小沢蘆庵の歌論「布留の中道」など読む。紀貫之が「ただごと歌」と言ったのは、一つは古今集仮名序の
いつつには、ただことうた、
いつはりのなき世なりせばいかばかり人のことのはうれしからまし
といへるなるべし。
という箇所で、花鳥風月を詠むといったものではなく、またそれを描いた屏風に添えるというものでもなく、ありのまま思ったことをただ詠んだということだろう。本文中では、読み人知らずで、恋の歌。
または、土佐日記の中で、
又船君のいはく「この月までなりぬること」と歎きて苦しきに堪へずして、人も言ふこととて心やりに言へる歌、
ひく船の綱手のながき春の日をよそかいかまでわれはへにけり
聞く人の思へるやう「なぞただごとなる」と密かに言ふべし。
「船君の辛くひねり出して良しと思へる事を。怨じもこそし給へ」とてつつめきてやみぬ。
船君とは、貫之本人のことのようだ。「よそかいか」とは「よそかあまりいつか」のことであり、45日と解釈すべきだろう。「40日も50日も」と訳すのはおかしい。全体では「春の長い日を45日も船に乗って私は日を経た」というような意味で、たしかにある意味「当たり前」であり「平凡」「ありのまま」ではある。
さて、「布留の中道」に、当時の「ただ歌」の悪例として
不尽の山 同じ姿に 見ゆるかな こなたおもても あなたおもても
女郎花 いろいろにこそ 露もおけ 花には黄玉 葉には青玉
の二首が挙げられている。一つ目は、駿河や甲斐など、どの方角から見ても、富士山は同じように見える」というような意味で、二つ目は「女郎花に置く露が、花には黄色く、葉には青い色なら面白いだろう」というような意味。二つ目は明らかに駄作だし、面白くもなんともない。一つ目は微妙。ただし蘆庵が批判するには、富士山を詠むには、もっといろいろと詠みようがあろうに、ただどちらからみても同じに見えるなどと詠むのは平凡きわまりない、歌にならない、ということのようだ。
藤原公任の拾遺集に採られた歌
(1) 朝まだき嵐の山の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
は大鏡では
(2) をぐら山嵐の風の寒ければもみぢの錦着ぬ人ぞなき
であるが、本人がもともと詠んだ歌は
(3) 朝まだき嵐の山の寒ければ散るもみぢばを着ぬ人ぞなき
だったと言う。(1) は拾遺集を集めた(と言われている)花山院が本人の意思に反して「改悪」したものだと言うのだが、これだけ異同があると、どれがほんとうなのかわからない。(3)の説は、袋草紙という、平安時代末期の、保元の乱の頃(1155-1159)に成立した歌論書に書かれていることであり、拾遺集は1006年頃の成立、大鏡は1100年頃に成立したと言われている。一方、公任は1041に死んでいる。袋草紙の説が間違っているとも言い難いし、大鏡の逸話はなんとなく嘘くさい、とも言える。袋草紙は150年も前のことを言っているのであり、当時は今に伝わってない写本や、拾遺集編纂の事情を伝える何かの家伝書もあったのかもしれんが、今のような科学的な古文辞学的手法があるはずもなく、かなり疑わしい。ただ言えることは、この例を挙げた蘆庵は、(3)の方が(1)よりも良く、「実を重くして飾りを好まざる、誠に歌人の心なるべし」とほめているのであるから、彼が主張した「ただごと歌」により近い形なのだということだろう。なにごとも、ひとつひねってやろうとか、「一節おもしろかるべき心」を詠みこんでやろうとか、そういうのは邪曲な心であり、自然の道に違うと考えているようだ。