東京女子高等師範学校

相変わらず、関東大震災のことを調べているのだが、東京女子高等師範学校とは今のお茶の水女子大学のことだが、1923年に震災でほとんど焼失しているはずなのだが、大塚への移転は1932年となっている。その間、女高師はいったいどういう状況だったのだろうか。移転先、つまり現地は、もともと震災当時は東京陸軍兵器支廠というものだった。これが女高師と陸軍憲兵大塚分遣隊という二つの敷地に分かれたのであると言う。

netでもいろいろ調べてみるがよくわからん。お茶の水女子大学生活科学部本館によれば、

1923年(大正12年)の関東大震災により校舎が焼失したため、 1928年(昭和3年)に現在地への移転を決定し、1936年(昭和11年)に移転を完了しました。

などと書かれているから、お茶の水から大塚へ移転するのが決まったのが 1928年、移転は徐々に進んで 1936年に完了したことになる。その間、たとえば1923年から1928年までの5年間はいったいどういう状態だったのだろうか。1932年とは、移転が始まった年、ということか。不思議すぎる。

聖橋

震災復興再開発事業#関東大震災などにも書かれているが、震災後、内堀通り、靖国通り、昭和通りなどが幹線道路として整備された。このうち内堀通りというのは、本郷から聖橋、神田橋を経て丸の内に至る道で、聖橋はこのときに初めて架けられたのだ。遷都しないと決めたのは後藤新平、復興予算を30億円と決めたのも後藤。しかし予算は5億円程度に削られてしまった。思うに遷都した方が良かったのではなかろうか。日比谷公園・上野公園・靖国神社参道などはバラックの難民キャンプで埋まっていたらしい。

当時の写真などもいろいろ見てみる。駿河台にはニコライ堂がそびえ立っており、はるかお茶の水から遠望できた。

横浜中華街は、震災前は二階建ての洋館や蔵造りの商館がみっちり立ち並んでいたのが、震災後は平屋木造バラック小屋みたいなのばかりになっている。また当時は中華街とは言わず、南京通りと言っていたようだ。

追記: 関東大震災の時に、那須あたりに遷都しておけばよかったのだ。

市岡鶴子

知りたいのは、清朝末期の、科挙制度の改革、変法と科挙の関係、特に、康有為、梁啓超らの上奏文など。特に八股文の是非について。つまり、清朝末期の学制改革について。宮崎市定『科挙』も久しぶりに読んでみたが、これは、唐代から明清までの科挙の移り変わりについて、おおまかに書いてあるだけ。八股文については、「四書題」とあるのが、それに相当するか。その内容・形式には一切触れてない。まあ、あまり興味なっかたんだろうな。清朝については、『儒林外史』が少々、第三回辺りに出てくる、范進という万年浪人の話がおもしろおかしく引用してあるだけだ。『儒林外史』は清朝の前半、せいぜい雍正・乾隆帝の頃の話が反映しているだけで、清朝末期の光緒帝の頃のことがよくわからない。しかし、資料としては、光緒帝のころのものがもっとも豊富に残っているはずだが。

康有為、梁啓超らの論文だが、あちこちの図書館でも、断片的にしか手に入らない。ネットの情報も。彼らは、科挙や八股文が不要だと主張したのではなく、官吏や政治家を登用する制度が科挙に限られていること、近代的な学校制度がないこと、などを批判しているのだと思う。梁啓超の文章など読んでみると、科挙と平行して学校を作りましょうと言っているに過ぎない。北京大学の前身である京師大学堂が創設されたのは1898年というから、戊戌の政変で行われた改革の一つだったのだろう。この、戊戌政変から辛亥革命までの資料というのは、探せばいくらでもあるはずなのだが。

康有為の四番目の妻(妾)となった日本人、市岡鶴子というのを調べているのだが、詳しいことは何一つわからん。

中国名人為什麼願意迎娶日本女人? 2010年04月01日  来源:新華網

康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。

1911年6月7日に康有為は梁啓超に招かれてシンガポールから来日。牛込区早稲田、明夷閣。
1912年春、神戸の須磨の「奮豫園」に移り住み、16歳の少女、市岡鶴子を女中として雇う。
1898年に梁啓超は日本に亡命して横浜に住み、神戸と横浜を行き来していたが、1906年から神戸に住むようになっていた。1912年帰国。
康有為は1898年、香港経由で日本に亡命、1899年カナダで「保皇会」結成、以後、アメリカ、イギリス、シンガポール、インドなど、主にイギリスの植民地などを転々として、三回ほど来日したらしいが、詳しいことはもっと調べてみないとわからん。
1913年には市岡鶴子とともに上海へ。愚園路192号。辛家花園の遊存廬で正式に鶴子と結婚。鶴子17才、康有為55才。
1917年、復辟事件。
1923年、青島に定住。青島は、1914年に日本が占領してドイツから奪い、1922年に中国に返還し、特別行政区となった。中国領となった直後ということだな。
1925年秋、鶴子は日本に戻り、凌子を出産。鶴子29才、康有為67才。
1927年、康有為死去、69才。
1929年、梁啓超死去、56才。

魯迅『孔乙己』も、ごく短いものなので、さらっと読んでみた。

追記: notebook LM

吉野城軍事

『太平記』に

天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。

という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。


※追記あり

阿

『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、 為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。 つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。