今では映画が一つあたるとシリーズ化するのが当たり前のようになっているが、ゴッドファーザーの頃はそうでもなかったらしく、続編を作ることにいろんな抵抗があったようだ。二作目は一作目の前の話と後の話でサンドイッチする形で作られており、一作目に相当する時期のちょっとした逸話も挿入されている。もしマーロン・ブランドがヴィト役を引き受けていたらもっとその部分を膨らましただろう。
興行的にはともかくとして、またこの作品が結果として非常に優れているということもおいておいて、この二作目はおそらく作る必要のないものだった。少なくとも一作目から必然的連続的に出てくる話ではない。
コッポラはのちに地獄の黙示録を作ったように、キューバ革命を描きたかったのだろう。 いや話はほんとは逆で、当時同時進行していたベトナム戦争が、かつてのキューバ革命をコッポラに思い出させたのだろう。彼の関心はアメリカという国の大義名分というものではなかったか。あるいはアメリカ人を負かしたベトナム人やキューバ人に興味があったのかもしれない。マフィアの話を書きたいのでもなかったかもしれない。コッポラはヴィトやマイケルになんとかして表の世界、つまり知事や上院議員などの仕事に就かせようとする。裏社会の話は彼にはどうでも良い気がしていたのではないか。
コッポラにはゴッドファーザーという持ちネタがあったから、ある意味それに引きずられて、続編という形で作ることになる。キューバのバチスタ政権と結んで、フロリダ州マイアミを拠点して大儲けしていたユダヤ系のマフィアがマイヤー・ランスキー、彼はHyman Rothのモデルである。友人のベンジャミン・シーゲルは同じユダヤ系でMoe Greeneのモデルである。
コッポラは一作目から二作目へ話を橋渡しするためにモー・グリーンを使った。一作目でモー・グリーンとロスはヴィトの商売仲間であり、ヴィトはモーがラスヴェガスでホテルやカジノを経営するための資金を提供し、その代りできの悪い息子のフレドをモーに預けている。モーは一作目で死に、ロスは二作目から出てくる。モーはイタリア系マフィアのナンバーツーでコルレオーネ家に敵対する黒幕のEmilio Barziniと親しかった。バルジーニは、麻薬に手を出さず政治家を独占しているヴィトの勢力を切り崩そうとしていた。それは割と映画の中で丁寧に説明されている。マイケルは父ヴィトと相談の上でラスヴェガスのモーを圧迫し、ヴィトの死後モーやバルジーニを殺害する。ロスはハバナでヴィトと商売をした仲であったが、やはりヴィトの死後、友人モーの件を遺恨に持って、マイケルを殺そうとする。だがそのモーとロスの関係がいまいち弱い気がするんだよなあ。
上院議員のPat Gearyはものすごく緻密に描かれているのに対して、ロスはいまいちとってつけたようだ。コッポラという人はよほど政治家(政治、戦争、革命etc)に興味があるように思える。
ゴッドファーザー2でコッポラはキューバ革命をやりたかったのでしょうか。というよりキューバ革命だけ独立させた別の映画を作ればよかったようにも思えます。いろんなことを詰め込みすぎています。
その視点は非常に鋭く、映画史や映画批評の観点からも実に多くの議論がなされてきた本質的なポイントです。
結論から言うと、コッポラ自身が「キューバ革命を描く映画」を単独で作りたかったというよりは、「マイケル・コルレオーネという男の精神的没落」と「アメリカン・ドリームの光と影」を極限まで描ききるために、キューバ革命という歴史的大事件がどうしても不可欠だったというのが真相に近いと言えます。
なぜコッポラがキューバのパートを独立させず、あえて『ゴッドファーザー PART II』の中に組み込んだのか、いくつかの理由に分解して整理してみます。
1. キューバ革命は「コルレオーネ帝国の崩壊」の象徴
『PART II』の核は、「父ヴィトーの築き上げた家族の絆」が、「息子マイケルの冷徹な事業拡大」によって崩壊していく対比です。
マイケルがキューバに進出したのは、カジノやホテルビジネスを国家(バティスタ政権)と癒着して合法的に支配し、帝国の頂点を極めるためでした。しかし、その頂点に立った瞬間にキューバ革命が勃発し、すべてが一夜にして霧散します。
- 資本主義と欲望のピーク(ハバナの豪華ホテル)
- 一瞬での絶望的な瓦解(カストロ派の勝利による逃走)
この一連のドラマは、マイケルが手に入れた巨大な権力が「いかに脆く、虚しいものか」を鮮やかに浮き彫りにします。もしキューバ革命がなければ、マイケルの「事業的失敗」を描く説得力が弱くなってしまったのです。
2. 「金で買えないもの」を知る重要なシークエンス
映画の中で、マイケルが「カストロ率いる反乱軍が勝つかもしれない」と直感する有名な場面があります。
ゲリラの兵士が捕まる際、手榴弾で自爆して政府軍の警官を道連れにする様子を車内から目撃したマイケルは、ハバナのホテルでマヤー・ランスキー(作中ではハイマン・ロス)らにこう語ります。
「政府軍の兵士は給料のために戦っているが、反乱軍の兵士は信念のために戦っている。だから彼らは勝てる」
「金や恐怖で人間を支配できる」と信じ切っていたマイケルが、命を捨ててでも信念に生きる人間(革命軍)の圧倒的なエネルギーに直面し、自分の支配体系の限界を悟るという、マイケルの内面的変化を描く上で極めて重要な意味を持っています。
3. 歴史の渦と「詰め込みすぎ」の構造
確かに『PART II』は、以下の要素が重なり合っており、要素が極めて多い作品です。
- 若きヴィトーの成長伝(1900〜1920年代:ファミリーの誕生)
- マイケルの冷徹な権力闘争(1950年代:ファミリーの空中分解)
- ワシントンの公聴会(国家権力との対決)
- キューバ革命(国際政治と巨額ビジネスの暗雲)
- 兄弟の裏切りと粛清(フレドとの悲劇)
コッポラと原作者のマリオ・プuzoは、単なるマフィアの復讐劇だった1作目を越えて、「アメリカという国家の近代史そのもの」を映画の中に凝縮しようとしました。
「移民が苦労して一族を成した時代(ヴィトー)」から、「資本主義の欲望が国境や政治までをも飲み込み、最後には身内すら殺し合う時代(マイケル)」への変遷を描くにあたり、1950年代末のハバナはアメリカ合衆国の強欲さと挫折を映し出す最高の舞台だったのです。
もしキューバ革命だけで別の映画を作っていたら?
おっしゃる通り、「キューバ革命とマフィアの癒着」だけに焦点を絞った映画(たとえば『ハバナ』やマフィアのハバナ会議を中心にしたサスペンス)としても、間違いなく見応えのある単体作品になったはずです。
しかし、コッポラがあえてそれを『PART II』という巨大なジグソーパズルの一片として組み込んだからこそ、「父のノスタルジックな時代」と「息子の冷酷な時代」の対比がより一層際立ち、単なるマフィア映画を超えた「大河悲劇」としての映画史的金字塔になったと言えます。
「詰め込みすぎ」と感じられるのは至極当然の密度の濃さですが、その過剰なまでのスケール感こそが『PART II』が持つ独特の凄みや重厚みを生んでいる理由でもあります。