者)」であり、國學院大學で神道や国文学を教えた人物です。しかし、いわゆる神社に奉職するような「神職」や、特定の教義を布教する「信仰家」という意味での神道家かというと、少しニュアンスが異なります。

彼が「釈」を名乗りながら神道を深く研究した背景には、折口独自のユニークなスタンスがあります。

1. 研究者としてのスタンス:神道の本質を追究した

折口信夫の学問(折口学)の核心は、「日本人の信仰の根源(神道の原型)は何だったのか」を突き詰めることにありました。

彼は、現在の神社神道のように制度化される前の、古代日本人の素朴な信仰心や、目に見えない精霊(カミ)との関わり方を、民俗学や国文学(万葉集など)のアプローチから解き明かそうとしました。彼が提唱した「マレビト(常世の国から時を定めてやってくるまれなる神)」の理論などは、神道思想の枠組みを大きく広げた研究として、現在の神道界や思想史でも決定的な重要性を持っています。

2. 仏教と神道の「折口流」の同居

先述の通り、彼は歌人として「釈」という仏教的な号を名乗っていましたが、同時に神道の実践者でもありました。

  • 祝詞(のりと)の重視: 折口は国学の伝統を引き継ぎ、独自の美しい祝詞を作って熱心に奏上していました。
  • 神道的な直感: 彼は論文を執筆する際、実証的なデータだけでなく、古代人の心に同化するような「霊感(インスピレーション)」や「神道的な直感」を非常に大切にしていました。

彼にとって、日本の固有信仰である「神道」と、のちに外からやってきて日本人の精神に深く根を下ろした「仏教」は、対立するものではなく、「日本人の心の古層」を形成する地続きの両輪だったのです。文学の世界では仏教的な「世捨て人(釈)」の孤独を生き、学問の世界では「神道」の根源を掘り起こすという、二面性が同居していました。

3. 国家神道への批判的眼差し

戦前・戦中、国によって管理された「国家神道」が軍国主義と結びついていく中、折口はこれに対して明確な違和感や批判的スタンスを持っていました。

彼が愛したのは、国家のための制度としての神道ではなく、地方の村々のお祭りや民間伝承の中に生き続ける、泥臭くも清らかな「民衆の信仰(神道)」でした。そのため、当時の政府やアカデミズムが推進した公的な神道界からは、やや距離を置いた独特の存在(孤高の学者)と見なされていました。

一言で言えば 折口信夫は、神社の神主(神職)ではありませんでしたが、誰よりも深く神道の根源を愛し、その本質を同時代に蘇らせようとした**「異端にして正統な、最高峰の神道学者」**です。

歌を詠むときは、俗世を捨てた「釈(僧侶)」の心境。 学問に向き合うときは、古代の「カミ」の声を聴く「神道家」の心境。

この一見矛盾するような二面性こそが、折口信夫という巨人の、最大の魅力であり複雑さです。

子孫を残さないという決意の出典はなんですか。

折口信夫が「結婚せず子孫を残さない(生殖を忌避する)」という強い意志を抱いていたこと、そしてそれが「釈迢空」という法名(戒名)のような筆名に繋がっているという指摘の、主な出典・研究ベースは富岡多恵子(詩人・小説家・文芸批評家)の評伝『釋迢空ノート』(1972年 / 現在は岩波現代文庫などに入手可能)です。

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富岡はこの著作の中で、折口の残した短歌や小説、ノートなどの記述、および彼の生い立ちを精緻に読み解き、彼の精神の核心に迫っています。

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具体的にどのような背景や記述が出典の根拠となっているのか、その内実を紐解くと以下のようになります。

1. 富岡多恵子『釋迢空ノート』による指摘

富岡多恵子は、折口信夫が「釈迢空」という、いわば死後の名前(法名)を生前から名乗った心理的動因を分析しました。 そこには、折口の父親の激しい放蕩(女性関係)を見て育ったことに対する嫌悪感や反発から生じた、「生殖嫌悪・生殖忌避」の思想があったと指摘しています。つまり、「自分は父の血を次世代へつながない」「家系を自分の代で終わらせる」という断絶の覚悟です。

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富岡は、折口が自身の同性愛的な傾向(男色への傾倒)や、そこから派生する孤独、そして「子を残さない」という選択を、世俗の家制度から離脱した「出家者(=釈)」の姿に重ね合わせていたと論じました。

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2. 折口自身の言葉(歌や文章)にみる出典

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折口信夫自身が「私は子孫を残さない」と直接的なスローガンのように書いた公的な宣言書があるわけではありません。しかし、彼の文学作品や随筆には、その強烈な意志が事実上の「出典」として刻まれています。

  • 小説『死者の書』や『身毒丸』のテーマ 折口の代表的短編小説『身毒丸(しんとくまる)』などでは、血縁や家族のグロテスクさ、あるいはそこからの解脱が色濃く描かれます。家脈の存続という世俗の幸福を拒絶する姿勢が、彼の創作の底流にあります。
  • 「血のつながり」ではなく「学問の紐帯」を選んだ事実 折口は生涯独身を通し、自らの血を分けた子供を作ることはありませんでした。その代わり、彼はお気に入りの教え子や弟子たち(藤井春洋など)と実質的な家族として共同生活を営み、のちに藤井を養子に迎えています。これは、「生物学的な子孫(血脈)を残すことを拒み、学問や芸術を通じた精神的な子孫(文脈)を残す」という、彼の生き方そのものが最大の出典・証拠となっています。

このように、折口が抱えていた生殖への忌避感と「家を断絶させる」という決意は、彼の人生の歩みそのもの、そしてそれを丹念に実証・分析した富岡多恵子の『釋迢空ノート』によって、近代文学史における定説として広く知られるようになりました。

退屈に耐えるテスト

ある知り合いが定年退職後に延々と書いている趣味のブログ(国内海外を旅行したというような)をみていると、人は何かやっていないと退屈で死んでしまうんだなと思う。

私の場合は定年まであと五年なのでもう新しいことはいっさい始めず、いままでの蓄積だけであと五年仕事しようと思っている。今私がやらされている仕事のほとんどは組織のマネージメントのようなものだが、正直私には何の興味もない。こんなことをいくらやったところで私が仕事を辞めて死んでしまえば何にも残らない。給料がもらえるからやっているのだけど、しかし、現役時代ずーっと組織のために仕事をして、定年後は誰のため何のためだかわからないブログをずっと書いているのは結局何かやってないとダメだからなのだろう。

永井荷風も「浅草。アリゾナで昼食」とかいうような日記を延々と書いている。永井荷風だからアレにも多少の価値はあるのだろうが、一般人が書いてもほとんど何の意味もない。それでも書く人は書くわけだ。ま、確かに鎌倉時代の公家の日記なんかはなんかの役に立つのかもしれんが、SNSで記録が溢れている今の世の中ではほとんどがむなしい。まあ、中にはそのうち歴史的価値が発生するものもあるのかもしれないが。

私はもうあまりにも今の仕事がばからしくて、仕事を減らすことばかり考えているのだが、それは今私がやらされている仕事のせいであって実はとても時間を無駄にしているようにも思えてくる。でもたぶん私が定年後にやらなきゃならないことはひたすら退屈に耐えて何もしないことだろうと思う。年寄りは何かやろうとして必ず周りに迷惑をかける。何もしなければ誰も気にしないし、自分がただ退屈で死にそうなだけで済む。つまり退屈に耐えることに今から慣れておかなくてはならない。

仕事が無いはずでもいきなりメイルが来て会議やるから日程調整しろとか言われて、気の休まる間もない。そういうのが好きな人は良いが私は嫌いだ。しかし五年後、いっさいそういう仕事から解放された後の私はどうなるのだろうな。確実に言えるのは今の仕事を続けてくれと言われても絶対に断るってことくらいだ。全然別の仕事なら暇つぶし程度にやるかもしれないが。

毎日毎日誰が読むともしれないブログを書く人もいれば、ある時間間隔で定期的に書く人もいる。私はどちらかというと無性に何かを書きたくなったときにまとめて吐き出すような書き方をする。ともかく何かものを書く仕事をしていた人は定年後も何か書いていないと落ち着かないのだろう。

新御徒町の佐竹商店街あたりに住んでみたいなと思う気持ちはある。あそこなら浅草にもすぐいけるし、上野も近いし、東京の西半分にはいい加減住み飽きたが、上野浅草あたりにはまだ未練もある。しかし部屋を借りるのはそれはそれで金もかかるしめんどくさい。本が売れて事務所代わりに借りられればありがたいがそんなに売れるはずもない。

本居宣長

本というものは10代の女子くらいしか読まない。男子は本なんか読まない。大人はなおさら本は読まない。読むとしてもビジネス書みたいな恐ろしく中身のないつまらない本ばかり読むのは呆れる。なぜみんなあんなバカみたいな本ばかり読むのだろうか。まだ、youtubeでも見ていたほうがましではなかろうか。

10代の女子が読んでくれるような本を書くのは、60過ぎのおじいさんにはとても難しい。

本居宣長の本を書くとして、10代の女子に宣長に興味を持ってもらうにはどうすれば良いのだろうか。難しいけれどもなんとか読めると思わせるにはどうしたらよいか。

宣長の結婚2

宣長の結婚の続き。

初婚の妻、美可が村田家の娘だというので、あれ、宣長の母も村田ではなかったっけと思ってウィキペディアなど見ると、やはり同族である。松坂で豪商で村田家というのが二つも三つもあるはずがない。

宣長の父は宣長が十才の時になくなっている。兄が家督を継いだが、この兄もなくなってしまい宣長が小津家の家督を継ぐことなる。しかし宣長はまったく家業を継ぐ意志がなく、店をたたんでしまう。

宣長が京都遊学中に母は酒を飲みすぎるななどという手紙を書いており、母との関係は悪くはなかったのだろうが良くもなかったのだろう。村田美可は母の斡旋であったに違いなく、母のお膳立てで結婚してみたが、まったく相性が合わずに離婚することになったのだろう。母はもしかすると宣長に村田家を継がせたかった(つまり宣長を村田家に養子縁組したかった)のかもしれないが、それこそ宣長にとっては大きなお世話だったに違いない。

再婚相手の深草たみは夫と死別していて、要するに、バツイチどうし片付けば都合よかろうという話になっただけのように思えるが、そのまま離縁しなかったのはそれなりに仲はよかったのだろう。たみは宣長の母の名、かつを継いでかつと改名したという。どうも宣長の母方の村田家というのはずいぶん宣長に対して干渉してきたように思える。