巖本善治編勝部真長校注「新訂海舟座談」を読む。 江藤淳の「氷川清話」以上のことは書かれているようにも思えないが、附録で、 高木三郎という人が坂本龍馬について
坂本は大きな男で、背中にあざがあって、毛が生えてね。
坂本は、柔術を知らないものですから、
坂本は、文字がありません。
などと言っている。 龍馬は文字の読み書きができなかったらしい。 手紙を書いたとしても代筆だったのだろう。 あの有名な、姉に宛てて書いた手紙も代筆なのだろう。 武士で柔術を知らないというのも当時としては珍しかったのだろう。 剣術は千葉道場で北辰一刀流の目録をもらったというが、五六年もいれば誰でももらえるようなものではないか。 印象としては、行動力はあるが無学文盲の大男、といったところだろう。 勝海舟、西郷隆盛、その他長州や薩摩の志士たちにはだいたい最低限の教養はあったが、龍馬にはなかった。
ともかく、文字を知らないというのではまず和歌は詠めまい。 柿本人麻呂も文字は知らなかったかもしれないが、 それとこれではわけが違う。 仮に詠めても有名な歌のつぎはぎくらいしかできなかっただろう。 読み書きができなきゃそろばんもできなかっただろう。 政治家くらいにはなれたかもしれんが、
商売ができる人間ではなかったのではないか。
龍馬は『新葉和歌集』を欲しがったというが、なんのためだったのだろう。
wikipedia に
平井収二郎 「元より龍馬は人物なれども、書物を読まぬ故、時として間違ひし事もござ候へば」
とあるのも同じか。
勝海舟の歌:
天駆ける翼持たねばにはつ鳥あはれ落ち穂を争ひにけり
なんとも言えない歌だな。
勝海舟が危篤になったときに高崎正風(歌会所長、明治天皇の歌の師)が詠んだ歌:
眠られぬ夜寒の床に響きけり氷川のもりの雪折れのこゑ
玉の緒の絶えぬうちにと駆けつけてかひもなくなく帰る悔しさ
移りゆく世をうれたみて語らひしこゑなほ耳の底に残れり
身は苔の下にありともたましひは天駆けりてや世を守るらむ
「うれたむ」は「憂ひ」+「痛し」が動詞化したもののようだ。
まあ普通。実に平凡。というか明治天皇の御製に良く似ていてびっくり。
明治天皇の歌をより情緒的にしたような感じ。