草枕2

先日、漱石は

自分の詩を自分の小説の中に入れて抱き合わせにして人に見せたりすることもできたろう

などと書いたのだが、気になって『草枕』を読んでみると、実は漱石は自分の漢詩を『草枕』に埋め込んでいたのだった。

出門多所思 門を出でて思ふ所多し
春風吹吾衣 春風、吾が衣を吹く
芳草生車轍 芳草、車轍に生え
廃道入霞微 廃道、霞に入りて微かなり
停筇而矚目 筇(杖)を停めて目を矚(そそ)げば
万象帯晴暉 万象、晴暉(明るい青空)を帯ぶ
聴黄鳥宛転 黄鳥の宛転たる(ウグイスのなめらかな声)を聴き
観落英紛霏 落英の紛霏たる(花が散り乱れる)を観る
行尽平蕪遠 行き尽くして平蕪遠く
題詩古寺扉 古寺の扉に詩に題す
孤愁高雲際 孤愁、雲際に高く
大空断鴻帰 大空、断鴻帰る
寸心何窈窕 寸心、何ぞ窈窕たる (自然の景観に対して自分を卑下する意味か)
縹緲忘是非 縹緲(広く果てしない)にして是非を忘る
三十我欲老 三十にして我、老いむと欲す
韶光猶依依 韶光、猶ほ依依たり(うららかな春の日差しがなごりおしい)
逍遥随物化 逍遥して物化に随(したが)ひ
悠然対芬菲 悠然として芬菲(草花の香り)に対す

春興。

ああ出来た、出来た。これで出来た。寝ながら木瓜を観
み
て、世の中を忘れている感じがよく出た。木瓜が出なくっても、海が出なくっても、感じさえ出ればそれで結構である。と唸
うな
りながら、喜んでいると、エヘンと云う人間の咳払
せきばらい
が聞えた。こいつは驚いた。

この無邪気な自画自賛ならぬ自詩自賛は微笑ましくすらある。

漱石は売れっ子作家になって、そろそろ自分の「地」を出してもよかろうかと思い、詩を披露した。しかるにおそらく、その評判は決して良くはなかっただろう。世間が漱石に求める「文学的役割」から離れすぎていて、反発をくらったと思う。なんだその、盆栽をいじり詩吟をうなる年寄りのような趣味はと言われたに違いない。詩のできもあまり良いとはいえない。

「聴 + 黄鳥 + 宛転」「観 + 落英 + 紛霏」などは変則的だし、「停筇 + 而 + 矚目」のように「而」を長さ合わせに使うのはあまりかっこよくない。押韻はしているが平仄はけっこういい加減。たとえば「三十我欲老」は平仄仄仄仄だし、「韶光猶依依」は平平平平平。実際若い頃(三十才くらい?)の作なのかもしれない。こうなってくると本職の漢詩人からはヤイヤイ言われて漱石はけっこうへこんだかもしれない(※追記。岩波文庫「漱石詩注」p.66に五言古詩として載る。つまり平仄は守らなくてよく、2 + 3 のリズムも守らなくてよい、ということか。18行というのも変則的。一韻到底は守っている)。

私も『安藤レイ』や『紫峰軒』に自分が作った漢詩をしれっと入れたりしたので、漱石の気持ちはよくわかる、つもりなのである。まあ私は売れっ子作家ですらないが。

古寺の扉に詩を書き付けるというのは、そんなヤンキーみたいなことして良いのかなと思ってしまうが、題壁(壁に題す)というのはよくやられることのようだ。もしかすると「題詩古寺壁」としたかったのかもしれないが、それでは韻が踏めぬから「題詩古寺扉」としたのかもしれない。

老人が紫檀したんの書架から、恭うやうやしく取り下おろした紋緞子もんどんすの古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目に懸かけた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
「硯すずりよ」
「へえ、どんな硯かい」
「山陽の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「春水の替え蓋ぶたがついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色あずきいろの四角な石が、ちらりと角かどを見せる。
「いい色合いろあいじゃのう。端渓たんけいかい」
「端渓で鸜鵒(くよく)眼が九ここのつある」
「九つ?」と和尚大おおいに感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子りんずで張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句しちごんぜっくが書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書しょは杏坪の方が上手じょうずじゃて」
「やはり杏坪の方がいいかな」
「山陽が一番まずいようだ。どうも才子肌で俗気があって、いっこう面白うない」
「ハハハハ。和尚おしょうさんは、山陽が嫌きらいだから、今日は山陽の幅ふくを懸け替かえて置いた」
「ほんに」と和尚さんは後うしろを振り向く。床とこは平床ひらどこを鏡のようにふき込んで、錆気を吹いた古銅瓶こどうへいには、木蘭もくらんを二尺の高さに、活いけてある。軸じくは底光りのある古錦襴こきんらんに、装幀そうていの工夫くふうを籠こめた物徂徠の大幅たいふくである。絹地ではないが、多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく、紙の色が周囲のきれ地とよく調和して見える。あの錦襴も織りたては、あれほどのゆかしさも無かったろうに、彩色さいしきが褪あせて、金糸きんしが沈んで、華麗なところが滅り込んで、渋いところがせり出して、あんないい調子になったのだと思う。焦茶こげちゃの砂壁すなかべに、白い象牙ぞうげの軸じくが際立きわだって、両方に突張っている、手前に例の木蘭がふわりと浮き出されているほかは、床とこ全体の趣おもむきは落ちつき過ぎてむしろ陰気である。
「徂徠かな」と和尚おしょうが、首を向けたまま云う。
「徂徠もあまり、御好きでないかも知れんが、山陽よりは善かろうと思うて」
「それは徂徠の方が遥はるかにいい。享保頃の学者の字はまずくても、どこぞに品がある」
「広沢をして日本の能書のうしょならしめば、われはすなわち漢人の拙せつなるものと云うたのは、徂徠だったかな、和尚さん」
「わしは知らん。そう威張いばるほどの字でもないて、ワハハハハ」
「時に和尚さんは、誰を習われたのかな」
「わしか。禅坊主ぜんぼうずは本も読まず、手習てならいもせんから、のう」
「しかし、誰ぞ習われたろう」
「若い時に高泉こうせんの字を、少し稽古けいこした事がある。それぎりじゃ。それでも人に頼まれればいつでも、書きます。ワハハハハ。時にその端渓たんけいを一つ御見せ」と和尚が催促する。
 とうとう緞子どんすの袋を取り除のける。一座の視線はことごとく硯すずりの上に落ちる。厚さはほとんど二寸に近いから、通例のものの倍はあろう。四寸に六寸の幅も長さもまず並なみと云ってよろしい。蓋ふたには、鱗うろこのかたに研みがきをかけた松の皮をそのまま用いて、上には朱漆しゅうるしで、わからぬ書体が二字ばかり書いてある。
「この蓋が」と老人が云う。「この蓋が、ただの蓋ではないので、御覧の通り、松の皮には相違ないが……」
 老人の眼は余の方を見ている。しかし松の皮の蓋にいかなる因縁いんねんがあろうと、画工として余はあまり感服は出来んから、
「松の蓋は少し俗ですな」
と云った。老人はまあと云わぬばかりに手を挙あげて、
「ただ松の蓋と云うばかりでは、俗でもあるが、これはその何ですよ。山陽が広島におった時に庭に生えていた松の皮を剥はいで山陽が手ずから製したのですよ」
 なるほど山陽は俗な男だと思ったから、
「どうせ、自分で作るなら、もっと不器用に作れそうなものですな。わざとこの鱗うろこのかたなどをぴかぴか研とぎ出さなくっても、よさそうに思われますが」と遠慮のないところを云って退のけた。
「ワハハハハ。そうよ、この蓋ふたはあまり安っぽいようだな」と和尚おしょうはたちまち余に賛成した。
 若い男は気の毒そうに、老人の顔を見る。老人は少々不機嫌の体ていに蓋を払いのけた。下からいよいよ硯すずりが正体しょうたいをあらわす。

漱石があからさまに荻生徂徠を持ち上げて頼山陽をこきおろしている箇所。「一座」とあるが、僧と老人と若者と一人称の主人公の四人くらいが会話している。春水は山陽の父。杏坪は春水の弟で、山陽の甥。広沢とは江戸初期の書家、細井広沢のことであるらしい。とにかく漱石は山陽の俗で才気走ったところが気に入らない。上方の俗儒が嫌いで、下手でも「品がある」江戸の官儒が好きなのだ。「多少の時代がついているから、字の巧拙に論なく」とはつまり古いものだから文字の良し悪しなど論じるまでもないなどと言っているからには決して字がうまいと褒めているわけではないのである。もともとそれほど「ゆかしい」ものではなかったけれど経年変化のために派手さがなくなり渋さが増して良くなった、などとも言っている。とんだ骨董趣味だ。それはそのまま漱石本人の趣味でもある。彼は通俗小説は書きたくないのである。「草枕」のような漢学の蘊蓄を語りたいのだ。素人が自分で作るなら下手に巧まずに不器用に作れ、とまで言っている。

思うに漱石はかつて熊本を旅行したときの体験を小説に仕立てようとして、そこになにやら怪しげな女の話やら、西洋文学の話題などを入れて通俗小説を書いてもらいたい新聞の編集者のリクエストに応えつつ、自分の漢詩趣味をむりやりねじ込んでこの「草枕」を書いたのではなかったか(英詩や俳句などをちりばめたのは照れ隠しか目くらましだったのではないか。)。しかし世間は漱石にそんなものを期待してはいなかったのである。新聞の娯楽小説でなければバタ臭い西洋風な小説を書いてほしかった。

初期万葉集

白川静 孔子伝の続き。

白川静「初期万葉集」を読み始めた。これによればなぜ白川氏が万葉集の研究を始めたのか明らかだ。彼は漢学者、というより、漢字学者として、詩経を学び、詩経と万葉集を比較しようと考えたのだ。

詩経と万葉集を比較した学者ならば江戸時代にもいた。というより、平安時代にもいた。藤原公任は和漢朗詠集を作った。九条良経など漢詩も作り和歌も詠んだ。彼らは漢詩と和歌を際限なくごっちゃにしていた。

詩経に関しては荻生徂徠がかなりまとまったことを言っているはずだし、国学者も万葉集、詩経両方を研究した人がいたはずだ。私にはまずそこから研究すべきではないか、と思えたのだ。

しかし漢字学者である白川氏が江戸時代の国学者や歌学者を知っているはずもない。そうした先行研究を調べることはできなかっただろうと思う。もし万葉集の研究をするのであればまず仙覚、荷田春満、賀茂真淵の先行研究について触れなくてはならなかったのではなかろうか?

また私には、文字の無い時代から文字を得た時代の文芸について研究するのであれば、当然西アジアを含む全世界の古代文芸、ギルガメッシュ叙事詩や、ホメロスやその他の叙事詩との比較研究を行うべきであろうと思う。近代の研究者である白川氏にはその責務がある。しかしながら、世界の古代文芸との比較も行わず、江戸時代の先行研究のサーベイも行わず、白川氏独力で、いったいどれほどの研究ができるのだろうか、と私には思える。

一人の人間がそんな網羅的な研究ができるはずもない、もう少し限定的な何かを追求しようとしていたのかもしれないから、もう少し白川氏の書いたことを読んでみようとは思っている。

一人の一歌学者として思うに、日本人は古来、漢詩の理論で和歌を体系づけようとして、ことごとく失敗していた、その轍を踏むのではないかという危惧がある。

漢詩は漢詩なのである。和歌は和歌なのである。漢詩と和歌には似ている。確かに似ている部分もあろう。和歌が漢詩の影響を受けた部分は多い(逆は無いとしても)。しかしそもそもまったく違うものなのであって、これまで多くの人が陥った間違いに白川氏も陥るだけなのではないかという気がしてならない。そう、そもそも、日本歌学における漢学の影響を排除するところからしか、和歌というものは分析できないと私には思えるのだ。なぜなら、漢学の影響が日本文芸には強すぎるからだ。

漢語と大和言葉はそもそも言語として全然違う。相性は最悪だと思うが、長年の努力で混淆してきた。

私から見るとドイツ詩と漢詩は構造が良く似ている。しかし和歌はまったく違う。特に短歌形式や発句形式(俳句や川柳)は、短くて構造を持たないことが特徴である。一方(ゲーテなどの)ドイツ詩や漢詩は対句や押韻によってシンメトリカルに整った構造を持っている。今様や都々逸にはまだ構造や対称性、反復、リズムというものがあるけれども、短歌には無い。短歌でリズムを表現しようとするところに多くの人の勘違いがある。金属や宝石などの結晶は構造があるがガラスは結晶ではない。ガラスはほとんど変形しない液体なのだ。短歌もまた結晶構造を持たない、アモルファス、静止した液体なのである。という比喩でわかってもらえるだろうか?

和歌は世界中見ても類例の無い詩形だ(良く探せばアフリカとかネイティブアメリカンなどに似たものがあるのかもしれん)が、東アジアと西アジア、そしてヨーロッパの詩というものは相互に影響を与えながら成立したのではないか。詩とはなんであるかということの考察はそんなに簡単なことではない。

霞関集 大江戸和歌集

江戸時代に石野広道という人が編んだ「霞関集」という私撰集が新編国歌大観第六巻に載っていて、安政年間に蜂屋光世という人が編んだ、「霞関集」の続編的な「大江戸和歌集」という私撰集も載っている。江戸には京都から下ってきた堂上和歌の家元、つまり、冷泉、中院、武者小路、烏丸、日野などの公家が、徳川直参の幕臣に和歌を教えていた(実際に京都から公家が江戸に下ってきたのではなく、ほとんどの場合は書簡で教えを受けていただけかもしれない)。純粋に学術的に研究している人をのぞけば、この、江戸における堂上和歌に関心を持ちわざわざ調べてみようという物好きはほとんどいないようである。研究している人たちもそうした和歌に文芸的な面白みがあるとは思っていないだろう。

私はかつてもし幕末に孝明天皇が勅撰集を作ったらどんな歌集になるだろうかと考えて、「民葉和歌集」というものを試みに選ぼうとした。その頃、私には小沢蘆庵、香川景樹、上田秋成、賀茂真淵などの江戸時代の歌人はすでに見えていたのだが、近世歌人の全貌というものはまだ全然見えてはいなかった。徳川家継の生母月光院が冷泉為村に習って詠んだ歌などもわずかに知っていただけだった。

「大江戸和歌集」に採られた歌は当然「民葉和歌集」にも採られなくてはならない。今はほったらかしているが、もしこれから「民葉和歌集」を完成させるのであれば、当然それら堂上和歌も調べてみなくてはならない。また「霞関集」の編者石野広道やその同輩らの歌も、同じように調べてみなくてはならんと思った。これとは別に同時期に本居大平が編んだ「八十浦之玉」という私撰集があってこれも新編国歌大観第六巻に載っている。この「八十浦之玉」については調べなくともだいたいどんなものかは予想が付くのだが、やはりちゃんとこの機会にどんな歌が採られているか見てみる必要があると思った。

「霞関集」「大江戸和歌集」などの江戸堂上和歌は、賀茂真淵が始めた県居門の和歌、つまり万葉調の和歌とはひどく対立していたらしい。村田春海はもともと江戸堂上和歌派であり、「霞関集」の初版には歌を採られていたが、後に真淵の県居門下に入ったために、「霞関集」の新しい版からは歌を抹消されたという。「八十浦之玉」は宣長の息子が編んでいるから、真淵と同じ国学の一派ではあるが、真淵の万葉調とはまた全然違う。しかしながら村田春海と宣長は同じ真淵の弟子どうしで(表向きは)仲良しだったから、その人間関係はかなりこみ入っている。

ともかく「民葉和歌集」はそれら江戸時代の歌人らの歌を門派によらずみんな採録して、また、21代和歌集に続く、22番目の勅撰集という形でまとめたいので、それまでの勅撰集に漏れた古歌も合わせて採りたいと思っていて、ちゃんと作るのは相当な手間だ。ものすごい大仕事になる。江戸時代の和歌というものは全然知られてないだけでものすごく莫大なボリュームがあってそれを一通り調べるだけでも気の遠くなるような作業が必要で、ちゃんと研究している人はいるにはいるけどほとんど手が付けられていない状態だと思う。世の中の人たちはみんな小倉百人一首レベルの知識で止まっていて、或いは明治以降の新派和歌にしか興味がなくて、250年間続いた江戸時代の和歌を総括しようという人はいない(いや、いたのかもしれないが全然成果が出ていない)。江戸の幕臣たちが膨大な和歌を詠み遺していたなんて誰も知らない。

で、実際江戸時代の和歌には価値がない、調べる価値がそもそも無いのかというと、石野広道の歌をちらっと見た感じではけっこう面白い。たとえば、

かすかなる 田づらの庵の ともしびも 蛍やおのが 友とみるらむ

など。堂上和歌を模倣した以上の機知がある。師の冷泉為村なんかよりずっと面白いのではなかろうか(私は加藤千蔭や村田春海の歌はちっとも面白いとは思わないが石野広道の歌はかなり面白いと感じる)。現代の私たちが和歌を詠むのに役に立つヒントやアイディアがかなり含まれているように思われるのである。

江戸時代ってやっぱすげーなと思う。我らは江戸時代に対してテレビドラマの時代劇でみるうすっぺらいイメージしか持ってない。しかし水戸黄門にしろ、吉宗評判記にしろ、最初放送がスタートした頃はすごくきゅっと締まった硬派な番組だったんだが、しだいしだいにだらけてきて、ただの紋切り型のチャンバラになってしまった。そういうものばかりみているから江戸時代なんてちゃらいと思いがちである。

加藤千蔭とか村田春海とか、よくもまあこんなチャラい歌ばかり詠んだものだとあきれかえるのだが、今はほとんど忘れ去られた優れた歌人や歌が、或いは随筆や評論や研究が、長い長い江戸時代には実はみっちりとつまっていて、膨大な堆積物となって遺されている。それらは第二次世界大戦の敗戦という壁の向こうにあって、さらに明治維新というものが目隠しになっていて、今の私たちには容易に想像できないものになっていて、きちんと読む人もいない。

そういうものをどんどん掘り返す作業をしなきゃいけない。実にもったいない鉱脈である。そもそも雄略天皇以来1500年の和歌の歴史というものはものすごく分厚くて、そう簡単にわかるものじゃあない。図書館に行くと日本歌学大系という佐佐木信綱が主体となって編んだシリーズものがあるがこれとは別に歌学文庫 本居豊頴 監修 室松岩雄 編 法文館書店というものがあって、これは要するに宣長のひ孫が編集したものらしいのだが国会図書館デジタルコレクションで見れる。恐ろしい。また世の中には筑摩書房の宣長全集というものがあるが、これとは別に本居全集 吉川弘文館というものがあってこれがまたすごい。さらに荷田全集(荷田春満)というのがあるがこれまたすごい。国会図書館の送信サービスめちゃくちゃすごい。そういうのが明治以降戦前までに相当するまとめられていてこれらを読むだけでもあっという間に10年くらいはかかりそう。世の中のつまらん俗事に時間を取られている暇などないのである。