最近頻繁に電車通勤するようになり、文庫本を読んだりしているのだが、白川静など読んでいる。
この白川静という人は、なんだろう、どう言ってよいかわからないが、少なくとも宮崎市定のようにはおもしろおかしく本を書かない人だと思う。
まず白川静の『後期万葉集』というのを読んだ。『前期万葉集』というものもあるらしいが、『後期』しか持ってなかったので『後期』から読んだのだが、普通の人なら万葉集のこの歌が面白いみたいなキャッチーな書き方をするんだが、そういう要素をほぼ完全に落としてしまっている。いろんな歌を平板に並列に並べていて、わざとそういう書き方をしているんだと思うが、正直微妙。賀茂真淵が万葉集好きだったんだよという話も、かなり微妙。多分、漢学者、漢字の研究者として、万葉仮名で書かれた万葉集の解説をしたかったのだと思うのだけど、結局何が言いたいのかよくわからない。万葉仮名の使用例のサーベイに徹してくれればよかったのかもしれないが文芸批評もしようとして迷走しているようにも見える。
万葉集の文芸評論というものは、賀茂真淵以来まともなものはほとんど無いと思う。というのは、万葉集の頃までの和歌というものは、まだ「文芸化」されていない、生の歌謡、生のサンプリング、生の言霊なのであって、少なくとも万葉集の編集方針というものは秀歌を選りすぐろうというものであったわけでは必ずしもないのだから、文芸評論に適さないのは当然だろう。古語の解読とか、古代人のメンタリティの分析などはできても、文芸批評にはもともと不向きであって、そこへ「ますらをぶり」などという価値観を持ち込んで良い悪いなどと論評することにはほとんど意味が無いと思う。
『孔子伝』。こちらも役には立つが、決して面白い本ではない。毛沢東時代に書かれた孔子評の一つ、と言えば言えるかもしれない。
孔子を奴隷解放者とする試みは、必ずしも成功であったとはいえない。それは社会史的にみても実証が困難であるばかりでなく、孔子教団の性格、その思想の中心的な課題からも逸脱したものである。歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒涜するものであるといえよう。歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験は、あくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行われなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである。
この箇所を白川静はどの程度の熱量で書いたのか、文章を見る限りではまるで伝わってこないのだが、たぶん何かに対して相当怒っているか、誰かに対して憤慨しているか、攻撃したがっているのに違いないのだが、自分を感情を隠すためだろうか、そういう書き方をする人なのであろう。
私も本居宣長を弁護するために、最近よく似たことを書いたので、まだ発表前ではあるけれどもそのごく一部であるからここにお見せしてもかまわぬと思う。
日本は海を隔てて世界から隔絶しており、日本固有の信仰が失われるという危機感は皆無だった。上田秋成ですら、日本人は外から入ってきた思想を自家薬籠中のものにし、ありとあらゆるものを丸呑みにして完全に同化できる、その受容性の高さこそが神州日本の才能であると己惚れていた。宣長はしかしその持ち前のオカルト的直感によって、神道にも不寛容さが必要になってくる、そう気付いた。他宗教に対する免疫を持つ必要性に最初に思い至った人だった。
元来宗教とはものわかりの悪いもの、排他的なものである。友好的で寛容な宗教と、排他的で不寛容な宗教がぶつかれば、ものわかりの良い宗教は常に相手に譲歩し、ものわかりの悪い宗教は常に相手を圧迫して、ついに寛容な宗教は淘汰され、不寛容な宗教だけが世の中にはびこる。世界史上そういう前例はいくらでもある。ギリシャ、ローマ、ゲルマン、エジプトなどにかつてあった土着信仰はもはや死に絶えた。古代ギリシャ信仰はクリスチャン化したギリシャ人自身によって抹消された(新プラトニズム哲学者ヒュパティアの迫害など)。
それまでの神道にも教義や神学はあったが、所詮は仏教や儒教の理論を借用したものにすぎない。それらを取り払うと神道には自ら生み出し築き上げた学問体系や理論と呼べるものは何も残らない。神道とは儒教や仏教の亜種に過ぎない。それが江戸期の知識人、特に儒学者らの共通認識であった。
神道はかつて地上に自然発生した無数の原始宗教の一つであった。そうした、すべての原始部族に見られる太古朴陋の巫術が次第に整理され、教義を蓄え、民族を超えて世界に伝播し、仏教やキリスト教のような普遍宗教となる。他に先んじて普及した宗教は周囲の原始宗教を飲み込んで多民族宗教に成長していった。後進の日本神道もまた他宗教に従属する状態から脱して一個の自立した普遍宗教とならねばならない。太古、インドに生きた人はインドが世界の中心であると思い、中国に生まれた人も同様に中国が世界の中心だと思ったに違いない。だから日本が世界の中心であり、太陽は神だと古代日本人が信じていたのであればそれを前提に神道は再構築されなくてはならない。今の人がどう思うかということはひとまずおいて、自分も古代人と同じ精神構造になってみなくてはならない。それは一種の実証実験である。そのためには古代語を復元して古代の風俗の中で生活し、古代人の目に世界がどう見えていたか体感してみなくてはなるまい。和歌を詠む意義もまたそこにある。
中国に儒教があり、インドに仏教が生まれたように、日本に日本固有の神道が定まればそれで十分であり、他と比較してどこが本地でどこが垂迹かなどということは古代日本人の念頭にはなかったことだから無視すれば良い。陰に対して必ず陽が対になっているという発想は古代日本人には観察されないのだから、神道の教義に混ぜてはいけない。宣長はそう明確に意識していた。
白川静は追体験と言い、私は実証実験と言っているが、言っていることは同じことである。
バラモン教やヒンドゥー教がインドを出ることなく、或いはゾロアスター教がペルシャを出ることがなかったのは、それらが民族宗教であったからだ。アーリア人固有の宗教だったからだ。仏教が中国を経由してはるか日本まで伝わったのはそれが民族固有の宗教から進化した、民族を超える普遍宗教だったからだ。日本は無菌状態ではなかった。キリスト教伝来当時、すでに仏教の洗礼を受けていた。仏教や儒教、道教、陰陽道などの外来宗教は神道を変質させもしたが免疫を作りもしたのである。もし古代神道時代にキリスト教が伝来していたら、またたくまに神道はキリスト教に侵食され消滅していただろう。フィリピンではそうなった。同じようにもしインドネシアのように最初に伝わった普遍宗教がイスラム教だったら、日本もイスラム教の国になってしまっていただろう。