敷島の道2

敷島の道の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、つまり国学という意味で使われているような気がする。まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。つまり定家の父俊成だわな。よく調べましょう自分。和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。つまり、俊成が作った言葉というより、もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。

蜀山人2

蜀山家集 全。狂歌のみをだいたい見繕ったもののようだ。これは便利。

弥生十二日舟にて隅田川にまかりけるに花いまだ咲かず
隅田川 さくらもまだき 咲かなくに 浮きたる心 花とこそ見れ

これはまともな歌。

春の日、芝のほとりにて
春の日も ややたけしばの 浜づたひ 磯山ざくら 見つつ飽かぬかも

これも良い歌。ていうか、一番良い出来ではないか。竹芝海岸の「たけ」を春が長けるの「たけ」にかけていて、「浜づたひ磯山ざくら」がうまく効いていて、最後は万葉調にしめている。やればできるじゃん、大田南畝君。まあ秋成の友人だけはある。こういう歌を江戸時代に蜀山人あたりが詠んでいるというのが、やはり近世の和歌もあなどれんよなあ。

磯山ざくらとは磯に咲く山桜のことだろうか。続後拾遺集に

心なき あまの苫屋も にほふまで いそやまざくら 浦風ぞ吹く

これはまあまあ良い歌。作者はネットで検索しただけだとわからん。国歌大観で調べんとな。

竹芝は当時どんな浜辺であったか。砂浜だったか。砂利か泥か、或いは磯か。今となってはまったく想像がつかない。

浜庇山といへる茶屋にて
しばしとて やすらふ芝の浜庇 ひさしくみれど 飽かぬ海づら
年の暮れに
衣食住 餅酒油 炭たたき なに不足なき 年の暮れかな

杏園詩集はところどころ面白いがうまく意味の通らない(解釈に自信のない)ところが多すぎる。たとえば隅田川を詠んだ詩で「南連両総北三叉」というのがある。両総は下総国と上総国だが、北の三叉とは何か。常陸、下野、上野であろうが、確証が持てない。

狂歌は「蜀山百首」と「千とせの門」が良い。あとはあまりできがよいとは思えない。「狂歌百人一首」は大嫌いだ。ただのパロディでつまらん、が、世間では一番知られているようだ。「めでた夷歌百首」も似たようなもの。「巴人集」「巴人集拾遺」は詠草にあたるか。数は多いが良いものは少ない。

蜀山人

蜀山人全集を読み始めたのだが、全五巻あり、そのどこかに狂歌がまとめて載っているわけでもない。連歌もあれば漢詩もある。当然のことではあるが和歌について論じている文もある。

杏園詩集の巻頭

日出扶桑海気重
青天白雪秀芙蓉
誰知五嶽三山外
別有東方不二峰

要するに日本は海に浮かぶ良い国だ、中国人は三山五嶽より外の世界は知らないだろうが、東方の日本には富士山がある、というような意味。「三山五嶽」は中国の名山で、蓬萊・瀛洲・方丈の三山と、泰山・衡山・華山・恆山・和嵩山の五嶽であるという。「五嶽三山」としたのは平仄あわせのためであろう。

押韻平仄ともにきちんとしている。こういう詩を作るからにはまじめな人だと思う。まあ普通の御家人だわな。旗本ではない。武家で役人だから、当たり前といえば当たり前なように漢文が多い。

「めでた百首夷歌」というのがある。蜀山人も「狂歌」とは言わず「夷歌」と言っているところが興味深い。ただし「狂歌百人一首」とか「狂詩」などと言っているものもある。「夷歌」はもとは「あづまうた」と訓んだのではなかろうか。

鎌倉の 海より出でし 初がつお みな武蔵野の はらにこそ入れ

蜀山百首の中の一つ。

武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

を思わせる。「武蔵野の原」という慣用句もある。「原」に月が入るのと、「腹」に鰹が入るのをかけているわけだ。かなりひねった歌だ。

世の中は 我より先に 用のある 人のあしあと 橋の上の霜
今さらに 何を惜しまん 神武より 二千年来 暮れてゆく年

同じく蜀山百首。

あなうなぎ いづくの山の いもとせを さかれてのちに 身をこがすとは
世の中に たえて女の なかりせば 男の心 のどけからまし

うーん。

富士のねの 表は駿河 裏は甲斐 前は北面 のちは西行

西行が出家する前は北面の武士だったことを知らないとわからないしゃれだわな。

いたづらに すぐる月日も おもしろし 花見てばかり 暮らされぬ世は
寝て待てど 暮らせどさらに 何事も なきこそ人の 果報なりけれ
世の中は いつも月夜に 米の飯 さてまた申し 金のほしさよ

これは「それにつけても金のほしさよ」の原型だろうか。

呉竹の 世の人なみに 松立てて やぶれ障子を はるはきにけり
世の中は なにか常なる 飛鳥山 きのふの花は けふさくらん坊
遠乗りの 馬二三匹 隅田川 疲れたりとも 花につなぐな
黒髪も いつか素麺 としどしに 七夕のうた 詠むとせしまに

普通の和歌もあるはずだと探してみるが、

隅田川 堤の桜 咲く頃は 花の白波 寄せぬ日ぞなき

普通だ。うっかり普通の和歌を詠んだという感じ。

あらたまの としのはじめの 初声は 春駒よりも ましらふの鷹

ましらふは「真白斑」。

鳥が鳴く 東の日枝の 山桜 咲くやゆたかに にほふ春の日

「鳥が鳴く」は「東」の枕詞なのでしゃれではない。「東の日枝」とは要するに上野の東照宮のこと。さすがに江戸っ子の幕臣、家康をネタに狂歌は詠めなかったようだ。

たらちねの 手織りの羽織 常に着て 綿よりあつき 恵みをぞ思ふ

「ある人母の手織りの羽織の裏に歌を請う」とある。これまたふざけるわけにはいかない。

この春は 八重に一重を こきまぜて いやが上野の 花ざかりかな

どうして一ひねりしたがるのかなこの人は。普通に詠めば良さそうなものだ。この歌も、

この春は 八重に一重を こきまぜて 上野の山の 花ざかりかな

とかすれば普通に和歌になる。「こきまぜて」は歌語である。ただの口語ではない。ただ上のようにするとあまりにも普通である。つまらなく陳腐である。蜀山人も自覚していただろう、自分がまじめな歌を詠むと陳腐なありきたりの歌になってしまうことを。だからついオチをつけてしまいたがるのではなかったか。もともと狂歌を詠むのは得意だったからいつの間にかそちら専門ということになった。もとはまじめな人なのだ、おそらくは。ものすごく勉強した人だから、つい昔の歌をもじってしまう。しかし自分のオリジナルの歌がなかなか詠めない焦り。おそらく私生活もごく平凡な人だっただろう。波瀾万丈からは遠い、江戸後期のいたって平和な江戸市中の暮らし。漢詩や漢文だとまじめくさっていても別に変じゃないが、古文であろうとも日本語でまじめなこと言うと照れくさい。ついふざけたくなる。親父ギャグ言いたくなる気分。そういう気持ちだろうと思うが。

たれをかも 仲人にせん 高砂の 松もむかしの 茶飲みともだち
豆腐売る 声なかりせば 朝顔の 花のさかりは 白川夜船

狂雲集

一生受用米銭吟
恥辱無知攪万金
勇色美尼惧混雑
陽春白雪亦哇音

狂雲真是大灯孫
鬼窟黒山何称尊
憶昔簫歌雲雨夕
風流年少倒金樽

まだ良く調べてないのだが、一休の漢詩集。wikiによればこの中に

門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

という和歌があってこれのみが、一休の真作と認められているらしい。

まあ、和歌はともかくとして漢詩の方はどうやらかなりきっちり作られた七言絶句で、韻を律儀に踏んでるし、平仄もまともである。かなりの使い手と言っていい。内容がかなり破戒的だから韻律的には完璧を期したか。

ググってみた感じでは、流通している本が書き下しのものばかりのようで、群書類従にオリジナルがあるそうだから今度見てみなくては。群書類従は大きな図書館にはたいていあるから助かるわな。日本外史も書き下ししか出回ってないが、それはそれとして、漢詩は白文がないとどうにもならんわな。

古今夷曲集

一休の和歌は「古今夷曲集」などにかなりの数採られているのだが、真作なのか。これに採られている西行、慈円、道元、沢庵の和歌というのも同様だ。中には松永貞徳や木下長嘯子のような普通に有名な歌人も混ざっている。鎌倉時代の西行や道元や慈円、室町時代の一休の真偽はあやしいとして、貞徳、長嘯子、沢庵は同世代の人だから真作かもしれん。うーん、油断がならん。

「古今夷曲集」は生白庵行風という僧が編んだ日本初の狂歌集だということで、それはそれなりに貴重なものだ。行風は後水尾天皇とだいたい同世代、江戸初期の人。「後撰夷曲集」「銀葉夷歌集」などの歌集も選んだようだ。

和歌は情淳にして風情をかざり、夷歌は俗語をもきらはず、心ただしく理にかなふをもはらとせり

なかなか良いことを言っている。もともとは狂歌とは言わず、夷歌と言ってたというところが興味深い。一休の号が狂雲であるので、もしかするとその影響で狂歌と呼ばれるようになった可能性もあるわな。

少なくとも行風自身の名がついている歌は真作だと考えてよかろう。貞徳の歌が割と多いのは直接の知り合いだったからかもしれん。

一休

餅つかず しめかざりせず 松たてず かかる家にも 正月は来つ

うーん。どうなのかこれは。

行風

ともすれば 花の顔さへ 打ちちらす 風の手ぐせを 直してしがな

これは、たしかに狂歌ではあるが、ぎりぎり和歌と言えなくもない。できも悪くない。

行風

野にたてる 夜風ひきてや 撫子の はなたれたりと 見ゆる朝露

これも斬新で良い。風邪引いてはなを垂れるとかけているわけだ。

長嘯子

人ごとに 腰折れ歌を 詠みおきて あたら桜を 杖にこそつけ

ひどい歌だな。

海老の絵に詠める
沢庵
いかばかり えびを取り食ふ 報いあらば つひには老いの 腰やかがまん

宗祇

ものごとに たらぬたらぬと 思ふこそ まよふ心の 作りやまひよ

本物なのか。ばかばかしいな。

布袋絵の賛に
沢庵
この袋 あけてみたれば 何もなし 何もないこそ 何もありけれ

法然

口にある 南無阿弥陀仏の 味はひを 自力の人は 食ひ知らぬなり

法然

ありがたや 障りのおほき 女人をば 弥陀ひとりこそ たすけましませ

本物なのか。

弘法大師

今ははや 後世の勤めも せざりけり 阿吽の二字の あるにまかせて

良く出来た偽物だな。

一休

作りおく 罪の須弥ほど あるなれば 閻魔の帳に 付けどころなし

一休

嘘をつき 地獄に落つる ものならば 無き事作る 釈迦いかがせん

一休

すぐなるも ゆがめる川も 川は川 仏も下駄も 同じ木の切れ

一休

たぞにたぞ たぞたぞにたぞ たぞにたぞ たぞにたぞとて 何もなきかな

おまえは誰だといろんな人に問い詰めた結果何もなかったということか。

うーん。釈教歌がやたらと多いな。ありがたく使わせてもらうか。