本居宣長

本というものは10代の女子くらいしか読まない。男子は本なんか読まない。大人はなおさら本は読まない。読むとしてもビジネス書みたいな恐ろしく中身のないつまらない本ばかり読むのは呆れる。なぜみんなあんなバカみたいな本ばかり読むのだろうか。まだ、youtubeでも見ていたほうがましではなかろうか。

10代の女子が読んでくれるような本を書くのは、60過ぎのおじいさんにはとても難しい。

本居宣長の本を書くとして、10代の女子に宣長に興味を持ってもらうにはどうすれば良いのだろうか。難しいけれどもなんとか読めると思わせるにはどうしたらよいか。

宣長の結婚2

宣長の結婚の続き。

初婚の妻、美可が村田家の娘だというので、あれ、宣長の母も村田ではなかったっけと思ってウィキペディアなど見ると、やはり同族である。松坂で豪商で村田家というのが二つも三つもあるはずがない。

宣長の父は宣長が十才の時になくなっている。兄が家督を継いだが、この兄もなくなってしまい宣長が小津家の家督を継ぐことなる。しかし宣長はまったく家業を継ぐ意志がなく、店をたたんでしまう。

宣長が京都遊学中に母は酒を飲みすぎるななどという手紙を書いており、母との関係は悪くはなかったのだろうが良くもなかったのだろう。村田美可は母の斡旋であったに違いなく、母のお膳立てで結婚してみたが、まったく相性が合わずに離婚することになったのだろう。母はもしかすると宣長に村田家を継がせたかった(つまり宣長を村田家に養子縁組したかった)のかもしれないが、それこそ宣長にとっては大きなお世話だったに違いない。

再婚相手の深草たみは夫と死別していて、要するに、バツイチどうし片付けば都合よかろうという話になっただけのように思えるが、そのまま離縁しなかったのはそれなりに仲はよかったのだろう。たみは宣長の母の名、かつを継いでかつと改名したという。どうも宣長の母方の村田家というのはずいぶん宣長に対して干渉してきたように思える。

真淵翁添削ノ宣長詠草

山居梅

かくれがや うめ咲くのきの 山風に 身のほどしらぬ 袖の香ぞする

此言、一首に言はば言ひもしてん。一句につづめては今俗の俳諧言也。

古寺落花

夕あらし はつせの花や さそふらん そでにちりくる 入相の鐘

歌ともなし

花埋苔

庭のおもは 桜ちりしく 春風に さそはぬこけの 色ぞきえゆく

いやし。

夏月

程もなく ふくるを夏の しるしにて すずしさはただ 秋の夜の月

此所歌にはならず。

野虫

月影も こぼるる野べの 秋かぜに むしのね消えぬ 浅茅生の露

只今の俳諧にこそ。

野分

散りにけり 野分する夜の おもかげに 明日の朝げの 花の千種は

かく上へかへして言ふ事、古今にも少しあれど、歌にからめたる人のわざ也。

うき雲の ゆききも空に 絶えはてて 吹く風見せぬ 秋の夜の月

歌とはならず

浦雪

かつ散りて つもりもやらぬ 松の雪 たがふちはらふ 袖のうら風

此のつづけいやし。また浦の事ここにのぶと出。

為人忍恋

いさや川 いさめし人の ひと言に うきなもらさぬ 袖のしがらみ

歌ならずや。

後朝恋

きぬぎぬの なごり身にしむ 朝風に おもかげさそふ 袖のうつり香

言ひつまれり。一句言ひつめては歌にならず。

恋命

同じ世の 月見る事も こひしなば これやかぎりの 契りならまし

此言いかが。

寄魚恋

小車の わだちの水の うをならで かかるをなげく わがちぎりかな

から人の言を歌に用ゐる事、古今などにもあれば、心にくきなり。いかほどもここの古事なからんや。

寄箏恋

かきたえて 忘れなはてそ 逢ふ事は なかの細緒の ちぎりなりとも

寄風恋

さそはれぬ 深き思ひの 色もなほ ありとはしるや 庭のこがらし

猶を言の下に言ふ事後世の俗歌にのみ有る也。古今に今の本には一首あれど、古本は別也。

寄枕恋

思ひやれ 三年の後も あかつきの かねのつらさは しらぬ枕を

言ひなし俳諧也。恋などは艶にあはれにこそいはめ。

是は新古今の良き歌はおきて、中にわろきをまねんとして、終に後世の連歌よりもわろくなりし也。右の歌ども一つもおのがとるべきはなし。是を好み給ふならば万葉の御問も止め給へ。かくては万葉は何の用にもたたぬ事也 [松坂町 小津芳蔵氏蔵]

春立つ日

吹く風も なごの浦松 ほのぼのと かすむ梢に 春はきにけり

此所古意ならず。

うちなびく 春はきぬらし ひさかたの 雲ゐにかすむ 高円の山

後世にも此の体ありしか。

うぐひす

きのふけふ 春ともしるく わが宿の うめがえさらぬ 鴬の声

聞こえたり。

春寒み まだ白雪の ふるさとも なくうぐひすに 春やしるらん

言いふりたり。

うめの花

白雪の きえあへぬ枝に さきそめて それかあらぬか 梅の初花

聞こえたり。

風吹かば ちりか過ぎなん 梅の花 けふのさかりに をりかざしてな

ひとりぬる

はしきやし 妹にこひつつ ぬば玉の 長きこのよを ひとりやねなん
妹が袖 まかでやねなん あしひきの 山のあらしの 寒きこのよを

いはでおもふ

かくとしも いはでの山の いはつつじ いろにやいでむ こふるこころは

いつもの事也。

としふとも 人しるらめや こもりぬの したの心に わがこふらくは

右いづれも、是ぞ聞こえぬとはなかれど、今少し本立のよわく、何とやらん後世風の調べをはなれぬ様也。常有る事をも、つづけ様によりて気象高く聞こゆる事、古今の梅の花それとも見えず、鎌倉公の此のねぬる朝けの風にかをる也、軒ばの梅の春の初花、我が宿の梅の花さけれり・・・咲くや川辺の山吹の花などの調子を思ひ給へ。歌はただ此の調子に有る也。

夏のくさぐさの歌

宣長教

再びatokを使い始めた。atokが好きなわけではないが、ms ime やgoogleのimeに比べればはるかにましだ。google の ime は頭が悪すぎる。もう開発する意欲を失ったのだろうか。世の中消去法で特に嫌なもの耐えがたいものをのぞいていき一番最後まで残ったものを使うしかない。自民党しかり。windows しかり。好きなものを使う人はたぶん何か宗教にはまっているのだろう。

浅草にアジトを移すという暴挙に出て1ヶ月ばかりが経って、また著書も書き終えややヒマになったので(給料をもらっているほうの仕事は忙しいままだが)、本棚を整理してみると実にへんてこな本を買ってすっかり忘れている。例えば「江戸吉原図聚」とか。「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」とか。

自分の本を書いた後に人の本を読みかえしているとそれまでは気付かなかったことにいろいろ気付いて、自分の本を書き直したくなってくる。小林秀雄、丸谷才一、白洲正子とか。丸谷才一の『後鳥羽院』とか改めて読んでみると自分と考えが違い過ぎて、もう頭がクラクラする。昔はよほど何も考えずに読んだのだろう。特に自分の考えというものもなかったから何か名著のように考えていた。今読むと迷著としか言いようがない。しかしここまで読んでくれて丸谷才一も喜んでくれていると思っている。

手直しすると言っても大きな直しではないし、明らかに間違っているところとか言い過ぎているところを削る程度。

literature とは第一義には written works、文字に書かれた作品、つまり文芸という意味であろう。study of literature を文学と訳すのは良いとして literature を文学と訳すことに、そしてブンガクと今世の中で呼ばれているものに対して、かなり反感を持っている。私が書いたものでは敢えて文学と書くときには文芸に関する研究のことをのぞけば、ブンガクと呼ばれている近現代文芸(および近現代文芸論)について批判的な意味合いで言及するときだけで、それ以外は文芸と書くようにしている。

山本七平が「小林秀雄の流儀」で

小林秀雄が何故に本居宣長に関心をもったのか。それはわからない。だが宣長は、歌と源氏物語と古事記にしか関心をもたなかった人間と言ってよい。この点では非政治的であり、北畠親房以上に全く非政治的である。彼には未来を創出しようなどという意識は無かったであろうし、古事記を「見る」彼には、そんなことを念頭に浮かべる余裕があったはずはない。

と書いていて、おそらく山本七平も宣長を誤解しているのであろうと思えてくる。なにゆえ山本七平は北畠親房を非政治的だと思うのであろうか。あんな政治的な公家はいないと思うのだが。また宣長も『秘本玉くしげ』を書いて紀州藩主に献上し、また天皇から家康への大政委任を肯定する「みよさし論」を説き、それを老中松平定信が徳川家の権威付けにありがたく利用したのは明白だ。宣長は極めて政治的な人であり、自分の息子春庭を紀州藩の医師にするために就活さえしている。紀州藩に士分に取り立てられ葵の御紋入りの羽織を下賜されたときには

見ればもよ みけしたばりぬ さきくさの 三つ葉の葵 あやのみけしを

などと、うわあい、「見ればもよ(ほらごらんよ)」、葵の御紋入りの御衣(みけし)もらっちゃったあ、などという大はしゃぎな歌を臆面も無く詠み、帯刀して子分を従えて駕籠に乗って帰宅しているのである。医者の髪型である総髪をやめて髷を結うようになったのもおそらくこの頃からだ。この宣長の大喜びようについては「神社発信」vol.3 「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」に書いた。この「神社発信」の連載では現実主義者宣長の世渡りについて、「みよさし論」と尾張、紀州の徳川家との関係について書こうと思っていたのだが「神社発信」は8号で休刊してしまった。こういう政治的な宣長については尾張徳川家を研究している人が中心になって研究していて論文も書いていてそれを国会図書館に読みに行ったりもしていたのだった。

宣長は学問好きなカルト少年で、儒教も仏教も好きだった。そこから和歌を詠むようになり、師について体系的に研究もするようになり、和歌が好きといっても和歌の全てではなく王朝趣味ともいうべきそのごく一部を愛好していたのであって、また古事記に関していえば、古事記が好きだったというよりは研究テーマとして最も効率的に自分の業績を残せると思ったからライフワークに選んだだけだ。

(職業的)研究者というものは自分の好きなことを研究するのではない。もし人と研究テーマがかぶっていて、自分が負けると思ったらそこには手をつけず、自分の才能と労力を最大化できそうな別のテーマを選ぶ。研究者として学術界で認められないことには研究を続けることもできないからだ。宣長にとって古事記はちょうど手頃な研究テーマだった。もちろん興味なければ研究テーマに選ぶことはなかっただろうけれど。宣長がそういう考え方をする人だったことは「うひやまぶみ」を見てもわかる。

職業というものはそうしたものだ。そんな好きとは言えなくても収入を最大化できることを仕事に選ぶ。もちろん嫌いな仕事だと続かないから自分の性格と折り合いをつけながら適当な仕事を選ぶ。そしてほんとうに好きなことはプライベートで、趣味としてやる。宣長にとって歌を詠むことは研究というよりはまず第一に趣味であった。誰だってそうやって自分の職業を選ぶだろう。研究者だって同じだ。

和歌と古事記しか興味がないと言い切ってしまうと宣長は浮世離れした学者のようだがそんなことは決してない。宣長は彼なりに世渡りしてああなった人で、出世欲も名声欲もあり、徳川とも真淵ともうまく折り合いをつける人だった。

一方で上田秋成は大阪の市井の文人だったからあんなふうにガチンコで口論したのであり、また、あそこまで持論をかたくなに押し通そうとしたのは、単に自分がそれを信じていたからではなく、おおくは世間体のため、自分の立場、なによりも自分の業績を守るためだったと言える。

宣長は生涯宗教まみれな人だった。子供の頃儒教も仏教も大好きだった宣長は国学に目覚め、外来宗教から神道を分離しようとした。儒教も仏教も熟知しかつ古事記を徹底的に研究した宣長だからこそできたことだ。神道だけを研究して神道を論じることなどできない。神道以上に儒教も仏教も知ってなければ比較なんかできるわけがない。

ところが上田秋成が、神道は儒教や仏教と混淆してもいいじゃんと言い出したから、宣長は自分の努力が全否定されたと思った。だから反論せざるを得なかった。宣長も腹の底では秋成と同じ考え方なのだが、体面上、秋成を許すことができない。しかしそれをそのまま言っては世間にはばかりがある。門人らにうまく説明がつかない。だからああいう言い方になった。宣長は「国学の大人」というぺルソナを自らかぶることにした。

宣長の行動パターンを観察していればそういう結論にならざるを得ないのだが、世の中ではいまだに宣長は浮世離れした研究者のように考えている。

宣長は教祖になろうとしていたところがある。ところが宣長は真淵と違って門人に教えを説くということに興味がなかった。めんどくさがっていた。門人らは口伝とか秘伝のようなものを授かりたかったのだろうけど、宣長は自分の考えを全部書いて遺した。

ちなみに真淵は宣長に自分の万葉研究の極意を伝授したがっていたフシがあるが、宣長は真淵の研究なんぞにはまったく興味がなかったようだ。

ソクラテスにしろイエスにしろ孔子にしろマホメットにしろ、教祖様とか哲人は自らものを書いて遺さぬものだ。弟子たちが教祖の言行を伝記にするから宗教の始祖になれる。教祖自身が文字に書き記すと曖昧さや解釈の余地がないので宗教になりにくい(つまり二次創作や共同制作の要素が無いと宗教は成立しにくい。教祖が全てを厳密に決めてしまっては、一般大衆に広く受け入れられるのは難しい。初代ガンダムからさまざまなガンダムがが派生したことによってガンダムはあそこまで広く受け入れられた。富野由悠季独りではああはならなかった。天理教のおふでさきは教祖が書いたものだが解釈の余地が多く残されていたのだろう)。

平田篤胤のように直接宣長に会ったことのないようなやつが直弟子を自称し、夢か何かで入門したとか言い出して、それで宣長もかなりの程度に教祖化し宗教化したところがある。

ともかくも宣長はかなりの程度カルト的素養があったのだが、彼自身が教祖にならなかったのは、彼が物書きであったから、弟子に口伝などしたがらなかったからであろうし、息子の春庭、養子の大平などにも秘伝を授けたりはしなかったからだ。

もしイエスの弟子ペテロの如き者、ソクラテスの弟子プラトンの如きものが宣長にいたら宣長教というものができていたかもしれない。

宣長は真淵の弟子を演じ、死ぬまで演じきったが、実際の宣長は真淵の弟子でもなんでもない。松坂の一夜などは佐佐木信綱が作った架空の美談に過ぎない。宣長は自分の弟子を持つにあたり、自分の師を必要とし、真淵を選んだのに過ぎない。平田篤胤が宣長の弟子を無理矢理演じたのと同じ。師弟愛などというものは、少なくとも国学四大人、春満、真淵、宣長、篤胤の間には存在しない。そんなものを信じるから国学がわからなくなるのだ。

読めば読むほどわからなくなる本居宣長

『神社発信』という雑誌の vol.3 (2018年3月発行) から vol.8 (2019年4月発行) まで「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」という記事を連載していた。私はこれを複数の人に読んでもらい、感想を聞くことができたのだが、表題の通り「読めば読むほどわからなくなる」というか「読んでも何が書かれているのかよくわからない」と言われた。別に難しいことを書こうと思ったわけではない。一般に宣長は難しいと考えられているが実は簡単なのだけど、宣長は誤解されていて、それら先入観を捨てないと宣長は理解できない。彼を読み解くにはそれなりの準備と時間と手間をかける必要があるから辛抱してついてきてね、途中で宣長100%わかったと思ってもそれは勘違いだから気を付けてね、という程度の意味合いだった。

よくわからない文章を書く人にはさまざまなタイプがあると思う。ハイデッガーとかヴィトゲンシュタインとか?あれも彼らの思想背景を理解しドイツ語の原文で読めば(つまりドイツ語のこまかなニュアンスがわかるネイティブスピーカー並の感性があれば)読めるのかもしれん。
小林秀雄などはいわゆる「悪文」タイプで、感覚的に思いついたことをあれこれ書いていて、文章もうまいのだろうけど、結局何が言いたいのかわからない、言いたいことはあるらしいがまったく根拠が示されてない、なんとなくそれっぽい雰囲気だけの、従って読んだ後に何も残らない。そういうたぐいの文章だと思う。たぶん小林秀雄の文章というものはBGM代わりに朗読かなにかしてもらえば良い気持ちになる、という程度のものだろう。しかしそういう彼にも一定のファンがついてて、そういう文章を愛でるのだ。白洲正子がまさにそういうファンの一人で、しかし彼女は、小林秀雄晩年のライフワーク『本居宣長』に関しては、全然面白くないと、本人を前にそう言っている。私はまったく逆で、私にとって小林秀雄の『本居宣長』以外の文章はちんぷんかんぷんで何を言いたいのかさっぱりわからないのだが、『本居宣長』に関してはちゃんと時間をかけて取材もしてるし、他の人が指摘しなかったような新しい知見があちこちに見られるのだ。誤解を恐れず言えば小林秀雄はもともと「文系的」な文章を書く人だったが、『本居宣長』に至って初めて「理系的」な、中身のある、明確な主張のある文章を書いた、いや、書こうと努力したのだと私には思える。

人をわかったような気にさせる文章を書くのはたやすい。逆に、わかったような気になっている人にわからせる文章を書くのは難しい。

小林秀雄の『本居宣長』はまず彼が宣長の墓参りをするところから始まる。町中の寺にある仏式の墓と、山奥にある神道式の墓だ。この二つの墓の対比がまさに宣長なのであり、導入であり、つかみなのであり、つまり、宣長という人の二面性というか多面性を如実に表す象徴でもある。小林秀雄らしい文芸的なイントロダクションでもあり、同時に極めて示唆に富んだ問題提起でありインスピレーション(霊感、直感)なのだ。少なくとも私にはそう思えた。
小林秀雄も最初はとりあえず取材の手始めに、墓参りでもするかというくらいの気持ちだったのかもしれないが、現地を訪れてやはり何かの霊感を得たのだろうと思う。
しかし普通の人がみれば、なんだ、わざわざ松坂まで墓参りしに行ったのか、で終わりなのだと思う。
私も一度目はそう思ったかもしれない。しかし何度か読むうちにこのイントロダクションに重大な意味があるように思えてくるのだ。
なぜ仏式と神式二つの墓があるかといえば宣長は若い頃は仏教が大好きで、のちに国学者になってもその趣味は消しがたかったからだし、
あるいは徳川家康が仏教を奨励してたから、人は嫌でも寺に墓を作らなくてはならなかったからでもある。
宣長はまず寺で葬式を済ませたあと遺体を山の墓に運ぶよう遺言した。なるほどいかにも宣長らしい。
しかしふつうは、はいはい墓参り墓参り、でそれ以上読むのをやめる。
小林秀雄の『本居宣長』を何度も何度も熟読する人はいない。たいていは最初をちらっと見て読むのをやめてしまう。
なぜかと言うに人は自分が読みたい宣長を読もうとするからだ。小林秀雄がそれ以外の宣長について語ろうとしても、頭の中には入っていかない。

途中、中だるみというか、冗長な回もあると言えばあるが、50回も100回も連載しようとなればそういう、過去に遡った事実の羅列に過ぎない「仕込み」の回がどうしても必要になる。私も連載をやってみて気づいた。面白い回を書くにはしばらくつまらない回を書かねばならぬけれど、それなりの緊張感を持続しつつときどき、おーっと思わせるような明察を披露したりするのだ。
小林秀雄の『本居宣長』に挫折した人は多いと思う。連載はもっと長くてそれを縮めてああなったというから、連載をリアルタイムで読んでいた白洲正子にとっては、まさにつまらなかったのだろう。

『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』に関して言えば、連載の話が来ていきなり原稿を書き始めたので初めは何について書こうかなと考えながら書いていた。A4版の全ページカラーの雑誌なので文字ばかり並べてはもったいないと思ったから、国会図書館のデジタルライブラリーから浮世絵なんかをできるだけ探してきて載せようと考えた。1回目と2回目はそんなふうに書いた。書きながら、幕末の薩長から見た宣長と、徳川の幕臣から見た宣長とは全然違うんだなってことに気づいた。
宣長は町人から取り立てられて紀州の家臣になった。つまり侍になった。尾張藩士にも弟子がたくさんいて、つまり、紀州と尾張の徳川家には一目置かれる存在だったし、宣長の「みよさし論」は、同時代の松平定信にも大きな影響を与えた。武士としての宣長、幕臣としての宣長という視点が欠落している。もちろんそのことに気づいて研究している人はいるのだが、世間には知られていない。
小林秀雄も気づいてはいたのだろうがそこについてはあまり掘り下げてない。
なので代わりに私が書いてやろうと思った。
宣長は松平定信に天明の飢饉の対処方法について献策した。定信は表立って宣長の意見を聞いたわけではないが、たぶん大いに参考にしただろうし、紀州・尾張の幕臣たちには宣長の思想が深く浸透していった。宣長は積極的に幕政に関与しようとした。もし定信が受け入れていれば宣長はもっと積極的に、活発に政治的発言をしただろうと思う。

とそういうことを連載していくうちに書いていこうと思い、とりあえずじっくり仕込みから入ろうと思ったのだが、本論を述べる前に連載は8回で打ち切りになった(神社発信が休刊になったから)。
で、人に聞くと、最初の1回目と2回目くらいは面白かったが、それからつまらなくなったと言われた。
人の見方というものはそうしたものなのだなと思った。
私も小林秀雄の轍を踏んだのだった。

『虚構の歌人 藤原定家』にしても、難しすぎると言われる。確かに私が読んでもそうだ。特に最初から通して読もうとしたときなど。だが、ときどき思い出して、一つの箇所をじっくり読み直してみるとけっこうするどいこと書いてるなと思えたりする。
『エウメネス』も加筆修正を繰り返していくうちにだんだん読みにくくなってしまった。自分で読んでても読みにくいんだから他人はもっとそうだろうと思う。
もちろん私の文章には私からみてもまだまだ推敲が足りてない、考察やサーベイが浅い、と思われるところがあるが、では推敲し、考察し、サーベイを加えれば加えるほどに今度は非常に読むのがつらい文章になっていく。これはどうにもしがたい。

夏目漱石はある意味で幸せだった。最初、我が輩は猫であるとか三四郎のようなわかりやすい小説で読者を獲得し、だんだんに難しいものを書くようになったが読者は我慢してついてきてくれた。ただ漱石が作った漢詩は誰も評価してはくれなかったが。別の意味では、漱石もまた、『晩鐘』『落ち穂拾い』を描いたミレーのように、あるいは若い頃に『ゴッホの手紙』を書いた小林秀雄のように、自分が良いと思う作品を他人が評価してくれない典型なのかもしれない。

本居宣長の功績

今後どのくらい宣長の連載を続けるのかわからないのだけど、 小林秀雄は60回以上、隔月で11年くらい続けたらしいんだけど、 トータル10万字くらいを一つのめどとすれば20回くらいだろうか。

小林秀雄の『本居宣長』はおもに「古事記伝」と「もののあはれ論」でできていて、この二つが宣長の最大の功績だと、普通は考えられている。

しかしもののあはれ論をよくよくみていくと、欠陥だらけだし、結局何が言いたいのかよくわからない。 何かこの、必死さというものはあるのだが、あまりにもいろんなものを「もののあはれ」に詰め込もうとして、破綻している、と小林秀雄も言っている。 あの、何か朦朧とした文章を書く小林秀雄ですら、宣長の核心思想であるもののあはれ論が、なんだか捉えどころのないものだと、認めざるを得なかったのだ。

古事記伝は偉業ではあるが、研究者として淡々と仕事を積み上げ完成させたに過ぎないと私は思っている。

それで、宣長のほんとの業績は何かと考えたときに、歌学かといわれればそうでもない。もちろん歌人としてことさら優れているわけでもない。

それまでなんとなくよくわからなかった「国学」というものにしっかりとした形を与えた人、ということはできるかもしれない。 国学者は誰かといえばたいていは宣長を思い浮かべるだろう。宣長は国学者の肖像、ステレオタイプになった。 宣長でやっと国学は一つの独立した学問分野になった。真淵では弱い。

私としては、宣長のほんとうの業績は「みよさし論」つまり「大政委任論」を創始したことだと思う。 「大政委任論」があって初めて幕末の「大政奉還論」が出てくる。 むろん、征夷大将軍は天皇の宣旨によって任命されるのだから、形式的にすでに、天皇から幕府へと、大政が委任されているのだが、 それにどういう政治的正統性があるのかってことは、極めて曖昧だった。

北畠親房には「大政委任」という概念は希薄だったと思う。 幕府から天皇へ、というより朝廷へ、政治の実権を奪い返すことが至上命題であり、幕府を存続させて、将軍に軍事や治安維持を委任しようなんて発想は、 親房にはなかったはずだ。

しかし、三度「大政委任」が実現した江戸時代には、この、天皇から幕府への委任ということは、現実的にやむを得ないこと、歴史的必然なんじゃないかと考える人が出て来たのに違いない。 家康自身にもその意識が芽生えたかもしれない。

なぜこうたびたび、天皇から幕府への委任という現象が起きるのだろうか。 中国では王朝が交替するのに、なぜ日本では天皇が存続して幕府が交替するのか。 この問いに儒教は答えることができない。 何か日本固有の政治原理があるらしい。 そういうことを考え始めた。 儒者にはしかし、天皇が存続しているのは単なる偶然だと考える人も多かったし、天皇はいてもいなくても同じであり、幕府が日本を統治しているという事実のほうが重要だと考えた。 室町幕府の足利や細川などは実際そう考えていたようだ。

ともかく天皇の存在は儒教では説明できないので、儒教とは異なる、新たな、日本固有の政治理論が必要なんじゃないかということに気付いた最初の儒者が栗山潜鋒であった。

栗山潜鋒の後を引き継いだのが本居宣長だった。宣長は栗山潜鋒の著書『保建大記』に言及している。 「みよさし」というのは元々は高天原にいる天照大神から瓊瓊杵尊へ葦原の中つ国の統治権が委譲されたことをいう。 「み」は美称、「よさし」は「依さし」。 天照大神から瓊瓊杵尊への委任という図式を、宣長は、天照大神の子孫である天皇から東照神君家康の子孫である徳川宗家への委任という形に転換してみせた。 こんな理論を宣長以外の人が思いつくはずがない。

この宣長の「みよさし論」が出た直後に松平定信が老中となって、幕府として公式に、「大政委任」ということを認めたのである。 定信は、表立っては何も言ってないが、明らかに宣長の影響をうけている。 定信以前に、誰か儒者が、そういう理論を考えついたとはとても思えない。 定信はどちらかといえば儒者というよりは国学者だった。書いているものも和文のほうが圧倒的に多い。 彼の父は田安宗武で、宗武もまた真淵に学んだ国学者である。 定信は、おそらく、宣長をおおやけに認めるわけにはいかない立場にあったが、内心宣長に心服していたのではないかと思うのだ。 この宣長と定信の関係は極めて重大だと思う。調べても何も出てこないと思うけど。

宣長はすでにそのころ紀州藩や尾張藩の武士に門弟を持っていて、彼らが宣長の政治理論を幕府に提案していたのである。

さらに松平定信が頼山陽の『日本外史』を公認したことによって「大政委任」という考え方は武士の間で完全に確立した。

その後水戸斉昭やその息子の徳川慶喜が、実際に「大政奉還」してみせたことによって「大政委任論」は完成し、明治維新を生んだのである。

栗山潜鋒から徳川慶喜へリレーすることによって「大政委任」という非儒教的概念が確立したのだが、その間に宣長がいなければ、このリレーは成立しない。

国学も水戸学も、儒教や仏教からは決して出てこない。 儒教でも仏教でも説明できない日本固有の現象を説明するために江戸時代になって新たに構築された学問なのである。 水戸学は漢文を元に国史を重点に、国学は和文を元に文芸を中心に発達したが、両者は日本というものを説明するための学問であるから、 極めて緊密なものである。 宣長は水戸学にも大きな影響を与えたわけで、やはりそのあたりが宣長の最も大きな功績だと私は思うのである。

宣長が養子縁組みして離縁した件

神社は氏子、寺は檀家という。しかし伊勢神宮では檀家という。この伊勢神宮の檀家を束ねるのが御師。

宣長は伊勢山田妙見町の今井田家に養子に行った。 『宣長さん』によれば、今井田家は紙商で御師。

氏子というのは村の神社があって、その村に住んでいれば勝手に氏子扱いされた。 寺は一つの村や町に複数あることがあって、 徳川幕府によってどれか一つの寺に属さなくてはならなかった。 いわゆる檀家制度だ。

伊勢神宮が氏子と言わず檀家というのは、 神宮の氏子なのではなく、神宮寺の檀家だからであろう。 神宮の氏子は厳密に言えば天皇家だけだ。

全国を行商して、檀家を組織し、お札や暦を売る。 神主や氏子はそんなこと普通しない。
神仏習合というものがあって、御師があって、檀家があるのだ。

神宮寺は幕府や領主が檀家となったために、いわゆる一般の村民や町人の檀家はいなかったことになっている。 はたしてそうなのか。 明治の神仏分離令によって神宮寺が廃寺となったときに、かなりの数の檀家がその帰属する宗教的コミュニティをうしなった。 冠婚葬祭ができない。これは困る。 その檀家を吸収するために神道系の新興宗教が興った。 明治の神道系新宗教の多くは神宮寺に由来するのではないのか。

宣長は学問が好きで、子供の頃から漢籍や仏典も良く読み、僧侶になりたいと考えたこともあった。 今井田家には実子もいたらしく、宣長は学問を生業にしたくて今井田家の養子になったものと考えられる。

しかし、今井田家で本格的に学問を始めると、 宣長は、仏教や、神宮寺や、御師というものに疑問を感じ始めただろう。 漢学や仏教から離れ、古学、歌学、皇学を志した宣長は、今井田家に居続けることができなくなった。

ねがふ心にかなはぬ事有しによりて

宣長は養子に行くより前から和歌を詠み始めているが、 和歌に執着し、添削も受けるようになったのはこの養子時代だ。 まだ契沖には出会っていない。 和歌を学ぶということは、大和言葉を学ぶということだ。 和歌からさまざまな文芸がわかれていった。今様、連句、俳諧、猿楽。 それらは漢語や仏教語を取り込んでいった。 しかし、かたくなにそれらを退けて、大和言葉にこだわったのが和歌である。 和歌にのめり込むということ、和歌を学ぶということは、漢学や仏教の影響をうけない古代の大和言葉を追求するこということであって、 そこから当然、国学、皇学への志向が生まれてくる。

宣長という人は寺に仏式の墓を建て、その中には遺骨は納めず、 山の中に神式の墓を建ててそこに葬られた。 墓を二つ作った。 それが宣長なりの神仏分離であり、後世に遺した宣長のメッセージだった。 神仏分離という思想の源流が宣長なのは間違いない。


追記。思うに宣長は神道も好きだったが仏教も好きだった。だから神宮寺の檀家になるのが一番好都合だと思ったのかもしれない。若き日の宣長にとっては神仏習合の吉田神道や神宮寺のようなものが理想だった。しかしだんだんに知識が増えるにつれて、やはり神道と仏教は別物であり、というよりある一定の区別、けじめが必要であり、ついに神宮寺の檀家となり御師となることにジレンマを感じるようになってしまったのかもしれない。

『宣長さん』3

p. 45

神童にしてはならない。宣長さんが神様になってしまうとき、学問は、とまる。少なくとも伊勢の青少年の可能性は摘みとられる。

これも面白い言及である。 著者が伊勢の高校国語教師であるから、その視点から宣長はそういうふうに見るべきだということだ。

p. 162

だいたい宣長さんの学問の発想には独創性は少ない、とわたしは見ている。

これも非常に大胆な発言だ。今まで誰も言わなかったことである、という意味で「独創」的でもある。 確かにさまざまな古典を当たって新しい知見を提起するというものが研究であるとするならば、 宣長はしかしたとえば「竜田川」は奈良の地名ではなくて、山崎の水無瀬川のことである、などと言った非常に独創的な指摘がある。 ただそれは丹念に古典を調べて総合した結果たどりついた事実というものであり、 「学問の発想」というものではないのかもしれない。 いわばスーパーコンピューターで総当たりの統計処理を行って得られる結果、のようなものである。 宣長はスーパーコンピューターであって学者ではない、という言い方もできなくはない。同じことは契沖にも言えるかもしれない。 宣長が導き出した結果はみんなにとって有り難く便利なものだった。

確かに宣長の場合には、あらかじめ何かの直感によってこうであろうという仮説を立てて、 それをじっくりと調査・証明しようというような学問ではない。 いろんな本をやたらと乱読してメモしていたらたまたまある事実に気付いた、というような研究の仕方である。 さもなくば、少年の頃から変わらない信念とか執着があるだけで、 それは結局研究とか学問というような形で昇華されることはなかった、と言えるかもしれない。

『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、 中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。 つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。 水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、 『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。 これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど
みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は
鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを
したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、宣長の桜に対する思いを詠んだ歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり
忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを
我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり
此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに
桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。 私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。

「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。 和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。

宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、 彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、 公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。 古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。 また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。 ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。 「天地初発之時」を

あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。 「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、 まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。 「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。 宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。 そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、 自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。

『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。 どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。 宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、 小林秀雄について言及している点や、 この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、 子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。 宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。 加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。 しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。 どれもよくわからないことが書いてある。 たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、 小林秀雄著『本居宣長』と 中根道幸著『宣長さん』 を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。 『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、 著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、 これはすごい本だ。 この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。 早く出会えてよかった。

p. 319

結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。 宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。 そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。 宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。 宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。 しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。 宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、 浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。 宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。 途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。 真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。 宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、 スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。 だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。 その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、 その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。 『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。 まさに私が読みたい本だった。 宣長が若い頃に誰と会ったか。 どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。 結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、 宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。 この「松坂文芸」は、 京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。 その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。 最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。 「養子留学」であったというのだ。

なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。 つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。 そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、 今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。 そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。 この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。 「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、 宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。 定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、 具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。 特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。 二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。 二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。 京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。 二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。 実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。 わかっているようでわかってない人がほとんどだ。 中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。 幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。 たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。 そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや
憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても
いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。 しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。 たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。 正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。 古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。 しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。 明らかに定家そのものを見ているのではない。 それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。 しかしそれは説明の付かないことではない。 宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。 しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。 若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。 また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、 古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、 仏式と神式の墓を別々に作ったこと、 『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、 これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

p. 75

一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

宣長の初めての歌についての講評。 これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。 他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。 まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。 上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。 つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。 こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。 宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。 本居宣長の漢詩についても、ほぼ同様のことが言える。