創作活動の孤独

ふつう、人は、今の自分のために創作をして、今の人に自分の作品を見てもらって、同じ趣味の者どうし集まって、交流して、楽しみを分かち合う。それが普通の人たちにとっての創作活動というものであって、中学高校、あるいは大学のサークル活動と大きな違いはない。

だが、私は違う。もちろん私は自分のため、人のために創作しているけれども、それは今の私でもなく今の人々のためでもない。今の世の中の人々が私の作品の価値を理解できるとは思っていないし、まして、共感することで作品の価値が変わるとも思っていない。他人を超えるため、他人にできない、私にしかできない仕事を後世に残すためにわざわざ時間をかけて創作しているのだから、サークルの仲間たちと同じレベルの活動をしても無意味だと思っている。だからコミケに出品したりなどという、いわゆる同人活動というものを私はまったくやっていない。そういうものも創作活動のうちだろうし、そこから新しいものが生まれてくることもあるだろうし、そうしたものに意味がないとは思わないが、他人はともかく私はそうしたやり方を取るつもりはない。若いころならば、友人を作ったり、そうしたことをきっかけに、新しい方向性が開けたりしたかもしれないが、年をとったいま、もうそういうことはしない。

つまり私にとって創作活動とは自分が死んだ後のためにやっている。終活というやつだ。死んだ後にこの世に私が生きていた痕跡を残すためにやっている。

そこのところが人と私と大きく違っていることを最近ひしひし実感する。

もちろん私を理解してくれる人が現世で現れてくれたほうが現れないよりはずっと良いのだが、そうした人を探したり、人に私を理解してもらうために労力を費やすこと、あるいは、私の作品に価値があるかわからない人のために金を使って宣伝をすること、そんなことをやりたいとは思わないのだ。

私がやっているような、そうした孤独な創作活動を行ってきた人は今までにもいたはずだ。しかし彼らは圧倒的多数の人たちには理解されないから、存在を認識されていないだけだと思う。

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