朦朧趣味

煮詰まるのでまた丸谷才一の『新々百人一首』など読んでいるのだが、

藤原家良
朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人
飛鳥井雅経
初雁の声のゆくへもしらなみの浜名の橋の霧のあけぼの
慈円
かへる雁の霞にかけるたまづさを浜名の橋にながめつるかな

などを取り上げているのだが、こういうのを幽玄の美的などと言っている。慈円のはいかにも屏風絵風だし、他のも良くできているが、単に貴族趣味という以上のものではない気がする。さらに、

藤原為氏
人とはば見ずとやいはむ玉津島かすむ入り江の春のあけぼの

玉津島はわざわざ観光に訪れるくらいの風景の名所で、それが春霞がかかってぼんやりと見えなかったから、土産話には、見えなかったと言おうかな、というような意味。これは良い歌というので、為氏の父で定家の子の為家の歌

ふるさとによく見ていかむ玉津島まちとふ人のありもこそすれ

はダサい、凡庸だ、などと言っている。さらに

藤原定家
見渡せば花ももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

をさらに高度な達成、とほめている。しかし、定家のは単なる若者の前衛主義というかニヒリズム(虚無主義)に過ぎないのではないか。単に虚無や否定が面白いという趣向だろう、これは。その後の貴族等の幽玄の美意識と同一視するのはどうかと思う。為家の歌は、ある意味ひねりのないわかりやすい歌で、そんなに悪くないと思うし、為氏のはトリッキーで悪くはないが、幽玄というほどでもなく、どちらかと言えば古今調の機知に近い。新古今後の、南画調の朦朧とした歌が良いなどというのは、必ずしも和歌全般にいえる価値観とは言い難い、と思う。

江戸時代の文人は、和歌や漢詩を学ぶ際必ず自分でも和歌を詠み、漢詩を作った。現代人は、自分で作らず、批評だけする。和歌を詠む人は割といるが漢詩を自分で作ってブログに載せているひとはまずいない。だから勢い、漢詩というのは、杜甫だ李白だ陶淵明だという話になり、江戸時代の漢詩は和臭だからダメだ、というので思考停止となる。

和歌でもだいたい同じ。もし自分で和歌を詠むなら、本居宣長の歌などは、大いに役立つ。彼の歌論を具現化したものが彼の実作であり、特に彼の場合は理論と作品にまったく乖離がないからだ。多くの歌人は歌論を持たないか、抽象的で意味不明なことが多い。だから、自分で歌を詠もうかというときに、どうすれば良いかまるでわからない。さっぱり参考にならない。

「日曜美術館」で、さすがに俵万智の言っていることは割とわかるが、多くのアーティストの言っていることは「個人の感想ですね」以上まるでわからない、ようなものだ。アーティストのコメントはわからなくて良いことになっている。自分で苦労して詠んでみて結局宣長未満の歌しか詠めないことがわかったとき、初めて宣長の歌の価値に気付くのだと思うのだけど。

それに、新古今の価値観に照らして、別の時代の歌を凡庸だというのは当たらない。価値観が違うのは当たり前だ。しかし、丸谷才一は、新古今集の時代が和歌の絶頂であり、そこで完結完成したのであり、定家と後鳥羽院が最高であり、現代日本の美意識も結局室町前期のその頃に完成し、それが至上なのだ、と主張する。

しかし、それは丸谷才一の個人的な説に過ぎない。それはつまり、漢詩というのは盛唐が一番で、他の時代やまして日本の漢詩などはダメだ、という論法と同じだ。

現代では、また、歌人や詩人は小説を書かないし、小説家は歌も詠まない、詩も作らない。しかし、江戸時代までは、文人は文章も書き、その上で歌や詩も作った。まあ、たまたま、私が江戸時代的な詩や歌や小説を書きたがるジャンルの人間であり、それは小説だけ書く人、ラノベだけ書く人、和歌だけ詠む人、など同様に、現代の細分化され蛸壺化した趣味の領域の中の一つの形態に過ぎないのかもしれないが。

さらに言えば、春霞というものは、フィクションである。霞というのは、いつでも発生して、特に春に多いとは言えない。むろん、冬は空気が乾燥して澄んでいるから、霞は一年で一番立ちにくいだろう。また、秋は霞と言わず、霧というかもしれん。ともかく、春から秋までかすみとかきりとかもやというものは発生する。

春霞が実景であると断言できる歌はほとんどない。だいたいは、イメージで、屏風絵風に歌っているだけだ。だから私は春霞が嫌いだ。

思うに、南宋が滅びるのは元寇に前後するから、朦朧とした南宋画の影響が日本に入ってきたのは、早くても鎌倉時代後期からだろう。南宋画が元になって日本の南画になったのは江戸時代に入ってから。定家の時代にはそのような影響はなく、屏風絵をもやでぼかしたような絵はなかっただろう。最初期で、家定の弟子の家良くらいか。家定の虚無的な歌論に託して、自分たちの南画趣味を肯定しようとしたのは、かなり後世の文人たちではなかったか。少なくともそういう、幽玄と朦朧と虚無の解釈が混同されるようになったのは江戸時代に入ってからだろうと思う。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

勝海舟の和歌

八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。

一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。

八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。 しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。 薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、 高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力であったということ。与力はよほど忙しい役職なのだろう。千蔭は字はうまかったらしい。樋口一葉の字も千蔭流で、中島歌子から習ったという。ほんとだろうか。これも怪しい。どうも一葉に関しては中島歌子の影響が強調されすぎているように思う。字がうまい、特に和歌を書くときの字がうまいのはみんな千蔭流と言われるのではないか。誰かちゃんと検証した人はいるのだろうか。

千蔭の歌は全然良いとは私には思えないのだが勝海舟は評価していたということか。勝の歌のほうがずっと面白いと思うが。

難四之可他延

近代デジタルライブラリーに難四之可他延 というものがある。「なしのかたえ」と読み、「梨の片枝」という意味らしい。三条実美の私家集で、彼の死後、高崎正風が編纂したものらしい。うわー。すげえマニアック。しかも、崩し字で書かれているで簡単には読めないのだよ。この際、崩し字覚えようかい。

雨乞い小町

筒井康隆の「雨乞い小町」を久しぶりに読んだのだが、その中で、ずっと気になっていたのだが、

ことわりや 日の本ならば 照りもせめ さりとてはまた 天が下とは
ちはやぶる 神も見まさば 立ち騒ぎ 天の戸川の 樋口開けたまへ

の二首があって、「ことわりや」の出来が悪くて「ちはやぶる」の方が良いと言っているところだ。なぜ筒井康隆は、そう判断したのだろうか。いろいろ調べてみると面白いのだが、まず、「ちはやぶる」の方は『小町集』『小大君集』に採られており、小野小町か小大君かはわからぬが、ともかく、平安中期にはもうあった歌なのだ。ところが「ことわりや」の方がどちらかと言えば有名であって、初出は江戸初期のいろんな説話集、元はといえば、『雨乞小町』という謡曲(能)の演目の一つだったようだ。『雨乞小町』は七小町というものの中の一つで、浮世絵の題材には良く採られるが、テキストなど失われて久しいようだ。

弘法大師が京都の神泉苑で雨乞い勝負をしたという伝説があって、和泉式部もここで同じように勅命で雨乞いをして、そのときに「ことわりや」の歌を詠んだ、

日の本の 名に負ふとてや 照らすらむ 降らざらばまた 天が下かは
ことわりや 日の本ならば 照りもしつ 天が下とは 人もいはずや

などといったバリエーションもあるらしい。いずれにしても女性が詠んだということになっている。弘法大師も、竜王という女性に雨乞いをさせたらしい。雨乞いは女という定説でもあるのだろう。そういえば、雨女とは言うが、雨男とはあまり言わない。

そうだなあ。どれもできばえは大して違わないように思えるのだが。いずれにしても、民間の雨乞いの歌だよな、きっと。

加門七海『くぐつ小町』という小説にも「ちはやぶる」の歌が出てくるようだ。こちらは比較的新しい1996年に単行本になった作品。筒井康隆の『雨乞い小町』の単行本初収録は『ホンキィ・トンク』1973年。

伊勢物語25段。

むかしをとこありけり。あはじともいはざりける女の、さすがなりけるがもとに、いひやりける
秋の野に 笹分けし朝の 袖よりも 逢はで寝る夜ぞ ひぢまさりける
色ごのみの女 返し
見るめなき わが身をうらと 知らねばや かれなで海人の 足たゆく来る

これらを業平と小町の間でやりとりした歌として解釈している。筒井康隆が和歌を論じてるのが珍しいので、少し考察してみたいのだが、これは伊勢物語にも古今集にも採られている有名な歌なので、筒井康隆が特に和歌に関心を持ったというより、たまたま目について取り上げたにすぎないだろう。

小町の歌は、業平の歌の返歌の形には、まったくなってない。返歌なら返歌らしく元歌を何か参照するなりしなくちゃならないが、まったく別々の歌という印象だよな。ああ、たまたま古今集で隣り合った歌なのか。

筒井康隆の解釈では、これは二人が美男美女の似合いのカップルだと言われて、その気になって詠んでみて、あまりにも大向こう受けの嫌らしい歌だったので二人とも破って捨てた、実は二人は恋愛感情よりも友情の方が強くてうんぬん、という設定。はて、どうだろうか、そんな解釈ができるだろうか。

四行詩

オマル・ハイヤームのルバイヤート。岩波書店の。著作権切れなのな。

Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。 できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。 ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。絶句風に韻も踏んでみたし。元ネタは小川亮作訳、

今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 / 苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。 元ネタは、

さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。 七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、 都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。 しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。 どうしたらよかろうか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。

ほんとうの秀歌

後撰集や拾遺集を読んでいるのだが、ほんとうの秀歌というのは、三代集、つまり古今・後撰・拾遺集のよみ人知らず、または人麿の歌にこそあると思うんだな。しかし現代日本人はまず、小倉百人一首から和歌に入る。そうすると、とんでもない駄作、まったく無名の歌人などの方が有名になってしまう。赤染衛門などはまだ良いとして喜撰法師などはまったくどうでもよい人だとしか言いようがない。このあたりが、和歌の感覚をいちじるしく混乱させているのは間違いない。

特に、後撰集や拾遺集の雑などに無造作に収録されたよみ人しらずの歌に実に良いものが多い。拾遺集には「雑春」とか「雑恋」などの巻もあってびっくりする。こんなものは、
他の歌集にはなかろう。たぶん、集めたことは集めたが編集しきれなかったのだろう。たとえばだけど、

ささがにの 空に巣がける 糸よりも 心細しや 絶えぬと思へば

蜘蛛の巣の糸よりも心細い、と言っているだけなのだが。次は、山田法師という、ごく無名の人

あしひきの 山下とよみ 鳴く鳥も 我がごと絶えず もの思ふらめや

「らめ」とか「らめや」って面白いな。

我が恋を 人知るらめや 敷妙の 枕のみこそ知らば知るらめ
秋なれば 山とよむまで 鳴く鹿に 我おとらめや ひとり寝る夜は

おもしろい歌だなあ。

過ちの あるかなきかを 知らぬ身は 厭ふに似たる 心地こそすれ

久しぶりに訪れた女性がなかなか会おうとしないので、自分の側に過失があって会ってくれないのか、嫌われてしまったような気分になる、という意味。

うつくしと 思ひし妹を 夢に見て 起きて探るに なきぞ悲しき

これもよみ人知らず。なんか似たような歌があったようななかったような。万葉集か。中務

忘られて しばしまどろむ ほどもがな いつかは君を 夢ならで見む

龍馬の歌

けっこうたくさんあるんだな。歴史的仮名遣いに直したりした。

春夜の心にて

世と共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ
月と日の むかしをしのぶ みなと川 流れて清き 菊の下水

湊川で詠んだものらしい。「月と日の」は謎。日月旗(錦の御旗)の意味か。単に月日、歳月という意味か。菊の下水とは楠木正成の菊水紋を言うか。

憂きことを 独り明しの 旅枕 磯うつ浪も あはれとぞ聞く

明石で詠んだもの。

嵐山 夕べ淋しく 鳴る鐘に こぼれそめてし 木々の紅葉

嵐山。

梅の花 みやこの霜に しぼみけり 伏見の雪は しのぎしものを

伏見で江戸へ出立の時に

又あふと 思ふ心を しるべにて 道なき世にも 出づる旅かな

先日申てあげたかしらん、世の中の事をよめる

さてもよに 似つつもあるか 大井川 くだすいかだの はやき年月

いずれも淀川。

桂小五郎揮毫を需めける時示すとて

ゆく春も 心やすげに 見ゆるかな 花なき里の 夕暮の空
心から のどけくもあるか 野辺はなほ 雪げながらの 春風ぞ吹く
丸くとも 一かどあれや 人心 あまりまろきは ころびやすきぞ

これはちょっと面白い。

奈良崎将作に逢ひし夢見て

面影の 見えつる君が 言の葉を かしくに祭る 今日の尊さ

「かしくに」は「かしこに」か??

父母の霊を祭りて

かぞいろの 魂や来ませと 古里の 雲井の空を 仰ぐ今日哉
蝦夷らが 艦寄するとも 何かあらむ 大和島根の 動くべきかは
常磐山 松の葉もりの 春の月 秋はあはれと 何思ひけむ
世に共に うつれば曇る 春の夜を 朧月とも 人は言ふなれ

土佐で詠む

さよふけて 月をもめでし 賤の男の 庭の小萩の 露を知りけり

泉州名産挽臼

挽き臼の 如くかみしも たがはずば かかる憂き目に 逢ふまじきもの

これは何か。結構面白い歌だな。単なる月並みでも人まねでもない。上司と部下がうまく噛み合って連動すればこのようなつらい目にあうことはないのに、という意味。いろいろ解釈はあるようだが、土佐や長州というよりは、勝海舟の立場を詠んだものではなかろうか。ははあ。ただしくは吉村虎太郎の作という説もあるようだ。なかなか簡単には信用できないね。

藤の花 今をさかりと 咲きつれど 船いそがれて 見返りもせず

「船急がれて」か。これも吉村虎太郎作らしい。

文開く 衣の袖は ぬれにけり 海より深き 君がまごころ
世の人は われをなにとも 言はば言へ わがなすことは われのみぞ知る
春くれて 五月まつ間の ほとどぎす 初音をしのべ 深山べの里
人心 けふやきのふと かわる世に 独り歎きの ます鏡かな

恋

消えやらぬ 思ひのさらに うぢ川の 川瀬にすだく 螢のみかは
みじか夜を あかずも啼きて あかしつる 心かたるな やまほととぎす
かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ
君が為 捨つる命は 惜しまねど 心にかかる 国の行末
もみぢ葉も 今はとまらぬ 山河に うかぶ錦や おしの毛衣
山里の かけ樋の氷 とけそめて 声打ちかすむ 庭の鶯
道おもふ ただ一筋に ますらをが 世をしすくふと いのりつつゐし
くれ竹の むなしと説る ことのはは 三世のほとけの 母とこそきけ

うーむ。謎は深まった。もっとサンプルがたくさんあるとわかりやすいのだが。

居酒屋ばくまつ (過去ログ置き場です)

龍馬の和歌ですが、龍馬が詠んだと伝えられている和歌の数はそれほど多くはありません。現存する短冊や書簡、あるいは関係文書に収録されているもので殆どですが20首前後です。ただ、坂本家は実は歌人一家で代々、玄祖父直益、曽祖父直海、祖母久、父直足、兄直方、姉栄、外曽祖父井上好春、義兄高松順三などなど、詠んだ和歌が遺されており、歌会もしばしば営まれていたようです。この歌人一家の環境の中で龍馬は幼少期より姉乙女の薫陶を受け和歌も学びますが、大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです。

なるほどなあ。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。