スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

なるほどと思ったので貼っておく。

スターウォーズ エピソード 7, 8, 9 を褒めている人の意見が知りたい。特にエピソード8。

スター・ウォーズの続三部作(シークエル・トリロジー、エピソード7・8・9)は、ファンの間でも特に熱い議論を巻き起こした作品群です。だからこそ、これらの作品を高く評価している人々が、具体的にどういった点に魅力を感じているのかを知ることは、作品の多面的な価値を理解する上で非常に興味深い視点です。

肯定派の意見を、特にお尋ねのあった『エピソード8/最後のジェダイ』にスポットを当てながら、要素ごとに分解してみていきましょう。

1. 『エピソード8/最後のジェダイ』が絶賛される理由

シークエルの中でも、最も評価が真っ二つに割れたのがライアン・ジョンソン監督による『エピソード8』です。しかし、この作品を「シリーズ最高傑作の一つ」と推す声も少なくありません。彼らが熱狂したポイントは主に以下の3点です。

  • 「何者でもない者」への視点とジェダイの民主化
    • 旧作が「スカイウォーカー家という特別な血筋の物語」だったのに対し、本作では主人公レイの親が「ただの一般人(名もなき人々)」だったと明かされます。また、ラストシーンの「箒を持つ少年」に象徴されるように、「血統に関係なく、誰もがフォースの希望になり得る」というメッセージは、スター・ウォーズの排他性を壊し、真の意味で世界を広げたと高く評価されています。
  • 神格化されたルーク・スカイウォーカーの「人間らしい苦悩」
    • かつての英雄ルークが、失敗に打ちのめされ、引きこもっている姿にショックを受けたファンもいましたが、肯定派はこれを「非常に人間的で深いドラマ」と捉えました。完璧な聖人ではなく、過ちを犯し、それを乗り越えて最後に「伝説(レジェンド)」としてレジスタンスを救う姿(クレイトでの幻影の対決)は、彼の物語の最高の締めくくりだったという意見です。
  • 圧倒的な映像美と様式美
    • 赤い塩の惑星クレイトでのバトル、ホルド提督による光速特攻の静寂(ハイパースペース・トラッキング)、スノークの玉座の間でのレイとカイロ・レンの共闘など、視覚的な美しさと構図の完璧さはシリーズ随一と言われています。

2. シークエル・トリロジー(7・8・9)全体の肯定的な意見

三部作全体を通してみた場合、以下のようなポイントが評価されています。

① 「ライトとダークの境界」の深化(レイとカイロ・レンのダイナミズム)

血筋に縛られず光を求めるレイと、偉大な血筋(スカイウォーカー家)に縛られて闇に落ちようとするカイロ・レン。この2人の対照的なキャラクター造形と、フォースを通じて精神的に繋がる描写(ダイアド)は、従来の「絶対的な善 vs 絶対的な悪」という構図よりも心理描写がモダンで、現代の映画として非常に引き込まれるという声が多いです。アダム・ドライバーとデイジー・リドリーの演技力も絶賛されています。

② 新旧の世代交代というテーマ

エピソード7では「過去へのノスタルジー」から始まり、8で「過去の呪縛からの脱却(過去を葬れ)」を突きつけ、9で「過去を受け入れて未来へ進む」という、三部作を通したメタ的なテーマ設定が評価されています。単なる懐古趣味に終わらせず、新しい世代が自分たちの力で立ち上がる物語としての意義を見出す意見です。

③ 映画としての純粋なクオリティの高さ

J.J.エイブラムスが監督した7と9は、テンポの良い古典的なスペースオペラの興奮を現代の最新VFXと実物セット(アニマトロニクス)の融合で再現しました。ジョン・ウィリアムズによる音楽も健在で、「映画館で体験するエンターテインメント」としての純粋な楽しさは圧倒的であるという評価です。

肯定派の視点のまとめ シークエルを支持する人々は、この三部作を「過去の焼き直し」としてではなく、「スター・ウォーズという巨大な神話を、21世紀の新しい世代のためにどうアップデートし、着地させるか」という大胆な挑戦として捉え、その作家性やテーマの深さを愛しています。

ハリー・ポッターでも血筋は重要ですよね。そこを否定するとハリー・ポッターの世界観が崩れてファンは怒るのではないですか。

非常に鋭いご指摘です。まさにその「血筋や伝統の扱い方」へのスタンスの違いこそが、スター・ウォーズのシークエル(特にエピソード8)でファンが激しく対立した決定的なポイントでした。

ハリー・ポッターとスター・ウォーズを比較してみると、両者が持つ「世界観の構造」と「ファンが求めたもの」の違いがよく見えてきます。

1. 『ハリー・ポッター』における血筋の構造

ご指摘の通り、ハリー・ポッターにおいて「血筋(血統)」は物語の根幹をなす絶対に外せない要素です。

  • 血筋が「設定」と「テーマ」の双方に直結している
    • ハリーがヴォルデモートの攻撃を生き延びたのは「母親の血の保護」のおかげですし、ヴォルデモートとの因縁も「スリザリンの血筋」や予言が絡んでいます。
    • 同時に、作中では「純血主義(マグル生まれを差別する悪)」vs「能力や選択の自由(ハーマイオニーのような優秀なマグル生まれの肯定)」という形で、血筋の特権性を否定するテーマが描かれます。
  • もしハリー・ポッターでこれを全否定したら?
    • もし続編で「実はハリーの母親の愛なんて関係なくて、ただの偶然だった」「ヴォルデモートの血筋も嘘だった」となったら、ファンが怒るのも当然です。なぜなら、それは原作者が築き上げた魔法界のルールや、物語の前提そのものを破壊してしまうからです。

2. なぜスター・ウォーズのエピソード8でファンは怒ったのか?

翻ってスター・ウォーズを考えてみると、エピソード8でファンが激怒した理由は、まさにハリー・ポッターで懸念されるような「これまでの前提(ルール)がひっくり返された」と感じたからです。

スター・ウォーズの世界(特に旧三部作や前日譚)は、良くも悪くも「スカイウォーカー家」という、フォースの意志によって生み出された特別な血筋を中心に回っていました。

  • ファンの期待: 「エピソード7であれだけ引っ張ったんだから、レイもオビ=ワンの孫か、ルークの娘か、何かしら特別な血筋に違いない」
  • エピソード8の回答: 「彼女の親は、酒代のために娘を売った、何者でもない一般人(クズ)だった」

伝統的なファンからすれば、これは「神話の否定」であり、「これまでの伏線や歴史への裏切り」だと映りました。だからこそ、今でも許せないというファンが多く存在するのです。

3. では、なぜ肯定派はそれを「素晴らしい」と評価したのか?

ここが一番面白いポイントです。肯定派がエピソード8を支持したのは、ハリー・ポッターのように「血筋の設定を壊したから」ではなく、むしろ「スター・ウォーズの初期の精神(原点)に立ち返ったから」という理由からでした。

実は、初期のスター・ウォーズにおいて、フォースは「特定の血筋だけのもの」ではありませんでした。

  • ヨーダの教え: フォースはあらゆる生き物の間に流れるエネルギーであり、血統書付きのエリートだけのものではない。
  • オビ=ワンや他のジェダイたち: そもそもジェダイは結婚を禁止されていたため、過去の何千、何万というジェダイのほとんどは「普通の家庭から生まれた、名もなき子どもたち」だった。

肯定派の視点では、アナキンとルークという「スカイウォーカー家の物語」があまりにも強大になりすぎた結果、いつの間にかスター・ウォーズの世界が「偉大な王家の血統劇(貴族主義)」のようになってしまっていた、と捉えられています。

そのため、エピソード8が提示した「レイは何者でもない」という展開は、世界観の破壊ではなく、むしろ「フォースを一部の特権階級から、世界中のすべての人々(ファン自身を含む)の手へと取り戻した(民主化した)」という、非常に熱く、神話として正しいアップデートだったと受け止められたのです。

結論として 『ハリー・ポッター』における血筋の否定は、その魔法界の理(ことわり)自体を壊す行為になり得ます。 一方で『スター・ウォーズ』における血筋の否定は、「スカイウォーカー家という一族の物語」としては裏切りに見えますが、「フォースという宇宙の普遍的な力の物語」としては原点回帰に見える。このどちらの側面を重視するかで、評価が180度変わってしまったと言えます。

ボバ・フェット

マンダロリアン シーズン3を見る前にボバ・フェットを見るしきたりになっているらしいのでボバ・フェットを見ることにして、まだ途中までしか見ていないのだが、ジャバ・ザ・ハットが死んだ後のタトゥイーンでなぜかボバ・フェットはジャバの跡継ぎを殺して自分がジャバの地位(大名?)に就く。大名となったボバ・フェットはタトゥイーンを暴力や権威ではなく尊敬によって治めようとする。

サンドピープル(タスケン・レイダー)に捕まったボバ・フェットは彼等と仲良くなり信頼関係を築き、彼等に自立の道を教える。

結局これはさ、西洋人の植民地支配に対する贖罪意識というかさ、レヴィストロースのサルトル批判というか構造主義というか西洋中心主義からの脱却というか、どんな未開な部族にもそれぞれの社会に道徳とか人倫とか規範というものはあるんだよってことを言いたいんだよね?

つまり広い意味でのポリコレなんだよこれもさ。ヨーロッパ人がわざわざアフリカの砂漠に井戸掘ったり木の苗植えてるのと同じだよ。

マンダロリアンでもマンドーがタスケン・レイダーと助け合ってでっかい虫を退治するっていう話があるんだが、マンダロリアンではまだポリコレ要素がそれほど露骨ではなかった。ボバ・フェットはタトゥイーンを舞台としてマンダロリアンのポリコレ要素を全面に押し出してきた。ディズニーとしてはこれもまたポリコレの布教活動なんだろう。ディズニーはどうしてもポリコレを商売にしたいわけだ。

このボバ・フェットってレヴィストロースとかの現代思想をある程度かじった人ならとてもわかりやすい話なんだけど、そうでない人には単に退屈でつまらん話に過ぎないし、わかったとしてまた西洋人のマスターベーションかっていうに過ぎないんだよな。

ボバ・フェットが砂の中に棲むでっかい虫の腹の中から出てくるところなんて旧約聖書のヨナ記そのまんまで、キリスト教徒どもの世界観の中でぐるぐる回ってる、ベンハーの頃からなんも進歩してない感じ。

homeland 8

昼は暑くて明け方は寒い。飯をくうと暑い。暑かったり寒かったり忙しい時期だ。

割と時間的に余裕が出てきたのと、amazon prime で homeland が見れるようになっていたので、homeland の最終シーズン 8 を改めてみてみた。ディテールはだいぶ忘れてたし、飛ばしてみたところもあったようでかなり楽しめた。最終シーズンにふさわしいすばらしい出来だった。

ただ一つ非常に違和感があったのは、アフガニスタンにある米軍に空爆されて死んだ人の墓標に2014とキリスト教暦の年が書かれていたことだ。まさかキリスト教徒の墓ではあるまい。逆に、キリスト教徒に殺された人の墓だ。現地人には現地の言葉をしゃべらせておきながら、うっかりボロを出したなと思った。アメリカやフランスなど、普通のキリスト教国のテレビドラマがそうした間違いをおかしても全然普通なのだが、homeland は違う。キリスト教とイスラム教の軋轢というものをテーマにした話なのに、これは無いよなと思った。

話のもって行き方として少し、いやかなり強引だなと思ったのは、キャリー・マティソンがアメリカ合衆国大統領にアフガンで停戦を宣言するよう提案するところまではよかったが、そこからさらに大統領自身の判断で前線基地まで軍用ヘリで出かけ、そのヘリが故障して墜落し、アメリカ大統領もアフガン大統領も死んでしまう、という、ほとんどまったくあり得ない設定が使われているところか。いくら話を盛り上げるためとはいえちょっと作りすぎという感じがする。副大統領とその側近の設定やら、CIAアフガン支局長の設定もかなり強引だ。作り話に、作りすぎだと批判するのもおかしいといえばおかしいんだけど。いくら作りすぎていても例えば blacklist にはこんな批判はしないだろう。たかがアメリカのテレビドラマに野暮だというだけだ。それだけまあ私はこの homeland というドラマを画期的な、よくできた作品だと評価しているともいえるが。

ま、しかし日本でキリスト教暦を西暦と呼んでいることも変だ。西アジア発祥のイスラム暦も、ユダヤ暦も日本から見れば西暦なのだけれども。

homeland などみていると、CIAやFBIの職員なんかにはなりたくないなと思う。心静かに、人と関わらず余生を送りたい。ああいうものは作り話だと思ってみるからみれるのであって、いちいち感情移入していたら疲れ果ててしまう。

春の雪 外伝

設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

光の君へ

私はNHKの大河ドラマを見る趣味はないのだが、今回は仕方なく最初から見始めた。

いきなり藤原道兼が紫式部の母親を殺すという展開にはびっくりした。花山天皇の性格設定にもかなり疑問を感じた。

私もフィクションを書くのだけど、歴史に残ってないことはなんでもフィクションにしてよいという考え方は、間違ってはないのだが、ぎりぎりまで考証をして、どうしてもわからないところに補助線をひいて、補助線も引けないところには大胆にフィクションを使う、というのならばまだわかる。

最初からおもしろおかしいように、あるいはわかりよいように、フィクションにしてしまうのは感心しない。

寛和の変のとき道長は20才、右兵衛権佐。三男坊で、文官としての出世をあきらめて武官として出世することを考えていたと思う。では武官として出世するには。そのため源頼信、藤原保昌、平維衡、平致頼ら、道長四天王の若者らとつるんで、自らの武士団を作っていた。おそらくそれは右近衛大将だった父兼家から受けた教育によるものだったはずだ。兼家はきっと清和源氏の将来性に気付いていたと思う。いやというよりも話は逆で、将来伸びる清和源氏に目をつけたから、兼家、道長は天下をとれたのだと思う。

寛和の変で内裏と粟田口を封鎖し、花山天皇が帰ってこれないようにしたのは兼家の指図を受けた道長の役割だった可能性が高い。また父兼家は源頼信の兄源頼光を従えていた。つまり、兼家道長父子は清和源氏嫡流の武力を掌握していたので、兵を速やかに動かし、あのようなクーデターを起こすことができたのだ、と考えるのが自然だと思う。

私だったら道長を野心家の武家の棟梁、昭和の青年将校のような人間として描くだろうと思う。あんなふうなぼんやりとした三男坊にはしない。

大鏡にも競べ弓という逸話が載っているが、道長は普段から武芸を鍛錬した、めちゃめちゃ武闘派の体育会系な人だったと思う。そういう腕白で腕力に訴えようとする人は藤原氏の中に当時、道長以外にはいなかったのだと思う。

あと、あの道長の姉、藤原詮子が妙に理想主義者に描かれているのが気になる。当時の藤原氏は一人残らず、男も女もみんな腹黒い極悪人だった。詮子と道長だけ善人に、兼家や道兼を悪人のように描き分けるのは私の感性からかなり遠い。なんでそんな勧善懲悪的なストーリーにしたがるのかな。だから大河ドラマは嫌いなんだよ。

fallout (TV series)

fallout をうまく紹介している、fallout ファンにとっても楽しめるドラマにはなっているので、一応成功しているんじゃなかろうか。主人公の Lucy MacLean 役、あとグール役もまあまあ。

fallout をまったく知らない人にとってはどうなのだろうか。ただそういう人まで巻き込んで面白がらせようという壮大な野望で作られたものではもともとないのだろう。

ぐちゃぐちゃしたスラム街の描写は良い。一気に最後まで楽しく見れたのは良いのだが、世界観というかSF考証には少し疑問が残る。特に低温核融合。なんかの起動装置を科学者の首に埋め込んでその争奪戦になるという。結局それだけの話なんだけど、その起動装置に必然性がまったく感じられない。低温核融合装置作りましたで何がいけないのか、なぜ特殊な起動装置が必要なのか、その開発者がなぜ Vault を襲わなくてはならないのか(Raiderである必然性が感じられない)、なぜ Lucy の父はあのような判断をしたのか、なんで Vault で新興宗教が流行ってるのかなどなど、すべての設定に無理があるように感じる。

なんというかもう少し、New California Republic の話で盛り上がれはいいんじゃね、とも思ったが、まあいいや。

木枯し紋次郎

菅原文太の木枯し紋次郎を昔見て面白いなと思って、prime video にあったのでまた見てみた。二度見たせいもあるんだが、最初の15分と最後の10分だけみればわかる、わかりやすい構成の映画だ。菅原文太の股旅物として初見でじっくり見るとそれなりに面白いと思う。最初の仁義を切るところも、昭和残侠伝に並ぶ名シーンだと思う。

島流しにあった罪人に対する扱いがひどすぎるのが少し気になった。鬼平犯科帳なんかみていると、罪人に対する扱いも、一人ひとり違っていて丁寧に描き分けられているのに対して、この作品ではただ一律に厳しく扱っていて、幕府とか任侠に対する設定が雑すぎて、戦後民主主義的偏見を感じる。罪人とか流人に対する扱いとか、江戸時代の奉行というものについてもう少し時代考証してほしい。人民はただ抑圧されていたとか虐げられていたという、ただそれだけの前提で話を作られては、納得できないし、見ていていやになる。

あと紋次郎が強すぎる。敵が何人いても一人で全部斬ってしまう。これがリアリティをそいでいる。その点やはり鬼平犯科帳は良い。強敵がいたり、ライバルがいたりしてほしい。結局紋次郎が勝つんだろという、ただ爽快感だけ求める人には良いのかもしれないが、簡単すぎてつまらない。

「あっしには関わり合いのないことでござんす」という名台詞を最後に一回だけ使わせるという演出はストイックで良い。

一宿一飯の恩義で、魚の骨を紙に包んで懐にしまっていたのは、あれはどういう意味があってのことなのだろうか。箱膳ではそうするものなのか。

渡世人が旅先でその土地を仕切る親分の元に世話になる(草鞋を脱ぐ)場合、幾つもの厳しい掟を守らねばならず、その中には「出された食事は完食する」というものもあるのです。そしてどうしても食べられない魚の骨などはああやって懐紙に包んで懐にいれることになっているのです。

博徒の食事作法。渡世人に食事を提供する側はご飯二膳の提供が作法になっており、客人は出されたものを残してはならないのも作法。おかずに魚が出た場合は、骨や尾は懐紙に包んで懐に入れ、大盛りの二膳飯を食べきれない人は一膳目の中央部分だけを食べておかわりを願い出るのが作法と言われている。

Yahoo知恵袋に書かれたものの引用。

確かに私が小学生の頃には給食は完食しなきゃならないという掟のようなものがあったが、あれも渡世の掟のようなものだったのか。


追記: gemini の回答。

股旅物や任侠映画などで描かれる江戸時代の渡世人(やくざ・旅からす)の食事作法で、「出されたお膳に一切のゴミを残さない(完食する)」という美学と掟から来ています。

主な意味と背景

  • 「完食」の意思表示:世話になる親分(家主)から提供された食事に対し、感謝を示して綺麗に平らげるのが礼儀とされました。魚の骨や尾ひれなど、どうしても食べられない残骸も含めて持ち帰ることで、「残さずすべて戴きました」という敬意を表します。
  • 相手に後始末の手間をかけさせない:一宿一飯の恩義を受ける立場(居候や客)として、膳の上に汚い食べ残しを散らかさず、片付ける側に余計なゴミ捨ての手間を取らせないための配慮です。
  • 命を無駄にしない精神:日本の伝統的な食文化(懐石料理などのマナー)にも共通する「食べ物の命を尊び、無駄を出さない」という思想が根底にあります。

懐紙に包んで懐(ふ懐)に収めた骨は、後で外に出た際に目立たない場所(川や草むらなど)にそっと捨てるのが一連の所作とされています。

ゴジラ-1

なんなんだろうか。自分にはまったく面白くなかった。ゴジラが口からなんか吐くのにいちいち背中のトゲが立っていくあの演出も、ただイライラするだけで面白くない。破壊シーンが面白いというが、は?何が、としか思えない。

雪風と震電。嫌いじゃないはずなのになんかおもしろくない。既視感のせいかもしれない。こだわりのツボが違うのかも。メカに対して求めているものが自分となんか違う。うまく説明できないが。永遠のゼロとか海賊と呼ばれた男なんかをちらっとみてつまんね、と思ってやめた感じと同じ。同じ監督だからそうなのだろうが、ともかく監督と波長が全然シンクロしない。この監督が面白いと思うものを私がことごとく面白いと感じないせいだと思う。

俳優が面白くない。一人として面白いと思えなかった。ものすごく無個性に見えた。演技が下手だと言いたいのではない。たぶんうまいのだろう。しかし役を演じているだけの、ただの記号のようだった。全員が脇役というか、ゴジラですらそうで、淡々とストーリーが進んでいくだけに見えた。

日本でも、世界的にも割と評価高かったこの映画が、自分としては全然面白く感じないのが不思議で仕方ない。もしかしたらゴジラとかガメラとか怪獣映画に対して不感症になっているのかもれない。世の中でウルトラマンとか仮面ライダーなんかが流行ればはやるほど自分の中では嫌いになっていく。マイナーなものを面白いと思い、みなが好きなメジャーな作品を嫌うという傾向はある。メジャーになっていけばいくほど特有の臭気を放つようになる。これだけの手間ひまと人と金をかけたのでこういうものができました、と言われている気がする。意外性が無い。インプレゾンビ的な、世の中に媚びているような作品になっていくような気がするのである。

じゃあおまえは監督が好き勝手に作ったマイナー映画が好きなのかといわれても困る。たぶん嫌いだ。

タランティーノ監督はわりとすきだ。レザヴォアドッグとかパルプフィクションとか、最初はなんとも思わなかったが何度かみているうちに好きになっていく。たぶんシナリオが凝ってるからだろう。見るたびになにかの気付きがある。で、ゴジラ-1 のストーリーはシンプルすぎる。なんかひねりあったかな。最後に船がいっぱい集まってきてゴジラを引き上げて、戦闘機が特攻するの。あれ、面白いか?永遠のゼロと海賊と呼ばれた男の組み合わせだよな?

たぶん私は、コロンボとかホームランドとか、目を離した隙にストーリーが負えなくなるくらい展開が読めない話が好きなんだと思う。展開がある程度読めたとたんにつまらないと感じるんだと思う。凝った戦闘シーンとかたぶん飛ばしたいタイプで、そんなのCGとかAIで自動生成できるだろとしか思えない。ハリーポッターとかスターウォーズもそう。レースシーンのSFXとか何の興味もないしハラハラドキドキしない。

Deep Red (サスペリア2) とかSource Code (ミッション8ミニッツ)も好きだな。やっぱ、作品そのものとか、作品のコンセプトが好きとかじゃないんだよ。特に特定のシリーズものだからとか、あるジャンルだから好きとかじゃないんだよ。なんかしら新しいものがみたいだけなんだな。今までなかった要素が少しでもあればよい。今までどこかでみたような要素をうまくまとめた作品は退屈なだけ。ストーリーと役者の演技、そして監督の演出が好きなんだと思う。というか、面白いと思うことが監督と一緒じゃないと面白いと思えないんだと思う。共感がない。単に娯楽作品として楽しめるように作られている作品だから楽しめるんじゃないんだよ。そういうものをみたいんじゃないんだ。


追記。まず主人公の名が敷島というのが気に入らない。私にはネトウヨ映画(というか、ネトウヨをターゲットとして、ネトウヨ心をくすぐって受けを狙っている映画)にしか見えない。

タルコフスキー版ソラリスの問題

ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。

スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。

レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。

スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。

タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。

以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。