ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。
三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。
ポツダム宣言を受諾したのも、ひとえに当時の大日本帝国政府の大臣らが無知だったせいなんだろうなあ。
三国干渉を飲んだのも当時の明治政府が無知だったからなんだろうな。
今更ブログでいろいろ書きたいことがあるわけでなく、また、酔った勢いでツイッターであれこれ書くのももうやめようと思っているのだが、本は売りたいと思っている。だから本の宣伝になるようなことはしたいと思っている。あと、ツイッターで書き散らしたことも、ある程度こちらでまとめ読みできるようにしておこうという気持ちがある。
『日本国紀』の初版が出たときは、私も買ってみて読んで、Shin Hori氏や、桜ういろう氏、事務カリー氏らと競っていろいろアラを探したりしたのは楽しい思い出だ。私は単なるうっかりミスとか、Wikipediaの引用なんかにはさほど興味はなかったのだ。誰だって本を書けば間違いの一つや二つはあるよ。それは改訂版出すときに直せば良い。著者の芸風というか、ビジネスモデルに文句言っても仕方ないしそういう辺りにのめり込む趣味は無い(ってあたりがワイが左翼とは違うところか)。
問題はその間違い方にあるわけで、間違う背景に、非常にいびつな、偏った、よく調べもせずに決めつけたような歴史観があるのが気に障ったわけだ。たとえばヨーロッパ諸国はみな君主国というのはおかしいわけで、古代には共和制アテナイや共和制ローマなどがあったわけだし、中世、近世、近代にも共和国はあった。「重箱の隅」の「驚くほど小さなミス」というより、歴史事実から知見を得ようとせず、逆に自分の主義主張趣味を歴史に当てはめようとする態度が気に入らなかったわけでしょ。
確かにこういう重箱の隅突きなども面白がってやったわけだが、これなども、大学生が適当にレポート書くというのとは訳が違う、物書きとして、本を出版する人間がこういう孫引きをしてはならんというところに憤っているわけですよ。参考文献があるなら書くべきだし、単なる歴史読み物だから参考文献は付けないというならそう断るべきだし、「本当の歴史」などと謳うべきじゃないだろってことを、多くの物書きや研究者が指摘しているのに、それに気づかないふりをしている。本物の歴史なんて言われちゃこちらも反論せざるを得んだろ。「葬り去ろう」というより、自分らのいる領分から「排除」したい、区別したいという気持ちはある。ああいう本が世の中の一部の人たちでちやほやされるのはもう仕方ないと諦めている。
鬼平犯科帳全24巻中第21巻辺りまで読んだのだが、だんだんに雑味が増えてきたように思える。コロンボ全69話を3分の2くらいまで見たときにも同じような気持ちになった。最初の頃は、話も面白く、濃くて、殺人事件とか強盗というネタを扱っていながら、時にユーモアも交えてあり、爽快感もある。しかしだんだんと話がドロドロと陰鬱になってきて、リアリティはあるんだろうが、読んでて気持ち悪くなってくる。犯罪なんだから気持ち悪いのは当たり前で、それを敢えてエンターテインメントに仕立ててあるのだが、つい生のどろどろした部分が、濾過されないままに出てくるという感じか。惣菜の刺身を買ってくれば良いのに、サクを買ってきて自分で切ってみると中に寄生虫がいて食欲を失うような感じと言えば良いか。ウィキペディアなんかも、普通に読んでる分には良いが、底の底までデータをさらって分析しようとすると、気持ち悪い、読まなきゃよかったようなことまで読まされてしまう。
シリーズものとはそうしたものなのかもしれないが、原作者や演出家も、やりたいことはもう大抵やり尽くしてしまって、無理に新作を作ろうという気は失ってしまって、しかし続きを出せばそこそこ売れるとわかっていれば、周りから言われてどうしても続けなくてはならない。あまり使いたくない、一度ボツにしたネタなども使ったりするのだろうか。
『神社発信』という雑誌の vol.3 (2018年3月発行) から vol.8 (2019年4月発行) まで「読めば読むほどわからなくなる本居宣長」という記事を連載していた。私はこれを複数の人に読んでもらい、感想を聞くことができたのだが、表題の通り「読めば読むほどわからなくなる」というか「読んでも何が書かれているのかよくわからない」と言われた。別に難しいことを書こうと思ったわけではない。一般に宣長は難しいと考えられているが実は簡単なのだけど、宣長は誤解されていて、それら先入観を捨てないと宣長は理解できない。彼を読み解くにはそれなりの準備と時間と手間をかける必要があるから辛抱してついてきてね、途中で宣長100%わかったと思ってもそれは勘違いだから気を付けてね、という程度の意味合いだった。
よくわからない文章を書く人にはさまざまなタイプがあると思う。ハイデッガーとかヴィトゲンシュタインとか?あれも彼らの思想背景を理解しドイツ語の原文で読めば(つまりドイツ語のこまかなニュアンスがわかるネイティブスピーカー並の感性があれば)読めるのかもしれん。
小林秀雄などはいわゆる「悪文」タイプで、感覚的に思いついたことをあれこれ書いていて、文章もうまいのだろうけど、結局何が言いたいのかわからない、言いたいことはあるらしいがまったく根拠が示されてない、なんとなくそれっぽい雰囲気だけの、従って読んだ後に何も残らない。そういうたぐいの文章だと思う。たぶん小林秀雄の文章というものはBGM代わりに朗読かなにかしてもらえば良い気持ちになる、という程度のものだろう。しかしそういう彼にも一定のファンがついてて、そういう文章を愛でるのだ。白洲正子がまさにそういうファンの一人で、しかし彼女は、小林秀雄晩年のライフワーク『本居宣長』に関しては、全然面白くないと、本人を前にそう言っている。私はまったく逆で、私にとって小林秀雄の『本居宣長』以外の文章はちんぷんかんぷんで何を言いたいのかさっぱりわからないのだが、『本居宣長』に関してはちゃんと時間をかけて取材もしてるし、他の人が指摘しなかったような新しい知見があちこちに見られるのだ。誤解を恐れず言えば小林秀雄はもともと「文系的」な文章を書く人だったが、『本居宣長』に至って初めて「理系的」な、中身のある、明確な主張のある文章を書いた、いや、書こうと努力したのだと私には思える。
人をわかったような気にさせる文章を書くのはたやすい。逆に、わかったような気になっている人にわからせる文章を書くのは難しい。
小林秀雄の『本居宣長』はまず彼が宣長の墓参りをするところから始まる。町中の寺にある仏式の墓と、山奥にある神道式の墓だ。この二つの墓の対比がまさに宣長なのであり、導入であり、つかみなのであり、つまり、宣長という人の二面性というか多面性を如実に表す象徴でもある。小林秀雄らしい文芸的なイントロダクションでもあり、同時に極めて示唆に富んだ問題提起でありインスピレーション(霊感、直感)なのだ。少なくとも私にはそう思えた。
小林秀雄も最初はとりあえず取材の手始めに、墓参りでもするかというくらいの気持ちだったのかもしれないが、現地を訪れてやはり何かの霊感を得たのだろうと思う。
しかし普通の人がみれば、なんだ、わざわざ松坂まで墓参りしに行ったのか、で終わりなのだと思う。
私も一度目はそう思ったかもしれない。しかし何度か読むうちにこのイントロダクションに重大な意味があるように思えてくるのだ。
なぜ仏式と神式二つの墓があるかといえば宣長は若い頃は仏教が大好きで、のちに国学者になってもその趣味は消しがたかったからだし、
あるいは徳川家康が仏教を奨励してたから、人は嫌でも寺に墓を作らなくてはならなかったからでもある。
宣長はまず寺で葬式を済ませたあと遺体を山の墓に運ぶよう遺言した。なるほどいかにも宣長らしい。
しかしふつうは、はいはい墓参り墓参り、でそれ以上読むのをやめる。
小林秀雄の『本居宣長』を何度も何度も熟読する人はいない。たいていは最初をちらっと見て読むのをやめてしまう。
なぜかと言うに人は自分が読みたい宣長を読もうとするからだ。小林秀雄がそれ以外の宣長について語ろうとしても、頭の中には入っていかない。
途中、中だるみというか、冗長な回もあると言えばあるが、50回も100回も連載しようとなればそういう、過去に遡った事実の羅列に過ぎない「仕込み」の回がどうしても必要になる。私も連載をやってみて気づいた。面白い回を書くにはしばらくつまらない回を書かねばならぬけれど、それなりの緊張感を持続しつつときどき、おーっと思わせるような明察を披露したりするのだ。
小林秀雄の『本居宣長』に挫折した人は多いと思う。連載はもっと長くてそれを縮めてああなったというから、連載をリアルタイムで読んでいた白洲正子にとっては、まさにつまらなかったのだろう。
『読めば読むほどわからなくなる本居宣長』に関して言えば、連載の話が来ていきなり原稿を書き始めたので初めは何について書こうかなと考えながら書いていた。A4版の全ページカラーの雑誌なので文字ばかり並べてはもったいないと思ったから、国会図書館のデジタルライブラリーから浮世絵なんかをできるだけ探してきて載せようと考えた。1回目と2回目はそんなふうに書いた。書きながら、幕末の薩長から見た宣長と、徳川の幕臣から見た宣長とは全然違うんだなってことに気づいた。
宣長は町人から取り立てられて紀州の家臣になった。つまり侍になった。尾張藩士にも弟子がたくさんいて、つまり、紀州と尾張の徳川家には一目置かれる存在だったし、宣長の「みよさし論」は、同時代の松平定信にも大きな影響を与えた。武士としての宣長、幕臣としての宣長という視点が欠落している。もちろんそのことに気づいて研究している人はいるのだが、世間には知られていない。
小林秀雄も気づいてはいたのだろうがそこについてはあまり掘り下げてない。
なので代わりに私が書いてやろうと思った。
宣長は松平定信に天明の飢饉の対処方法について献策した。定信は表立って宣長の意見を聞いたわけではないが、たぶん大いに参考にしただろうし、紀州・尾張の幕臣たちには宣長の思想が深く浸透していった。宣長は積極的に幕政に関与しようとした。もし定信が受け入れていれば宣長はもっと積極的に、活発に政治的発言をしただろうと思う。
とそういうことを連載していくうちに書いていこうと思い、とりあえずじっくり仕込みから入ろうと思ったのだが、本論を述べる前に連載は8回で打ち切りになった(神社発信が休刊になったから)。
で、人に聞くと、最初の1回目と2回目くらいは面白かったが、それからつまらなくなったと言われた。
人の見方というものはそうしたものなのだなと思った。
私も小林秀雄の轍を踏んだのだった。
『虚構の歌人 藤原定家』にしても、難しすぎると言われる。確かに私が読んでもそうだ。特に最初から通して読もうとしたときなど。だが、ときどき思い出して、一つの箇所をじっくり読み直してみるとけっこうするどいこと書いてるなと思えたりする。
『エウメネス』も加筆修正を繰り返していくうちにだんだん読みにくくなってしまった。自分で読んでても読みにくいんだから他人はもっとそうだろうと思う。
もちろん私の文章には私からみてもまだまだ推敲が足りてない、考察やサーベイが浅い、と思われるところがあるが、では推敲し、考察し、サーベイを加えれば加えるほどに今度は非常に読むのがつらい文章になっていく。これはどうにもしがたい。
夏目漱石はある意味で幸せだった。最初、我が輩は猫であるとか三四郎のようなわかりやすい小説で読者を獲得し、だんだんに難しいものを書くようになったが読者は我慢してついてきてくれた。ただ漱石が作った漢詩は誰も評価してはくれなかったが。別の意味では、漱石もまた、『晩鐘』『落ち穂拾い』を描いたミレーのように、あるいは若い頃に『ゴッホの手紙』を書いた小林秀雄のように、自分が良いと思う作品を他人が評価してくれない典型なのかもしれない。
ここの記事を整理していて昔自分で鬼平犯科帳について書いたものを見つけたのだが、今とはかなり認識が違っていて驚く。
当時私はまず、さだまさしが出ていたテレビドラマの鬼平犯科帳を見て、次に、私が通院している病院の待合室に置いてあったさいとうたかをの鬼平犯科帳シリーズを読み始めた頃だ。それから刑事コロンボBlu-rayボックスも平行して見つつ、原作全24巻の鬼平犯科帳も読み始めた。
さだまさしが出たのは中村吉右衛門が鬼平を演じる、犯科帳テレビドラマシリーズの最後、2016年のものだ。1969年から2016年まで、50年近くかけて、主演もさまざまに変わりながら、原作をテレビドラマとして骨肉化した最終形態だったと言える。
その後もしばしば他のドラマ版鬼平をみたが、それらは決して原作をそのまま忠実にドラマ化しているのではなく、配役を増やしたり減らしたり変えたり、原作のいくつかのネタを合わせて一本にしていたり、くノ一みたいな女盗賊を加えたりして、かなり脚色している。
原作はほぼ時系列につながった長大なストーリーであって、これをドラマにぶつ切りにしては、見る人は到底理解することはできないだろう。
原作者の池波正太郎はぎりぎり大正時代に生まれ、前近代的雰囲気を残す江戸をある程度まで実体験し得た人だ。だからこそ町の雰囲気や、情景描写や、あと盗賊のあだ名の付け方などに非常にリアリティがある。今の人がどんなに想像を膨らませてもあんな盗賊の名前は思いつかないだろう。
テレビドラマではそこらのディテイルがかなり削られ、現代風に相当様式化されていて、リアリズムを失っている。1950年代に作られた時代劇が今の時代劇とは全然雰囲気が違うのと同じだ。
例えば今の時代劇には、田舎の河原や田んぼでヤクザどうしが大勢でチャンバラをするなどというシーンはほぼ出てこない。たいていどこかの武家屋敷の中庭辺りで斬り合うばかりだ。しかしおそらく昔は、つい最近まで、こうしたヤクザどうしの喧嘩が見られていたのではなかろうか。昭和残侠伝や、あるいは鬼平の原作などでは刀の他に槍や弓矢も出てくるが、こうした道具は今の時代劇で出てくることはほとんどなく、刀と刀のいわゆる殺陣という形に様式化され、多様性を失っている。
さいとうたかをの鬼平犯科帳は比較的原作に近く作られているほうだと思う。
原作に関して言えばこれだけ長い小説をこれだけ中だるみもせずに書けたのはすごいと思うが、おそらくこれは池波正太郎一人の力というよりは、取材やシナリオ作りを大勢のスタッフが助けたためと思われる。こういうプロットがしっかりしていて、人気がある小説というのは、出版社としても金づるだから、元手も人手もたっぷりかけたに違いない。それは刑事コロンボも同じだったはずだ。
吉川英治が書いた太平記や平家物語は実際現代小説を単に舞台だけ過去にもっていった時代小説にすぎなかった。あんなものを読むくらいなら普通に現代のサラリーマン小説を読んだ方がましだ。
しかしながら、少なくとも原作の鬼平犯科帳は、野村胡堂や岡本綺堂らにリスペクトを払いつつ、松平定信時代の江戸を忠実に再現しようという明らかな意図をもって書かれたものだと思う。恐るべき傑作だと思う。
残念ながら、『相棒』にせよ『古畑任三郎』にせよ、刑事コロンボほどの金と人手はかけられないと思うよ。
これだけ私がこうした刑事物にのめり込んだのは私自身『潜入捜査官マリナ』という警察捜査ものを書いたからだ。
いろんな刑事物を読みつつ『マリナ』にはかなり加筆修正を加えた。
自分で書くことによって他人の作品も何倍も面白く読めるし深読みできるようになるしもちろん執筆の参考になると思う。
2020年公開の「野性の呼び声」という映画を見た。ハリソンフォード主演でなければ見ることはなかっただろう。ある意味この映画がそこそこ良い出来だったので、インディージョーンズ新作の話が出たのだろう。
原作の小説があり、すでに5回も映画化されており(1908, 1935, 1972, 1997, 2009)、よほどアメリカ人受けするネタなのだろう。
犬のCGが非常に稚拙だが、最後まで一気に見たので、私としてもまあまあ楽しめたということになる。
病院の待合室に『ダ・ヴィンチ・コード』があったので読んでみたがわりと面白い。もちろん映画はDVDなんかで何度か見たことあるんだが、原作だとより細かなこだわりが描写されていてそこが興味深い。ただし欧米中心、特にアメリカ人がフランス文化に憧れて書きましたっていうスタンスが露骨で鼻につく(いやそんなふうに書かないとアメリカでは小説が売れないんですよねきっと)。ついつい、いや、欧米ではそうでしょうけどアジアはまた別ですよと突っ込みをいれつつ読んでしまう。世界一の美術館or博物館は、ルーヴルでもヴァティカンでもなくて台湾の故宮博物院だろうと思う。ルーヴルはブルボン家が蒐集した工芸品などの他は世界各地特にエジプトから収奪したもので埋められているが、故宮博物院は清朝が蒐集した中国5000年の財宝が収められている。比較にすらならんと思うのだが誰かちゃんと比較してみてほしい。
ビデオカメラはJVC。
ラジコンはfutaba。
カセットテープレコーダーは AIWA。
ラジオ付デジタル時計は Panasonic。
腕時計は CASIO。
ピックアップトラックは TOYOTA。
ストップウォッチは SEIKO と CITIZEN。
Wikipedia > 映画バック・トゥ・ザ・フューチャー PART3の劇中、1955年のドクが「安物を使うからだ。見ろ、Made in Japanと書いてある。」と言ったのに対し、マーティが「なに言ってんのドク。最高のものはみんな日本製だよ。」と返し、「(敗戦国の日本とは)信じられん。」とドクが驚くというシーンがある。
まあ、アメリカ人としては、一種の自虐ネタなんだろうけど。時代設定としては1985年。私は大学一年生だった。電気電子工学科入学。あの頃は、バブルへと駆け上がっていく途中。NHKなんかも電子立国日本って煽ってた。私も煽られて電気電子の世界へ飛び込んでしまった。今なら絶対あり得ないと思う。工学部に行くにしてももちょっと違うほうへ行くと思う。バック・トウ・ザ・フューチャーも、日本が景気が良すぎてアメリカは不況で日本がアメリカを買っちゃうみたいな設定だった。あの頃の日本の電機産業って今からおもうとほんとすごかったな。
私は三島由紀夫の著作をすべて読んだわけでもなくまたこれから読破してみようという気力もおそらくないのだが、今のところのざっくりとした予想を書いてみようと思う。
三島由紀夫の家系というのは平民出身の官僚だ。彼の父、平岡梓は開成中学から旧制一高、東大法学部に進んでいる。平民に与えられたごく普通のエリートコースだ。しかし三島由紀夫はなぜか学習院から東大へ行く道をとった。
彼の最初の長編『盗賊』は副題に「華冑会の一挿話」とあるが、つまり華族社会のことを彼は書きたかったのである。彼は官僚の息子だし学習院にいたから、平民の中でももっとも華族階級に近いところにいて彼らを観察しえた。そのいわば、上流階級のスキャンダラスな暴露話を書きたくて仕方なかったらしい。
この『盗賊』は川端康成に絶賛されたらしいがほとんど反響がなかった。実際長くて退屈な話である。三島由紀夫にとってはしかしこの長く退屈な話を書く必要があったしこの体裁でなければ華族のアンニュイな暮らしは表現できないのだ。またそこを川端康成は高く評価したが同時に世間に受け入れられなさそうなことを惜しみもしたのだろう。
私は、『仮面の告白』ではなくこの『盗賊』にこそ、三島由紀夫のすべてのエッセンスがすでに内包されていると思う。
『仮面の告白』は自分自身を描いた私小説と言える。当時としてはセンセーショナルな内容だったから、たちまち世間に認知されるに至った。しかしながらこれもまた長くて退屈な話には違いない。
『金閣寺』に至っては単に金閣寺を焼いた男というこれまたセンセーショナルな話題を小説にしたというにすぎず、まあ、一般受けはするかもしれないし、外国人にも面白がられるかもしれないが、しかしやはり、退屈で長い話に過ぎない、とも言える。
その他の小説はおおむね売れっ子作家になったあとの頼まれ仕事のようなものだろう。いちいち読むほどの価値があるものがそれほどあろうか。
で、三島由紀夫は死を覚悟した。そこでもう一度、「華冑会」の話を書いてみたくなったのではないか。自分が死ぬ前に、自分が売れる前に書いた小説をもう一度リメイクして、広く読んでみてもらいたくなったのではないか。『豊饒の海』、特にその第一部『春の雪』は『盗賊』に題材が酷似している。そしてこの『春の雪』こそは、私が見た限り、三島由紀夫の作品の中ではとりわけ面白いのである。
作家が最初に書いた長編小説ほど、作家自身がほんとうに書きたかった作品に違いない。その上彼はそれを再び書いて彼の最後の作品にした。よっぽど書きたくて仕方なかった。よっぽど人に読ませたかった。よっぽど後世に残したかったのだ。
三島由紀夫はほんとうは何を書きたかったのか。
三島由紀夫は自決にあたって輪廻転生を信じたくなったのだろう。だから『豊饒の海』はああいう構成になった。しかしながら、彼がほんとに書きたかったのは、彼がほんとうに愛してやまなかったのは、「華冑会」の退廃した世界、もはや二度とよみがえることのない虚構の世界だったのではないか。ああいう世界は奈良時代にも、平安時代にも、鎌倉時代にも、室町時代にも、江戸時代にもなかった。日露戦争の勝利から第二次大戦の敗北まで、わずか40年ばかりしか存在しなかった。彼の文体、彼の文章の美しさというのはその世界を描くときにもっともしっくりとくる。なぜなら三島由紀夫が彼の青春時代に憧れてやまなかった世界だから。彼そのものが作られた世界だから。
この華族というものは明治政府が生んだ虚構社会だ。人工的に作られたフィクションの世界だ。そして彼はもともとその外の世界の人だ。しかしながら、いや、だからこそ、外側から、マジマジと、その世界を客観的に観察し得た。もし彼が最初から華族だったらあんな屈折した小説を書くはずがなかった。中にいた人ならその虚構に最初から気づいてしらけてしまうだろう。だがその「華冑会」の外にいて、いわばセレブに憧れるマニアであったから、あんな小説が書けたのである。
おそらく彼が守りたかったのは天皇ではなく華冑会なのだ。
明治政府が作り上げた戦前の皇室制度というものが華冑会を作った。その制度が失われれば華冑会もまた失われる。だから天皇は人間宣言などしてはならなかったのだ。「華冑会」がよみがえらなければ生きていても意味が無い。そうも思ったかもしれない。
彼にどうして天皇などというものが理解し得ようか。天皇の実態を想像し得ようか。彼に見えていたのは、目の前の現実であったのは華冑会だったのだから。
『評伝 小室直樹』下巻p.395
崎門の学に連なる栗山潜鋒。
これは間違っている。たぶん小室直樹もそうは言ってないはず。でもそんなふうに読者は思うだろう。栗山潜鋒は水戸学とも崎門学とも関係ない。独立独歩。
※追記。栗山潜鋒は明らかに純粋な儒者ではない。徳川期の儒学は、まず幕府直轄の官学を言う。天下国家、経国済民を論じる儒学が官学となるのは必然であり、漢代でもそうだったし、徳川もまたそれに倣った。儒者は幕府に仕官した官儒が偉く、一番偉いのは将軍に直接諮問される立場に一部の奥儒者、顧問であり、尾張水戸紀州など親藩に仕える儒者らが続く。市井の儒者は儒者のようなそうでないような扱い。本居宣長などは、国政に口出しできない市井の学者が儒学を学んで何の役に立つ、とまで言っている。大塩平八郎は大阪町奉行与力ではあったがさっさと家督を養子に譲って自分は陽明学に凝った。儒者ではあるがかなり外れている。栗山潜鋒は水戸光圀に招聘されて彰考館総裁の一人となったが、大塩平八郎よりもさらにエキセントリックである。それを、潜鋒がもと崎門の師を持ったためだと説明付けるのはたやすい。確かに崎門には神道に対する異様なこだわりがあり、これは中国かぶれの儒者(特に新井白石や太宰春台など)とはまったく違う。小室直樹が潜鋒の影響を受けているのは確実だが、その認識はかなりおかしく、おそらく単に、若い頃の小室直樹が読んだ国学書から間接的に受けているのだろうと思われる。
従来、皇位は長氏相続法にしたがって、順に、白河天皇、堀河天皇、鳥羽天皇、崇徳天皇と継承されてきた。
この認識も間違っている。白河院は、天皇家が摂家に対抗するため、院政を発明した。これによってはじめて皇位の直系相続が実現した。藤原氏全盛時代は、さかんに兄弟間で相続している。それは摂家によって皇位をたらい回しにしたから。摂家の影響力を排除するため意図的に白河院は直系相続にした。栗山潜鋒だって当然、長子相続が天皇家の伝統でもなんでもないことは知ってる。問題は鳥羽天皇が白河院がせっかく確立してくれた直系相続を捨て兄弟相続を復活させたことだ。
皇位継承順位は、天倫の序すなわち長子相続法によって定められるべきである。
その根本規範が、ほかならぬ、上皇と関白によって破壊されたのである。
救いがたい急性アノミー(無規範状態)が全日本を覆い尽くすであろう。
この認識もあり得ない。もしそうなら、藤原道長の時代に急性アノミーが生じていなくてはならない。そんなことはなかった。少なくとも表面上は世の中は平和に治まっていた。藤原基経が陽成天皇を廃して光孝天皇を立てたときにもものすごいアノミーが発生しなくてはならない。そんなことは起きてない。
後白河天皇が義朝に父為義の処刑を命じた。つまり天皇が「父殺し」を命じた。そのため天皇政権が終わり武士政権となった。
これはまあどうかなあ。そういう解釈も一応は成り立つかもしれない(※追記。ともかく摂家が武家に対する扱いははなはだ不当なものであってその矛盾が義朝の時に父殺しという形で可視化されたのは間違いないのだが、むしろ、賴山陽が指摘しているように、義家の時にはすでに、武家の信頼は朝廷を離れて清和源氏や桓武平氏に帰していたとするほうがずっと自然だ)。
ま、ともかく、小室直樹は、山崎闇斎の崎門学や、山鹿素行の『中朝事実』などを重視する一方で、賀茂真淵や本居宣長の国学を軽んじ、真淵や宣長に濡れ衣を着せようとする。これはおそらくは、小室直樹が影響を受けた平泉澄という人がそういう考えの人だったからなのだろう(※追記。平泉澄という人は確かに小室が若い頃影響を受けた思想家の一人だったのだろう。賀茂真淵、本居宣長との関係は要精査)。国学以前日本では、中国と日本とインドの宗教はすべて混在していた。その上で、神道よりも仏教や儒教のほうが優れている、という舶来主義が主流だった。それを、混交したままひっくり返して、実は日本が本家本元だったんですって言い出したのが垂加神道。日本ルーツ説。
国学と他の学派との本質的違いは、国学は日本古来のものとそれ以外のものを切り分ける古文辞的作業をおこなった、ということだ。そこには当然、日本古来のものを尊ぶ思想が付随してくるわけだが。
宣長はきちんと『古事記』を分析して、日本固有のものを外来のものから分離し、その上で神道と仏教と儒教を比較して、神道のほうが仏教や儒教よりも優れている点がある、ということを主張したにすぎない。儒教には儒教の良いところがあり、仏教には仏教の良いところがある。しかし、ここは日本であって、インドに仏教があり中国に儒教があるように、日本には日本古来の神道がふさわしい、そう言っているのにすぎない。その根本にあるのは相対主義であり、日本が世界で一番優れている、というのが本来の主張ではないし、まして、中国やインドにも神道を押しつけようというものではない。同じように、キリスト教徒はキリストを拝めば良いだけのこと。それは、宣長と上田秋成の論争を注意深く読めばわかることだ。日本が一番良い、絶対的に良い、などと言ってるのは崎門学や中朝事実のほうだ。
小室直樹は、アノミーという理論が先行していて実証が伴っていない。歴史を緻密に検証していけば、その理屈では通らない事例がいくらでもある。それらを一つ一つ潰していかないと理論は実証できない。
栗山は天皇の失政を強く激しく批判しながら、それでもなお天皇システムを肯定する。
違うんだな。それは違う。単に北畠親房の受け売りで天皇を批判するだけの安積澹泊とも違うし、天皇を激しく批判しながら天皇を崇拝する三島由紀夫とも違う。栗山潜鋒は朝廷に天皇を補弼し武威を示し天下に敷き行う臣下がいないので、その大権が武家に委任されているのであり、それは太古から連綿として変わらない、ということを言いたかったのである。それはつまり幕府が三度交代してはじめて、栗山潜鋒がその日本固有の歴史を観察して発見した知見だ。つまり、天皇システムを肯定しているのではなく、日本固有の歴史的法則性を発見したのだ。それは北畠親房の時代にはまだ判然としていなかったから、親房には見いだせなかった。易姓革命の原理による儒学でも説明が付かなかった。中国にはない日本固有の必然的歴史的法則が作動した結果、徳川幕府が成立した。潜鋒が言いたかったことはまさにそれ。すなわち栗山潜鋒の理論は佐幕理論なのであり、倒幕理論ではない。あり得ない。天皇は絶対だから天皇は不徳でも良い、なんて言ってない。
さらに本居宣長は潜鋒の理論をいたく気に入って、これを「みよさし論」として完成させて、幕府の最高権力者である老中松平定信が追認し採用する形でオーソライズしたから、大政委任論が成立したのである。そしてそこから自然に幕末の大政奉還論が生まれてくる。何段階ものステップを経て、徳川の250年間にわたる治世の中で徐々に熟成されてできたものだ。国学は決して天然自然が良いとか神様のあるがままが良いなんてことは言ってない。少なくとも宣長はそんな脳天気なことは言ってない。宣長は彼の歌論において、古い時代には古い歌、新しい時代には新しい歌がふさわしい、歌は時代時代で異なる、混同してはならないと明確に言っている。みんな宣長がいかに政治に関心をもち関わっていたかをしらんのだ。宣長の門下にはだんだんと武士が集まってきた。その中には尾張や紀州で幕政に責任ある地位にいる者もいた。彼らは宣長に政論を求め、宣長も応えた。宣長は国学を政治に応用しようとして紀州藩や尾張藩に働きかけ、松平定信ともコンタクトを取ろうとしていた。松平定信は宣長を表面上無視したが、賀茂真淵を師と仰いだ田安宗武の子である松平定信が国学を知らぬはずもない。実は深く宣長の影響を受けて政治に生かしていたのだ。
決して三島由紀夫と栗山潜鋒は同型(アイソモーフィック)ではない。
もっと他にも間違いがある。『禁中並公家諸法度』は摂家が天皇家や公家を支配して公家社会の頂点に立つために家康にお願いして幕府の権威で認めさせたものだ。その張本人は近衛信尹。決して家康が天皇に押しつけたものではない。紫衣事件も、摂家と幕府が結託して寺社を管理しようとしておきたものであり、天皇とは直接関係ない。確かに後水尾天皇は幕府を恨んでるような歌を詠んだりもしている。しかし、後水尾は近衛信尹の甥であり、また後水尾の同母弟は近衛家を継いで信尹の養子になったりしている。じつは天皇と摂家はツーカーなのであり、公家支配は摂家が考えたものであり、公家支配のコツを家康に伝授したのも実は摂家なのである。