梅にうぐいす

梅にうぐいす 北大路魯山人

ひどい話だなと思った。うずいすは、二月から八月くらいまで毎日のように鳴く鳥で、
しかも梅の木というよりはごく普通の竹藪にいるものだ。正直に観察すれば梅にうぐいすのような陳腐な歌など出てくるわけがない。

最初に鳴き始める二月が一番印象的なのかもしれない。だが、ただそれだけだ。そもそもうぐいすの鳴く声は聞いたことはあるが、その姿をわざわざ目撃するというのはまれだと思う。

あたらしき いへゐはならび たちにけり やぶうぐひすの すみかなりしが
うぐひすの あさなあさなに 鳴く里は 夏のやぶ蚊も さぞおほからむ


おそらく北大路魯山人は、「梅にうぐいす」よりも和歌のほうがずっと古い。もともと古いものに固執しているのに、それに何の疑問も感じないから、歌人などやっているのだ。そんな歌人が「梅にうぐいす」はあまりに古めかしいなどというのがおかしいと言いたいのに違いない。

庭木にうぐいすでも良い。薔薇にうぐいす、竹藪にウグイスでもよい。たまたま梅にうぐいすが止まったならばそれを詠めばよいが、それが梅の花が咲いたうぐいすとも限るまい。葉が青々と茂った梅の木かもしれないし、単に庭木の一つとしか観察しないかもしれないから、そのときは庭木とでも言えば良い。

北大路魯山人はおそらく、「梅にうぐいす」という定型にも新しさはあると言いたかったのだろう。和食というものは古いものだが、その中には常に新しいものがあり、新しい解釈があり、古い組み合わせにも新しい試みは有り得ると言いたかったのだろう。しかし一般論として、客観的に見れば「梅にうぐいす」は陳腐な定型であり、和食もまた陳腐な定型に過ぎない。どっちもどっちとしかいいようがない。もちろん陳腐な典型を敢えてひねって新しい表現を生み出すことはできようが、その試みすらが、誰でも思いつく陳腐な定型にすぎない。

そう思って彼の書いたものを改めて読んでみるとどれもまったく大したことはないように思えてくる。つまり、彼が言いたいことはわかるが、どれもロジックが下手くそで、陳腐なものを否定しようとして自分が陳腐に陥っているだけに見える。

日文研の和歌データベースで「うめにうくひす」で検索しても実は一つもでてこない。うめ and うくひす ならば 281件ヒットする。梅が枝に来居る鶯、など。「うめにうぐひす」という言い回しがすでに近世的な使い古された定型であることに、魯山人はおそらく気付いていない。