山谷泊り

山谷辺りまでいくと安いホテルがあるんで、衝動的に予約して、浅草で飲んで山谷に泊まって南千住から朝帰りするってのをやってみたのだが、朝のラッシュに巻き込まれるのがけっこう辛い(あと、山谷から南千住駅へのアクセスが虚無すぎる。距離的には近いのにメンタルをやられる)。

2日がかりで、10時のチェックアウトまでダラダラしてその後二日目も浅草で遊んで昼過ぎに帰るというのならまあまあ良いかもしれんなとは思った。しかしそれはよほどヒマなときくらいしかできない。

チェックアウトが朝5時くらいならそれでも良いなと思ったがフロントに人がいないので7:00にならんとチェックアウトできないというのが地味につらい。

結局、浅草で適度に酔っ払ったらそのまま電車で職場に戻って寝るほうが楽だな(少なくとも時間の節約になる)ってことに気づいた。浅草から山谷まで移動するのも時間かかるし。銀座線はやっぱり便利だ。

浅草駅は本当に謎だ。カオス。銀座線は出口2か3、到着ホームによっては出口4から地上に出ることになるだろう。本来は出口6か出口8が一番便利なはずなのに例の地下街のせいで近寄りがたい。私は全部わかって上で出口6を使っている。東武に乗り換える人などは出口7を使うかもしれない。

とにかく銀座線浅草駅は死んでいるが、都営浅草線の浅草駅はさらに地獄だ。東武浅草駅は比較的まともだが、押上駅が死んでいる。これも都営浅草線がらみ。なまじ古くできた路線なのでもうデザインがむちゃくちゃ。まあしかしそれを言ったらもはやとっくに耐用年数を過ぎているのはあの地下街なんだよなあ。それもこれもふくめて浅草と諦めるほかない。いっそのこと6区の映画館も残しておきゃよかったんだ。ほんとwinsは邪魔。しかしあれを目当てに浅草に来る人、その客をあてにしている店も多いのは事実。

あの地下街はもともと、新仲見世通りの有志が資金を募って作ったものだった。銀座線から新仲見世通りに地下道で直結することによって客を新仲見世通りに誘導したかったのだ。地下街を北に二天門まで延長しようとしたが、浅草寺には表参道からおまいりすべきだ、東参道からおまいりしちゃダメだなんてことを言ったのは、要するに、新仲見世通りを経由せずに地下街だけ商売が繁盛しちゃなんのために出資したのかわからんということになるからだ。それに決まっている。

昭和30年というから私が生まれるよりも10年も前に出来た狭い地下道で、老朽化が進んでいてもう完全に活動限界を超えてる。出口6も狭すぎる。もっと太い道を通すべきだったのだが、戦後まもなくの日本経済にそんな余裕があったはずがない。でもいまさら再開発して快適にしてしまって、あの昭和の味わいを潰すのか。そうして新宿南口も、渋谷も、すっかりつまらなくなってしまった。いっそのことあと30年あのまま放置して100年そのまんまな地下道ってことにすれば面白いアトラクションになるのではないか。

エアコンをつけたのも去年の夏からでそれまでは暑くても適当に扇風機や簡易空冷装置を回しているだけだった。何もかもが遅すぎるのだがその対応の遅さがあの地下街を今まで残してくれたのだ。森ビルの社長ならなんのためらいもなくスクラッチアンドビルドしてしまうだろう。

それにしてもあの漏水はひどすぎる。

しかし、二天門まで延長するということは今の地下街の10倍くらいの長さにしようとしたわけだから、それはそれで是非見てみたかった。ものすごい昭和遺産になったに違いない。

サンバカーニバル

昨日は複数の人からサンバカーニバルを見に行けと言われて、私も浅草に何年も住むわけではないから一度くらい見ておくかと見に行ったのだが、暑いし、人は多いしで、こんなの見てられるかと思って引き返した。

13:00から17:00くらいまでやるらしいんだが、13:00頃は先頭にブラスバンドみたいなのがいて、次に小学生のボーイスカウト(?)みたいなのがいて、そのまた後ろの二天門辺りに最初の組が待機していたんだが、こんなの最初から最後まで、見てられないよ。

三社祭は春にあるんだが、アレならまだましだ。秋にやっても良いのではないか。冬でも全然かまわないと思う(裸踊りには辛いだろうけど)。甲子園もそうだが真夏にやるというのはどうなのか。だんだん暑くなってきているということもあるのかもしれんがそもそも浅草は最近オーバーツーリズムがひどすぎて破綻しているとしか思えない。

浅草駅の八番出口(笑)は松屋浅草の前にあるんだが、ここはシャッターが降りて閉鎖されていた。ここに人だかりができるとどうにもならんからだろう。せめて沿道にテントを張って椅子を並べて、金を払ってどうしても見たい人だけがみれるようにする、とかしなきゃだめじゃないのか。生物学的に無理すぎるよ。ま、ともかく、私は一通り浅草のイベントがどんなものか知れればそれでいいんで無理には参加しない。

浅草は可能な限り静かな界隈に部屋を借りたつもりだがダメだった。とにかく人が多すぎる。人が多いとなんらかの騒音が常に発生する。年を取って聴覚過敏気味な私には住める町ではない。早く定年退職して静かなところに住みたい。東京で仕事しているのが良くなかった。50才くらいで田舎に転勤すべきだったんだ。

ところで浅草地下街マップにアクセスが多いのは地下街で例の事件が起きたせいだろうか。

浅草に部屋を借りて八ヶ月が経ったがさすがにもう行きたいところは行き尽くし、上野やら御徒町やら近場もたいてい見てまわった。向島や曳舟まで繰り出すのはめんどくさいし、近場で言えば吉原山谷あたりにまだ見てないところがあるかもしれない。

とはいえ吉原はただの風俗街なので見るものは何もない。こないだ飛田新地というところへ連れて行ってもらったのだが、吉原みたいなところかと思ったら全然違った。

吉原の大門を起点としたほうがわかりやすいと思うが、その東側にアサヒ会、日の出会、いろは会などの商店街の痕跡のようなものが広がっている。いろは会入り口には矢吹ジョーの像があり、2017年までいろは会にはアーケードがあったらしく、google maps がときどきバグってびびる。このあたりは一度調査してみなくてはなるまい。

濹東綺譚2

日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのがうるさいので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町をえらみ択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋のあかりが見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径こみちに沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。

いきなりうしろの木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂えんぴを伸してわたくしの肩を押えた。

公園の小径をすぐさま言問橋のきわに出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、いそがしそうにまた何処どこへか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
むこうの方から来た。」
「向の方とは何方どっちの方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
真土山まつちやまふもとの山谷堀という川だ。」

山谷堀に沿って下っていけば自然と待乳山に出る。待乳山の語源は真土山であろう。この辺りは隅田川が作った自然堤防でなければ沼や湿地帯ばかりだった。盛り土ではなく天然の土で出来た山なので真土山というのに違いない。永井荷風はそこにこだわったか。

言問橋の灯りが見えるというからおそらく待乳山の脇へ出て、隅田川のほとりへ出ようとして、物騒だからやめにして、道を渡らずに、つまり今の山谷堀公園の南のどんづまり(今戸橋あたり)か、待乳山聖天公園あたりで、何かに引き回した鎖の上に腰掛けていたとき、巡査に声をかけられ、言問橋西詰の交差点にある聖天町交番というところへ連れて行かれたのに違いない。

道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋
しらひげばし
の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁
ひんぱん
であるが、

これも今と同じである。南千住へ行く道というのは都道464号言問橋南千住線。白鬚橋へ行く道とは都道314号言問大谷田線のことである。普段ぶらぶら歩いている道なので実に具体的にイメージがわいてきて、以前読んだ時とはまったく違う気分で読めて面白い。

永井荷風は本所か深川、須崎遊郭の話を書こうとしたのだが結局、寺島玉の井を書くことにして、ここを濹上と言うには川から離れすぎているから、濹東と呼ぶことにしたのだ。本所、深川、須崎、或いは柳橋、向島小梅の里などいろんな地名が出てくるけれどもこれらは子細にみればどれも少しずつ違っている。

本所というのは蔵前の対岸あたりであり、浅草から見れば随分南だ。

深川というのは永代橋、門前仲町あたりのことでさらに南だ。

洲崎は深川の東隣で木場などと呼ばれるあたりだ。

向島小梅の里というのは言問橋東詰、牛嶋神社や三囲神社などのある辺りで、向島見番(向嶋墨堤組合)というのもこの辺りにあって、ほんらい向島の遊郭というのはこの辺りのことをいうのだろう。

鳩の街商店街の辺りは東京大空襲の後に(おそらく戦災を免れた建物を利用して)できたものだというから、濹東綺譚よりは後の時代のものだ。

この、押上、曳舟、寺島の辺りは昔は都電、つまり路面電車などが浅草から伸びていて、どこがどういうふうに繁華であったのか、今では予想が付きにくい。

昔は隅田川に架かる橋というものは今より少なくて、吾妻橋の上流には白鬚橋があるだけだった。白鬚橋を往来する京成バスというものがかつてはあり、白鬚橋の東に京成白鬚線というものがあって白鬚駅から向島駅というところを結んでいたらしいのだが(向島駅は京成押上線に連絡していた)、これらは今はほとんど痕跡もない。この白鬚線沿線辺りを昔は寺島村と呼んでいた、と濹東綺譚には書かれている。白鬚線と東武伊勢崎線が交叉するところが玉ノ井駅、今の東向島駅である。

昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では
はず
れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席
よせ
、活動写真館、玉の井稲荷
いなり
の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗
りぞく
広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊
ふくそう
と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙
へんぴ
な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。
いわん
や人の一生に於いてをや。

濹東綺譚は昭和11年、つまり二・二六事件のあった年に書かれたものだが、東武鉄道が玉ノ井の盛り場の西南に駅を設け、とあるからには、永井荷風が玉ノ井と呼んでいる場所は今の東向島駅の北東辺りのことを指しているわけである。本文から推察するに、東清寺(玉ノ井稲荷)のあたりだろう。つまりいろは通り界隈である。白鬚橋から大正通りを経ていろは通りへ。古い商店街らしいが遊郭の面影というのは私の見る限り無い。むしろ鳩の街や小梅の里のほうが向島らしい雰囲気や情緒があるだろう。吉行淳之介の小説とか、いわゆるカフェー風建築なんてものは鳩の街あたりだけにあるのであり、しかも赤線が廃止されるとともに急速に廃れたから、再開発もされずシャッター街となって比較的そのままの状態で残っている。

寺島町奇譚というマンガがあるがあれは東京大空襲で玉ノ井が焼け野原になるまでのものなのでちょうど濹東綺譚と同じ時代のもの、ということになる。

白鬚橋は大正3年に架かったそうだから、大正通りもそのときにできて、さらにその先が延長されていろは通りとなったものと思われる。日光街道と水戸街道が短絡されたから、寺島町はそれなり賑わいがあったのだろう。

濹東綺譚を昔読んだときは浅草や向島や戦前や戦後や遠くは江戸時代の風物がぼんやり漠然と、渾然一体と混じっていて、そういうものを読むからむしろファンタジー的な気分で読めたわけだけれども、実物を知ってしまった今読んでみるといちいちイメージが鮮明であって、逆に空想の入り込む余地がないとも言える。

以前にも東向島というものに書いたのだが、台東区には台東区で、墨田区には墨田区で巡回バスがあるのに、白鬚橋を往来して台東区と墨田区をつなぐバス路線が無い。言問橋ができて、浅草から押上、曳舟、東向島までいく交通が便利になると、この白鬚橋の重要性が非常に小さくなって、バス路線も採算が取れなくなり廃止されたものと思われる。吉原あたりに住んでいる私にとっては不便極まりない。吉原と玉ノ井を結ぶバス路線なり電鉄などあってくれれば、向島に遊びに行くのにどれほど好都合かしれない。都電荒川線が白鬚橋を渡って玉ノ井まで伸びていてくれたらよかったのに(白鬚線はもともと荒川線に接続する計画だったという)。

私の玉の井散策という記事が最も詳しいように思われる。

寺じまの記濹東綺譚向嶋向島浅草むかしばなし勲章水のながれ吾妻橋草紅葉里の今昔葡萄棚(青空文庫)。

国会図書館デジタルコレクションで断腸亭日乗など読むが、まあとりたててどうということはない。

濹東綺譚

濹東綺譚はもちろん読んだことがある(濹西綺譚なんてものを書いてみたこともある)のだが、小田原まで行く用事があって途中だいぶ間があるから小田急線の中で改めて濹東綺譚を読んでみた。浅草に半年も住んでみたものだから、地名がいちいちわかるのが面白い。

活動写真の看板を一度に
もっとも
多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷
したや
浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り
つえ
を池の
ふち

く。

とあるのは明らかに今は、東洋館、浅草ロック座なるストリップ小屋が建ち並ぶ通り(六区ブロードウェイ)のこと。

一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町
せんぞくまち
へ出たので。右の方は言問橋
ことといばし
左の方は入谷町
いりやまち
、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、

これはあきらかに、ひさご通りを通り抜けて、千束商店街の手前、言問通りまで来たところのことを言っている。

永井荷風は千束通り(千束商店街)のことを千束と言っている。実際今の浅草二丁目から五丁目の西側はかつて浅草区というものがあったときには千束町の一部であったらしい。戦後、下谷区と浅草区が合わさって台東区ができて、そのとき区割りも変わった、ということか。

さらに古くは、千束村は浅草区、下谷区、北豊島郡南千住町(大字千束)に編入されていたという。結構変遷があるものだ。もともとは千束池というものがあったあたりを全部千束と言っていたのだろう。

わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先のさだまらない散歩の方向は、かえってこれがために決定せられた。歩いて行くうちわたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀さんやぼりの流が地下の暗渠あんきょに接続するあたりから、大門前おおもんまえ日本堤橋にほんづつみばしのたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方こなたは土管、地瓦ちがわら、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気まずしげ小家こいえがちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋しょうほうじばし山谷橋さんやばし地方橋じかたばし髪洗橋かみあらいばしなどいう橋のがわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまであかりをつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

ここは少々難しい。千束商店街が尽きるまでいけば日本堤にぶつかる。土手通りを左に行けば吉原大門、見返り柳だ。山谷堀公園という遊歩道は戦後昭和になって暗渠になった、ということはそれまではまだ水が流れていたのだろう。つまり山谷堀公園が尽きるより上流が当時すでに暗渠になっていたと考えて良いだろう。

日本堤橋は吉原大門を出た真向かいにあったはずで、ここには今、桜鍋屋(創業明治三十八年、中江)や馬肉屋が残っている。その裏通りというのは土手通りに沿って、つまり、山谷堀の右岸が土手通りで、左岸が裏通りと言いたいのに違いない。

髪洗橋(紙洗橋)というのは東武ストアへ行くあたりにある。地方新橋はデニーズのあたりにある。地方橋はローソン100がある交差点、千束商店街のアーケードが尽きるあたりにある。いずれも橋の名前ではなくて、土手通りの交差点の名前として残っている。下流から順に言えば、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、となるはずだ。

要するに、かの古本屋というのは吉原大門前の桜鍋屋の並びか、その裏通りあたりにあったと考えればよかろうと思う。

船渡御

江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。

観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。

本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。

さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。

いやはや。これはすごい。

戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。

今の三社祭と全然違っている。

江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。

しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。

浅草寺に「あかん堂」「駒形堂」なる別館が存在する意味が今ではわからなくなっているが、昔、浅草寺は隅田川と密接に関係していたのだ。だから川と連絡するために、これらの施設が非常に重要だった、ということになる。浅草寺が今ある場所はもともと檜前さんちの在家だったとあるが、おそらくこのあたりで一番開けていて、しかも水害に遭いにくい高台だったのだろう。

関東は、昔未開拓な頃はどこも川と沼だらけだったから、船祭というものが一般的だったのかもしれない。

鹿島神宮では12年に1度、午の年に式年大祭 御船祭(みふねまつり)というものがあって勅使下向もある。

香取神宮にも経津主大神の東征を再現した、式年神幸祭というものがあって船が出る。

大宮の氷川神社もかつては沼自体をご神体とした船祭があった、と言われているそうだ。船に神輿を乗せていたかどうかはともかくとして、関東地方における遷幸、遷宮、東征というものは、もともとそうした、船に軍勢を乗せた大がかりなものだったに違いない。それがいつの間にか氏子のレジャーと化していき、観光目的化していったのだろう。

浅草三社祭に勅使が来るわけはないので、あの馬は勅使風のパレードの演出ということか。

残置物

エアコンから雨漏りするので不動産屋に電話した。詳しくは書かないけど、もともと部屋に設置されていた「設備」ではなくて、前に住んでいた人が勝手に付けて残していった「残置物」なので故障しても大家さんは金を出してくれない。とんでもないところにとんでもないやり方で設置されていて、配管なんかももうボロボロになっていて手の付けようがない。修理も撤去も付け替えもできない。やろうとすると新品のエアコンの数倍の金がかかってしまう。もとはどうやって工事したのだろう。

とりあえず応急措置でなんとかなりそうだ。古くて安い物件には何があるかわからん。家賃をケチったのだから仕方ない。

三社祭り

浅草の三社祭りなんだけど初日金曜日の夜から町会ごとに提灯の櫓を建てたり、簡易寄り合い所を作ったり、神輿や、お囃子を載せる車(囃子屋台というらしい)などを繰り出して騒ぐ。土曜日もやはり町会ごとに騒ぐ。一つの町会に神輿1台ずつかというとそうではなく、大人神輿と子供神輿という具合に2台ずつくらいあるらしい。というわけで浅草氏子44町会、合計100基ほどの神輿が浅草で一斉に練り歩き始め、いたるところにテントやら仮設小屋が建てられて道にはみ出していろんなものが置かれ、ブルーシートを敷いて宴会をもよおし、子供はここぞとばかり路上で追いかけっこし、よそからも見物客が来るから交通に支障をきたさないはずがない。昨日も夜中に近所のスーパーに惣菜でも買いにいこうかと家を出たら神輿で道がふさがっていて2箇所ほど迂回せねばならなかった。あちこちから祭り囃子が聞こえてきて祭りの中に没入してしまうという実に面白い体験をした。

思うに、江戸の三大祭り、神田祭と山王祭は将軍家が見物したが、三社祭りはそうではなかったという。将軍だってヒマじゃないわけで何月何日の何時にどこそこに桟敷を作ってその時だけ見物する、ということになるだろう。だから、何日間もだらだら祭りをするとしても、将軍家にお目見えするための数時間だけは、特定の通りを整然と行列を組んで進んだりするのに違いない。そういう下地が江戸時代にできていれば、マスコミとしても、今秋葉原を神輿が通りました、などという絵を撮りやすい。撮れ高を稼ぎやすい。京都でも天皇が町人の祭りを見物するとなると町人も意識するだろう。祇園祭の山鉾なんかも、あれは町人が自分たちのために楽しんでいるというより、日本の首都を訪れる万人の客に見せることを意識してああいうふうになったのに違いない。

三社祭りはそういう公権力の介在がほとんどまったくない状態で、浅草の町人たちが好き勝手にやっていたもので、しかし浅草は当時大阪を抜いて日本一、いや、世界一人口稠密な都市であったはずだから、民間の祭りがとんでもない規模で寄り集まってああいうカオスな祭りが自然発生的にできてしまったのだろう。

最終日、三日目は浅草神社の一宮、二宮、三宮が、町会よりは多少大きな神輿を出すというのだが、これも浅草寺境内はひとごみでごった返していてどこをどう撮ればいいのかマスコミとしても撮りかねようし、まして一般人が見ても何をやっているのか、よその祭りとどこが違うのか、一部を切り取った映像だけではわからないのであんまり面白くない。ドキュメンタリーを作ることもできようが大して注目もされない。だから神輿どうしで喧嘩になった、というようなことくらいしかメディアでは報道されない。もともと人に見せようということを意識してできた祭りではない。純粋に町人が楽しむためにできたものだ。だからマスコミにとってあまりにもうまみがない。

普通の観光客は三日間だらだら三社祭りを見たりしない。せいぜい数時間浅草に滞在してその片鱗を見るだけだ。だから三社祭のすごさなどというものがわからないに違いない。

観音裏辺りの町会の名前は、象一、象二、象三などと呼ぶらしかった。今の町名と違うのでわからんかったがうちの近所でも普通に神輿を出していた。象とはこの辺りがかつて象潟と呼ばれていたことに由来するらしい。

敷き布団カバー

落語の枕で、江戸には三社祭、神田祭、山王祭の、江戸三大祭りというものがあって、神田祭と山王祭は将軍家が御覧になったので、天下祭りと言った、などと言う。山王というのは赤坂の日枝神社のことだろうが、浅草の三社祭だけ徳川将軍が関わらなかったなどということはあり得まい。他に鳥越神社でも鳥越の夜祭りというものがあるらしいが、浅草の人たちはわざわざ神田明神や鳥越神社まで行くこともなく良くは知らぬという。

松屋浅草に町会の印半天が展示してあったのだが、これがいくらオーダーメイドだって20万も30万円もするはずはあるまい。町会ごとに何百着とまとめて注文するのだろうから、せいぜい1着1万円程度のものではあるまいか。やはり町会が町の住人に貸し出して、洗濯して返すことになっているのだが、洗濯して返さなかったり、そもそも戻ってこなかったりして数が減っていくのであろう。そりゃそうだ、100着貸したら毎年1着や2着は紛失するだろう。

店も祭りの間は親戚に貸したりして、祭りだから人がおおぜいくるのは当然で居場所が無いから、つてがあればそうした家を休憩所にしたり宿泊所にしたりするのだろう。道にもブルーシートを敷いて地べたに座って酒を飲んだり神輿を担いだりする、金曜と土曜は町会の神輿、日曜は浅草神社の神輿が出る、なんでも80万人くらいが来るという。厚木で相模川で花火が上がるときは60万人くらい来るというが、けっこうな人出だった。あれより多いんだから相当なものだ。ユーチューブなんかで三社祭りの映像などみると、なるほどこれは見てるだけではそんな面白おかしいものではない。山鉾とか山車とかだんじりとかねぶたみたいなでかいものを引き回すのでなくて、町会ごとに持ってる神輿を担ぎ、その町の数がやたらと多い、というのが浅草の祭りの特徴なのだろう。だから実際に参加して神輿を担いでみなくては面白くはなさそうだ。

土曜日は町会ごとに神輿を担ぐ(町内神輿連合渡御)のだろう。日曜日は、三社、つまり浅草神社内の一宮、二宮、三宮の神輿を町会で分担して担ぐ(本社神輿各町渡御)、というだんどりなのだろう。うん。だんだんわかってきたぞ。部外者にわかりやすく解説した記事はなかなか見当たらんようだ。浅草に住んでいる人もあんま気にしていないのだろう。

一之宮には土師真中知命、二之宮には檜前浜成命、三之宮には檜前竹成命。この人たちって観音像を掘り出して浅草寺を作った地元の人たちなんだよね?その人たちを浅草神社のご神体にしている。なんかすごい。もとは徳川家光が寄進した国宝の神輿もあったが戦災で焼失。七基あったがいったん全て焼失し、戦後町会から寄進されて三つになったのかー。

それはそうと、今時の敷き布団カバーは裏側がなくて上にかぶせるだけのものばかりで、しかもそんなに安くはない。昔は敷き布団全体をすっぽり包んでしまうようなものしかなかった。そういう昔ながらの布団カバーはイトーヨーカドーに行けばあるだろうと思い、曳舟のイトーヨーカドーに行くついでに東向島の東武博物館にも行ってみることにした。入場料200円でまあまあ面白かった。東武の株を買いたい気持ちにはなった。日光には行ったことがあるが赤木には行ったことがない。昔、東上線沿線に住んでいたんだがしかし四年ばかりで引っ越してしまったのでまだそれほどあちこち巡ってみたわけでもない。北関東というのはずいぶん広いから浅草に部屋を借りている間に見て回るのは難しそうだななんてことを考えた。

曳舟のイトーヨーカドーは布団売り場もおしゃれになってしまっていて西川の布団カバーしか置いてない。無印、ニトリにも行ってみたが、私が欲しいものはなかった。それで浅草に三平ストアという昔ながらの独立系のスーパーがある。その二階にサンキというそれっぽい衣料品店があるからそこならありそうだと思って行ってみたら当たりだった。999円で売っていた。この手のスーパーや衣料品店は昔はいくらでもあった。新中野の鍋屋横町にもいくつもあったがどんどん潰れて、サミットだけになってしまった。多少は残っていてもらわなくては困る。

浅草の土曜の朝

土曜日の朝、7時くらいに浅草場外馬券場の前、六区ブロードウェイ商店街を通ると、まだひと気は少なく、空気もまだすがすがしく、タバコ臭くもないが、なんとなくピリピリとした空気を感じる。制服の上に防寒のコートをはおり明らかに職務中とおぼしき人たちが二人か三人くらいで一組になって通りを巡回している。浅草パークホールビルというホテルのような、オフィスビルのようなよくわからない建物からぞろぞろと20人弱の警察官のようないでたちの人たちが向かいの場外馬券場へ歩いて行く。あれは警察官ではなくて場外馬券場の警備員であろう。前日から泊まりがけでここ浅草にいて、その仕事始めなのだと思われる。これから浅草では土日二日にわたる狂乱の宴が始まるのだ。つくばエクスプレスA1出口脇にある弁当屋デリカぱくぱくも店先に弁当を積み上げて朝7時から客が来るのを万全の態勢で待っている。

これがもう9時くらいになると続々と競馬ファンらが出勤してくる。地下深くに作られたつくばエクスプレス駅から長蛇の列を作ってエスカレーターに運ばれて続々と人が地上にあふれ出してくる。

競馬の何がそんなに面白いのか私にはさっぱりわからない。いろんな人になぜそんなに競馬が好きなのか、聞いてみるのだが、よくわからない。そもそもそんな儲けている人もいないようだ。中には競馬のプロがいて、現金で国税庁にバレないように大金を動かしている人もいるのかもしれないが、そんな人はごく一部であって、ここに集まってくる人たちのほとんどは損しているに決まっているのである。株のほうがまだ儲かる可能性はある。というかやり方次第で株ならば確実に儲かる方法がある。競馬にはそれはあるまい。かなりの部分が偶然性でできているからで、確実性が高いギャンブルといえばまだパチンコの方がましだろう。競馬で儲かるはずがない。

飲み屋で会ったある女性は、お酒を飲むと体を壊すかもしれないけど、競馬は体に悪い影響なくてお酒を飲んだときと同じくらいハイになれるからやるんだと言っていて、なるほどなと思った。

浅草に場外馬券場がある必然性、なくてはならない理由があるんだろうか。渋谷にも場外馬券場があるはずだが、渋谷でも同じような状況なんだろうか。渋谷も浅草もとにかくどこか別のところへ移設するなんてことは考えてもいないのだろうか。

そうした殺伐としてタバコ臭くていかがわしい雰囲気が蔵前から浅草、山谷のあたり一帯、日曜の夜まで続くのだった。

浅草の店には勝ち馬投票券、つまり馬券を置いている店が多い。土日はたいていの店が競馬中継する。実に多くの人が路地にテーブルや椅子を並べて競馬を観戦している。相撲のあるときは相撲中継を見ている。

競馬を面白いと感じるのはホモ・サピエンスのバグなのだろうか。アーリア人にせよモンゴル人にせよ馬を乗りこなすことによって交易し戦争に勝利し、子孫を大量に残した。馬乗り好きな遺伝子がそうでない遺伝子を淘汰して残ったせいで人は競馬に理由もなく、無意識に魅了されるのではなかろうか。

浅草パークホールビルはJRAの事務所や駐輪場などが入るオフィスビルなのだそうだ。やっぱりね。確かにこの建物の2階と地下には謎の駐輪場がある。無料らしいが、通勤客が利用しても良いのだろうか。つくばエクスプレス駅にも駐輪場があるがこちらは有料である。浅草辺りは地面が平らだからものすごくたくさんの人が自転車に乗っている。運転マナーも決して良くはない。極めて危険だ。坂が無いからまだなんとかなっている。

デリカぱくぱくって向島にもあるんだなあ。あと青戸と足立にもあるようだ。

浅草地下商店街マップ

東京メトロのサイトにも銀座線浅草駅構内図に6, 7, 8番出口が記載されているが、非常にわかりにくい(特に浅草地下街から6番出口まではかなり省略されている)。A4、A5出口などは本来は都営浅草線の出口に振られた番号であろう。都営線と銀座線の連絡は極めて悪い(1番線到着ならば都営線への乗り換えは比較的スムーズだが、2番線に着くと面倒なので、その場合1駅前の田原町駅で降りて次の1番線到着の電車を待てなどと車内アナウンスがあるほどである。ただし雷門、浅草寺方面に行くには2番線到着のほうが便利。6, 7, 8番出口に向かうならば一番先頭の車両に乗るのが良い)。都営線と東武線に至っては直接の接続は無い(銀座線に入場することなく都営線と東武線をつなぐ地下通路は無い)。地上にいったん出るしかない。あまりにも設計が古すぎ、またあまりにも場当たり的なので、新宿や渋谷のようにいっそのこと完全に再開発してしまったほうがよいのだろうが、それでは浅草駅らしさが失われてしまうので、昭和遺産かなにかに指定して未来永劫現状のまま保存してはどうか。

6番出口と8番出口は幅が2メートルほどしかない。銀座線から新仲見世通りへの近道として機能させるにはあまりにも細すぎる(玉の井の「抜けられます」のようなものか。昭和30年、敗戦直後の貧乏性がなせるわざなのだろう)。浅草の要衝に位置しながら盲腸のような役割しか果たせていないのは、これら6, 8番出口のせいである。銀座線から地上に出る場合は普通1, 2, 3, 7番出口を使うだろう。4, 5番出口は隅田川のほうに出てしまうので普通こちらを利用することはない。

地下街の通路も幅4メートルしかない上にテーブルや陳列などが店からはみ出している。漏水は地下街全体に見られ、まったく手の施しようがない。エアコンも2025年夏になってやっと設置された。

地下街は深夜から朝6時までシャッターが降りて閉鎖されている。

浅草地下街商店一覧