御家人の給料

折り焚く柴の記を読んでいると、御家人に支払う給料の話が出てきて、御家人は料地をもたないから扶持米をもらうわけだが、実物をもらうのではなくて、その年の上米・中米・下米のうち上米を基準としてその値を金で支払う習慣だったようだ。上米が1俵(3.5斗 = 35升)で37両なので、1俵の米の代わりに38両を支給せよ、などと書いてある。実に興味深い。

wikipedia によれば御家人は30俵から80俵をもらっていたそうだ。30俵だと年収が約千両ということになる。別にそこから所得税や住民税や社会保障費を引かれるわけではなかろうから、手取りが千両、ということであってるだろうか。ただしそれをまるまる自分のために使えるのではない。収入に応じて家来を抱えなくてはならないから、その家来と家族も養わなくてはならない。となると千両は多いのか少ないのか。よくわからん。

同じ記述の箇所に「右筆集」というのが出てくる。これはやはり下級書記官らのことをいうのだろう。

中ノ口、というのは江戸城本丸の事務方の執務室が並ぶところだが、そこに「お給米の張り紙」というのが貼られて、勘定書から草稿が出てそれを右筆が清書して張り紙にする。

上米の値で支給すれば、御家人たちはその金で中下米を買ってしのぐので都合がよかろう、などと書かれている。面白いなあ。中下米はもっとずっと安かったようだ。

加後号

いわゆる加後号というものは、後一条天皇から始まっている。これは系譜を見ると明らかなように、村上天皇の皇子に冷泉天皇と円融天皇があって、ここで皇統が二つに分かれてしまっている。円融天皇を冷泉天皇の皇子の花山天皇がつぎ、花山天皇を円融天皇の皇子の一条天皇が継ぎ、一条天皇を冷泉天皇の皇子の三条天皇が継ぐ、といった両統並立状態だ。これはまずいというので、三条天皇を継いだ一条天皇の皇子には後一条天皇という追号がおくられた、後一条天皇が一条天皇の正統な後継者だ、という意味合いが込められているのだろう。それはわかる。

しかしその後がもうわけわからない。後朱雀天皇は朱雀天皇の直系子孫ではないし、五親等も離れている。後冷泉天皇も後三条天皇も円融天皇の系統であって、冷泉天皇の子孫ではない。どうもこの道長・頼通の時代に朝廷の原理原則というものが乱れきっているように思われる。

新井白石は後三条天皇がお気に入りである。蝦夷征伐を行い、記録所を置いて荘園を整理した。しかしその後の鳥羽天皇や白河天皇はもうだめだ。

荘園ばかり増えて国司は任地に赴きもしない。国の直接財源は百分の一ほどとなり、勝手な地方自治状態になっている。鳥羽天皇や白河天皇も自分で荘園を持っていたから富裕だっただけであって、きちんと国の経営をしたわけではなく、そのツケが後白河天皇の時代に保元の乱やら平治の乱やら源平合戦となって噴出した、新井白石はそう考える。

結局古代律令制というのは後三条天皇のときにすでに死んでいた、というわけだ。

中国では趙匡胤が統一国家宋を作り、歴史上世界的に中国が最も先進的な時代を迎えていた。中国が工業も政治も軍事力もすべてにおいて世界に優越してのは宋のときしかない(宮崎市定の受け売りである)。宋学という当時世界最先端の中央集権的な政治思想が当然後三条天皇の時代に日本に流れ込んできただろう。道長タイプの政治家とは違う実務的で有能な官吏が、日本も宋のようになればよいと考えたに違いない。そういう高級官僚は後白河法皇の時代にも、何人も現れている。要するに私営地を減らして国営地を殖やし、国の財源を確保して、健全な国家経営をしようという、ごくまっとうな、つまり現代的な発想をする人たちだ。だがそういうまともな官僚たちは、はじめに藤原氏に、次には平氏につぶされてしまい、結局源氏を経て北条氏に政治の実権がうつってしまった。

新井白石は高級官僚だから一民間人の頼山陽とはやはり発想が違ってくる。天皇と朝廷が国を経営しなくなったのがまず悪い。後三条天皇以後はもうむちゃくちゃで「政道を行はるることことごとく絶えはてて」「日本国の人民いかがなりなまし」という状態に至った。
だから頼朝が出て北条氏が出て賤臣の分際で国の政治を執り行った、ということになるのであり、白石自身が感じていた為政者側の責任感というものから、そういう考え方に至ったのであり、至極自然だと思う。

後三条天皇は皇太子時代が長く藤原氏を外戚とせず、三十代半ばの壮年期に天皇に即位した。これだけのことからでも、その志は察しえよう。

後三条天皇の号は母親が三条天皇の皇女(道長の孫娘)であるからおくられたものであろうか。つまり藤原氏の血縁関係の方が皇統よりも重視されたということか。

友人に宛てて送った手紙

彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。
彼女は後に友人に宛てて「ウィーンでは私が不安の中で暮らしていると思っている事でしょう。でも、事実は違うのです。私は少しもナポレオンを怖いとは思っていません。むしろ、ナポレオンが私を怖がっているのではないかと最近思い始めました」という手紙まで書いている。

その、「友人に宛てて送った手紙」というのは実在するのだろうか。その友人というのは誰なのか。極めてあやしい。調べてもよくわからん。英語版には何もそれらしき文言がないのは明らかだ。

しかしこれまた使えるネタではある。虚構の「親しい知人に宛てて送った手紙」というものを持ち出せばいくらでもうそが書けるのだから。

マリア・ルイーズ

Wikipedia のマリア・ルイーズを読んでたら、なんかすごい、見てきたような作り話が書かれてて笑った。

マリア・ルドヴィカはフランツ2世の長女として生まれた。彼女はナポレオンの侵略によってシェーンブルン宮殿を2度に渡って追い出され、ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だと教えられ、「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ってきた。彼女は、ナポレオンのジョゼフィーヌとの離婚を知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。そのため、自分とナポレオンが結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたという。

英語版を読んでもこんなことは書かれてない。誰か日本人の作家か学者の創作物の引用だろう。誰が書いたんだろう。面白いなあ。

もしかしたらベルサイユのバラあたりかな。

マリア・ルイーズは、メッテルニヒがフランツ二世とナポレオンの仲人となってナポレオンの皇后となり、ローマ王ナポレオン二世を産むのだよね。だがナポレオン没落後はパルマ公となると。面白いなあ。


日本語版 wikipedia によればナポレオンの皇后となったマリア・ルイーズは、ナポレオン1世がジョゼフィーヌと離婚したことを知った時に「次に妃として迎えられる人に心から同情すると共に、それが自分でないように願っている」と親しい友人に宛てて手紙を書き送ったくらいであった。とありますが、これは実話ですか。出典はありますか。

日本語版Wikipediaの当該記述は史実(実話)であり、明確な一次史料および歴史学の文献に根拠があります。

手紙の背景と出典

1810年1月10日、当時オーストリア皇女(18歳)だったマリア・ルイーズ(マリー・ルイーズ)は、友人であるヴィクトワール・ド・ポント(カロンヌ伯爵夫人)宛てに手紙を送りました。

その手紙の文章の中に、次の一節が含まれています。

原文(フランス語):

“Je plains la pauvre princesse職… J’ai la隠… seulement je plains la pauvre princesse qu’il choisira, car je suis bien sûre que ce ne sera pas moi qui deviendra la victimeの…”

英訳参照:

“I pity the poor princess he chooses, for I am sure it will not be me who becomes the victim of politics.”

日本語訳(該当の記述):

「ナポレオンの離婚の話ばかりで誰もが騒いでいますが、私は気にしていません。ただ、彼が次に選ぶ哀れな王女に心から同情すると共に、政略結婚の犠牲になるのが自分でないことを願うばかりです。」

歴史的経緯とオチ

当時のオーストリア皇室(ハプスブルク家)にとってナポレオンは長年の宿敵であり、マリア・ルイーズ自身も幼少期から「ナポレオン=悪魔」と教えて育てられていたため、このような本音を漏らしていました。

しかし、この手紙を書いたわずか数週間後、父皇帝フランツ1世とメッテルニヒ宰相による政略交渉の結果、まさに彼女自身がナポレオンの「次の妃」に選ばれてしまうことになります。

主な参考文献・出典

西洋史におけるナポレオン婚姻史の標準的な歴史書で広く言及されています。

  • Frédéric Masson《Napoléon et femmes》(ナポレオンと女性たち)
  • Edouard de Wertheimer《The Duke of Reichstadt (Napoleon II)》 (マリア・ルイーズの書簡録・伝記史料)
  • Shannon Selin《The Marriage of Napoleon and Marie Louise》(一次史料書簡の引用文献)

日本語版Wikipediaには参考文献欄の明記が不足している場合がありますが、発言自体は本人が書いた手紙(書簡)として現存している正真正銘の事実です。

The Marriage of Napoleon and Marie Louise

英語版wikipediaにも書かれている。

バールのようなもの

思うに、一般市民が「バール」を所持している可能性は非常に低い。しかし、金属製の細長い凶器を一様に「バールのようなもの」とマスコミが表現するのは、バールがスケープゴートとして使われているからに過ぎない、と言える。

一般市民が持っていそうなものといえば、まず考えられるのは金属バット。つぎにゴルフクラブ、くらいしか思いつかない。しかし、凶器が特定されればともかく、「金属バットのようなもの」とか「ゴルフクラブのようなもの」と報道されれば、当然スポーツ用品メイカーから苦情がくるだろう。それでいつも「バールのようなもの」なのだろう。

檀家

確かに維持運営費には最高だろうけどなど読んでいて思ったのだが、なるほど、江戸時代の家系などはお寺にしか残ってないからお寺に調べに行くとか、うちのじいさんも言っていたが、要するに江戸時代で戸籍を管理するのは国や地方自治体ではなく寺だったのだ。寺は民政のための一種の役所のようなものであり、つまり、町奉行ではなくて寺社奉行の管轄だった。住職は寺社奉行の役人のようなものだったのだなあ。それはそうだな、出生や死亡、戸籍や家系などの情報を収集管理するには檀家というものが一番便利だ。

従って町中に人口が密集してくるとある程度の寺が必要となるわけだ。ま、合理的ではあるが、本来の仏教というものとは何の関係もないわな。

無宿人や渡世人などのアウトローはそこから外れていると。浪人はまだ檀家に属していたのだろう。

町奉行というのは確かに必要だが、なぜ寺社奉行なんて要るのかと思っていたが、結局どちらも民政の一部であり、所管が分かれているだけのことなのだ。今と同じだ。

古来風体抄

中世歌論集でも少し書いたことだが。

wikipedia などによれば、古来風体抄は式子内親王が俊成に依頼して書かせたものであるという。しかし俊成の息子の定家が書いた歌論書ですら、断片的で短いものばかりであるのに、俊成がこれほどまとまった著書を残したとはとても思えないのである。また、俊成の歌を見るに、どれも軽妙で、感覚的で、芸術家肌の歌ばかりであり、学者的な人では決してなかっただろう。

式子内親王の依頼というのもどうにも腑に落ちない。これは、定家の後の人たちが、二条派歌論を権威付けるために俊成の名で書いたものではなかろうか。そう考えればこのめんどくさくもややこしい歌論の意味がわかる。

俊成は91才まで生きたのだが、古来風体抄を書いたとしたら80代後半という、当時としてはとてつもない高齢であり、文章が書けるはずもない、と思うのだが、どうよ。

そうだな、冒頭の、「やまとうたのおこり、そのきたれることとをいかな。」というのが、歴史的仮名遣いが間違っているし、俊成なら「とをい」「をのづから」「かきをき」とは言わず「とほき」「おのづから」「かきおき」と言うと思う。ひょっとすると相当後世のものかもしれん、とも思われる。

それに、「六義」「天台止観」だのと、定家や後鳥羽院ですら言わぬような、漢学臭く仏教臭いことを論じるだろうか。極めて怪しい。京極為兼くらいの時代の論法ではなかろうか。下手すると為兼本人か、京極派の誰かが書いたのではなかろうかというくらい似ている。

追記:そうかもしれないしそうじゃないかもしれないとしか言いようがないな。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。ネットで検索しても何もわからんのだが。このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。だから、この展望台の下が台所口であり、中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。竹橋を経由したとは考えにくい。平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。