除夜の鐘

除夜の鐘はなかった?~江戸町人の研究

除夜の鐘というのは、そんなに古いものじゃないと思うし、 無理に残すほどのものではないと思うなあ。

入相の鐘とか暮れ六つの鐘というものはあっただろう。

除夜の鐘というものができた当初から108回も叩いてたわけはないと思う。 108回なんてただのこじつけに過ぎない。叩きすぎ、うるさすぎなんだよな。

除夜の鐘にしろ年越し蕎麦にしろ、むやみやたらと日本の伝統というものをありがたがるのは決してコンサバティブでも保守でもない。 ほんとうに古くて良いものだけをありがたがるのが正しいコンサバティブというものであり、 そのためには、必ず、それはほんとに古いものなのかどうか疑ってみる理性が必要なのだ。

除夜の鐘はフェイクコンサバティブだと思うね。 あんなものはね、冷静に考えればただの迷惑だったことがわかるよ。

東ローマの後裔

東ローマ帝国が滅びる直前一番近かったのはキエフ公国だった。血筋が一番近いのはグルジアとかアルメニアだったかもしれないが、近隣諸国で一番でかいのはキエフだったし、 その後継のハールィチ・ヴォルィーニ公国とかモスクワ公国とか。ともかく東ローマが滅んだ後にその血統と文化を継承したのは、いまおおざっぱにいうところのロシアの中にみんな入ってる。なんでそうなったかといえば、キリスト教がカトリックとギリシャ正教に分かれたせいで、両者の間ではほとんど通婚がなかったわけだ。西ヨーロッパは、のちに宗教改革があるけど、要するに、王侯はみんな親戚どうしだから、いざとなれば外敵には団結してあたるけど、東ローマは血縁関係が薄いから見捨てられてしまった。おなじようにギリシャも。

だけどまあ、近代になって、西ヨーロッパが対外進出し始めると、一度は見捨てて見殺しにしたギリシャ世界、というか、ヘレニズム世界に食指を伸ばし始める。オックスフォード辺りの学者が一生懸命ギリシャ語の勉強をやる。その背景にはやはり、新約聖書がもともとはギリシャ語で書かれていたからでもある。

それで東ローマが滅んで400年近くたってから、やっぱギリシャは俺等のもんなんじゃね、という機運が西ヨーロッパで盛んになる。イギリス人もドイツ人も夢中になる。一方、ロシアを含めたギリシャ正教の国々は旧態依然としてたわけよね。というより、ロシアもペテルブルクなんか作ってドイツとかの西ヨーロッパの文化文明に憧れて、もうギリシャとかどうでも良いと思ってた。

まあそれが今ちょっと話題になってる「社会問題」化しちゃったわけで、ヨーロッパの若者がフィーバーして、ギリシャ独立戦争とかにつながる。ギリシャは最初独立して王国になったが、その王様がなんとバイエルン王国の王子。その理由が、東ローマ皇帝の血を引いているからってものなんだが、ものすごいこじつけだ。ドイツ人のヘルダーリンも『ヒュペーリオン』とかいうおかしな小説書くし。ゲーテもヨハンナ・シュピリもギリシャ大好きだった。冷静に観察するとかなり頭おかしい。しかも頭おかしいってことに自覚症状が無い。自分たちがギリシャ人の子孫だって本気でおもってる。ギリシャ人の子孫は今のトルコ人だよな。明らかに。ついでにイタリアもオーストリアもイギリスもフランスもロシアもどんどんオスマントルコに進出して、領土を切りとりはじめた。

でまあ、オックスフォードで始まった古代ギリシャ研究というのはすごいものではあるのだが、もともとはなんの根っこもないもので、特に初期の研究はけっこうおかしなものもあり、それをいままじめな学者は一生懸命修正しようとしているのだが、いったん定着したステレオタイプはなかなか消せない。キリスト教とか19世紀のヨーロッパの哲学なんかとすごく深い教義の部分で絡み合ってしまっているので、分離できなくなっている。

で、日本なんかはただのヨーロッパの受け売りだから、よけい始末に負えない状態に今ある。

イソクラテス弁論集

この解説がいきなり「カイロネイアの敗報」から始まっているのだが、私は暫くこの文章をイソクラテスが書いたのかと思って読んでしまったのが、なんだかおかしい。あきらかにおかしい。読み返してみたら解説が始まっていたのだけど、イソクラテスがデモステネスを褒めるはずがない。

デモステネスの演説がもつ決断の力強い表現は、都市国家が最後に放った閃光であり、ギリシャの弁論術の最高の達成である。

などというはずがない。イソクラテスはデモステネスに対して真逆の評価をしていたのに違いないのである。

私に言わせればデモステネスはただのバカだ。

カイロネイアの戦いが終わって酒に酔ったフィリッポス2世がデモステネスの決議文を韻文にして吟じたなどというのは、これも誰が言ったかわからない俗説だし(フィリッポスはデモステネスを嫌っていたが、そこまでするとは思えない)、イソクラテスがカイロネイアの敗報を聞いて断食して死んだというのも後世の俗説である(イソクラテスがそんな馬鹿なことをするはずがない。イソクラテスの死とカイロネイアの戦いがどちらが先かは不明)。むろんそういう俗説もあると参考までに取り上げるのはかまわないが、いきなり解説の冒頭にもってくるとはどういうことか。ミスリーディングだろ?

この、「イソクラテス弁論集」という極めてマイナーな本を読もうという人は、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、或いはデモステネスと続いた正統派の古典ギリシャ哲学に、多少の疑問をもち、イソクラテスに同情的な人ではなかろうか。フィリッポスと同時代で、彼の理解者であったイソクラテスの生の声を聞きたくてこの本を読むのではなかろうか。この本の解説はその期待を完全に裏切る。この本をさらに読む気が失せるほどに。この本の著者は、単に学術業績のために、ペルセウスの英文をたまたま翻訳しただけなのではなかろうか? イソクラテスに対する「愛」は持ち合わせてないのだろう。

少なくとも、イソクラテスの本なのだからイソクラテスのことを、客観的に、中立公平に、学術的に論じてほしい。そして単に今日定説となっていることを羅列して解説とするのではなく、イソクラテスという人の意義を掘り下げてみせてほしい。でなければ解説など邪魔だ。

それから、「平和について」と題するイソクラテスの演説も、これはデモステネスのような主戦論者に反対して言っているのだ、マケドニアと争うな、テーバイと同盟してマケドニアと戦争するなど大きな間違いだと。そしてこれは大国ペルシャに対して言っているのでないことも他の演説によってわかる。ペルシャの脅威に対してはギリシャ人全体の問題として、一致団結して、適切に対処しろと言っているのだから。そりゃそうだ。スパルタ、テーバイ、アテナイ、マケドニア、ギリシャ人が内輪もめしてる場合じゃないよと。さっさとギリシャ諸ポリスはマケドニアを盟主と認めて外敵ペルシャに対抗しろ。イソクラテスはそう言っているのだから。

月報の論評は日本の「平和憲法」や「九条」と絡めて話してしまっている。おかしな左翼思想を持ち込むなよ。そういうコンテクストで戦争を放棄しろ、平和条約を結べ、などと言っているわけではない。読めば明らかではないか。

ともかくイソクラテスファン(そんな人がいるかは知らぬが)が読んだら、腹を立てるに違いない。しかしおそらくそんな人は今のギリシャ哲学研究者にはいないのだろう。

それはそうとイソクラテスがスパルタという「王国」を褒めているのは面白い。結局マケドニアはスパルタと最終的に雌雄を決することになったのだが。まあ、マケドニアが好きなイソクラテスが同じ王国のスパルタを好きなだけかもしれないが。そんな彼がアテナイの敗戦を悲しんで断食して死ぬはずない。

ややこしい(鎌倉公方)

とりあえずまとめておく。

足利満兼 によれば、満兼は義満を討って自分が将軍になろうとした、という。西国六国の守護大内義弘が乱を起こすと挙兵して上洛をうかがうが、乱がおさまったので鎌倉に帰っている。義満はこれに怒り陸奥国伊達政宗に反乱を起こさせるが、満兼は上杉禅秀を大将として派遣して平定する。

満兼が死んだとき(1409)、息子の持氏はまだ満11歳で、元服前だっただろう。満兼の弟 満隆 は不服として自分が鎌倉公方になろうとする。当然、満兼を嫌っていた京都将軍家の支持があっただろう。しかし結局満隆は折れて持氏の弟満仲を養子とする(1410)。

持氏と上杉禅秀は不仲で、禅秀は関東管領を辞する。不服とした理由は家人が持氏に領地を没収されたからとあるが、まあいろいろあったのだろう。このとき当然禅秀は満隆に接近したであろう。持氏と満仲も不和だった可能性がある。こうして、満隆・満仲・禅秀は持氏に謀反を企てるが、このとき足利義嗣、足利満直らも同調して時の将軍 義持に対抗しようとしたのかもしれない。それだけ義持の基盤が脆弱だと思われていたのかもしれない。

禅秀の乱によって持氏は鎌倉を逐われるが、結局は満隆よりも持氏を支持する家人が多かったのだろう、乱は失敗する。禅秀は上杉氏宗家である犬懸上杉氏であったが、以後は山之内上杉氏が関東管領となる。

持氏は義持の次の将軍義教に反発し、山之内上杉氏と対立するが、結局討たれてしまう。
義教が暗殺され、持氏の子成氏が鎌倉公方に復帰すると、当然成氏と山之内上杉氏は不仲となる。成氏と京都将軍家も対立する。成氏を排除して義教の子政知を鎌倉公方に送り込もうという動きがあり、成氏は上杉氏の家宰長尾氏と太田氏に鎌倉を逐われる。いわゆる江の島合戦であるが、結局、やはり成氏を支持する関東武士団によって成氏は鎌倉に戻る。

思うに持氏が討たれるというのは関東武士団にとっては異常事態なのだが (その他の場面ではたいてい関東の意向が通っている。鎌倉公方が慕われているというよりは、京都の支配下にはいるのが嫌なのだろう)、義教が赤松氏に討たれたのも実は関東武士による画策ではなかったか。関東は西国よりも武士が倍多い。西国の細川・山名などが京都で政争を繰り広げているようにみえるが、実は関東の影響というのはそうとう大きかったのではなかろうか。

普通の人は応仁の乱を無意味で無駄な内乱だった、と思っている。私も日本史をほとんど知らなかったころは漠然とそう思っていた。関ヶ原とか大坂の陣などは意味のある大事な戦争だと思っていた。でも今はそんなことはない。応仁の乱や室町時代について知らなすぎるだけなのだ。室町時代は一言でいえば守護や将軍家の家督争いが延々と続いた時代なのだ。

Basilis

この写真によれば、ローマノスは ΡΩΜΑΝΟС ΒΑСΙΛΕҰС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれていて、エウドキアは ЕҮΔΟΚΙΑ ΒΑСΙΛΙС ΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。ローマ字表記すると、それぞれ、ROMANOS BASILEUS ROMAION、 EUDOKIA BASILIS ROMAION となる。 つまり、東ローマの皇帝はバシレウス、女帝はバシリス、というのが当時の正式な呼称であった。また、すでにギリシャ文字が一部キリル文字化しつつあるのが見てとれる。ΣではなくСが使われ、また、ユプシロンに当たる文字がҰとҮの二つあるように見える。オメガが、小文字の形をそのまま大きくして大文字として使っているが、これも珍しい。というかそういう文字がユニコードにあるのだろうか。

エウドキアの表紙は再び描き換えることになると思う。

英語のウィキペディアにはAugustaとして戴冠されたと書かれているが、実際にはBasilisだったわけで、ギリシャ語のウィキペディア見ても、皇帝 (Autokratoras) とかしか書かれてなくて、ほんとうはなんと呼ばれていたのか、当時の彫刻とかモザイク画くらいしか信用できない。しかもこんな鮮明に文字が残されているのは珍しい。他のはもっと読みにくい。

王冠の形だが、ゾーエーのモザイク画に似ているが微妙に違う気もする。

ところで女帝と皇后はほんとうに区別されていたのだろうか。よくわからん。

コンスタンティノス9世モノマコスでは、ゾーエーがΑҰΓΟҰСΤΑ (AUGOUSTA) と書かれていて、コンスタンティノスは単に ΒΑСΙΛΕҰСΡΩΜΑΙΩΝ と書かれている。もしかしてアウグスタというのは単に皇帝の后、皇后という意味だったかもしれん。アウグストゥスの妻がアウグスタと呼ばれたように。てことは、おそらくエウドキアは皇后の頃からアウグスタと呼ばれていて、その後バシリスとして即位したというのが正しいのではないか。

ハンニバルが越えた峠

hannibal_pass

ハンニバルがアルプスのどのへんを越えたかというので、日本語の文献で詳しいのだと塩野七生の『ローマ人の物語』ハンニバル戦記くらいしかないので、とりあえず読んでみると、ギリシャ人のボリビウスはピッコロ・サン・ベルナルド峠だと言い、ローマ人のリヴィウスはモンジネブロ峠だと言い、ナポレオンはリヴィウスに賛同している、などと書いている。

でまあ、ナポレオンのアルプス越えのイメージがあるので、ハンニバルもアルプスの北側から南のロンバルディアに降りてったようなイメージがあるわけだが、図に書いてみると、アルプスはアルプスなんだが、ずっと西のはじの、フランスとイタリアの国境付近を越えたのはまず間違いない。グルノーブルまで来たってことがわかっているのなら、今もよく使われている街道と峠を使って、スーザに降りて、トリノ方面へ向かったと考えるのが自然だと思う。

モンジネブロはイタリア語で Monginevro、極めて不親切な表記だ。フランス語で Montgenèvre (モンジュネーヴ)と書いてもらわないと検索できないだろう。ピッコロ・サン・ベルナルドはまだ検索に引っかかりやすい。ピッコロはイタリア語で小さいという意味で、フランス語だとプチ・サン・ベルナールとなり、これはグラン・サン・ベルナールという別の峠があるからだ。ナポレオンはこのグラン・サン・ベルナール峠を越えた。セントバーナード犬の故郷でもある。プチ・サン・ベルナール、グラン・サン・ベルナールともに、サン・ベルナルディーノ峠とはまったく違う。

でまあおそらくモーリエンヌから、モンスニ(Mont Cenis, Moncenisio)峠、スーザと越えていったのではないかと思うのだが、そのルートについては『ローマ人の物語』には言及されていない。

1868年にイギリスの鉄道会社がモンスニ峠に世界で初めての登山鉄道、モンスニ鉄道というのを通したのだが、これが厳密にはモンスニ峠を越えてない。わざと迂回させたのかもしれないが、北の方、モンスニ湖の横を通している。1863年にフェルという人が考案した、真ん中に第三のレールを通す方式。

ナポレオン三世の軍隊もモンスニ峠を越えたと思うのだが、当時のフランス語の新聞でも読まなきゃわかるまい。やれやれ面倒だ。1859年のことで、まだモンスニ峠鉄道は通ってない。乗合馬車みたいなのが通ってたらしい。

なんでイギリスの会社がこんなところに鉄道を通したかだが、ここに鉄道が通ると、ドーヴァー海峡のカレーから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っていて、そこからエジプトのアレキサンドリアまで船便で、そこからスエズ運河を通ってインドまで手紙を届けられるのである。ところが1871年モンスニ峠の近くにフレジュス鉄道トンネルが通るとモンスニ峠鉄道は廃止された。わずか3年しか使われなかったということだ。

ルッカ

イタリアの古地図は複雑でややこしい。飛び地がいっぱいあるし、国も頻繁に生まれたり統合されたりする。

トスカーナの歴史もわかりにくい。カール大帝の時代はトスカーナ辺境伯。それからフィレンツェ共和国(1115-1532)となり、途中メディチ家が一時追放されてフィオレンティーナ共和国というものがあったりして、それからトスカーナ大公国(1569)となる。メディチ家が絶えるとハプスブルク家のものになる(1737)。

で、マティルデという女性がトスカーナ辺境伯を治めていて彼女が死んだ(1115)あとに、
トスカーナとジェノヴァの間にルッカという共和国が独立した(1160)。ナポレオンがルッカとピオンビーノをくっつけてルッカ・エ・ピオンビーノ公国というものにしてしまい、 ナポレオンの妹エリザ・ボナパルトとその夫のフェリーチェ・バチョッキに与える。 ナポレオンはトスカーナ大公国を復活させエリザにトスカーナ大公を兼ねさせる。 これによってトスカーナとルッカはふたたび同じ国になった、と言える。ナポレオンが失脚するとハプスブルク家の大公が復活するが、ルッカが再び独立国になることはなかった、ということらしい。ふー。

ソンドリオ

スイスの古地図を見ていると、昔と今では少し形が違う。現在のイタリアのロンバルディア州にあるソンドリオ県というのが、昔は灰色同盟、つまりスイスのグラウビュンデン州の一部だったので、当時はソンドリオはスイスのカントンの一つだったわけだ。ソンドリオというのは町の名でこの一帯は Adda川の渓谷でValtellina地方ともいう。

宗教改革の後、グラウビュンデンはプロテスタントとなり、カトリックのソンドリオはプロテスタントを排斥し、灰色同盟から独立した。30年戦争では、主戦場の一つとなったようだ。ナポレオンが失脚するとオーストリアがロンバルド・ヴェネト王国という衛星国を作るのだが、そのときにソンドリオはロンバルド・ヴェネト王国の一部になったようだ。
たぶんヴィーン会議によって決まったのだろうと思うが、あまりにマイナーで検索してもよくわからん。

この地図の灰色の部分ソンドリオ県にあたる。

イタリア統一戦争でロンバルディアがイタリア領になり、そのまま現在までソンドリオはイタリアに含まれる、ということらしい。 ふー。

法尊、法助

義満の子で義持の弟に法尊 という人がいて、「仁和寺門跡」とあるが、

永助法親王から伝法潅頂を受けて仁和寺門跡を継承する。天皇の子以外で仁和寺門跡になったのは鎌倉時代に摂政関白九条道家の子法助の例があるのみという異例の昇進だったが、その5年後に師に先立って23歳で死去した。このため歴代の御室門跡には数えられていない。

とあり、また仁和寺門跡一覧 にもないのだから、門跡じゃないんじゃないのそれは?
としか言いようがない。

三歳年上の兄・義円(義教)より法尊のほうが出世が早かった、ということになっているが、仁和寺門跡を実際に継いだわけじゃないのだから、実際に青蓮院の門跡になった義円のほうが出世が早かった、というべきではないのか。

また、
法助だが、仁和寺門跡一覧には「法助法親王」とあるが、九条道家の子なら皇族じゃないんだから、法親王でもないんじゃないの、と思う。単なる誤記なら修正しようかと思ったが、仁和寺のサイト にも同様に書かれているので、ほっとくことにする。


どうでも良いことだが、ウィキペディアの法助の記述は修正されていた。仁和寺のサイトの記述も消滅していた。

プロイセン王国

[プロイセン](File:Prussiamap.gif)。
[プロイセンの領土拡張2](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap2.gif)。
[プロイセンの領土拡張3](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ac.prussiamap3.gif)。
[ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国](http://de.wikipedia.org/w/index.php?title=Datei:Brandenburg-preussen-1701-1806.png)。
[ライン川](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Rhein-Karte.png)。

昔プロイセンには異教徒のプルーセン人の部族が割拠して住んでいたが、ドイツ騎士団による改宗十字軍によって滅ぼされた。東プロイセンはドイツ騎士団領、西プロイセンはポーランド王国領プロイセンとなった。プロイセン王国はブランデンブルク辺境伯がスペイン継承戦争で神聖ローマ帝国側についてポーランドと戦い、プロイセン公国を完全に独立させて、ブランデンブルク辺境伯領とプロイセン公国が合併して生まれた。

神聖ローマ帝国時代にプロイセンはすでにエルベ川以西にも若干の領土を持っていたが、 ナポレオンによってエルベ川東岸に押しやられ、神聖ローマ帝国は解体し、群小な独立国とフランスの衛星国が生まれた。ナポレオンが負けるとライン同盟のザクセン選帝侯領の北半分がプロイセンに、ナポレオンの弟が治めたヴェストファーレン王国も、フランス直轄領となったラインラントもプロイセン領となった。プロイセン本国に地続きのスウェーデン領とポーランド領も獲得。一躍大国となる。1862年にはビスマルクが宰相となる。イタリア統一戦争直後の登板というのが興味深い。イタリアに続けという気持ちはあっただろう。

1864にデンマーク王の統治下にあったがドイツ連邦の一部でもあったシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマーク戦争によって獲得。つづいて1865年の普墺戦争においてオーストリア側についたドイツ連邦内のバイエルンやハノーファー、ザクセンの残りなどの大半を獲得。ビスマルクすげえ。

[プロイセン部族](http://en.wikipedia.org/wiki/Old_Prussians)。

[Königreich Preußen](http://de.wikipedia.org/wiki/K%C3%B6nigreich_Preu%C3%9Fen)。