リアリズムとファンタジー

鴬(うぐひす)の 涙(なみだ)の雨(あめ)も 紅(くれなゐ)に 落(お)ち添(そ)ふ梅(うめ)の 花(はな)の下露(したつゆ)

見(み)しやいつ 咲(さ)き散(ち)る花(はな)の 春(はる)の夢(ゆめ) 覚(さ)むるともなく 夏(なつ)はきにけり

賑(にぎ)はへる 民(たみ)の家(いへ)居(ゐ)を 空(そら)に見(み)て 煙(けむり)の上(うへ)に 月(つき)や澄(す)むらむ

定(さだ)めなく しぐるる空(そら)は 世(よ)の中(なか)の 人(ひと)の心(こころ)や 雲(くも)となりけむ

これら正徹の秀歌はどれも絵画的で浪漫的だ。紅梅に春雨が降り、鴬もまた紅涙(可憐な女性の涙)を流しているように見える。技巧は凝らしているが、曖昧さはない、くっきりと鮮明な、意図のはっきりした素直な歌だ。

リアリズムとファンタジー。必ずしも相容れぬものでもない。少なくとも創作の世界に完全なリアリズムもなければ完全なファンタジーもない。高畑勲はどちらかといえばリアリズムをエンタメ化するためにファンタジー要素を加味する人だ。一方、宮崎駿は空想の産物に生々しい血肉を与えるためリアリズムの力を借りる人だ。では正徹はどちらかと言えば、明らかに高畑勲側の人だったと思える。

歌はごまかしが効かない。詠む人の心根がそのまま出てしまう。歌を飾り取り繕おうとすればそれは詞のぎこちなさやつながりの悪さ、気持ち悪さとなって歌を損なってしまう。だから嘘をつこうとしてもすぐにバレる。

正徹は夢の歌ばかり五百首ほど詠んでいて、中には良いものもある。「見しやいつ」「春の夢覚むるともなく夏は来にけり」「人の心や雲となりけむ」と来るところなどなかなか良い。独特の風情、余情がある。

頓阿と後村上天皇

草庵集玉箒を読んでて思ったのだが、

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

この頓阿の歌

一木まづ 霧の絶え間に 見えそめて 風に数そふ 浦の松原

この後村上天皇の歌によく似ていないだろうか。さらに

夏草の 茂みが下の 埋もれ水 ありと知らせて 行く蛍かな

この後村上天皇の歌は

草深み 見えぬ沢辺の 埋もれ水 ありとやここに 飛ぶ蛍かな

この頓阿の歌とあまりにも似すぎてはいないだろうか。

頓阿は北朝の征夷大将軍足利尊氏の近習であり、しばしば尊氏邸の歌会に参加している。また従一位摂政関白太政大臣二条良基にも歌の師と仰がれていた。ところがどうやら頓阿は南朝の後村上天皇とも近しかった可能性が極めて高い。

後村上天皇が僧侶のなりをして頓阿という名で北朝に出入りしていた、としたらちょっと面白い話になるかもしれないが、二人の歌風はまったく異なるので、同一人物ということはあり得ないと思う。

頓阿は後深草二条、つまり『とはずがたり』の作者ともつながりがあったと私は見ているのだが、そのことについてはまた改めて書きたいと思う(最近頓阿についてだいぶ調べた。頓阿の本を一冊書けと言われればたぶん書けるだろう)。

私は「埋もれ水」とは頓阿のこと、「蛍」は後村上天皇のことを暗喩しているのではないかと思っている。つまり頓阿は南北朝間を行き来する密使だったのだ。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

平淡美

藤原為家は「平淡美」を理想としたとか「平淡美」を主張したとか、「平淡美」の理念を説き、などといろんなところに書いてあって、その根拠となるのが彼が書いた歌論書『詠歌一体(八雲口伝)』であるというのだが、この『八雲口伝』を読んでもどこにも「平淡」が良いなどとは書いてないように思える。たとえば『日本歌学大系 第三卷』の解題、これはおそらく編者の佐佐木信綱が書いたのだと思うが、

平淡美を理想とした彼の態度もよくあらはれて

とあるのだが、これは佐佐木信綱がそう思ったというだけではなかろうか。そして佐佐木信綱がそう書いたことを孫引きしてみんなが為家は平淡美なんだと思い込んでしまったのではなかろうか。

『八雲口伝』だが、まず「題をよくよく心得解くべきこと」とあり、題詠するときには与えられた題をおろそかにしてはならんというようなことが書いてある。次に「歌も折りによりて詠むべきさまあるべきこと」として、百首の歌を詠むときには中には地歌(平凡な歌)が混じっても良いが、二十首、三十首を詠むときには(ちゃんと精選して)良い歌だけを詠むべきだ、歌合では晴れの歌だけを詠め、などと書いてある。

三つ目は「歌の姿の事」。「詞なだらかに言ひくだし、きよげなるは姿の良きなり。」同じ風情でも悪く続けては台無しになる。同じ詞でも「聞き良く言ひ続けなす」のが上手、聞きにくい詞は三十一文字をけがす。

春立つと 言ふばかりにや みよしのの 山もかすみて 今朝は見ゆらむ

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ

すべて優れたる歌は面白き所無き由(と『九品十体』で)申すめり。

『九品十体』は何のことかよくわからないが、藤原清輔あたりだろうか。ここで優れた歌と言っているのは上品な歌、下品ではない歌という意味だ。「春立つと」は壬生忠岑の歌。「ほのぼのと」は『古今』詠み人知らずの歌。為家は下品な歌の例として

世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ

を挙げている。この例の対比から彼が何を上品、何を下品と言っているかはわかるだろう。下品とは要するに狂歌のような歌、俳諧歌、戯れ歌という意味だ。面白くても戯れ歌ではダメだよと言っているだけのことだ。ちなみに中品の歌として

春来ぬと 人は言へども うぐひすの 鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ

を挙げている。為家が上品として挙げた例は確かに平淡な歌と言って良いのだけれど、思うに佐佐木信綱は為家を平淡で単調でつまらない歌を新古今以降に流行らせた張本人だと決めつけているだけのように見えるのだ。まして私には彼が平淡を理想としていた、とはとても思えない。それは彼が詠んだ歌を見ればわかることだ。そして、佐佐木信綱だけでなくありとあらゆる人が「平淡美」「平淡美」と口をそろえて為家を評するのは滑稽というしかない。為家の歌論に「平淡」を言及した箇所が無いとはいわないが、彼は必ずしもそこばかりを強調したわけではない。もっといろんなことを言っている。

満(み)つ潮(しほ)の 流(なが)れ干(ひ)る間(ま)も なかりけり 浦(うら)の湊(みなと)の 五月雨(さみだれ)の頃(ころ)

早苗(さなへ)取(と)る 賤(しづ)が小山田 (をやまだ)麓(ふもと)まで 雲(くも)も降(お)り立(た)つ 五月雨(さみだれ)の頃(ころ)

為家は非常に用心深く技巧を凝らした跡を残さぬようにしている。それゆえ一見平淡にも見える。しかしそこにあるのは絵画のような美麗な世界であり、動きがあって、匂いや温度や風の流れさえも感じられて、自然描写ですら、宮殿に飾られた風景画のようにゴージャスで、絢爛で、妖艶と言っても良いくらいだ。定家が選んだ『新勅撰集』が平淡だったからそれにならって為家も平淡なのだという主張もまったく見当違いだと思う。

平淡美とはあまり為家には当てはまっていないと思う。

定家の『新勅撰集』や為家以降の二条派など、特に三条西実隆あたりにはふさわしい形容かもしれないが、為家は違うだろう。もっとほかに適切な評価のされ方があると思う。後世の二条派の悪いところを全部為家のせいにしている、為家は濡れ衣を着せられている、そんなふうにも思える。

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。

「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」

などと書かれていて笑う。

「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」

とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。

信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。

p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」

などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

松平上総介

海舟座談については前にも書いたのだが、松平上総介とは松平忠敏のことで、石高はよくわからないが、およそ二千石くらいの旗本であったらしい。明治になると御歌所の歌道御用掛となって、ウィキペディアには高崎正風を投げ飛ばしたなどと書かれているが出典が良くわからない。

松平忠敏はまた勝海舟に歌を詠むよう盛んに勧めたというがこれも明治になってからのことだろう。いろいろ調べてみるとなかなか面白い歌を詠んでいるようだ。たとえば、

事(こと)しあらば 草(くさ)むす屍(かばね) 事(こと)しあらば 水漬(みづ)く屍(かばね)と 思(おも)ふばかりぞ

何事(なにごと)も 憂(う)しと思(おも)へば 憂(う)かりけり 楽(たの)しとのみや 思(おも)ひ渡(わた)らむ

などなど。

五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)に真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。

秋の夕暮れ

小沢正夫氏は『古代歌学の形成』で『古今』の序について網羅的に分析している。彼の説を要約するならば、『古今』の序はまず「真名序」が書かれ、これをもとに紀貫之が「仮名序」を書いた。「真名序」に関しては藤原公任が著した『和漢朗詠集』にも裏付ける記述がある。また、その内容は「仮名序」が「『古今集』の内容に精通し、これに愛情をもった文章」であるのに対して、「真名序」は「事務的・官僚的」で「微温的でよそよそしい態度」であって、「貫之以外の人、例えば普通に言われている淑望あたりが書いたと考えてさしつかえない」と言っている。「仮名序」に関しては壬生忠岑が書いた『和歌体十種』に貫之が序を書いたという記載があり、「六義」にこだわるなどの特徴が見える。私も小沢氏に概ね同意する。なるほど、貫之は「真名序」を和文にして、「仮名序」を書き、六義について若干敷衍したであろう。しかし貫之がやったことはそこまでで、今に残る「仮名序」はそこから誰かがさらに大幅に書き足したもののように私には思える。なぜならその書き足したとおぼしき部分に疑惑の文言「あきのゆふくれ」が含まれるからだ。

「秋の夕暮れ」を最初に歌に詠んだ人は平兼盛。光孝天皇の子孫で、村上天皇の御代に臣籍降下して平姓を賜った(光孝平氏)。赤染衛門は兼盛の娘であるという説もある。

浅(あさ)茅(ぢ)生(ふ)の 秋(あき)の夕(ゆふ)暮(ぐ)れ 鳴(な)く虫(むし)は 我(わ)がごと下(した)に ものや悲(かな)しき

(秋の夕暮れに茅(ちがや)の原で鳴いている虫は私のように、心の中で悲しんでいるのだろうか)

兼盛の次の世代の人、和泉式部は「秋の夕暮れ」がかなりお気に入りだった。

ゆふぐれのしかのこゑ

四方山(よもやま)の しげきを見(み)れば 悲(かな)しくて 鹿(しか)なきぬべき 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

太宰帥敦(あつ)道(みち)の親王(しんわう)、中絶えける頃、秋つ方、思ひ出でてものして侍りしに

待(ま)つとても かばかりこそは あらましか 思(おも)ひもかけぬ 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

あはれなる事

あはれなる ことを言(い)ふには 人(ひと)知(し)れず もの思(おも)ふときの 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

八月ばかり、人のもとへ

音(おと)すれば 訪(と)ふか訪(と)ふかと 萩(をぎ)の葉(は)に 耳(みみ)のみ留(と)まる 秋(あき)の夕暮(ゆふぐ)れ

(秋の夕暮れに、萩の葉の音を聞くたび、あなたが訪れたかと耳が止まります)

どちらかといえば和泉式部が『枕草子』の「秋は夕暮れ」というフレーズを気に入って、これらの歌を次から次へと詠んだように思える。というのは、和泉式部は「秋は夕暮れ」の他にも

夜(よる)睡(い)も寝(ね)ぬに、障(さう)子(じ)を急(いそ)ぎ開(あ)けて眺(なが)むるに

恋(こひ)しさも 秋(あき)の夕(ゆふ)べに 劣(おと)らぬは 霞(かすみ)棚引(たなび)く 春(はる)のあけぼの

のように「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそく棚引きたる」を丸パクリしたような歌を詠んでいるのである。この「春のあけぼの」を最初に詠んだのも和泉式部らしく、『千載集』以後盛んに詠まれるようになった。和泉式部は清少納言より十才くらい年下だが、逆に、和泉式部の歌を見て清少納言が『枕草子』を書いた、ということは、ちょっと考えにくい。

『古今』「仮名序」に「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるを聞き」とあるのはおそらく曽祢好忠の長歌の一部、

‥ はなのちる 春(はる)のあした 葉(は)のおつる 秋(あき)のゆふべ ‥

(または、はなちる 春のあした この葉のおつる 秋のゆふべ)

からきていると思われる。好忠は『小倉』の「由良の門を渡る舟人梶を絶え行く方も知らぬ恋の路かな」で知られるが、彼も『拾遺集』時代の人である。

貫之が仮名序に「あきのゆふくれ」と書いたことで平兼盛が「秋の夕暮れ」を歌に詠み込み、清少納言が「秋は夕暮れ」と言い、みなが「秋の夕暮れ」を使うようになったのだろうか。実際「しきしまのみち」は俊成が『千載集』の序で用いたのが初出で、歌として使われ始めたのは『玉葉集』以降という事例もある。「敷島の道」とは「歌道」のことだ。もともと「歌」そのものや「歌道」は歌に詠むものではなかったから、まず『勅撰集』の序に使われ、歌に使われるまで準備期間が必要だった。

貫之が「秋の夕暮れ」を発明したのだろうか。ではなぜ貫之は「秋の夕暮れ」を自分の歌に一度も使わなかったのか。「古の世々の帝」が「さぶらふ人を召して、ことにつけつつ歌を奉らせ給ふ」例を列挙している中にわざと「秋の夕暮れ」を混ぜる必要があるか?

雲母や金銀箔を押した料紙に流麗な仮名文字で筆記された国宝元永本古今和歌集。これにはっきりと「はるの朝に花のちるをみ、あきのゆふくれにこのはのおつるをきき」と書いてある。この元永本は、俊頼が白河院の歓心を買うため献上したものと思われるが、これを見るたび、ああ、俊頼が言う『金葉』とはこんな金ぴかのこけおどしみたいな歌のことを言うのだなと興ざめする。

そして曽祢好忠の歌との類似性は?これも貫之の仮名序を見た好忠が真似たのだろうか?それは相当不自然ではないか。そうやって疑いの目で見ると、仮名序の前半部分と後半部分で、どうも文体やテンポに統一感がなく、ちぐはぐな感じを受けないだろうか。例えば「鏡の影に見ゆる雪と浪を歎き」とは紀貫之自身の歌「しはすのつごもりがたに、年の老いぬることをなげきて」と詞書きした「むばたまの 我が黒髪に 年暮れて 鏡の影に 降れる白雪」を参照しているのは明らかだが、もし貫之が「仮名序」を書いたとして、古歌を並べている中にいきなり自分の、しかも晩年に詠んだ歌を入れるだろうか?おかしいではないか。

詩三百篇 思無邪

景山先生『不尽言』に曰く、天照大神は女体と言ふ事なれども、呉の太伯なるべしと言へる事、さもあるべき事とも思はるるなり。その上に、太伯は元、殷の世の人なれば、殷の世の人は鬼神を尚ぶ風俗なるゆゑ、殷の余風が残りて、日本には髪を尚ぶ事と見えたり。又、呉の字を付けて称する事多く、呉竹、呉服の類ひなど、かたがた符合する事もあるなり。然れどもかく言へる事を、神道者などは、これは儒者の唐贔屓から言ひ出だしたる附会の説とて甚だ嫌ふ事なり。神道者は、只、日本は神国なりとて、神と言ふものを奇怪幻妖なるもののやうに人に思はせ、日本には別に日本の道ありとて、吾が道を神妙不測にせうと拵へたるものなり。神道とて別あるべき事ならず。

しかしながら、神は即ちいにしへの聖神なれば、いかさま天照大神の聖徳、数千年の季まで人心に薫染して得去らぬと言ふは、神妙不測の事なるによって、神国と言はんもことわりと覚ゆるなれば、かの武国と言はんよりは一理ある事なり。

和歌と言ふものも、本は詩と同じ物にて、紀貫之、『古今集』の序に、「人の心を種として万の言の葉となれりけり」と言ひ、「見るもの聞くものにつけて言ひ出だせる」と言へれば、詩の本意と符号せるものなり。此の万の字、面白し。人情は善悪曲直、千端万緒なるものなれば、人の心の種の内に発生の気の鬱したるが、見るもの聞くものに触れて、案配工夫無しに、思はず知らず、フッと言ひ出せる詞に、すぐにその色を表すものなり。草木の種と言ふもの、内に生えむと思ひ工夫して生ずる物ではあるまじ。発生の気が内に鬱して、自然にズッっと生え出づるものなり。しかれば、其の詞を見るによって、世上人情の酸いも甘いも良く知らるる事なり。されども、人の大事に臨み、自ら警めたしなみ、案配工夫して、心の内にてその善悪を調べ、吟味して詞に発する事は、皆それは作り拵へたるものなれば、中々人の実情は知れぬ事もあるなり。それゆゑに、箪食豆羹などに心の色を表すと言ひて、人の心を許し、うっかりと思はず知らずにふと言ひ出だしたる詞にて、人の実情は良く見ゆるものなり。

俗諺に、「問ふに落ちず、語るに落つ」と言ふも、人の思はず知らず、ふっと実情を言ひ表す事なり。これが詩となるものにて、人の底心骨髄から、ズッと出でたるものなり。

詩は三百篇あるに、詩と言ふものはことごとく只一言の「思無邪」の三字の意より出来ぬ詩と言ふものは、一篇も無きなり。孔子、「思無邪」の三字を借りて、詩と言ふものの訳を解釈したまふなり。此の邪の字を朱子は人の邪悪の心と見られたれども、それにては味無き事なり。人の邪念より出でぬ詩を良しとする事は勿論なれども、詩三百篇の内には、邪念より出づる詩も多くある事なり。心の内に案配工夫を巡らし、邪念を吟味して、邪念より出でぬようにと一調べして出来たるものは、詩にてはあるまじきと思はるるなり。 只その邪念は邪念なり、正念は正念なりに、我知らずふっと思ふ通りを言ひ出だすが詩と言ふものなるべし。 その詩を見て、邪念より出づると正念より出づると言ふ事を知り分かつは、それは詩を見る人の上にこそあるべけれ、詩と言ふものの本体にては無き事なり。詩を作り出だす人は、邪正はかつて覚えぬなり。それゆゑ詩と言ふものは恥ずかしきものにて、人の実情の鑑にかけたるやうに見ゆる事なれば、善悪邪正ともに、人の内に潜める実情の隠されぬものは、詩にある事なり。 聖人、人に人情の色々様々なるを知らせんために、詩を集め書として読ませらるに付きて、「思無邪」の一言を借りて、元来の詩と言ふものの本義を解釈なされ、三百篇ある詩は、只この一言で以て、詩の義は蔽ひ籠もるとのたまひし事なるべし。愚拙、経学は朱学を主とする事なれども、詩と言ふものの見やうは、朱子の註、その意を得ざる事なり。