新撰和歌 巻第一 春・秋 荓百二十首

> 1 袖ひちて むすびしみづの こほれるを 春たつけふの 風やとくらむ

古今2 「はるたちける日よめる」貫之

> 2 秋きぬと めにはさやかに みえねども かぜの音にぞ おどろかれぬる

古今169「秋立つ日よめる」敏行

> 3 春がすみ たたるやいづこ みよしのの よし野の山に 雪はふりつつ

古今3 題知らず、読み人知らず

> 4 わぎも子が ころものすそを ふきかへし うらめづらしき 秋の初かぜ

古今171 題知らず、読み人知らず。「わぎもこ」→「わがせこ」

> 5 春ごとに かずへこしまに ひとともに おいぞしにける みねの若松

素性集、春とのみかぞへこしまにひとともにおいぞしにけるきしのひめまつ

> 6 きのふこそ さなへとりしか いつのまに いなばもそよと 秋かぜのふく

古今172 「いなばもそよと」→「いなばそよぎて」

> 7 とふ人も なきやどなれど くる春は 八重むぐらにも さはらざりけり

新勅撰8、古今和歌六帖1306、貫之集207

> 8 萩の葉の そよぐおとこそ 秋かぜの 人に知らるる はじめなりけれ

拾遺集139「延喜御時御屏風に」、古今和歌六帖3716、また3717 凡河内躬恒 をぎのはにふきくるかぜぞ秋きぬと人にしらるるしるしなりけれ

> 9 梅の花 にほふはるべは くらぶ山 やみにこゆれど しるくぞ有りける

古今39「くらぶ山にてよめる」貫之

> 10 いづれとも 時はわかねど 秋の夜ぞ 物思ふことの かぎりなりける

古今189「これさだのみこの家の歌合のうた」読人不知、小町集、宗于集

> 11 ときはなる まつのみどりも 春くれば 今ひとしほの 色まさりけり

古今24「寛平御時きさいの宮の歌合によめる」源宗于

> 12 紅葉せぬ ときはの山は ふくかぜの おとにや秋を ききわたるらむ

古今251 「秋の歌合しける時によめる」紀淑望

> 13 春やとき 花やおそきと ききわかむ 鴬だにも なかずも有るかな

> 14 こひこひて あふ夜はこよひ あまの川 きり立ちわたり あけずもあらなむ

> 15 花の香を かぜのたよりに たぐへてぞ 鴬さそふ しるべにはやる

> 16 こよひこむ 人にはあはじ たなばたの ひさしきほどに あへもこそすれ

> 17 雪のうちに 春はきにけり 鴬の こほれるなみだ いまやとくらむ

> 18 あきかぜに 夜のふけゆけば 天の川 かはせになみの たちゐこそまて

> 19 梅がえに きゐる鴬 はるかけて なけどもいまだ 雪はふりつつ

> 20 ちぎりけむ 心ぞつらき 七夕の としにひとたび あふはあふかは

> 21 春の夜の やみはあやなし むめの花 色こそみえね 香やはかくるる

> 22 としごとに あふとはすれど 七夕の ぬる夜のかずぞ すくなかりける

> 23 春たてば わかなつまむと しめし野に きのふもけふも 雪はふりつつ

> 24 木のまより おちくる月の 影みれば 心づくしの 秋はきにけり

> 25 かすが野の とぶひののもり いでて見よ いまいくかありて わかなつみてむ

> 26 うつろはむ ことだにをしき 秋はぎに をれぬばかりも おける白露

> 27 あづさ弓 おしてはるさめ けふふりぬ あすさへふらば わかなつみてむ

> 28 夜をさむみ ころもかりがね なくなへに はぎの下葉も 色づきにけり

> 29 君がため 春の野にいでて わかなつむ 我が衣手に 雪はふりつつ

> 30 わがために くるあきにしも あらなくに 虫の音きけば まづぞかなしき

> 31 春日野の わかなつみにや しろたへの 袖ふりはへて 人の行くらむ

> 32 秋の野に みちもまどひぬ 松むしの こゑするかたに やどやからまし

> 33 わがせこが ころも春雨 ふるごとに 野辺のみどりや 色まさりける

> 34 日ぐらしの なくやまざとの 夕ぐれは かぜよりほかに とふ人もなし

> 35 春がすみ たつをみすてて 行くかりは はななきさとに すみやならへる

> 36 春がすみ かすみていにし かりがねは いまぞなくなる 秋ぎりのうへに

> 37 ことしより 春しりそむる さくら花 ちるといふことは ならはざらなむ

> 38 秋はぎの 下葉いろづく けふよりや ひとりある人の いねがてにする

> 39 さくらばな さきにけらしな 足引の 山のかひより 見ゆる白雲

> 40 あきの露 うつしなればや みづ鳥の あをばのやまの うつろひぬらむ

> 41 みよし野の やまべにたてる さくら花 白雲とのみ あやまたれつつ

> 42 白雲の なかにまぎれて 行く雁の こゑはとほくも かくれざりけり

> 43 山たかみ くもゐに見ゆる さくら花 こころのゆきて をらぬ日ぞなき

> 44 白雲に はねうちかはし とぶかりの かげさへ見ゆる 秋の夜の月

> 45 山ざくら わが見にくれば はるがすみ みねにも尾にも たちかくしつつ

> 46 たがために にしきなればか 秋ぎりの さほの山辺を たちかくすらむ

> 47 見てのみや 人にかたらむ 山ざくら 手ごとにをりて いへづとにせむ

> 48 やまのはに おれるにしきを たちながら 見てゆきすぎむ ことぞくやしき

> 49 見る人も なき山里の さくら花 ほかのちりなむ のちぞさかまし

> 50 玉かづら かづらき山の もみぢ葉は おもかげにこそ みえわたりけれ

> 51 見わたせば やなぎさくらを こきまぜて みやこぞ春の にしきなりける

> 52 おなじえに わきてこの葉の うつろふは にしこそ秋の はじめなりけれ

> 53 さくら花 しづくにわが身 いざぬれむ かごめにさそふ かぜのこぬまに

> 54 ちはやぶる かみなび山の もみぢ葉は 思ひはかけじ うつろふものを

> 55 花の色は かすみにこめて 見せずとも 香をだにぬすめ 春の山かぜ

> 56 こひしくは 見てもしのばむ もみぢ葉を ふきなちらしそ 山おろしのかぜ

> 57 いざけふは はるの山辺に まじりなむ くれなばなげの 花のかげかは

> 58 かみなびの みむろの山を 秋ゆけば にしきたちきる ここちこそすれ

> 59 あさみどり いとよりかけて しら露を たまにもぬける 春のやなぎか

> 60 さをしかの あさたつをのの 秋はぎに たまと見るまで おける白露

> 61 青柳の いとよりかくる はるしもぞ みだれてはなの ほころびにける

> 62 いもがひも とくとむすぶと たつた山 いまぞもみぢの 色まさりける

> 63 古郷と なりにしならの みやこにも いろはかはらで 花ぞさきける

> 64 久かたの 月のかつらも あきはなほ もみぢすればや てりまさるらむ

> 65 さくら色に ころもはふかく そめてきむ はなのちりなむ のちのかたみに

> 66 あめふれば かさとり山の もみぢ葉は ゆきかふ人の そでさへぞてる

> 67 桜いろに まさるいろなき 花なれば あたらくさ木も ものならなくに

> 68 しら露の 色はひとつを いかなれば あきの木の葉を ちぢにそむらむ

> 69 世の中に たえてさくらの なかりせば 春のこころは のどけからまし

> 70 さほやまの ははそのもみぢ ちりぬべみ 夜さへ見よと てらす月かげ

> 71 さくら花 ちらばちらなむ ちらずとて 古郷人の きても見なくに

> 72 をみなへし おほかる野辺に やどりせば あやなくあだの 名をやたちなむ

> 73 春のきる かすみのころも ぬきをうすみ やまかぜにこそ みだるべらなれ

> 74 しものたて 露のぬきこそ もろからし やまのにしきの おればかつちる

> 75 をしと思ふ 心はいとに よられなむ ちるはなごとに ぬきてとどめむ

> 76 秋の野に おくしら露は たまなれや つらぬきかくる 雲の糸すぢ

> 77 ちる花の なくにしとまる ものならば われ鴬に おとらざらまし

> 78 たつた川 もみぢ葉ながす かみなびの みむろの山に あられふるなり

> 79 こまなめて いざ見にゆかむ 古郷は ゆきとのみこそ 花はちるらめ

> 80 秋ならで あふことかたき 女郎花 あまのかはらに たたぬものゆゑ

> 81 さくらちる 木のしたかぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞふりける

> 82 見る人も なくてちりぬる おく山の もみぢは夜の にしきなりけり

> 83 ゆく水に みだれてちれる さくら花 きえずながるる 雪とみえつつ

> 84 浪かけて 見るよしもがな わたつうみの 沖のたまもも 紅葉ちるやと

> 85 桜花 ちりぬるかぜの なごりには みづなきそらに なみぞたちける

> 86 我がきつる かたもしられず くらぶ山 きぎの木のはの 散るとまがふに

> 87 さくら花 みかさの山の かげしあらば ゆきとふるとも いかにぬれめや

> 88 なきわたる かりのなみだや おちつらむ ものおもふやどの うへの白雲

> 89 春ごとに ながるる川を 花とみて をられぬ水に 袖やぬれけむ

> 90 山川に 風のかけたる しがらみは ながれもやらぬ もみぢなりけり

> 91 としふれば よはひはおひぬ しかはあれど 花をしみれば もの思ひなし

> 92 をり人の こすのまにまふ 藤ばかま むべもいろこく ほころびにけり

> 93 かはづなく かみなび山に かげみえて いまやさくらむ やまぶきの花

> 94 ぬれてほす 山路の菊の 露のまに いつかちとせを 我はきにけむ

> 95 はるさめに にほへるいろも あかなくに 香さへなつかし 山吹の花

> 96 露ながら をりてかざさむ 菊の花 おいせぬ秋の ひさしかるべく

> 97 をりても見 をらずてもみむ みなせ河 みなそこかけて さける山吹

> 98 あきかぜの ふきあげにたてる 白菊は 花かなみだか 色こそわかね

> 99 かはづなく 井手の山ぶき さきにけり あはましものを 花のさかりに

> 100 心あてに をらばやをらむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

> 101 よし野がは きしの山ぶき 吹くかぜに そこのかげさへ うつろひにけり

> 102 秋をおきて ときこそ有りけれ 菊の花 うつろふからに 色のまされる

> 103 わがやどに さけるふぢなみ たちかへり すぎがてにのみ 人の見るらむ

> 104 さきそめし やどしわかねば 菊の花 たびながらこそ にほふべらなれ

異本歌、咲きそめし時より後はうちはへて世は春なれや色の常なる

> 105 よそに見て かへらむ人に ふぢのはな はひまとはれよ えだをはるとも

> 106 きても見む 人のためにと おもはずは たれかからまし 我が宿のくさ

> 107 みどりなる まつにかけたる 藤なれど おのがこころと 花はさきける

> 108 一もとと おもひしものを ひろ沢の 池のそこにも たれかうゑけむ

> 109 花のちる ことやかなしき 春がすみ 立田の山の うぐひすのこゑ

> 110 色かはる 秋のくるをば ひととせに ふたたびにほふ 花かとぞ見る

> 111 さくがうへに ちりもまがふか 桜花 かくてぞこぞも 春は暮れにし

> 112 もみぢ葉を そでにこきいれて もてでなむ 秋をかぎりと 見む人のため

> 113 さくらちる はるの心は はるながら 雪ぞふりつつ きえがてにする

> 114 紅葉ばの ながれてとまる みなとには くれなゐふかき 浪やたつらむ

> 115 花もみな ちりぬるのちは ゆくはるの 古郷とこそ なりぬべらなれ

> 116 みちしらば たづねもいなむ 紅葉ばを ぬさとたむけて 秋はいにけり

> 117 年ごとに なきてもなにぞ よぶこ鳥 よぶにとまれる 花ならなくに

> 118 立田川 もみぢながれて ながるめり わたらばにしき なかやたえなむ

> 119 声たえで なけや鴬 ひととせに ふたたびとだに くべき春かは

> 120 ゆふづく夜 をぐらの山に なくしかの こゑのうちにや 秋はくるらむ

源満仲

源満仲にも一つだけ和歌が残っている。『拾遺集』

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲朝臣
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

清原元輔を源満仲が送った歌。

どうも、清和源氏初代、源経基は一応平将門の乱に関わり鎮守府将軍となったが、大したことはしていない。同じく将門の乱で征東大将軍となった藤原忠文のような役回りだろう。

経基の子・満仲も摂津に武士団を形成し鎮守府将軍となったというが、ほんとに武将と言える人か不明。

満仲の子・頼光も、どうも武士らしくない。しかし同じ満仲の子・頼信、頼信の子・頼義、頼義の子・義家は明らかに武士(武将、武人)である。だが、頼信、頼義、義家には和歌が残ってない。こうして見たとき、頼光の末裔である頼政も、どちらかといえば、武士らしからぬ武士だったということになる。

源頼光

武士はいつから和歌を詠んだかといえば、武士が現れたときからすでに詠んでいたし、以後もずっと詠んでいたとしか言いようがない。武士は歌を詠まぬというのは執拗な藤原氏による印象操作か。あるいは、はなはだしい文芸音痴だった徳川家康と、朱子学を偏重した武士階級自体が生み出した偏見と誤解であろう。さらに勘ぐって言えば、徳川時代260年間、公家社会の支配と権威付けを目論んだ摂家が、和歌にまったく無理解な家康を利用して幕府に禁中並公家諸法度を書かせて、和歌は堂上家が権威を独占しているのだと徹底的に宣伝・洗脳したせいだと思う。

ちょっと調べればすぐわかることなのになぜ現代人もころりとだまされているのだろうか。

清和天皇の皇子、貞純親王の子が源氏を賜り源経基となる。彼が清和源氏の祖。この源経基の歌が『拾遺集』に二つ残っている。

あはれとし 君だに言はば 恋ひわびて 死なむ命も 惜しからなくに

雲井なる 人を遥かに 思ふには 我が心さへ 空にこそなれ

源経基の子が満仲。やはり『拾遺集』に歌が残っている。

清原元輔
いかばかり 思ふらむとか 思ふらむ 老いて別るる 遠き別れを

返し 源満仲
君はよし 行末遠し とまる身の 待つほどいかが あらむとすらむ

満仲の子の、源頼光。『拾遺集』

女のもとにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋の かけたるやなぞ

『玄々集』、または『金葉集』三奏本にも出る。

かたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける
なかなかに 言ひもはなたで 信濃なる 木曽路の橋に かけたるやなぞ

いろいろと話しかけてもつれない女がいて、心にかかったまま、うちあけることができなかったので、歌を詠んで送った。なかなか告白できずにあなたに心をかけているのはなぜでしょう。「信濃なる 木曽路の橋に」は「かける」に懸かる序詞で特に意味は無い。「橋に架けたる」はおかしいだろう。「橋の架けたる」ならまだわかる。

『後拾遺集』

をんなをかたらはむとしてめのとのもとにつかはしける
源頼光朝臣
かくなむと 海人のいさり火 ほのめかせ 磯べの波の をりもよからば
かへし 源頼家朝臣母
おきつなみ うちいでむことぞ つつましき 思ひよるべき みぎはならねば

頼家というのは頼朝の長男ではなくて、ここでは頼光の次男(実に紛らわしい!)。であるから、頼家母というのは頼光の妻(の一人)のはずである。その女性は平惟仲の娘であるという。頼家母の乳母に歌を送ったら頼家母本人が返事をした、ということか?それとも頼家母が乳母をしている別の女性がいたのか?(いやその可能性は低いだろういくらなんでも)「をんな」というからにはすでに子を持つ女性、その子を育てている乳母、ということだろう。よくわからん。

「かくなむ」が口語っぽい。「もうそろそろ良いんじゃないか。私の本心はこうですよとそれとなく打ち明けてくれ。」

『金葉集』二度本

源頼光が但馬守にてありける時、たちのまへにけたがはといふかはのある、かみよりふねのくだりけるをしとみあくるさぶらひしてとはせければ、たでと申す物をかりてまかるなりといふをききて、くちずさみにいひける
源頼光朝臣
たでかるふねの すぐるなりけり
これを連歌にききなして 相模母
あさまだき からろのおとの きこゆるは

相模は頼光の養女であった。つまり相模母は頼光の愛人であったと思われる。この相模母というのは能登守慶滋保章の娘だそうだから、頼家母とは別人ということになる。まあ、シングルマザーの愛人がいたりその連れ子がいたり、愛人に自分の子を産ませたり。いろいろあったわけだな。源義朝なんかもそんな感じだし。

相模の歌がうまいのも頼光の影響かもしれん。但馬国府にいたときの歌とすれば「けたがは」とは今の円山川のことか。

頼光の子、頼国の歌は残ってないようだが、頼国の子、源頼綱は明らかに歌人である。頼綱の子、源仲政もまた歌人である。仲政の子、頼政は言わずとしれた源三位頼政、有名な歌人である。清和源氏は、疑いようもなく、最初からずっと歌人であった。いきなり頼朝や実朝、頼政が歌を読み始めたわけではないのである。

清和源氏の子孫を称する徳川家康は、まったく和歌を詠まなかった。家康が詠んだとされる歌はあるものの、それらが本人が詠んだものであるという証拠は何もない。

桓武平氏だと平忠盛が最初か?

後三条院御製

『後拾遺集』をながめていたら、後三条天皇の御製が三つあることに気付いた。

皇后宮みこのみやの女御ときこえけるときさとへまかりいでたまひにければ、そのつとめてさかぬきくにつけて御消息ありけるに
後三条院御製
まださかぬ まがきのきくも あるものを いかなるやどに うつろひにけむ

少し難しい。 まず皇后宮が、後三条の中宮・馨子内親王なのか。それとも白河の中宮・藤原賢子を言っているのか。 賢子は贈皇太后とは呼ばれたが皇后と呼ばれたことは無いらしい。 いっぽう馨子は後三条の死後、皇后宮と呼ばれ、『後拾遺集』完成時にも存命だった(賢子はすでに死去していた)。 だから、「皇后宮」というのは馨子であろう。 馨子は後三条が皇太子尊仁親王のころに入内している。 それが「皇后宮、皇子の宮の女御ときこえける時」であろう。 その皇太子妃が里に出ていたときに、尊仁がまだ花の咲いていない菊に添えて和歌を馨子に送った。菊もまだ咲いてないのに、どんな宿に行ってしまったのだろうか、と。

延久五年三月に住吉にまゐらせたまひてかへさによませたまひける
後三条院御製
すみよしの かみはあはれと おもふらむ むなしきふねを さしてきたれば

わかりにくいが、これは後三条が白河に譲位した後に、住吉大社に参拝して、その帰りに船上で詠んだ歌であるという。 譲位は延久四年十二月、崩御は延久五年五月であって、退位して半年あまりで死んでいるし、その死のわずか二ヶ月前に詠まれているのだから、おそらく死の病のために譲位したのではないか。「むなしきふね」とはその死ぬ間際の後三条のことを言い、神も「あはれ」と思うだろう、そう言っているのではなかろうか。

七月ばかりにわかき女房月みにあそびありきけるに蔵人公俊新少納言がつぼねにいりにけりと人人いひあひてわらひ侍りけるを、九月のつごもりにうへきこしめして御たたうがみにかきつけさせたまひける
後三条院御製
あきかぜに あふことのはや ちりにけむ そのよの月の もりにけるかな

蔵人公俊新少納言というのは藤原輔子の外祖父藤原公俊らしいが、どんな人かはよくわからない。七月頃に後三条のある若い女房が月を見にあちこち遊び歩いて、藤原公俊の局に入った(駆け落ちした?)ということを、人々が笑い合っているのを九月になって後三条が聞いて、秋に会おうという約束は果たされなかったのか、その夜の話は漏れてしまった、とでも言う意味であろうか。

ともかくこれらの歌を後三条が自分で詠んだのはほぼ間違いなさそうだし、それなりの知性をそなえた人であっただろうと思われる。

後三条天皇

ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集

「ヨハンナ・スピリ少年少女文学全集」をある種の義務感で読破してみようとしたのだが、余りにも退屈で挫折した。
この全集があっという間にその存在を忘れ去られてしまったのは、やはり単につまらないからなのだろう。
簡単な解説、あらすじくらいは付けて欲しかった。
この膨大な文書を読み通す人がはたしているだろうか。

例えば、Arthur und Squirell という話では、工場の経営者の子供に兄と妹がいて、兄は会社を継ぐのが嫌で失踪、社長は妹に婿をとって仕事を継がせようとしたが、妹にはすでに好きな男(牧師の息子)がいて、結局工場は売ってしまい、妹は牧師の息子と結婚した。
二人には男の子が出来たが(この子が主人公 Arthur)、Arthurが小さいうちに両親は他界してしまい、親戚に引き取られて、寄宿学校に入れられてしまうが、そこですったもんだあって、Arthurはある女の子(Squirell)と親しくなる(ボーイミーツガール!)。
そこへ失踪した兄(つまりAuthurの叔父)が大学教授となって戻ってきて(予定調和的な伏線の回収!)、甥Arthurとついでにその彼女Squirellを引き取って楽しく暮らす、という話なのだが、こんな話を延々と読まされたら気絶しそうだ。
あらすじだけで十分な気がする。
主人公が孤児で親戚に引き取られて知らない土地に連れて行かれる、という辺りがなんとなく「ハイディ」っぽい。

なぜ「ハイディ」だけがある程度読むにたえうる作品になり得たか(アニメの「ハイジ」はとりあえずよけといて)という考察は、もう少ししたほうが良いのではないか。
やはりストーリーというよりは、ハイディやアルムおじさんやデーテやロッテンマイヤーなどのキャラの濃さだと思うのだよね。
キャラの濃さという意味では「フローニ」もそれなりのもんだと思うよ。

そんで余りにも頭が疲れたのでヨハンナ・シュピリはやめにして佐佐木信綱を読み始めたのだが、これも恐ろしく退屈だ。この人は、少なくとも初期はちゃんと大和言葉だけで和歌を詠んでいた。江戸時代の和歌や、明治期の桂園派の和歌と大差ない。だが次第に漢語やそのほかの外来語が混じり始める。明らかに明星派やアララギ派の影響をうけているのである。佐佐木信綱の代表作である

ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲

あるいは正岡子規の代表作といわれている

くれないの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る

これらは長く伸びた俳句、或いは漢詩の翻案とでもいうべきものだ。漢語を交えて叙景、もしくは叙事だけでできあがっている。確かに古く武士にもこのような直截な叙景の歌はあったかもしれないが、叙景や叙事が心象風景に転調するところが和歌の骨頂であって、
叙景に仮託した心象の微妙な表現というものはやはり大和言葉、和歌でなくてはならない。

佐佐木信綱は明治の歌を詠みたかった。新しい時代の和歌は変わらねばならないと思った。だから明治以後の話題を歌に取り入れなくてはならない、という義務感のようなもので、いろんな概念、例えば「サタン」のような言葉を取り入れた。

敗られしサタンの軍ちりみだれくづるるがごと雲走りゆく

これは単に雨雲がサタンの軍勢のように見える、ということが言いたかったのだが、こういうものが世間にもてはやされることによって佐佐木信綱という歌人自体が変容していく。

佐佐木信綱の崩れ方というのは昭和天皇の崩れ方と良く似ている。おそらく昭和天皇も佐佐木信綱の影響をうけたのだろうと思う。そして今の現代短歌というものは、もはや何でもありのカオスになってしまった。ましかし、短歌は短歌で勝手にやれば良い。問題は和歌を詠む人がほとんどいなくなり下手をすると私で断絶するかもしれないってことなのだ。

私には、明治の歌人たちは、明治という一過性の時代に和歌を適合させようとして和歌を破壊した(あるいは和歌から逸脱していった)だけのように見える(柳田国男などの桂園派の歌人は抵抗した。明治天皇も最後まで大和言葉だけで歌を詠んだ)。明治は過ぎ去っても和歌は残らねばならない。和歌は時代の影響をうけるとしても、和歌自体は「永遠の過去」に属するものでなくてはならない。能や歌舞伎ではそれが当たり前なのに和歌はそのことが軽んじられているのは残念ではないか。

京極派の末裔2

話を整理してみると、鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。

ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、 二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、 つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、 二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。 二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、 冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。 その傾向は、 常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。 つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、 思いついたままを歌にしてみる。 ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、 その両方を楽しんでいた。 後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。ある意味そうかもしれない。 宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。

松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。 たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。 そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、 正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、 堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。 彼は逃れようとした。 しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、 彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、 江戸より昔ではなく、江戸初期に起きたことなのである。 江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、 そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。

幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。
ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、 後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、 宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。この見立てはよい。

後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。私にはそうは思えない。なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、彼らから京極為兼が生まれてきたのである。また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。為家は確かに生まれながらの「正風」である。題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。しかし定家はかならずしもそうではない。為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。こういうものを宣長は完全に無視している。

京極派の末裔

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。 北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。 歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。そうではなかったのだ。 為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。為兼によって京極家は途絶えたが、しばらく分家の冷泉家に伝わった。例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。この頃から連歌が流行しだす。源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。金葉集の頃だ。しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、長いものを作るようになった。東常縁の弟子が宗祇。宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、その分岐点は定家だった、ということもできる。

柿園

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、私にはいかにもあざとく見える。

心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。 こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、 景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。 江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。 歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。 加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、 やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。 つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、 宣長や大平とはまるで歌風が違う。

宣長の初めての歌

新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。 ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。 普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。「来にけりな」であれば後鳥羽院

昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。 いずれも「秋来にけりな」の形。 いずれにしてもあまり事例は多くない。 「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。 「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。 初出は西行の

うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。 宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。 これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。 そうだなあ。私なら、もとを活かして

あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

竜田川と神奈備の杜

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。
古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。 その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、 柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す
竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる
読人不知 此歌右注人丸歌、他本同
たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。業平の歌

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、
ぴったりくるのである。

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる
深養父
神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。 しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。 京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。 それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。 山崎はずばり地峡という意味である。 巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、 おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。 そして神奈備山はその川の上流であったろうし、 神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
貫之
年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。『土佐日記』

九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。
(中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

十日、さはることありてのぼらず。

十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

十二日、山崎にとまれり。

十三日、なほ山崎に。

十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。 八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。 相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。 男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。 清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。 平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、 竜田川の歌も詠まれ始めた。 ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、 初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。 それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、 また山崎港などと呼ばれた港があり、 渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、 貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

御春有助(みはるのありすけ)
あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ
藤原元方
竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。 ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、 単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて
柿本人麿
竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。 かなり附会が進んだ形だと言える。

源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める
しろめ
いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし
山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める
源さね
人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ
今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける
藤原兼茂
したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、
京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。 嵯峨天皇第六皇子・源明(あきら) – 長男・源舒(のぼる)– 三男・源実。 宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、 おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。