白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

訓導の詠歌

祖父は昭和二十年当時、国民学校の訓導、つまり今で言う小学校の教諭だった。四月四日、訓導にも動員令が下ったと、祖父は「応招前記」という日記に書いている。面白いのは毎日のように和歌を詠んでいることで、祖父が和歌を詠むとは初めて知った。その歌の存在すら知らなかった (もしかするとまったく忘れてしまっただけで実は祖父から和歌の影響を受けた可能性もなくはないのだが)。

きのふまで 人ごととのみ 思ひしに 今日より我も いくさ人なり

悪くない。明治四十五年生まれなので、当時三十三歳のはずだ。

戦局の日々に苦しくなればとて大和心にゆるぎあらめや
菜の花の散るをも待たで征く人を送りて次は我かとぞ思ふ
粥すすりすめらみくにを護る者我一人にはあらざるものを
沖縄の決戦夢に見しものをおのが勤めはかはらざりけり
動員の学徒となりて征ける子よまめに務めよ我が国のため
今をおきて立ち上がるべき時はなしすめらみくにのますらをの子ら
メリケンを討たむばかりに剣とる今日この頃ぞうれしかりける
我一人正しと思ふ心こそ正しからざる心なりけれ
皇国の興廃かける一戦の間近に迫る夏の朝かな
いかづちのとどろく中に田植ゑする乙女の心強くもあらなむ
みそとせも生きながらへし身にしあれば散りゆく今日に何不足ある

おそらく当時みんなこんなふうに和歌を詠んだんだろうなあ。そして戦後、反動でまったく詠まなくなったのだ。

こういう歌を詠んでしまうと、なかなか普通の歌は詠めないものだ。

未と猶と已

「猶静謐」だといまだに静謐だ、で良いが「未静謐」はいまだに静謐ではない、となる。

「猶静謐」は「なほ静謐のごとし」と訓むこともできる。ややこしい。

「猶」は漢文でも「いよいよ」「その上に」などの意味がある。日本語だけではないらしい。

いずれにしても「未」は用言の頭について否定する助詞であるのには違いない。

「已静謐」だとすでに静謐になった(以前は違った)、の意味であり、「猶静謐」だとあいからわず静謐だ、いよいよますます静謐だ、となるわけだ。

新井白石日記

新井白石の日記を、全集ではなく、白石日記上下巻というもので読んだのだが、あっけないほど短い。折り焚く柴の記の半分もないように思う。

芝の白銀、つまり今の港区白金のことだと思うが、ここに綱豊から屋敷を拝領したという記述がある。非常に興味深いが、今までそんな記述は見たことない。綱豊というのだから、まだ甲府藩邸勤務の頃だ。下屋敷か何かだろうか。それとも本宅か。しかし、当時の白金はずいぶん田舎なはず。

改行が多く、難解ではないが、なんというかだらだらしてておもしろみはない。一度じっくり読んでみる必要はあると思うが。読み物として見れば断然折り焚くの方がおもしろい。

ふと見ると、夢で見たという「倭句」なるものが二箇所ほどみつかる。

寛永二年五月十四日
笛吹く宿へほにはろいいろは哉

正徳二年二月三日
春くれば垣ほの梅のほころびて
我が前に立つ人ぞ嬉しき
慰めに天といふ人まれなるべし
道にして心を道に任すれば
すでに天知る心なりけり
必ず後に至らざりけり
花橘の香には匂へる
ただただ道に任すべきなり

これは、何のつもりなのだろうか。神のお告げのたぐいか。和歌はある程度わかるようではあるが、和歌を嗜むとか訓練を積んだというようにはみえない。和歌のように見える箇所もあるが、単語や内容も陳腐だし、素人同然と言ってよいと思う。

俊成2

山桜 散りに光を 和らげて この世に咲ける 花にやあるらむ

いいねえ。「この世に咲ける花にやあるらむ」。しびれる。

つくづくと 濡れそふ袖に おどろけば 降るとも見えで 春雨ぞ降る

いいねいいね。「降るとも見えで春雨ぞ降る」。すごく良い。同語反復がうまく効いている。これも初句不要。七五七七のほうがしまりがあるだろう。

花の散る山川堰ける苗代に賤が心も満つべかりけり

普通?

すみれ咲く浅茅が原は踏み分けて問ふ人無きもさもあらばあれ

「問ふ人無きもさもあらばあれ」。いいなあ、こういうすっとぽけた言い方する人だったのだなあ。

志賀の山松にかかれる藤の花浦のさざ波越すかとぞ見る

叙景のようだが、しかしあり得ん誇張された光景だわな。

藤の花雲にまがひて散る下に雨そぼ降れる夕暮れの空
いにしへをしのぶ心をそふるかな御祖の杜ににほふたちばな
我が魂もあくがれぬべし夏虫の御手洗川にすだく夕暮れ
あはれさを人見よとても立てざらむけぶり寂しき賤が蚊遣り火
野辺に置く同じ露とも見えぬかなはすの浮き葉に宿る白玉
思ふこと今はみな尽き果てぬらむ御手洗川にみそぎしつれば
眺むれば心さへこそあくがるれしぐるる頃のむらくもの空
なぞやかく眺むる方も霧こむる深山の里に心澄むらむ
ふもとにはまた時雨とや思ふらむ深山の里はあられふるなり
奥山の岩根の苔ぞあはれなるつひには人の衣と思へば
夢とのみ過ぎにし方は思ほえて覚めてもさめぬここちこそすれ

普通?ましかし、レベルが一様に高い。

山吹

兼明親王

小倉の家に住み侍りける頃、雨の降りける日、蓑借る人の侍りければ、山吹の枝を折りて取らせて侍りけり、心も得でまかりすぎて又の日、山吹の心得ざりしよし言ひにおこせて侍りける返りに言ひつかはしける
七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞあやしき

「道灌」(落語)では「あやしき」が「かなしき」になっている。あやし、とはこの場合見苦しい、みっともない、お恥ずかしい、心苦しい、申し訳ない、と言った意味ではなかろうか。山吹の枝を出したというのは、謎かけのようなものだっただろう。

太田道灌のほうの話では、和歌の教養がない、ということになっているようだが、三代集ならともかくとして、こんなマイナーな後拾遺集の歌まで覚えるのが室町時代の関東で要求される教養だったとは思えない。普通の歌人ですらしらなかっただろうと思う。できの悪い作り話としか言いようがない。太田道灌について江戸時代に捏造された伝説は所詮この程度のものだが、江戸っ子たちには受けがよかったのだろう。

白石詩草

日本古典文学大系に新井白石の詩がのっている。もとは「白石詩草」に収められている。
早稲田大学でJPEGとPDFが公開されている。楷書できちんと書いてあるので読むのは容易だが、意味はわかりにくい。

彼が吉原を詠んだらしい詩がある。吉原だろうと思うが確信できない。「紀使君園中八首」の中の一つ、「芳草原」という詩で、

春入芳原上
青青襯歩鞋
佳人来闘草
応賭鳳凰釵

吉原に春が来る。素足に青々とした草履を履いた美しい女性がきて草合わせで遊ぶ。鳳凰のかんざしを賭けよう。まあ、そんな意味であって、吉原だろうなと思う。題の「芳草原」だが、これは、八首の題を三字にそろえるためであり、意味は「芳原」だろうと思う。 「春入芳原上」だが、「春が吉原の上に入る」というのはわかりにくい。「上」は「ほとり」というような意味かもしれん。「學步鞋」とは「学童のスリッパ」のことらしい。「歩鞋ヲ襯ス」と朱筆で訓点がついてたので、「歩鞋」という単語があるのだろうと思う。「青青歩鞋」だが、新しい若草で編んだ草履、という意味だろうか。だとするといかにも春らしいが。「紀使君園」というのがよくわからん。朱筆が入っていて「紀」「使君」「園中」と切れる。紀州の使君の庭園か。「紀使君」という人が詠んだ詩なのか。あるいは、そういう名前の吉原の店があったのか。

新井白石が吉原で遊んだことがあるとすれば、また彼自身の用例からして「芳洲」が「吉原」を指すと判断できるだろう。たとえば頼山陽は出島のことを「扇洲」と呼んでいる。「富士山」を「富嶽」と言い換えたり、「隅田川」を「墨水」と表現したり、江戸時代の漢詩ではこのように、日本名を漢語風に言い換えるのが当たり前だった。

日本古典文学大系では「芳洲」を謝眺や李白などの中国の詩人の用例から「良い香りのする中洲」と訳している。果たしてそうだろうか。

そもそもこんな楽しげな詩はまったく収められてない。こむつかしい詩ばかりだ。

思うに江戸時代の文人にとって漢文・漢語というのは中国語そのものであり、中国の歴史でもあり、実学だったと思う。だから、学ぶだけの価値があった。遊びではなかった。漢文・漢語は、明治に入ってから語学や中国語会話という役目を失い、戦後もずっとそうだった。しかし、これから中国語を学ぶ必要性や機会が増えると、漢文を学ぶ意味も変わってくる。そして、いったん、たんなる古文古典となってしまった漢文教育を、一から見直す必要に迫られるだろう。

西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。