「敷島の道」なんてのは足利尊氏が歌に詠み始めた(流行らせた)なんて書いたのが気になって調べてみたのだが、
「しきしまの」は「やまと」などに懸かる枕詞でこれは古語だ。
崇徳院御製に「しきしまのやまとのうた」というのがあるが、これは和歌のことであるが、
貫之が「やまとうたは」などと言っているのとなんら変わらない。
少なくとも古今集の時代にはあった言葉だ。
宣長の「しきしまのやまとごころ」これもまた平安中期頃にあっておかしくない言い方。
しかるに「しきしまの道」を「歌道」という意味に用い始めたのは案外新しいはずだ。
たぶん初出はなんかの歌学書もしくは勅撰集の仮名序であろう。明らかに後世作られた「歌学用語」である。
そもそも「道」なんてことぱには要するに宣長があまり好きではない漢才の匂いがする。
和歌に詠まれた「しきしまのみち」の初出は玉葉集らしい。
九条孝博
> おろかなる身をば知れども代々経ぬるあとをぞたのむ敷島の道
ただこれ、初出な上に「日本の道」と言ってるだけなんでほんとに歌道の意味で使ったかは不明。
だんだんと定着していったんだろうけど。
冷泉為相
> これのみぞ人の国より伝はらで神代を受けし敷島の道
二条為藤
> 住吉の松の思はむことのはを我が身にはつる敷島の道
> 住吉の松も花咲く御代にあひてとがへり守れ敷島の道
うーん。ほんとに和歌のことかどうか、あやしいよな。
為藤は為世の子だから明らかに二条派だろうな。
為相はどちらかといえば京極派?
玉葉は伏見院の院宣による持明院統と大覚寺統に分かれて争っていた鎌倉後期の成立、
しかも京極派が優勢だったころで、かつ、九条孝博は玉葉集の選者の一人で伏見院の側近、
どちらかといえば京極派だったかもしれない。
いずれにしろ歌論というものがやかましく言われるようになったころに生まれた言葉だわな。
時代的に足利尊氏がその影響をもろに受けたのは自然。
ていうか東国の武士が朝廷に接近するためにはまずは和歌を学ばないと、敷島の道にはげまないと、
と彼は考えただろう。
尊氏が歌好きだから将軍はじめ武士はみんな和歌好きになってしまった。
> なにごとも思はぬ中に敷島の道ぞこの世の望みなりける
すごいよなこの尊氏の歌。足利将軍の歌ですよといわれなきゃ誰もわかるまい。
ましかし武士だからこそ逆にこんな言い方をしたのかもしれんが。
こういうの調べ始めるときりがないんだけど。
追記
[敷島の道2](/?p=15093)