娑羅双樹の花

西行の歌に

願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃

というのがあるのだが、旧暦2月15日はおよそ春分の日のことであり、桜が咲くには早すぎる、と以前から思っていた。旧暦2月15日は釈迦涅槃の日でもあって、娑羅双樹の木の下で死んだことになっているから、ここで花というのはおそらく娑羅双樹の花をさしている。こんなことを私が初めて発見したわけはないと思いググってみると、川田順という人が「古典日本文学全集西行集」の中で言及しているらしい。

娑羅双樹なんて日本に生えているわけがない。また娑羅双樹の花が咲くのは初夏であり、
涅槃日とされる春分の日には絶対に咲かない。また桜の花でもあり得ない。つまり、「願はくは」は完全に空想の歌であり、何か具体的な花をさしているのではなく、ある抽象的・観念的な死の花を言っている。あるいは死後の西方浄土の世界を詠んでいる。現実の、春分の頃に咲く梅とか桃とかの花ですらない、ということになる。

おそらく後世の人があやまって(あるいは故意に)山家集の桜の歌の中に「願はくは」の歌を混ぜてしまったのだろう。特にその次に

仏には桜の花をたてまつれ我が後の世を人とぶらはば

をもってきたのはまずかった。当然「願はくは」の花は桜だという誤解を定着させた。しかるに、もしこの花が娑羅双樹の花だとわかるように歌集の中に配置されたり詞書がついてたりしたら、このように有名になることも、西行の代表歌になることもなかっただろう。

西行と桜のイメージの相乗効果によってこの歌も西行も有名になったのだ。こういうふうに後世の人の誤解(脚色)のせいで有名になることはたくさんあると思う。そもそも釈迦の涅槃が春分の日であるというのも根拠がない。後世の人がえいやっと春分の日を涅槃日ということにしたのにすぎない。クリスマスがちょうど冬至の日にあたっているようなものだ。当然、西行が春分の日に死んだことになってるのもただの伝説にすぎない。人は真実を知るよりもむしろ美しい嘘にだまされたいものなのだ。

「古今和歌集の真相」の記述も少し書き換える必要がある。「西行秘伝」はもともとフィクションだからいじる必要はない。

そうして疑ってみると「願はくは」の一つ前の歌

はなにそむこころのいかで残りけむ捨てはててきと思ふ我が身に

これも実景を詠んだのではなく、釈迦入滅の心境を詠んだものかもしれない、とも思える。釈迦が死の直前に弟子のアーナンダに「この世界は美しい。そして、人生は甘美である」と言ったとあるが、この時釈迦が見ていた花はマンゴーの花であったかもしれない。そして西行はこの臨終の際に釈迦が言った言葉を和歌に翻訳してみたのかもしれない。


追記: 娑羅双樹の花が咲くのはインド暦で2番目の月だそうだ。

後拾遺集

結構百人一首に採られてるな。

43 心あらん 人にみせばや 津の國の 難波わたりの 春のけしきを

能因法師。ジャストシステム様、能因法師を一発変換できるようにして欲しいです。

46 立はなれ 澤べになるゝ 春駒は おのがかげをや 友とみるらん

着眼点がおもしろい。公任。

52 春の夜の やみにしなれば 匂ひくる 梅より外の 花なかりけり

これも公任

55 我やどの 垣根のうめの うつり香に 獨ねもせぬ 心地こそすれ

詠み人知らず

57 春はたゞ 我宿にのみ 梅さかば かれにし人も 見にときなまし

和泉式部の歌。すばらしい。

62 我宿に うゑぬばかりぞ 梅花 あるじなりとも かばかりぞみん

主でさえこれほどに見るだろうか。

89 いづれをか わきてをらまし 山櫻 心うつらぬ えだしなければ
93 白河院にて、花を見てよみ侍りける 民部卿長家
あづまぢの 人にとはばや 白川の 關にもかくや 花はにほふと

これはおもしろい。感動した。

160 聲絶ず さへづれ野べの 百千鳥 殘りすくなき 春にやはあらぬ
165 四月ついたちの日、よめる 和泉式部
さくら色に そめし衣を ぬぎかへて やま郭公 けふよりぞまつ
214 さみだれの 空なつかしく にほふ哉 花たちばなに 風や吹らん

相模。さらりと。

216 おともせで おもひにもゆる 螢こそ なく虫よりも 哀なりけれ

重之

217 宇治前太政大臣卅講の後、歌合し侍りけるに、螢をよめる 藤原良經朝臣
澤水に 空なる星の うつるかと みゆるは夜はの ほたる也けり
229 夏の夜凉しき心をよみ侍りける 堀河右大臣
ほどもなく 夏の凉しく 成ぬるは 人にしられで 秋やきぬらん
265 秋も秋こよひもこよひ月も月ところもところ見る君も君

詠み人しらず。

379 大井川ふるき流れをたづね来て嵐の山のもみぢをぞ見る

白河天皇御製。宇多上皇が御幸した大井川(大堰川)とはやはり嵐山あたりの桂川のことを言うわけだ。

390 さびしさに煙をだにもたたじとて柴折りくぶる冬の山里

和泉式部。

404 いづかたと甲斐の白根はしらねども雪ふるごとに思ひこそやれ
539 立ちのぼる煙につけて思ふかないつまた我を人のかく見む

和泉式部

607 かくなむと海人のいさり火ほのめかせ磯べの波のをりもよからば

源頼光。これは珍しい。頼光が歌を詠むというのが珍しいし、「なむ」が歌に使われるのが珍しい。

611 おぼめくなたれともなくてよひよひに夢に見えけむわれぞその人

和泉式部。これも珍しい。「おぼめくな」などという口語的な言い方をするとは。

624 こほりとも人の心を思はばやけさ立つ春の風にとくべく

能因法師。貫之の、袖ひちて結びし水の凍れるを春立つけふの風やとくらむ、が本歌であろうが、うまくひねってある。

625 満つ潮の干るまだになき浦なれやかよふ千鳥の跡も見えぬは
635 したきゆる雪間の草のめづらしくわが思ふ人に逢ひみてしがな

和泉式部。序詞がうまく効いてる。

646 つれもなき人もあはれといひてまし恋するほどを知らせだにせば

赤染右衛門。どうかこれは。

657 恋死なむいのちはことの数ならでつれなき人のはてぞゆかしき
658 つれなくてやみぬる人にいまはただ恋死ぬとだに聞かせてしがな

陳腐ではあるがなかなかおもしろい。

664 ほどもなく恋ふる心はなになれや知らでだにこそ年はへにしか
678 たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせん

相模。期待させるあなたに期待はしないが待つとはなしに待つかもしれません。なんかな。

708 風の音の身にしむばかりきこゆるは我が身に秋やちかくなるらむ

詠み人知らず

712 明日ならば忘らるる身になりぬべしけふを過ぐさぬ命ともがな

赤染右衛門。忘れじの行く末までは難ければ今日を限りの命ともがな、の本歌か。赤染右衛門のやけくそな感じがおもしろい。君がため惜しからざりし命さへながくもがなと思ひけるかな、の真逆を言っているのがおもしろい。

753 来じとだにいはで絶えなばうかりける人のまことをいかで知らまし

相模。もう来ないといって来なくなった人へ。来ないとすら言わず来なくなったなら、つらい人の本心をどうやって知ることができよう (来ないと言い残したので本心は知っている)。 なんかもうね。

754 たが袖に君重ぬらむからころもよなよな我に片敷かせつつ

これも相模。すごい歌だな。中島みゆきみたいだな。

755 黒髪のみだれも知らずうちふせばまづかきやりし人ぞこひしき。

和泉式部。これ有名。これ知ってる。

779 こひすとも涙の色のなかりせばしばしは人に知られざらまし

良い歌だなこれ。弁乳母。

790 世の中に恋てふ色はなけれどもふかく身にしむものにぞありける

これも和泉式部。さらっと。でも良い歌。「恋てふ色」なかなか詠めそうで詠めぬよなあ。

796 荒磯海の浜のまさごをみなもがなひとり寝る夜の数にとるべく

相模。荒磯海の浜の真砂を全部欲しいと。

797 かぞふれば空なる星も知るものをなにをつらさの数にとらまし

藤原長能。星の数は数えられても、つらさの数をどうやってはかればよいのか。

798 つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする

眺めているしかない。つまり期待できることはない。

801 君こふる心はちぢにくだくれどひとつも失せぬものにぞありける

和泉式部。

810 君がためおつる涙の玉ならばつらぬきかけて見せましものを

ありがち。

811 契りあらば思ふがごとぞ思はましあやしや何のむくいなるらむ
812 けふ死なばあすまでものは思はじと思ふにだにもかなはぬぞうき
816 神無月よはのしぐれにことよせて片敷く袖をほしぞわづらふ

相模

820 人の身も恋にはかへつ夏虫のあらはに燃ゆと見えぬばかりぞ

和泉式部。夏の虫が燃えて死ぬように、人の身も恋に燃やして代えてしまおう。

826 うしとてもさらに思ひぞかへされぬ恋は裏なきものにぞありける
831 白露も夢もこの世もまぼろしもたとへていへばひさしかりけり

和泉式部。これもなんか知ってるな。

とりあえずこのへんにしとく。

後拾遺集はやっぱすごいわ。とくに和泉式部。相模もすごい。選者に共感するところがある。

でね、後世まあ定家とかがつまみぐいした百人一首が流行ったおかげで、定家的に解釈される傾向があるのだが、つまみぐあいによれば後拾遺集は写実的な歌ばかりのようにもみえ、定家みたいにつまめば幽玄有情みたいにみえなくもない。どちらともとりえる。

少なくとも後拾遺集は古今集の影響はそれほど無いとみた。もちろんだじゃれや掛詞だけのうたもあるからそれが貫之の二番煎じだというようにピックアップすることもできるのだが、それはあまりにも後拾遺集というものをゆがめてみすぎだと思う。

宇多上皇

古今集読んでるとわからんことがわらわらわいてくる。

光孝天皇は、即位するとき、基経に、まずは固辞したが、それでもどうしても即位しろと言われて、じゃあ私は一時的な中継ぎなんで、私の息子たちはみんな源氏にしちゃいますね、皇統は文徳天皇か清和天皇か陽成天皇の皇子に戻してくださいね、とかいう条件を付けた。で、ご丁寧に自分の皇子を陽成上皇の侍従にして、業平と相撲をとらせたりした。

その侍従というのが宇多天皇なのだが、宇多天皇が陽成上皇の侍従だったというのは、十五歳から二十歳くらいまでの期間だろう。父・光孝天皇からは、帝王学ならぬ、臣下学を学ばされた、ということだ。業平は宇多天皇よりも四十歳以上年上だから、当時もう六十くらいのおじいさんで、まともに相撲をとったはずがない。神遊びの神事として相撲をとったはず。にしても相撲を取るくらいだから、親密な間がらだっただろう。

光孝天皇は、自分の意思に反して即位したのだから、自分の意思に反して後継者が決まるだろうと覚悟していた。基経が先に死ねば別だったろうが。だから後継者を指定しなかった。

ともかく、光孝天皇にしてみると、陽成天皇の正統性にはまったく疑いがなく、陽成天皇が廃位されたことにもなんの正当性もない、と考えていた。態度にそれがあらわれている。

光孝天皇は崩御するまで、後継者指名に関しては何もしなかった。基経が適当に裁いて、皇籍復帰した宇多天皇が即位するが、まあ、帝王学は学んでないわけで、いきなり位を継いだわけです。で、父はもういない。しかも二十歳そこそこの若さ。さてどうしようかと途方に暮れただろう。もうなんでもかんでも摂政関白に任せちゃおうと思ってもおかしくないんだが、そこはたぶん何かしらの反骨精神、自立心があった。というより摂関家に対する対抗心とか復讐心がめらめらわいてもおかしくない。

親子二代天皇を継いでしまったわけだから、いまさら陽成天皇に皇統を戻さなきゃとは考えなかった。せっかく天皇になったんだから、努力して良い天皇になろうと思ったと思う。それで源氏だった頃に生んだ皇子がいて、後の醍醐天皇だけど、その息子になんとしても皇位を継がせられるようにしようと宇多天皇は思ったと思う。

光孝天皇と宇多天皇はほとんど接点がなかったと思う。だけど宇多天皇としてみれば光孝天皇がやりかけていた文芸復興ということを引き継ぎたいと思ったと思う。父親の遺志を継ぐというのが宇多天皇のやりかただった。

宇多天皇という人は、基本的には典型的なプランナータイプの人だったと思う。アイディアマンといってもよい。アイディアは自ら出すが、あとは臣下や息子になんでも丸投げする。政治は菅原道真に、和歌は紀貫之に、天皇という仕事は醍醐天皇に。割と放任しちゃうタイプだったと思う。

そう考えると宇多上皇と醍醐天皇と菅原道真の関係もなんとなくわかる気がする。醍醐天皇は宇多上皇の留守中に菅原道真を左遷してしまう。宇多上皇はその決定を覆すこともできたはずだ。太宰府に流されてから道真は二年以上生きていたのだから。

でもそれをしなかったというのは、さほど道真を大事に思ってなかったということじゃないか。好き嫌いで取り立てたというよりは、才能を買ったと。で道真はおそらくは才におぼれるタイプだった。どんどん一人でつっぱしって周りの忠告も耳に入らないタイプ。まあ太宰府辺りでのんびりしてろよというつもりではなかったか。太宰府権帥というのは当時そんな低い官職ではない。遣唐使盛んな頃は非常な重職で、遣唐使の大使になったりする職。遣唐使廃止されたあとも、太宰府で交易品の管理とかしなきゃならない。左遷ではあったかもしれないが、島流しというようなニュアンスはそれほどなかったのではないか。菅原道真については、彼の漢詩をじっくり読んでみようと思う。

宇多上皇という人と道真の関係は、貫之との関係とも、醍醐天皇との関係とも似ていたと思う。割とドライな感じだったと思う。そうかじゃあそうしろと。そうしたけりゃそうすりゃいいでしょ、みたいな。

宇多上皇はいろいろやりたいことがあった。日本国中御幸したかったし、法皇として仏教にも励んでみたかったし、延喜式も整備したし、和歌集も編纂したかったし。やりたいことが多すぎて自分だけじゃできないってこともあったろうし。わざわざ自分でやってたら切りないって思っただろうし。でもちゃんとプロジェクトのマネージメントはする、みたいな人ではなかったか。

そんで宇多上皇は古今集の中では法皇という名前ででてくるんだが、詞書きにしかでない。歌が一つも採られていないのだが、これはいかにも不自然だ。たとえば亭子院歌合というのがあって主催者が宇多上皇で判者も宇多上皇。すると、宇多上皇は自分では歌は詠まない。判定する側だから。でも一個だけ自分の歌を紛れ込ませた。えへ。じつはこれは私の歌だよんとか、詞書きに残している。

古今集についても同じような気分だったのではないか。宇多上皇はスーパーバイザーであるから、自分の歌は載せない。ほかにもいろいろ遠慮した理由は考えられるが、ともかく、もし、宇多上皇が何か紀貫之に注文をつけたとすれば、自分の歌は載せるな、ということ。あるいは、載せても良いが詠み人知らずにしとけということ。

古今集には詠み人知らずとして宇多上皇の歌がいくつか混じってるんじゃないか、という気がしてくる。いや、もしかすると詠み人知らずの歌の大半がそうなんじゃないかという気がしてくる。たとえば

色よりも かこそあはれと おもほゆれ たが袖ふれし やどの梅ぞも

詠み人知らずの古歌というものは、もう少しわかりやすいものだと思う。この歌はわかりにくく、従ってある個性を感じる。

この歌の解釈はこうだ。誰が私の家の梅に、袖をふれただけで去っていったのだろう。一本くらい折り取っていけば良いのに。色よりも香りのほうが優れている、とでも思ったのだろうか。

梅ノ花ハ色モヨイガ 色ヨリ香ガサ ナホヨイワイ アヽハレヨイニホヒヂヤ 此ノヤウニヨイニホヒノスルハ タレガ袖ヲフレタ此庭ノ梅ノ花ゾイマア

これは宣長の解釈。

多くの場合、だれかの袖が触れたせいで、梅にこのように良い香りがついたのだ、と解釈されるのだが、かなり無理がある。普通は梅から袖に香りが移るものであって、その逆というのはあり得ない。そこを無理に解釈しようとしてはいけない。

丸谷才一は、触れただけではなく実は折り取ったのだ、と解釈しているが、これもかなり無理がある。折り取ったのであれば、香りだけでなく色もあわれだと思ったのである。香りだけで色がないということは枝は折ってないはず。

おそらくこの歌を詠んだ人は、だれかが自分の家の軒先まできて梅の花を見ていったのを目撃したのだろう。普通は来訪のしるしに一枝折っていくものである。当時の習慣では、いろんな人がやいやい指摘するように、実際そうだったかもしれない。やあこないだ君の所から一本梅をもらったよ、今うちの瓶に差してあるんだ、へえそうかい、みたいな会話のきっかけになる。

しかし、折らなかった。だれかもわからなかった。誰だったのだろう、ずいぶん中途半端なことをして。当時の社交辞令的にはかなり不完全で不審な行動だったわけだ。それで怪しんで詠んだ。という意味だと思う。

小料理屋の女将さんが、店先をふと立ち寄って通り過ぎた客を恨んで詠んだような、そんなニュアンスの歌だと思うんだよね。そう解釈すべきなんだが、そこまで読み取るのはかなりたいへんだ。

こういうひねった歌というのは、詠み人知らずにないとは言い切れないが、どうも身分を隠しただれかの作のようにおもえてならない。貫之が詠んだ歌だとしても不思議ではないが、貫之が名を隠す必要性がない。

宇多上皇と醍醐天皇の中は決して良好でなかったのは確かである。醍醐天皇にもたくさん弟たちがいて、いつそっちに皇位が移るかしれない。しかもお父さんは教育熱心。いつまでも政治やらなにやらに口出ししてくる。邪魔くさいお父さんだったと思う。ある意味、光孝天皇と宇多天皇の関係とは真逆。

醍醐天皇がどんな性格の人だったかはさっぱりわからない。醍醐天皇がもすこし長生きして宇多上皇が崩御して、父親の影響なしでどんなことをしたかわかればいいんだが、先に死んでしまった。どうも病弱だったらしい。なんとなく気が弱く反抗的な息子、という感じがする。まあイメージだが。

新々百人一首

古今集を調べている関係で丸谷才一『新々百人一首』を再読しているのだが、うーむ。

二条妃(藤原高子)の「雪のうちに」の解釈が異様に長い割には、何も言ってないのに等しい。最後に「高子のこの絶唱と並ぶほどの返歌は業平にもむづかしかったらう」などと書いている。

二条妃とか良房とか基経なんかというのは非常に政治色の強い人であり、基経は歌を一つも詠まなかったらしいんだが、そういう傾向は親兄弟に遺伝するものであって、基経の妹の二条妃こと高子も、実際に歌を詠んだか疑わしい。高子の歌も非常に少ない。

高子や良房を古今集に登場させたかった誰かが代わりに詠んだ歌である可能性が非常に高い。というより、その可能性を考慮したうえで読み解くべきなのである。

この歌はなんのことやらわからぬ、思わせぶりな歌であるというだけであり、新古今的、あるいは俳句的に解釈すれば「絶唱」かもしれんが、古今集では政治的寓意という意味以外は考えにくい。たぶん、高子が兄基経によって皇太后位を剥奪され、不遇のまま死んだことが暗喩されているだけだと思う。

また、光孝天皇「君がため」を「農民の持ち来つた若菜なのに自分が働いたやうに装つて詠じたのである」などと言っている。丸谷才一は徒然草の黒戸御所の逸話を知らないのだろう。光孝天皇は皇統からはずれて、55才まで親王のままで、息子たちは皆臣籍降下して、まさか庶民のように自分で若菜を摘んだり、炊事をしたりすることはなかったといえ、当時の人たちが抱いた光孝天皇のイメージは、庶民のような質素な暮らしをしていた人、なのであり、そのイメージに沿って、本人だか他人だか知らないが、詠んだ歌であり、そのように解釈された歌なのである。

それは呪術とまじりあつてゐる牧歌趣味であつた。

いや、そう解釈してはいけない。天皇とか、古代の和歌というのがいつもいつも呪術的で言霊思想だと考えるのはおかしい。醍醐天皇の歌

みなそこに 春やくるらん みよしのの 吉野の川に かはづ鳴くなり

「呪歌にふさはしい悠揚たるもの」「三句から四句にかけて、大味でこせつかない効果がいい」「職業歌人の詠とは違ふ帝王調の魅力を満喫」とあるのだが、これも誤読に近いのではないか。どちらかといえば丸谷才一が職業歌人と名指しした貫之の屏風歌に酷似している。何かの間違いなのではなかろうか。

「みよしのの吉野の川に」は単なる常套句であるのに、どうしてこれが帝王帳なのか。天皇だってわざと庶民のような歌を詠むことだってあるのに。

醍醐天皇の歌の多くは宇多上皇と間違われている危険性が高いと思う。

後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?
それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。
ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

古今和歌集の真相

古今和歌集 は醍醐天皇の勅令によって、 延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。 普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。 宇多上皇ならばあり得るだろう。 宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。 仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。 なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、 そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

亭子院歌合 というのから古今集に採られているのだが、 これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、 古今集成立のずっと後である。 これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。 後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。 でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

桜ちる 木の下かぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞ散ける

とあって、その次に

延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

こと夏は いかが聞けん 時鳥 こよひばかりは あらじとぞ思ふ

とある。 延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、 このときもやはり宇多上皇だったのではないか。 そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、 この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、 と解釈は可能なんだが、 貫之集の中の歌の並びからいけば、 この宇多天皇からの院旨は、 亭子院歌合の後だったんじゃないか、 延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、 と思われるのである。 というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは元永本古今和歌集 という写本で、 恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。 時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。 つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、 古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。 それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、 そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、仮名序はひどい。支離滅裂だ。あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。 なるほど日記文学風の序がついている。 伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。 こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、 ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。 しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、 おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。 白河天皇の関与というものも。 しかし実際には非常に重要なものであり、 もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、 良房や基経の歌がいくつも出てくる。 しかも詞書きが異様に丁寧。 宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。 このことはすなわち、 古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。 それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。 それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、 亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。 だから、 「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下にいた。 「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。 だが、 「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」 の時には明らかに昇殿しているのである。 このときは正式な勅命を受けていると思われる。 それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

本居宣長の漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、 凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。 悪くはないが、装飾過多、という印象。宝暦6年1月11日か。この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、 と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。 一心不乱、どうして眠れようか。 ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。 宣長らしい詩ではある。「群経に酔ふ」がいかにも宣長だ。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。 そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。 でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。 どんな違いがあったのだろう。知りたい。

上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。 春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。 明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

中山家

『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。父は孝明天皇、母は中山慶子。典侍というから中宮や女御の次くらい? 生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。 中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。

慶子の父が中山忠能。 忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。

忠能

天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ

綱子

けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば
日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け
七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん

「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。

我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ

とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌

雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら

など、なかなか良い。

全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、その後和歌は忘れられてしまった。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』

みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』

御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。

後三条の御製集というものがあったのだろうか。

二条天皇

二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。

われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな

清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成

二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ

という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。

風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。

いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは

次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。

二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき

後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。

勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。