和歌の血統

いろいろと調べてみると、 光格、光孝、孝明、明治、大正、昭和と、今上天皇からさかのぼって光格天皇までは直系で代々続いている。 光格天皇の前は後桃園天皇だが、22才でなくなり男子がなかった。その前は、後桜町天皇で、女帝だった。
ここで中御門天皇以来の皇統が途絶えたので、 新井白石の時代に創設された閑院宮家の光格天皇が継いだ。

閑院宮家は世襲親王家だったので、光格天皇の父は親王ではあった。 光格天皇が即位したので、父の典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとしたので尊号事件がおこった云々。 光格天皇はいろいろと文芸復興運動をした人で、典仁親王は和歌の名人だったそうなので、おそらく明治天皇の歌好きは光格天皇の父の典仁親王までは確実に遡れそうだ。

留魂録

古川薫全訳注「吉田松陰 留魂録」を読む。 本文自体はごく短いものであり、 獄中で一日程度で二冊同じものが書かれ、そのうちの一部は高杉晋作が紛失し、 もう一部は牢名主に預けてあったものが今日に伝わり、 この現存する原本は萩市の松陰神社に所蔵されているという。解題、史伝などがかなりくわしい。

留魂録全原文。 あるところにはあるものだな。

吉田松陰の歌で伝わるものはあまり多くないが、できばえはなかなか大したものだから、 ただ残っていないだけで、もっとたくさん詠んでいたのだろうと思われる。 今回かき集めてみると、 留魂録冒頭の

身ハたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留置まし 大和魂

のほか、

心なることのくさぐさ書きおきぬ思ひ残せることなかりけり

呼び出しの声まつほかに今の世に待つべき事のなかりけるかな

討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷(えびす)払へよ

愚かなる吾れをも友とめづ人はわがともどもとめでよ人々

七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘(はら)はんこころ吾れ忘れめや

などが最後に記されている。 「君をあがめてえびすをはらう」とはつまり尊皇攘夷ということだわな。 他にも関東へ護送中に

かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂

世の人はよしあしごともいはばいへ 賤が誠は神ぞ知るらん

などの歌を詠んでいるが、なんとも数が少ない。 和歌を詠むに際して漢語をやまとことばになおそうとする努力が見られるが、 普通の人にくらべて漢字の利用比率が多いように思うので、 やはりもともと和歌はあまり詠まない人だったかもしれない。

鎌倉宮

初詣を兼ねて鎌倉に行ってきた。 未だに参拝客は多い。 車が多く道が狭い。 要するに混雑している。

JR鎌倉駅東口から若宮通り段葛を鶴岡八幡宮入口まで歩いてそこからいったん右に折れ、 まずは宝戒寺に行く。 拝観料100円は他と比較すれば別段高くもない。 ここは北条義時が建てた小町邸の跡で以来北条執権の屋敷となり、 北条高時はここからさらに東南裏手葛西ヶ谷にある北条氏菩提寺の東勝寺で討ち死にし、 小町邸跡に高時の菩提を弔うために後醍醐天皇が足利高氏に命じて天台宗宝戒寺を建立したと言う。

宝戒寺境内にある徳崇大権現とは北条高時を祭る神社らしい。 これすなわち北条得宗家代々の霊廟という意味だろうと思うとなんとも畏れ多いことである。 この中に高時の木像が置かれているらしいが、気づかなかった。

北条氏の屋敷というのが、当時どのくらいの規模でどの範囲まであったのかなどは、 今となってはさっぱりわからない。

鐘を撞かせてもらう。 庭にリスが居る。 あと、ヤブツバキ。 東勝寺跡の高時の墓を見るのを忘れた。 今度の機会に訪れよう。 幕府やら御所やら執権の屋敷やらの詳しい配置が知りたい。

もののふの ほろぼされたる やかたあと とぶらふ寺と なりて残れる

鶴岡八幡宮方面へ戻り、池の周りに作られた牡丹園400円にはいる。
ボタンといえば花札では六月だが、 一月頃に咲くものや春に咲くものが普通らしい。 数も多く、花も大きくて極めて美しい。

そのあと池の中にある旗上弁天社へ。 源氏の白旗が乱立、白鳩やその他水鳥などが美しい。

静御前が舞ったという舞殿(当時はなかった)、実朝が暗殺されたという大石段を通り、 本宮を参拝。

かまくらの やはたの宮の きざはしを のぼりてきみの ありし世を思ふ

宝物殿200円。

しづやしづ しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな

これは本歌が伊勢物語で、

いにしへの しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな

しづというのは本来は「賤」と書いて要するに貧しい者とか田舎者とか言う程度の意味だが、 静御前の「静」にかけてある。 まあ、これまた良くできた伝説と言うべきだろう。

境内の白旗神社方面へ向かうと路傍に句碑あり

歌あはれ その人あはれ 実朝忌

毎年実朝にちなんだ句会が開かれるらしい。

鎌倉国宝館の仏像や肉筆浮世絵などを見る。
葛飾北斎筆「酔余美人図」 (つまり酔っぱらって二日酔いの女性の絵)、 司馬江漢「江之島富士遠望図」などが少し面白い。

それから頼朝の墓へ向かう。 ここにも白旗神社がある。 ここの狛犬はなかなか古風で小ぶりだが味わいがある。 墓から見下ろす平地、小学校辺りに最初の幕府(大蔵幕府)が置かれたという。

そこからすぐ近くの山腹、ややわかりにくい場所に、 大江広元、島津忠久、毛利季光の墓が三つ並んである。 も少し厳密に言えば真ん中に大江、そのすぐ隣に毛利、参道が分かれるが大江の反対隣が島津。 毛利季光は大江広元の四男で毛利氏の祖、 島津忠久は島津氏の祖。 この三人の墓が頼朝の墓の近く、最初の幕府を見下ろす岡にあるのは、 何か意味ありげはある。 [追記]。

さらに行くと荏柄天神という神社があるが、 ごく普通の天神さん。 大蔵幕府の鬼門に当たるという。さらに行くと官幣中社鎌倉宮がある。後醍醐天皇の皇子、大塔宮護良親王が祭られた神社で、いわゆる建武中興十五社の一つとして一括りにされているが、創建が明治二年と維新からまもなく極めて迅速、明治政権によって新たに作られた神社の中では最初期に当たる。そのせいもあってか規模は必ずしも大きくはない。

本殿後には、護良親王が幽閉されたという岩窟がある。よくわからないが中はかなり広い。しかも二段になっていて、奥がまた一段下がって広いらしい。

いったい鎌倉というところは至る所に岩窟がうがたれていて、それは多くは墓か倉庫のようなものだろう。

先の大江氏や島津氏の墓もやはり岩窟である。普通に考えればこんなところに九ヶ月も人が住めるはずがない。太平記の記述では土蔵となっているから、実際にはこんな穴の中には居なかったと思うが、しかし、伝説としてはすさまじいものを感じた。

すめらぎの 皇子と生まれて 野に山に 仇と戦ひ 果てし君かも

五箇条のご誓文と教育勅語を合わせた碑などが建っている。 また、明治天皇が行幸したときの行在所が今は宝物殿となっていて、 かなり手狭な建物だが、 中には明治天皇下賜「鎌倉宮」の額、 東郷平八郎「制機先者勝」(機先を制する者は勝つ)の掛け軸、 山本五十六「至誠奉公」の額、 乃木希典「忠孝」の額、 それから伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの何が書いてあるかよくわからない書などが、 かなり無造作に展示されているのだが、 これらは特に断り書きもないのですべて真筆であろうと思われる。 私自身、大船の本屋でるるぶ鎌倉を買うまでこの神社の存在すら知らなかったのだが、 なんというおそるべき宝物群であろうか。

思うに、明治神宮も東郷神社も野木神社もなかった明治時代には、 この鎌倉宮の意義はもっと重かっただろう。 そのほか、大塔宮護良親王の故事事績を表した錦絵なども展示されているのだが、 なんちゅうかあまりにももったいない。 こんだけのコンテンツがありながら、 あまりにも宣伝しなさすぎる。

護良親王の身代わりになって吉野城で切腹して果てた村上義光を祭神とする村上社も同じ境内、 本殿向かって右手に祭られている。 宮の身代わりに死んだ義光は、今も参拝者の身代わりに厄払いの神となっている。 つまり、 「身代わり様」と呼ばれ、 「撫で身代わり像」というものがあってこれをなでさすると厄を身代わりしてくれるということだろう(2004年に出来たらしい)。 また、千円ほどで「身代わり人形」というものが売られており、 この人形になにやら願い事を書いて奉納すると厄が払えるとのこと。 吉野城軍事や村上義光親子の忠節を知っていればあわれで恐れ多くて、 村上義光にこれ以上厄除けで働いてもらおうなどとは思わないと思うのだが。

身代はりに いのちささげて 今もなほ 人を助くる神 あはれなり

他にも厄割り石というかわらけが100円で売ってある。境内に何カ所もある。 これを投げつけてこなごなに割ってストレス発散すれば良いらしいのだが、 なんかもう由来的にはすごくまがまがしいものを感じてしまう。

藤原保藤の娘・南の方を祭る南方社が本殿の隣に配置してある。 南の方とは護良親王が幽閉されたときにお世話をし、死後も御霊を弔ったとのこと。 写真はもろ逆光でピントも手前に合ってしまっているが、これまた2004年に現在の位置に移したという。 親王の隣に寄り添うよう仲良くという配慮だろう。

惜しむらくは創建があまりにも早すぎて、神社の規模が小さすぎることと、 また戦後民主主義的にはやっかいな存在となって、 積極的に観光ルートに乗せられてないのだろう。 鎌倉にある平凡な神社の一つ、観光スポットの一つになってしまっている。

さてここから引き返して今度は鶴岡八幡宮の反対側にある北条政子と源実朝の墓に向かう。 ここもまた岩窟。 他の墓同様にきわめてささやかなものだ。 ここは寿福寺という寺の裏の墓地。 寺から直接いけないのは、つまり途中の岩窟が危険なので迂回しなくてはならないからだろう。 墓地の木の上でもごもご鳴いている動物が居ると思ったらリスだった。 鳴き声はかわいくない。

もののふの ふりにし墓を たづねむと 登れば険し 鎌倉の山


ここから若干引き返して険しく細い山道を登って源氏山公園の頼朝像とご対面し、 あとは山道を降りる途中にある銭洗弁天に寄って帰った。 あまり期待してなかったがここはなかなか愉快なところで参拝者も多い。 参道がやはり岩窟。 岩窟を抜ければそこは銭洗弁天だった的。 元はと言えば鎌倉山中の岩穴に湧く泉だったのだろう。

だいたいに、京都や日光東照宮のようなものを想像していると北条氏ゆかりの遺跡というのは総じて地味であって、 実際にはそんな派手で宮びなものではなかったのだろうなと思う。 鶴岡八幡宮の社殿にしてもこれはおそらく家康入府以後に東照宮的な趣味で再建されたものであり、 頼朝や実朝の時代にはどんなふうだったろうか。 こんな華美ではなかっただろう。 鶴岡八幡宮、銭洗い弁天、小町通りや若宮通りあたりが人混みが激しいが、 あとはわりとひっそりしていて気持ちよく観光できた。

新葉和歌集関連皇族一覧

  • 尊円親王 (1298 – 1356) 伏見天皇の第六皇子。尊円法親王とも。花園天皇の異母弟。
  • 尊良親王 (1310? – 1337) 後醍醐天皇の皇子。中務卿。
  • 守永親王 (1328 – 1397) 尊良親王の皇子。後醍醐天皇の孫。上野太守。
  • 宗良親王 (1311 – 1385) 後醍醐天皇の皇子。中務卿。征東将軍とも。
  • 最恵法親王 (? – 1382) 後醍醐天皇の皇子。
  • 懐邦親王 後醍醐天皇の皇子。上野太守。懐那親王とも。懐良親王(征西将軍)と同じか?
  • 貞子内親王 後醍醐天皇の皇女。
  • 幸子内親王 後醍醐天皇の皇女。
  • 祥子内親王 後醍醐天皇の皇女。
  • 後村上天皇 後醍醐天皇の皇子。南朝第二代。
  • 長慶天皇(1343-1394)後村上天皇の第一皇子。南朝第三代。
  • 後亀山天皇(1347?-1424)後村上天皇の第二皇子。南朝第四代。
  • 惟成親王(?-1423)後村上天皇の第三皇子。式部卿。
  • 泰成親王(1360?-?)後村上天皇の第四皇子。太宰帥。
  • 師成親王(1361-?)後村上天皇の第五皇子。兵部卿。
  • 覚誉法親王 花園天皇の第一皇子。
  • 仁誉法親王 恒明親王の皇子。亀山天皇の皇孫。二品。
  • 果尊法親王 後醍醐皇子、尊真?
  • 深勝法親王 後村上天皇の皇子 (もしくは恒明親王の皇子、亀山天皇の皇孫とも)。二品。
  • 儀子内親王 花園天皇 皇女。
  • 覚誉法親王 花園天皇 皇子。
  • 聖尊法親王(1303-1370)後二条天皇の第四皇子。二品。

あまりにも謎。あまりにも闇。 尊良親王は後醍醐天皇の皇子であるが、越前国(福井)で戦死した。 しかし、明治になってから、 後醍醐天皇から譲位され東山天皇と称したと主張する人が居て、 北陸朝廷と言い、 吉野朝廷は偽装であるとする。 また尊良親王の皇子である守永親王は興国天皇と称したと言う。 まあ、明治になって南朝が正統とされたことによって、 南朝の皇子たちは日本中あちこちに転戦してたので、 その子孫が残ってる可能性があって、 しかも南朝の歴史はあまり正確には残ってないから、 自称天皇というのがぼろぼろ出てきたということだろうな。

なるほど、後南朝というのもあるんだな。

北畠親房は新葉和歌集には「中院入道一品」という名前で出てくる。 ぱっと見、そんなすごい歌ではない。 宗良親王の私家集「李花集」にも北畠親房の歌が多く採られているという。 さて、どうすれば読めるのだろうか。後亀山天皇御製は「宗良親王千首」奥書にもあるらしい。

後醍醐天皇の妃で後村上天皇の母、新待賢門院・阿野廉子の歌もちょっと面白い。

北条氏の末裔・北条時行は南朝の一武将として戦うことを許されて、 宗良親王とともに遠江の井伊高顕が治める井伊城に入り、 音信不通になったそうだが、 要するに南朝の武将は北条時行にしろ宗良親王にしろ、ろくな記録が残ってないということだろう。 必ずしもどこかで野垂れ死にしたというわけではなさそうだ。

上野太守とは上野国の国司ということだが、親王なので太守と言うらしい。 中務卿、太宰帥なども同様に親王のための名目的な役職らしい。

懐邦親王は後醍醐天皇の皇子だとあるが、 後醍醐天皇の皇子はの名はみな漢字二字で二字目は「良」であり、 懐邦親王は唯一の例外。 また新葉和歌集には懐那親王とも書かれている。 一方で鎮西方面で菊池市とともに戦った懐良・征西将軍という親王も居る。 極めて紛らわしいのだが、 実は懐邦は懐良なのではないか。

また後村上天皇でさえ、義良、憲良の二つの名前がある。 法親王もいて、皇子の人数もいかにも多く、重複している可能性もあるよな。

新葉和歌集に吉野宮を偲ぶ

都だに 寂しかりしを 雲はれぬ 吉野の奥の さみだれの頃 後醍醐天皇

梅雨時ですね。なんかじめじめしてて暑苦しそうです。 後醍醐天皇はやはり怒っています。

茂るとも 夏の庭草 よしさらば かくてや秋の 花を待たまし 後醍醐天皇

庭の雑草を手入れしてくれないので、かなり自暴自棄になってます。

幾秋を 送り迎へて いたづらに 老いとなるまで 月を見つらむ 後醍醐天皇

いらいらしているようです。

> 音に立てて虫も鳴くなり身ひとつのうき世を月にかこつと思へば 後醍醐天皇

ぼやいています。

風にたぐふ 花の匂ひは 山かくす 春の霞も へだてざりけり 聖尊法親王

吉野川たぎつみなはの色そへて音せぬ浪と散る桜かな 聖尊法親王

卯の花の咲きての後にみゆるかなこころありける賤が垣ほは 貞子内親王

待ち侘ぶる心は花になりぬれど梢に遅き山桜かな 貞子内親王

鳴く虫の声を尋ねて分け行けば草むらごとに露ぞ乱るる 深勝法親王

吉野山嶺の岩かど踏みならし花のためにも身をば惜しまず 仁譽法親王

山深きかぎりと思ふみ吉野を猶奥ありと月は入りけり 仁譽法親王

埋もれし苔の下水音たてて岩根を越ゆる五月雨の頃 守永親王

木のもとに散りしく花を吹きたててふたたび匂ふ春の山風 師成親王

> 夜もすがら吹きつる風やたゆむらむ群雲かかる有明の月 惟成親王

ものすごく山が深そうです。

立ちかへりわたるもつらし七夕の今朝はうきせの天の川浪 幸子内親王

吉野に居ると天の川も激流に見えるのでしょうか。

山あらしにうき行く雲の一とほり日かげさながら時雨ふるなり 儀子内親王

山松はみるみる雲にきえはててさびしさのみの夕暮の雨 儀子内親王

吹きしをる千草の花は庭にふして風にみだるる初雁の声 儀子内親王

うすぐもりをりをり寒く散る雪に出づるともなき月もすさまじ 儀子内親王

京都の雅な感じがまるでない。

咲く花のちる別れにはあはじとてまだしきほどを尋ねてぞみる 祥子内親王

はるかなる麓をこめて立つ霧の上より出づる山の端の月 祥子内親王

祥子内親王は歌がうまい。

風はやみしぐるる雲もたえだえに乱れて渡る雁のひとつら 長慶天皇

秋風に迷ふ群雲もりかねてつらき所やおほ空の月 宗良親王

夏草の茂みが下の埋もれ水ありと知らせて行く蛍かな 後村上天皇

この自然観察はすごいと思う。 特に最後の蛍が飛ぶので夏草の下に埋もれ水があることがわかったという歌。 夏休みにいきいきと田舎暮らししてる少年のようだ。 山の中を実際に歩き回らないとこんな歌は詠めない。 つまり、都の公家には絶対詠めない歌。

この里は山沢ゑぐを摘みそめて野辺の雪まも待たぬなりけり 後村上天皇

後村上天皇はけっこう吉野の生活に適応していたんじゃないかと思う。

一木まづ霧の絶え間に見えそめて風に数そふ浦の松原 後村上天皇

この歌はすばらしい。霧の中にまず一本の松の木立が見えて、 風が吹くうちに、だんだんと霧がはらわれて、浦の松原の全景が見えていく。 いわば水墨画のアニメーション。

新葉和歌集・冬

ものすごく寒そうです。
後醍醐天皇はいつも怒っていて、機嫌が悪そうです。

臥し侘びぬ霜さむき夜の床はあれて袖にはげしき山おろしの風 (後醍醐天皇)
花に見し野辺の千草は霜おきておなじ枯葉となりにけらしも (後村上天皇)

こういう歌はやはり京都では出てこないと思うのよね。

みむろ山ふかき谷さへ埋もれて浅くなるまで散る木の葉かな (最恵法親王)

こういう歌はやはり吉野山の実際の景色を見ないと出てこないと思うんだな。

聞くたびにおどろかされて寝ぬる夜の夢をはかなみふる時雨かな (後村上天皇)
木の葉降りしぐるる雲の立ち迷ふ山の端みれば冬は来にけり (後村上天皇)
夜やさむき時雨やしげきあかつきの寝覚めぞ冬のはじめなりける (後村上天皇)

返歌: いにしへの吉野の宮の宮人の歌を偲べば寒さまされり

新葉和歌集・ほととぎす

南朝の親王たち(宗良親王以外はたぶん若い)が、ほととぎすの鳴く声を聞きたくて大騒ぎしている。 誰かが聞いたとか、今日は初音かとか、聞いたけど一声だけだったとか、 鶏みたいにもっとたくさん鳴けばいいのにとか、 けっこうおもしろい。

ひと声も小塩の山のほととぎす神代もかくやつれなかりけむ (懐邦親王)

ほのかなる一声なれどほととぎすまた聞く人のあらばたのまむ (守永親王)

ほととぎす鳴きつと語る人しあれば今日を初音といかが頼まむ (尊良親王)

よそにはや鳴くとは聞きつ今はよも待つ夜かさねじ山ほととぎす (泰成親王)

ほのかなる寝覚めの空のほととぎすそれとも聞かじ待つ身ならずば (長慶天皇)

今更に我に惜しむなほととぎす六十あまりの古声ぞかし (宗良親王)

八声鳴け寝覚めの空のほととぎすゆふつけ鳥のおなじたぐひに (宗良親王)

新葉和歌集・砧の音

都人らには、田舎の砧を打つ音が珍しかったらしい。

都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く (宗良親王)
里人の袖に重ねておく霜の寒きにつけて打つ衣かな (前内大臣隆)
聞き侘びぬ葉月長月ながき夜の月の夜さむに衣うつ声 (後醍醐天皇)
おしなべて夜寒に秋やなりぬらむ里をもわかず打つ衣かな (泰成親王)
聞きなるる契りもつらし衣うつ民のふせ屋に軒をならべて (尊良親王)
寝覚めして夜寒を侘ぶる人もあらば聞けとやしづが衣打つらむ (京極贈左大臣) 

参考:

から衣うつ声きけば月きよみまだねぬ人を空にしるかな (紀貫之)
里は荒れて月やあらぬと恨みてもたれ浅茅生に衣打つらむ (九条良経)
み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒く衣うつなり (飛鳥井雅経)

新勅撰和歌集・岩波文庫版

戦後の版だけあって校訂・解題ともに至れりつくせり。

歌は、なんとも退屈で眠くなる。

藤原定家一人で選定していて、勅撰を指示した後堀河上皇も完成前に死去しており、 いったいぜんたいどういう目的でどういう基準で選んだのか。 ていうか、「新勅撰」という名前がまるでやる気を感じない。 定家の晩年の趣味を反映しているというが、単にやる気がなかっただけなんじゃないのか。

新古今と新勅撰の間には承久の乱があったわけで、 新古今は狭いながらも活発なコミュニティに属するさまざまなタイプの歌人らが、 好き勝手に歌いたいうたを歌っている。 しかし、新勅撰はまるでお通夜のようだ。

解題に言う、「必ずしも無気力蕪雑な集として、一概に軽視すべきでないように思われる」と。 つまり、一般にはやはり新勅撰は「無気力蕪雑な集」だと思われていたわけだ。

あきこそあれ 人はたづねぬ 松の戸を いくへもとぢよ つたのもみぢば 式子内親王

やはりかなり屈折した歌。 どこかスナックのママが言ってもおかしくないセリフ。 飽き(秋とかける)てしまったのだろう。人は尋ねてこない。松(待つとかける)の戸を何重にも閉じてくれ、蔦のもみじ葉よ。 という歌。 引きこもりの歌。 やはりこの人はあまり人付き合いはうまくなかったのではないか。 定家の趣味とはやはりかなり離れているように思うが。

夢のうちも うつろふ花に 風吹きて しづ心なき 春のうたた寝 式子内親王(続古今)

やはりこの人は寝ている。 一人で寝ているイメージしかわいてこない。

追記: 読んでるとじわじわ面白くなってくる。

追記: なるほどパッと見はお通夜のようだが、よく読むと、新勅撰はやっぱ面白いよね。