ややこしい(鎌倉公方)

とりあえずまとめておく。

足利満兼 によれば、満兼は義満を討って自分が将軍になろうとした、という。西国六国の守護大内義弘が乱を起こすと挙兵して上洛をうかがうが、乱がおさまったので鎌倉に帰っている。義満はこれに怒り陸奥国伊達政宗に反乱を起こさせるが、満兼は上杉禅秀を大将として派遣して平定する。

満兼が死んだとき(1409)、息子の持氏はまだ満11歳で、元服前だっただろう。満兼の弟 満隆 は不服として自分が鎌倉公方になろうとする。当然、満兼を嫌っていた京都将軍家の支持があっただろう。しかし結局満隆は折れて持氏の弟満仲を養子とする(1410)。

持氏と上杉禅秀は不仲で、禅秀は関東管領を辞する。不服とした理由は家人が持氏に領地を没収されたからとあるが、まあいろいろあったのだろう。このとき当然禅秀は満隆に接近したであろう。持氏と満仲も不和だった可能性がある。こうして、満隆・満仲・禅秀は持氏に謀反を企てるが、このとき足利義嗣、足利満直らも同調して時の将軍 義持に対抗しようとしたのかもしれない。それだけ義持の基盤が脆弱だと思われていたのかもしれない。

禅秀の乱によって持氏は鎌倉を逐われるが、結局は満隆よりも持氏を支持する家人が多かったのだろう、乱は失敗する。禅秀は上杉氏宗家である犬懸上杉氏であったが、以後は山之内上杉氏が関東管領となる。

持氏は義持の次の将軍義教に反発し、山之内上杉氏と対立するが、結局討たれてしまう。
義教が暗殺され、持氏の子成氏が鎌倉公方に復帰すると、当然成氏と山之内上杉氏は不仲となる。成氏と京都将軍家も対立する。成氏を排除して義教の子政知を鎌倉公方に送り込もうという動きがあり、成氏は上杉氏の家宰長尾氏と太田氏に鎌倉を逐われる。いわゆる江の島合戦であるが、結局、やはり成氏を支持する関東武士団によって成氏は鎌倉に戻る。

思うに持氏が討たれるというのは関東武士団にとっては異常事態なのだが (その他の場面ではたいてい関東の意向が通っている。鎌倉公方が慕われているというよりは、京都の支配下にはいるのが嫌なのだろう)、義教が赤松氏に討たれたのも実は関東武士による画策ではなかったか。関東は西国よりも武士が倍多い。西国の細川・山名などが京都で政争を繰り広げているようにみえるが、実は関東の影響というのはそうとう大きかったのではなかろうか。

普通の人は応仁の乱を無意味で無駄な内乱だった、と思っている。私も日本史をほとんど知らなかったころは漠然とそう思っていた。関ヶ原とか大坂の陣などは意味のある大事な戦争だと思っていた。でも今はそんなことはない。応仁の乱や室町時代について知らなすぎるだけなのだ。室町時代は一言でいえば守護や将軍家の家督争いが延々と続いた時代なのだ。