蒙を啓く

啓蒙、蒙を啓く、という言葉がある。文明人の俺様がおまえら未開人に教えてやるよ、というようなニュアンスがある。

蒙だが、もともとは高木や藪に覆われた、昼なお暗い森林、というようなイメージらしい。

啓は、口に、手で戸を開くという意味が組み合わさった字であり、未開の地を開いて言葉で教え諭す、という意味があるらしい。

つまりこれはまさしく、縄文人に対して弥生人がやったような、あるいはギルガメッシュがフンババにしたような、源頼光が土蜘蛛にしたようなことを言うわけだ。同様の文明開化の体験を日本は幕末維新に追体験した。

なんでそんなことをいまさらいうかといえば、もののけ姫の本来のテーマはこの蒙を啓くということにあったはずだと思ったからだ。蒙を啓くとはつまり神を殺すことだ。神とは原始の森、蒙である。その蒙を開拓する。文明の光が差し込んで、タブーや呪術がなくなり、誰もが安心して合理的な社会に共存共栄できるようにする。神を殺したのは天朝様だ。日本の歴史というものはごくおおざっぱに言えば天皇が土着の神を殺した歴史であった。

というテーマというかコンセプトがもののけ姫には明らかに掲げられているのだが、おそらくジブリ自身がそのテーマについてあまり興味がなかったと見える。

設定がややこしすぎる映画

地上波は見たくないので、夕方飯を食う時などにてっとりばやくブルーレイとかネットに落ちている動画をみようということになる。

そんなわけで netflix だと私はもう「テキサスレンジャー」を何度みたかしれないが、私はこれが割と好きだ。

「もののけ姫」と「千と千尋」を比べたときに、ちひろに感情移入できる人はかなりたくさんいるのだろう。小さな女の子が突然世知辛い世の中に放り込まれ複雑な人間関係にもまれて、次第に仕事を覚え世渡りに慣れて行き、問題を解決して、聡明な女性に育っていく。運命的な彼氏もいれば、いじわるばあさんもいれば親切なお姉さんもいる。だから「千と千尋」がヒットするのはまあわかる。というか、宮崎駿は、モデルとなった少女にかんでふくめるようにわかりやすく、世の中の仕組みとか仕事とのかかわり方を教えようとしたわけだから、わかりやすくて当たり前なのだ。

いっぽう「もののけ姫」の主人公アシタカに感情移入できる人はほとんどいないだろう(アシタカは若いイケメンで戦闘能力高いという意味でファンになる人はいるかもしれないが、自分の境遇と重ね合わせられるキャラではないということ)。彼はエミシの族長となるべく生まれた男子だが、タタリ神の呪いを受けて、たった一人で郷関を出る。こんな境遇の人は世の中にはほとんどいない。大企業の社長の息子のようなもので、日本人の0.001%くらいしかいないだろう。

山犬に育てられた娘サンにしても、普通の女子がこの子に感情移入できるはずもない。

脇役のエボシ、ジコ坊にしても設定がややこしすぎて、こんな人たちの行動や思考をすんなり理解できるはずがない。

なんかよくわからない、破綻した話のように見えるのだが、しかし何度も見ているうちにこれらの人物やシナリオがすべてすっきりと説明できるように作られていて、おもしろいのである。だけどもののけ姫のほうが千と千尋より面白いと思う人は少ないだろう。

ラストも、あの時首をダイダラボッチに返していなければみんな死んでいたはずだが、ジコ坊はそのことに気づいていたかどうかはともかく、首をアシタカに手渡し、アシタカとサンは、まるでラピュタのパズーとシータのように二人でその首を差し出してダイダラボッチに返す。生と死をつかさどるダイダラボッチ(シシ神)が死んだことによってみな死なずに済み、アシタカの呪いも解ける。シシ神がいなくなることでタタリ神も存在しなくなり、呪いもなくなる。すべては丸く収まって(少なくとも人間にとっては)、ジコ坊もエボシもその結末に納得せざるを得ない。

そして天朝様にしても、不老不死の薬シシ神の首が欲しかったというよりは、シシ神という生死を操る制御不能な存在を地上から抹消し、人々が安心して住める土地を作ることが、シシ神退治の本当の目的であったかもしれない。古来、天皇がやってきたことというのは、縄文時代から続くわけのわからない呪術とか怨霊といったものを人間によってコントロールできるようにし、世の中というものを合理化して説明のつくものにしていくことであったともいえる。何もかも一応説明が付くように作られている話なので、たぶんもともと根底にはそういう設定があったように思われる。

今でも人間は宗教というわけのわからないものに脳を支配される存在であるが、一方で、理性と制度によってそうしたわけのわからないものができるだけすくなくなり、最終的になくしてしまうように努力している。そうしたものをもののけ姫はテーマにしているはずだが、となると、このもののけ姫というものは、あまり宮崎駿的ではなく(つまりストーリーがややこしすぎて宮崎駿的でない。だが映像演出は随所に宮崎駿的なものが満ちている。たとえばシシ神の森はトトロの森とナウシカの腐海を足したようなものだったり、タタラ場はラピュタの鉱山に似ていたり、乙事主らイノシシは明らかにオームの焼き直しだったり、とか)、誰か宮崎監督のほかに(民俗学的なものにこだわりがある)仕掛け人というか裏方がいたのではないかと疑われるのだ(高畑勲?うーん。そうかもしれないが)。

ははあ。なるほど。梅原猛が関わっているのか。神殺し、ギルガメッシュとフンババの戦いか。梅原猛はヤマトタケルも好きだったはずだ。だから、アシタカもサンも、ジコ坊も、全然宮崎駿ごのみのキャラじゃないんだな。エボシとかタタラ場の女たちはちょっとくらいは宮崎駿好みの要素が入ってそうな気はするが。エボシはナウシカのクシャナ姫だろう。

というわけでなんだかすっきりしないわけのわからない終わり方のようにみえて、いろいろと補助線を引いてみると、実はすべてが予定調和ですっきりしているのだけど、そこに気づく人はあまりいないだろう。だから面白いのである。少なくとも私にとっては。千と千尋は誰にでもわかる面白さだが、もののけはわかる人にしかわからない面白さだから、それに気づいた自分えらいとなる。

要するにもののけ姫は宮崎駿以外の梅原猛とか糸井重里とかいろんな人がいろんな形でかかわってきたからあんななんだかカオスなものになってしまった。ジブリとしては初めてCGも採り入れたりして、いろんな模索をしてたんだと思う。でもよく分析してみると一本筋のとおったコンセプトがあってそれでかろうじて破綻してない。もののけ姫で宮崎駿監督はほんとは何を言いたかったのか、また、鈴木敏夫プロデューサーは何をやりたかったのか、というよりも、ジブリは当時制御不能な状態にあってああいうものができてしまった、というのが実情だろうね。

そんで、なんだかんだあって、もののけ姫の反省から結局宮崎駿の個性で作品全体をまとめるしかないねみたいなコンセンサスというか諦めのようなものがジブリの中にできあがって、それで千と千尋ができたのだろう。ジブリはほんとうはもっと早く宮崎駿とか高畑勲の「個性」から脱して、もっとニュートラルな、属人的ではないアニメーションスタジオになろうとしていたのだけど、結局それは失敗したようだね。

もののけ姫で迷走し、千と千尋で当たってしまい、五郎にまかせてみてコケた。もうどうしようもないね。もののけ姫の段階でもっと試行錯誤しておくべきだったんだよなほんとは。そしたら何か新しい突破口が見つかったかもしれないのに。ジブリは個人経営のまま終わるしかないのか。

もののけ姫とまったく同じ理由でテキサスレンジャーの主人公の立場を理解でき、すんなり感情移入できる人はほとんどいるまい。ケビン・コスナー演じる主人公と同じ境遇の人なんてこの世に滅多にいるわけないのである。いるとしたら、そうだな、いろんないやな仕事をやらされてきたが定年まぢかでそろそろ楽になろうとしたときにいきなりやっかいな役職を任された人くらいで、私の今の立場に似ていなくもないが、そんな人は世の中にはほとんどいないはずだ。こういう映画をわざわざ作るというのはどういうつもりなのだろう。

ケビン・コスナーはアンタッチャブルでも嫌われ者の警官役だった。

テキサスレンジャーというのももともとは正義のヒーローであると同時に人権を無視してネイティブアメリカンやメキシコ人を虐殺した鼻もちならないアングロサクソン人だった。

アンタッチャブルを元ネタに俺たちに明日はないの主役をひっくりかえしてこのテキサスレンジャーという映画が作られたわけだが、やはり、なぜ誰がこの映画を作ろうと思ったのか、だれがこれを喜んで見るのかがよくわからない。そういうひねくれた映画だから私にとっては非常に面白いのだろうなと思う。

ホームランドも設定がややこしすぎるドラマの一つだろう。

ブラックリストは、設定はややこしいといえばややこしいが、ぱっと見はただのFBIのアクションものなので、そこがホームランドとは違う。ホームランドはたぶん、911で芽生えたアメリカ人の「良心」「内省」というものが作らせたある種の「懺悔」だろう。だがブラックリストは明らかに一般大衆受けを狙って作られた娯楽だ。

噛めばかむほど味が出るスルメみたいな映画というのがつまり私には面白いわけだが、しかしそういう映画は世の中から評価されにくい。されるのに時間がかかる。見たあとに勉強してもう一度みないとわからない。たぶん一般大衆からの評判なんかどうでもよくて、そういう映画を作っても良いよといってお金を出す人がいて、そういう人が作らないような映画をどうしても作りたいという人がいて、それでこういう映画ができるんだろうなあ。

この、でっぷりとおなかがでたケビン・コスナーを見ていると、どうしても、パルプ・フィクションに出てきたジョン・トラボルタを連想する。タランティーノは一世を風靡した一発屋の、腹の出たトラボルタをわざわざ映画に使いたかったわけだ。同じいじわるさをこのテキサス・レンジャーズには感じる。タランティーノは顔がパンパンに膨らんだレオナルド・ディカプリオも使ってるよな。そういうのが好きなんだな(しかしシャッターアイランドやインセプションのほうが早いか)。

ダークモード

昨日はちと遊びすぎたので今日はおとなしく寝ようと思ったがなかなかねれない。

夜中画面が明るくなりすぎないように私はブラウザをダークモードで(常に)使っているのだが、facebook にはこのダークモードが効かない。実に眩しい(追記: facebookはダークモードにできることが判明した)。chrome 作ってる google からして gmail がダークモードが効かない(追記: gmail もダークモードにできることが判明した)。さらにいえば wordpress のテーマもダークモードに対応していない(ものが圧倒的に多い?)。twitter はしかしダークモードに対応している。素晴らしい。

ここのブログの過去記事を少しずつ読んでいて、面白いものもあるが、つまらないものもある。特に政治とマスコミの話がつまらない。そういうのを見つけては非公開にしている。20年以上前に書いたものを読んでいると、今の自分とは全然違っていて面白い。

常にイライラしているのはやはり仕事のせいだ。今の仕事を始めたのは36才からだから、もう23年もやっているわけだ。途中勤務地が変わったりもしたが、同じことをずっとやり続けることが私には苦痛だ。だがいまさら転職するわけにもいかない。あと6年半、この仕事をやらなくてはならない。まあしかし私も59才だ。6年半という時間は無限に長いものではなく、実はとても短くて、あっという間にすぎるということも十分知っている。

どこか引っ越しするというのもありかも知れない。金がかかるがしかたない。たぶん楽しいだろうと思う。でもそれも数年前に2年半ほど試したばかりだ。1度やって効果のほどはしれたことを2度やる意味も少ない。

とにかくもう身動きのとれない状態にある。

ubuntu の X11 は突然おかしくなってしまうことがある。一度logoutすると治る。

mozc の句読点変換は邪魔だ。私にとって、句読点をうった時点で変換されるのは早すぎる。句読点まで書いて、しばらく考えてから変換したい。

能の式楽化

能楽の本を読んでいると、能楽は徳川幕府によって式楽となった、という記述がよくみられる。

式楽というものはもともとは大和朝廷が飛鳥奈良時代に制定した雅楽のことであった。しかし雅楽は朝廷や公家が権威を独占していて、なかなか武家の自由にならない。しかしながら能楽は足利義満以降に室町幕府がパトロンとなって興した芸能であったから、公家にはなんの遠慮も気兼ねもなく、武家が好きにいじりたおすことができた。これはちょうど、和歌というものが公家にその権威を握られていたので、武家は和歌を敬遠し、もっぱら漢詩が流行したのに似ている。

徳川幕府は能楽を、将軍宣下や勅使応接などの公の式典の場において上演される芸能として洗練させなくてはならなかった。それらは上方の寺社などに伝承された舞楽に負けぬほどのおごそかでお上品で、気高く尊いものでなくてはならなかった。見て面白いかどうかなんてことはもうそっちのけにされてしまった。

武家屋敷の屏風絵が狩野派の画家によって描かれるようになったのと同様だ。狩野派というのは要するに足利将軍家の御用絵師になったからあれほど武家で珍重されたのだ。茶道もまた武家由来の儀礼として重宝された。いずれも公家に対抗して武家が権威付けするためにもてはやされたのであり、芸能そのものが優れていたからではない。そんなことはありえない。もし良い芸能を育てたければ民間活力に委ね、政府が助成したりしないほうが良いに決まってる。政府が金を出して良いのは一部のほんとに絶滅危惧種的な伝統芸能くらいであろう。

現代の日本文化は室町、安土桃山時代に作られたとよく言われるが、要するに、それまでの宮中・公家文化を煙たがった徳川幕府が、室町幕府や、秀吉や家康らが愛好した芸能を式楽化して、武家の文化芸能として世の中に定着させた、というに過ぎない。そういう由来であるから、その源流、その権威の厳選が、世阿弥とか千利休のような、室町、安土桃山時代の宗匠に求められるようになった。また評価や選別も幕府がやったのだから、モノの良し悪しがほんとにわかるはずもなかった。

実を言えば和歌もまた、尊氏は和歌が大好きだったが、しかし家康は和歌が大嫌いだったらしく、足利将軍家が興した芸能の中で和歌だけは式楽化の対象から完全に外してしまった。家康が嫌ったというより家光や家綱が和歌になんの興味もなかったせいかもしれない。

江戸時代というものは、室町・安土桃山の人間味や活気を遺した元禄文化が最高潮であって、井原西鶴、近松門左衛門、松尾芭蕉、そして尾形光琳らによって代表される。元禄以後、徳川幕府による封建主義や思想・芸術弾圧が強まり、芸能も堅苦しくなっていってダメになってしまった。将軍が食べる料理はすべて脂身が抜け落ちるまで焼いて煮てあってうまくもなんともなかった、能楽もまた、目黒のさんまにあるように、徹底的に脂っ気も内臓も皮も削ぎ落とされて、米も精製した白米しか食べないようになって、そのせいで逆に将軍は脚気やなんかの病気にかかって短命で死んだ。いわゆる江戸病だ。

江戸時代における文化の衰退は幕末まで続いて、維新後、明治時代になってようやく新しい文化芸能が現れた、などと雑に評する現代の評論家たちが言っているのはつまり徳川幕府による武家に由来する文化芸能の式楽化のことだけを見てそう言っているのである。

実際、今の能楽が気絶するほどに退屈なのは徳川幕府による能の統制・形式化のせいにほかならない。義満や、秀吉や、家康らが見ていた能楽があんなつまらなかったはずはないと思うのである。家光・家綱の時代に幕府による能の統制が始まった。つまり能というものが、徳川幕府の専売特許にされてしまった。能もまた、公家文化のような家元制にされてしまった。画家の狩野家や大学頭の林家と同じ扱いを受けたのだ。こうなっては文化芸能は死ぬしかあるまい。

江戸時代には幕府の介入によって安泰化し、栄えているように見えて、実際には衰え死んでいった文化学問芸能がある一方で、庶民の活力によって次第に発展していった分野もあった。歌舞伎、浄瑠璃などもまた元禄に生まれたが、こちらは幕府の統制を受けることなくむしろ弾圧される側となったくらいで、町人文化という新たな、公家や武家と別の第三のカテゴリーを作って発展していった。幕府や武家によらない、町人の社会の中でだんだんと醸成されていった文化は、天保期にはすでに爛熟し、その勢いは幕末、いや、維新後にもずっと継続した。浮世絵から生まれた錦絵などは西洋の印刷術が伝来してなお進化し続けた。今日のマンガやアニメは錦絵の正統な後継者と言って良い。

そして国学もまた、徳川幕府による保護や統制を受けなかったことがむしろおおいに幸いして、驚くべき発展を遂げた。国学がもし官学化されて朱子学と混淆して武家の窮屈な教義になっていたらたいへんなことになっていた。そうなる可能性は、ちょっと頭のおかしな為政者がいたとしたら、実際十分にあったのである。荷田春満は明らかに国学を幕府の官学にしたがっていた。国学をもっと堅苦しい道徳に縛られた学問にしようとしていた形跡がある。賀茂真淵もますらをぶりなどと言ってちょっと怪しかった。田安宗武には実際かなり危険な傾向があったし、宣長の死後にはおかしな神道家や、神道系新興宗教や、明治の国粋主義者たちがワラワラ出てきた。国学はあっという間に偏向した危険思想になりかねないのである(宗教というものはすべてそうだが)。宣長はよく踏みとどまって後世に範を垂れてくれたと思う(宣長にもやり過ぎがあったことは否めないが)。それ以前にも、仏教と儒教と神道を際限なく混同した本地垂迹説や、山崎闇斎の頭のおかしな垂加神道なんかがいくらでもあった。東照宮なんて明らかに頭がおかしいし、あんなものを正統な神道と混同されては迷惑だ。

もちろん徳川宗家は賀茂真淵を重く用いたし、尾張や紀州の徳川家は本居宣長を崇拝すらしていたのだが、武家はやはり、公家のしばりを受けない漢学をどうしても根本教義としないわけにはいかず、下手に国学や和学なんぞに色気を出すわけにはいかず、したがって官学は朱子学のままであったし、朱子学と和学は水と油だから、結局、国学が幕藩体制の皮下組織まで浸透していくことはなかった。江戸時代に哲人政治家と言えたのは新井白石と松平定信の二人しかいなかったが(もう一人、荻生徂徠を加えても良いけれども)、その定信にできたことは、宣長の思想を密かに幕政に採用して、大政委任論を天下に公布したことくらいであった。薩長が国学を武器にして尊皇攘夷、倒幕の原動力としたのは必然と言えた。薩長は定信の大政委任論を大政奉還論に読み替えたのだったが、これとても徳川慶喜は反対したわけではなく、むしろ積極的に公武合体論の一部に組み込んで推進しようとしたのである。

和歌は国学によって再構築された。もし和歌が単に公家の専有物であったら、和歌は江戸時代に死滅していたに違いない。和歌とは別に町人は狂歌を愛好した。国学と狂歌の流行が合わさって、和歌は息を吹き返し、純化した。その最高峰はやはり香川景樹であったと言わねばならない。景樹によって何をもって「和歌の理想」とすべきかということが、やっとほのかに見えかかってきた。和歌には時代を超越した大和言葉という言語の普遍性(古典語、文語としての厳格さ、完成度)と、大和言葉によって表現されるポエジー(本来、話し言葉がもつところの叙情性、人間性、あるいは芸術性とでもいおうか)が必要なのである。

ところが、景樹の後継者、桂園派には二度と影響力のある歌人は現れなかったし、歌論の体系化も進まなかった。桂園派の歌人として最後の光輝を放ったのはやはり明治天皇と樋口一葉、わずかにこの二人しかいなかった。和歌とは何かということは結局うやむやになってしまった。

私が言いたかったのはつまり、(岡本太郎や渡辺昇一のように)江戸文化は元禄が最高でそれ以後二百年続いた封建制によって真綿に首を締められるように徐々に窒息したという見方は間違いだし、逆に江戸文化は素朴な元禄時代からだんだんに発展して天保で絶頂に達したというのも一面的な見方であるし、禁中並公家諸法度に守られた公家文化はどうしようもなく衰亡していったし、実際には公家、武家、そして町人文化が三つ巴になって絡まり合い交差し逆転しながら、江戸時代260年間をかけて確実に進歩していったということだ。その下ごしらえがなければ明治の文学などというものはあり得なかった。

思うに能楽は、綱吉や家宣くらいまでは面白かったのではなかろうか。しかし家継で家光の直系が絶えて、紀州の吉宗が江戸に入府して、吉宗以降の徳川将軍家はおそらく、「武家の式楽」としての能に存在理由は見出していたかもしれないが、もはや娯楽としての興味を喪失していたのではないか。能楽は幕府に守られたまま、どちらにその芸術性を伸ばし膨らませていけば良いかわからず、ただ宗匠の教えを墨守するだけとなって、生木の潤いを失い、急速に枯れた老木と化していきそれが、今日の能楽があれほど退屈なものになった理由ではないかと思うのだ。

茶道もそうだろう。信長や秀吉のころの茶の湯はもっとおもしろおかしいものだったはずだ。それが式楽化して、小笠原流などというものがでてきて、上流階級の作法、結婚前のご令嬢のお稽古ごととなって、死ぬほど退屈でつまらなくなった。

狩野派の絵にしてもそうだ。岡本太郎は狩野派の絵が嫌いすぎて洋画をやり始めた。狩野派の絵はつまらない。尾形光琳や俵屋宗達なんかの江戸初期の画家の絵と比べたら。その点については岡本太郎に完全に同意する。

とはいえ、式楽化によって能が死ぬほど退屈になったのはほぼ間違いないと思うが、もとの、退屈になる前の能を推定し復元することは不可能ではないと思うし、また、退屈になったことにはなにかの必然性はあったのだろうし、退屈ならば退屈でその中に面白さを感じることも不可能ではないと思う。少なくとも勉強してみる価値はあると私は思っている。生木には生木の、枯れ木には枯れ木の面白さがあろうというものだ。寺院建築や仏像も昔の彩色を復元することはそんなに難しいことではあるまい。そうしたくない、ふるぼけた骨董趣味を愛好する人がたくさんいるだけのことだろう。

つまり、普通に一般人が見れば退屈だけども、その退屈になった歴史的経緯や必然性を知識として理解していれば、かつての本来の姿を想像して、楽しむ方法はあると思うのである。たとえば、たとえとして適当がどうかはともかく、ピカソの絵は全然おもしろくないしうまいと思えないが、ピカソがなぜあの絵を描かなくてはならなかったという理由を知れば、多少はおもしろく見ることができるかもしれない。小笠原流にしても、興味ない人にはなんの価値もない、酒なんて立ち呑みで十分、懐石料理じゃ窮屈で飯を食った気にもならんという人でも、そうした作法も理屈として理解はできるかもしれないとは思う。理解はしても良いが、抹茶の最後のひとすすりをずずっと音をたてて飲むなどいう作法につきあわされるのはまっぴらごめんだ。

なんで私がそんなことを偉そうに言えるかというとまったく同じことが和歌でも起きているからだ。というか有史以来、日本の文化芸能で起きてきたすべての現象は、なによりもまず先に和歌で起き、和歌で見られた現象が、後からでてきた文化芸能でもみな同じような形で繰り返されるのだ。歴史は繰り返すってやつだ。

最初は単純素朴な娯楽、遊びだった。だんだんみんなが技巧を凝らすようになる。上流階級の目に止まって詩歌管弦の風流なもてあそびものにされたりもするし、身分は低いが面白い和歌を詠む人も出てくる。そうした地下歌人を発掘して洗練させる職業歌人で出てきて、教育したり、教材として整理したり、布教したりするようになる。世襲制度をたちあげて家元になりそれを飯の種にする人がいる。さらにそれを式楽化して、面白さなんてそっちのけでやたらとおごそかでお上品で、気高く尊いものにしてしまう人もいる。それを破って新しい歌を詠む人もいる。それらがもう、古いものから新しいものまで、公家も武家も、天皇も庶民も、みんなごっちゃになっているのが和歌なのだ。私はそういうものを一つ一つ見分けてきた。ちゃんと調べれば能楽でも同じことはできるに違いないと思う。

だから、日本芸能はなんでも、とにかくまず、最も古い和歌を学ばないことには何もわからない。国学が和歌を重視するのもそのためだ。

追記: どうも google が長い文章のほうを好んで検索結果の上位にもってくるというのは本当らしい。この文章が読まれている理由もそれではないか。あるいは、単体としてはそんなに長い文章ではないが、過去記事などにリンクがあってそっちもそこそこ長い文章などが好まれるのではないか。

はたからみてわかりにくい孤独

創作活動の孤独というものを書いてその続きのようなものだが。

「山月記」を読めなかった男が1年半ぶりにもう一度読む日。非常に良い記事だと思うのだが、隴西の李徴という人は、誰がみてもそれとわかるような、本当に孤独な詩人であったが、こういう天涯孤独な詩人というものは案外少ないのではないかと私は思っている。

実際には、中島敦自身もそうであったかもしれないが、仕事もあり、妻子もいて、友人もいて、一見全然孤独にはみえなくても、自分の作品が理解されなくて、深い孤独を感じている人は多いと思うのである。

つまり何が言いたいかといえば、隴西の李徴という人ははたからみてわかりやすい孤独な人であるが、はたからみてわかりにくい孤独な人もたくさんいると思うのだ。

もちろん世の中には、友人が少なく、結婚もせず、結婚式にも呼ばれない、そういう、人間関係における孤独な人も少なくはないのだろうけど(そうした人たちは家族ができ友人ができれば孤独ではなくなるのだろうか?)、作家が感じる孤独というものは、また別のものではないかと思うのだ。

本居宣長も、『本居宣長』を執筆していた晩年の小林秀雄も、そうした意味の、はたからみてわかりにくい孤独な人だったと思うのだ。宣長にしても小林秀雄にしても、功成り名を遂げた人で、弟子も多く、家族もいた人だから、普通は孤独なはずなどないと人は思うかもしれないし、一方では、いや、彼らの孤独はよく理解できるという人も少なからずいるのではないかと思う。

ともかく、隴西の李徴という人は、私生活においても、仕事においても、そして作家活動においても、何から何まで、極めてわかりやすい孤独な人だったわけであり、そこが逆に、孤独とはなんだろうということをわかりにくくしている気がする。

己は努めて人との交わりを避けた。

李徴は言っているけれども、少なくとも私は、人との交わりを避けようと思ったことはない。多少臆病になって人に見てもらうことを躊躇することはあっても、どちらかといえば、新人賞に応募したりなどして、人に積極的に評価してもらおうとするほうだった。だがあまりにも、自分と同じことを志す人が少なくて、交流することが不可能だった、例えば歌を詠みかわすことすらできなかった、というのが実際だった。そのあたりがやはり李徴に感情移入できないところだ。中島敦自身はどうだったのだろう。李徴に近い性格の人だったとは思えない。誰か李徴に近い性格の人を知っていた、あるいは、自分のなかに若干そうした傾向があることに気付いていた、その部分を切り出し脚色した、くらいだろうか。

私が今度出す本もはたからみてわかりにくい孤独な詩人の話である。思えば私が孤独ということについてここまで熱く語ったのは初めてのことではないか。というのは私自身、孤独ということをあまり気にしない性格であったから。少なくとも孤独そのものを恐れたり避けたりする人間ではなかった。むしろ孤独を楽しむほうだったと思う。年をとってそろそろこの世を去るというときになっていまだにいつまでたっても自分の仕事が理解されることがなくて、それで孤独というか焦りというか迷いを感じ始めたのだろう。だがそれも単に老人の孤独というものとは内容が異なるように思う。

そういえばこの空谷に吼えるというのも私が書いたものであったはずである。「黄色い犬」というのは当時 yellow dog linux という、PowerMac とか初代 PS3 で動いてた Linux のこと。2006年ということは41才くらいかー。

土蜘蛛

土蜘蛛という能は安土桃山時代に初めて演目に現れたというから能楽の中でそんなに古いものではない。神楽や歌舞伎にもあるから、どうやら、安土桃山から江戸初期にかけて、民衆芸能として、つまり僧侶や公家とは関係のないところから、急に流行り出したもののように見える。

また、手から蜘蛛の糸を投げるという演出はもっと遅くて明治時代になって加わったものであるという。私たちが能楽としてありがたがっている土蜘蛛は、実は案外歴史の浅いものなのだ。そして多くの能楽とは違い、その見た目の派手さで人気があるのだろう。

しかしながら、土蜘蛛とは本来、大和朝廷にまつろわぬ、稲作も行わない山岳民族で、縄文人の子孫、サンカのようなものであるとも考えられていて、もしかするとそうした山伏の山岳信仰やサンカにおいて、伝承されてきたものであったかもしれない。

さらに想像を働かせるならば、もともとは、土蜘蛛が大和朝廷から派遣されてきた武士を返り討ちにする舞曲であったかもしれない。

しかしながら一方で、この土蜘蛛という話は、日本古来の説話というよりも、ギルガメッシュ叙事詩における都市神ギルガメッシュと山岳神フンババの戦いと、ほぼ同じ性格のものであるようにも見える。もっと言えば、土蜘蛛は遠く西アジアから日本に伝わったギルガメッシュ伝説なのかもしれない。桃太郎ももとはと言えば西アジアに由来する英雄流浪譚であるように。桃太郎もまた室町末期に成立したと言われているから、もしかすると日本に渡来したキリシタンから伝わった話なのかもしれない。

鬼坊主の女

私は「鬼平犯科帳」は池波正太郎の原作を、流し読みではあるが一応全巻読んでいて、さいとうたかをのマンガも機会があれば読むようにしているのだが、そのマンガに「鬼坊主の女」というものがあった。原作には見覚えのない話なので(和歌が題材になる話を私が見落とすわけがない)、さいとうたかをのオリジナルかと思ったのだが、調べてみると、もとは「鬼平犯科帳」とは直接関係ない「にっぽん怪盗伝」という、池波正太郎の短編集があり、その中に収録されていたものらしい。「にっぽん怪盗伝」は audible にあったので聞いてみた。

ウィキペディアの鬼坊主清吉によれば、鬼坊主と呼ばれた盗賊は実在していて、獄門にかけられたときに辞世の歌

武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに かくてしをるる

を詠んだという。これは和歌としてみて、まずまずの出来だと思う。意味も明確だ。1805年6月27日のことだというから、長谷川平蔵は既に死に、松平定信も老中を退いている。旧暦文化2年6月27日をグレゴリオ暦に変換すると1805年7月23日となるから、夏の暑い盛りだったことになる。オニアザミが咲くのは6月から9月。

この話は落語『鬼あざみ』になっていて、その中では

武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる

となっている。池波正太郎はこの落語を元ネタにして、「鬼坊主の女」を書いたらしい。

盗賊の頭、鬼坊主は捕らえられたが、子分に命じて、先に盗んで隠しておいた金を使って、辞世の歌を代作してもらって、それを獄門のときに詠じて、役人を驚かせたということにしたのである。この「鬼坊主の女」では辞世の歌は

武蔵野に 名ははびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに 少し萎れる

となっている。これを鬼平犯科帳ものに最初に仕立て直したのはテレビドラマで、1970年5月19日放送の「鬼坊主の花」であったという。さらに1993年に再度「鬼坊主の女」としてドラマ化され、2003年にはさいとうたかをによってマンガ化されたらしい。

このマンガでは鬼坊主と一緒に磔にされた手下二人も代作の歌を詠み、しかもこの歌を代作したのが長谷川平蔵やら木村忠吾であったことになっている。

武蔵野に 名を轟かせし 鬼太鼓 罰は受けれど 音のさやけき
商売の 悪も左官の 粂なれば 小手は離れぬ 今日の旅立ち
浄瑠璃の 鏡に映る 入れ墨に 吉の噂も 天下いちめん

こうなってくるともう和歌ではない。狂歌としても、あまり良い出来とはいえない。池波正太郎の原作まではなんとか和歌らしい様式と体裁を保っていたが、おそらく和歌というものの良し悪しのわからぬ人の手によって、テレビドラマ化、マンガ化する段階で誰かが適当におもしろおかしく改作したのだろう。

こうして並べてみると、やはり鬼あざみ清吉本人が詠んだ歌が一番優れているように見えるのだが、あまりに出来過ぎているので、人から人に言い伝えられるうちに上品に洗練されていったのではないかと思われる。あるいは、歌の内容からして、本人が詠んだというよりは、獄門にされた清吉を見た誰かが詠んだ歌にも見える。やはり無学文盲な盗賊がいきなりこのレベルの和歌を詠むということはちょっと考えにくい。ちょうど大田南畝が蜀山人の号を使い始めた頃に当たるから、彼が詠んだとしてもおかしくはない。大田南畝はれっきとした幕臣なので、彼が盗賊に同情的ともとれる歌を詠んではまずいので、盗賊本人が辞世で詠んだ、ということにした、としたらなかなかおもしろいかもしれん。

また、しょせんテレビドラマやマンガを見る人、或いは作る人々には、和歌のよしあしなどわからないのだなという気にもなる。盗賊が辞世にまずい狂歌を詠んだという演出にはおあつらえかもしれんが。

手の震え

たぶん加齢のせいだと思うが最近手が震える。

緊張したときには特に震えるのだが、緊張しなくても震えることがある。左手はほとんどまったく震えないが右手が震える。右手も、腕の角度によっては、腕をねじったりすると震えないことがわかった。右手を、ゆったりと自由な状態で、前に差し出した状態にしたときに一番震えやすい。

はんだ付けしていたのだが、右手にはんだごてを持ち、左手に銅線を持っていたりすると右手が震えるから左右持ち替えてもこんどは銅線が震えるから同じこと。両腕を使ってこまかい作業をするときに困る。

右手で箸を持ってものを食べるくらいの雑な動きならほとんど影響はない。

針の穴に糸を通すなどの作業は肘をついたりして腕を固定するから特に問題にはならない。

酒に酔っているときは逆に震えないことが多い。たぶん筋肉(神経)が弛緩しているのだろう。

いろいろ調べるとパーキンソン病とかアルコール依存とかいろいろ怖い病名が出てくるのだが、おそらくは加齢による原因不明の姿勢による震え(姿勢時の振戦)だと思う。若い頃ははんだ付けするときにこんなに苦労することはなかった。

大勢の前でパソコンでプレゼンするときマウスを持つ手が震えることはわりと昔からあった。これは完全に緊張によるもので、大して緊張していないつもりでも、意識すればするほど震える。これについては、慣れでほぼ震えなくなった。

短歌はけっこう流行ってる

短歌は今わりと流行っているらしい。note にも短歌というジャンルがあって、多くの人が歌を詠んでいる。

文芸春秋は俵万智の新作をしばしば載せているし、彼女は4月からNHK短歌の選者になったらしい。俵万智は40年前からずっと歌壇に影響を与え続けてきた人だ。日曜美術館にも時々出ていたようだ。世の中の短歌というものが現在ほとんどすべて、俵万智の亜流の感があるのは当然だと思う。

俵万智は実際非常に優れた歌人である。現代語を用いて詠んだからだけではない。彼女の歌は、赤裸々な不倫の歌であり、シングルマザーの歌である。尋常な歌ではない。人をぎょっとさせる歌である。自分のプライバシーをさらけ出して詠んでるから迫力が全然違う。また、五七五七七の操り方もうまい。彼女はまさしく歌人である、といえる。和泉式部に近い。たぶんこの二人はよく似たキャラクターであったはずだ。もちろん与謝野晶子とも似ている。

俵万智は、もちろんいろんな歌を詠む人ではあるが、本質的には不倫とシングルマザーの歌人であるといってよい。しかしながらそれだけで流行ったのではない。もうひとつ、一般人に、自分もまねできるのではないか、自分でもああいう歌が詠めるのではないか、と思わせた。多くの模倣者を生んだ。このふたつの相乗効果で流行った(ほかにも、佐々木信綱の孫、佐々木幸綱に早稲田で学んだ、ということも割と重要なことであったかもしれない)。

俵万智の歌の面白味というか凄みは、彼女の独特の体験からにじみ出てきたものであって、たぶん彼女はものすごく奇矯な性格の人であって、それゆえ必然的にああいう経験をしてしまうのであり、だからその歌も、ごく普通の一般的な日常を送っている人には決して詠めない類のものである。それをむりやり似せようとすれば、どぎつい、露骨なエロスを詠んだだけの歌になってしまうのではないか。

今の短歌の中にも、現代語特有の語感を活かしたちょっと独特で面白い歌もあるにはあると思う。それ以外はほとんどが俵万智的な何かだ。新しい歌というものはそう簡単には詠めないもので、これまでも、天才が出てそれの模倣者がでて、という歴史を繰り返してきた。みなが勝手に口語で歌が詠めるのではない。

私は口語で歌を詠まないと決めたから、今の短歌と呼ばれるものがどうなろうとしったこっちゃない(たまに詠むとしてもそれは狂歌のたぐいだ)。そういうものをうっかりみてしまうと、何か乗り物酔いか3D酔いしたような気持ち悪さを感じてしまうから、見ないようにしている。ただ、ときどきこわいものみたさでみてしまったりする。なぜいまそこそこ短歌が流行っているのか私にはよくわからない。今の短歌の価値も私にはよくわからない。今の歌人がどういう気持ちで歌を詠み、人の歌を評価し、また自分の歌の良し悪しを決めているのか。まったく想像もつかない。

自分のことを僕と言ったり私といったり俺といったり自分といってみたり。一人称をころころ変えるのは節操がない。歌とて同じことだ。こういう詠み方をすると決めたらずっとそういう詠み方をし続けなくてはならない。ブレがあってはならない。私はそう思っているけれども、人によっては、どんどん詠み方を、自己表現をとっかえひっかえしている人もいるのかもしれない。SNSではいくつも匿名でアカウントをもち、それぞれことなるキャラクターを演じている人もいるのかもしれない。

俵万智のような恋歌は、与謝野晶子の歌もそうかもしれないが、和歌というよりは、江戸時代の都都逸や常磐津のようなあたりからきたものではないかと、私には思える。都都逸には非常に優れた恋歌がたくさんあって俵万智や与謝野晶子もかすむくらいであろうと思う。ほかにも浄瑠璃とかなんとかかんとかとかいろいろたくさんあって、ちゃんと調べると膨大なものがあってそれらを超えることは容易でないと思うのだ。逆にいえばそうした厚みと下地があるからこそ、あのような恋歌は詠めるのだと思う。恋歌とていきなり詠めるわけではない。

そして、恋歌を詠みたいのであれば都都逸とか今様で詠むほうがずっとすっきり詠めるだろうにと思う。五七五七七という形式は非常に詠みにくい詩形で、それをわかったうえで詠んでいるひとは少ないように思う。あとやはり現代短歌はどこか気持ちが悪くて好きになれない。都々逸だと新作でも江戸の粋というものが感じられて気持ち良いものが多い。個人の感想だが。

喫煙という悪臭(悪習)

なんのへんてつもない田舎のラーメン屋があった。大してうまくはないことはgoogle mapsのレビューなど見ればほぼ確定的なのだが、特別まずいわけではないらしく、この町に来た記念に一度くらいは食べておこうかという気持ちで、炎天下にわざわざ出かけてみた。

そうすると先に来ていた客がなんのことわりもなく灰皿を取って煙草を吸い始めた。

私はエアコンの風上にいたが部屋は閉め切っているからそのうち煙は店内全体に充満した。私のこの店に対する好感度は65点くらいから0点まで落ちた。

こんなことなら来なければよかったと思った。というより、このあたりの飲食店やら居酒屋を一通りめぐってみようかとも思っていたのだが、その気持ちは一気にうせた。帰り道、それらの店の前を通ってみたがどこにも禁煙のシールは貼られていない。店頭に消毒液をいまだにおいているのに禁煙ではない店もあった。シャレオツな見た目のイタ飯屋にも、どこにも禁煙のマークはなかった。ああ、この大いなる田舎よ。

もうこの町では飲食店に入るのはやめようと思った。というよりこの沿線のどの駅に降りてもこうなのだから、もう一切ここらで飲食店に入るのはやめようと思った。店に入ったらまず店内を見回して灰皿を置いていたらそのまま出るくらいじゃなきゃダメ、というより、店先に禁煙のシールが貼ってない店にはもう入るのはよそうと思った。ここでは喫煙できるのがデフォルトなのだ。健康増進法などという法律はいまだここには存在していないのだった。

世の中には心優しい人がいてタバコの煙なんかきにしない、そんなことで店を選んだりしないという人がいるが、私にとっては、どんな料理を出すかとか、どんな日本酒をおいてるかとかそんなことより禁煙かどうかのほうがずっと重要だ。そして、喫煙可でも、喫煙不可でもどちらでも良いという心優しい人が多ければ多いほど、喫煙という悪習はこの世からになくならない。喫煙者は淘汰されないのだ。

田舎者ってなぜあんなにコロナを恐れるくせにタバコには無頓着で寛容なのだろう。田舎の人間には何を言っても無駄だということもまた真理なので、私はただここのブログに愚痴を書くだけにする。