京極派の末裔2

話を整理してみると、鎌倉末期から南北朝、室町中期までは、二条派と京極派が共存していた。ときに一方が勅撰選者となり、またとき他方が代わった。宣長は二条派を正風と呼び、京極派を異風と呼んだが、それは二条派の立場での見方。正風とは為家以後、頓阿に典型的にみられる題詠による歌風のこと。異風とは為兼によって提唱された、題詠を否定し、実情をありのままに詠むという歌風のこと。

ここで正風・異風と言っているのはまずは、題詠を肯定的にみるか否かということだ。

京極家は途絶えてしまったが、 二条派と京極派が拮抗していた頃は、世の中がどちらに転んでも良いように、 つまり時の帝や権力者がどちらを嗜好してもよいように、 二条家も冷泉家もどちらの詠み方もできるように訓練していたはずだ。 二条派でもまれには異風な、題詠によらない、奇抜な歌を詠んだだろうし、 冷泉家でも題詠の練習にいそしんだはずだ。 その傾向は、 常縁、宗祇、実隆、幽斎らの親密さからして、江戸初期まで続いたはずだ。 つまり、あるときは歌会で題詠を楽しみ、またあるときは折にふれて、 思いついたままを歌にしてみる。 ときに正風に、ときに異風に、正風と異風の「けぢめ」を明確に意識しつつ、 その両方を楽しんでいた。 後水尾院や松永貞徳あたりまでは明らかにそういう詠み方をしていた。

宣長は、俊成・定家以来、歌道の家が定まったことが歌道の衰退の始まりだとしている。ある意味そうかもしれない。 宣長は古今伝授というものが歌道を衰退させた元凶であると言っている。それはあまりにも古今伝授を過大評価してはいないか。

歌道を衰退させたのはむしろ題詠であり正風ではなかったか。そしておそらく一番大きな要因は江戸初期における俳諧(俳句ではない。俳諧連歌、もしくは連句のこと)の流行にある。

松永貞徳あたりから、本来は和歌に留まるはずの人材が俳諧に流れた。
人々の関心が俳諧に集まり、和歌を顧みなくなった。
松尾芭蕉が最終的に、和歌に対する俳諧の優勢を決定づけた。
このことは皮肉にも、京極派が二条派に、異風が正風に勝利したことに他ならない。
正風や二条派が間違っていたことの証明に他ならない。
京極派は窮屈な和歌から逃れ出て、俳諧に活路を見出したのだ。

後水尾院以後和歌は急速につまらなくなった。 たとえば霊元院やその同時代の歌にはほとんどみどころがない。 そしておそらく三条西や頓阿を至上とする、 正風は良くて異風は悪いと「けぢめ」をつける風潮もこの頃に始まり、 堂上和歌はますます孤立し、世界とのつながりを失い、萎縮してしまった。

宣長は三条西、頓阿、正風という堂上和歌の世界に捕らわれてしまった。 彼は逃れようとした。 しかし、堂上和歌とか歌道の家とか古今伝授をいうものを批判するばかりで、 彼自身は正風を至上とする中心から外れることができなかった。

宣長は江戸中期の人だ。その宣長が否定しようとしていることのほとんどすべての要因は、 江戸より昔ではなく、江戸初期に起きたことなのである。 江戸時代の和歌の衰退をその前の時代に押しつけるのは不当だ。

宣長は「あしわけをぶね」で

東下野守・宗祇・幽斎など人さまざまの異説を云ひ出だし、深妙なるやうにせんとして、いろいろむつかしく云ひなせしより、此の道陵夷せり、

などと言い、和歌の衰退を東常縁、宗祇、幽斎などのせいにしているが、 そこに頓阿や三条西が(きわめて積極的に)荷担していることには見て見ぬふりをしている。

幽斎古今の嫡伝を得て、名を振るへり。されどこれまた歌も取るに足らず。歌学もあさあさしきことなり。
ことに後水尾帝の御歌には、異風なるが多きなり。

幽斎の有名なのは単に古今伝授したせいであってその歌は取るに足りないとか、 後水尾院の歌は異風だからダメだ、などと言っているところなど、 宣長の和歌鑑識能力を疑うに十分ではないか。

他にもいろいろと問題がある。

古今・後撰・拾遺の三代集はよく、特に古今がよいが、後撰・拾遺には悪いのがまじっている。特に拾遺集にはひどいのが多い。この見立てはよい。

後拾遺・金葉・詞花集は風体よろしからず。そのよからぬと云ふは、詞の善悪をいはずして、ただ心をめづらしく、物によせなどして、心をめづらしく詠むことを詮にして、詞をいたはらぬゆゑに、優艶なることなし。いはゆる実のみにして花なきもの也。

このようなよくわからぬ理由で後拾遺・金葉・詞花を貶める人はたくさんいるのだが、それはただ、三代集とその後の千載集・新古今を褒めたいがために、その間が劣っているといいたいのだ。しかるに、後拾遺は和泉式部や赤染衛門を発掘した等々の偉大な業績のある歌集であるし、金葉集はかの源俊頼が選んだだけあってみごとなものである。逆に、千載や新古今がそんなに優れているだろうか。私にはそうは思えない。なるほど和泉式部、赤染衛門、俊頼らは「異風」であろう。しかし西行、式子、定家、俊成らもまた宣長が嫌う「異風」の歌人であって、彼らから京極為兼が生まれてきたのである。また二条派ではあるが後醍醐天皇はかなり「異風」な歌を詠んでいる。九条良経や後鳥羽院、俊成女は明らかに「正風」である。そして新古今がつまらぬのはこの「正風」のせいだ。為家は確かに生まれながらの「正風」である。題詠であろうとなかろうと、彼ほど自然に、普段の話し言葉で会話をするように歌が詠めた人はいないと思う。しかし定家はかならずしもそうではない。為家はおそらく何も考えずに自然に歌が詠めた。定家は常に考えを巡らして技をこらして詠んだ。

為家卿時代の人、名人いづれも大いにおとれり。定家卿の子息弟子などとても、定家卿時代とは格別におとれり。

新古今を(そして百人一首を)褒めたいばっかりに、やはりこういうことを言う人も非常に多いのだが、明らかに間違いだ。たとえばこの時代から北条氏やその他武士の歌が多くまじってくるが、それらには秀歌が多い。こういうものを宣長は完全に無視している。

京極派の末裔

中根道幸は伊勢で「伊勢文芸」を研究し、そのルーツが北村季吟であることを突き止めた。 北村季吟が遺した伊勢文壇とでもいうべきものが本居宣長という歌人をはぐくんだ。 歌人宣長はやがて源氏物語を読み解き、古事記を読み解いたのである。

北村季吟は松永貞徳の一門であり、松尾芭蕉の師匠にあたる。松永貞徳は細川幽斎の弟子であり、木下長嘯子と親交があった。

私はずっと、京極派は京極為兼の死後廃れたのだと思っていた。そうではなかったのだ。 為兼の後、京極派は次第に正統な和歌から外れていった。それを宣長がいうように正風に対して異風と呼んでも良いかも知れない。為兼によって京極家は途絶えたが、しばらく分家の冷泉家に伝わった。例えば冷泉為相、その子の為秀、その子の為尹。為秀の弟子が今川了俊、了俊の弟子が正徹。了俊から冷泉家ではなく、地下に京極派が伝わっていったことになる。正徹の弟子には心敬、東常縁らがいる。心敬の頃から京極派は連歌にわかれていく。この頃から連歌が流行しだす。源俊頼の頃は連歌と言えば、五七五と七七を別々の人が詠んで一つの歌を作ることだった。金葉集の頃だ。しかし室町の連歌は、友人どうし(というか同門どうし)あるいは師匠と弟子などの共作で百韻など、長いものを作るようになった。東常縁の弟子が宗祇。宗祇と三条西実隆は仲良しだったが、実隆は堂上、正統派の二条派だった。そして三条西を継ぐ形で幽斎が登場する。

常縁、宗祇、実隆、幽斎の親近の度合いで二条派と京極派を分類することはできない。保守的で、公家的もしくは僧侶的で、堂上的なのが二条派なのであり、反二条派であったり、俳諧的なものが京極派なのである。たとえば宣長は古今伝授を否定し、小倉色紙には肯定的だったが、私からみればそれはどちらも中世の(というより近世の)迷信にすぎない。
宣長は単に契沖の受け売りで古今伝授の非なることを知ったが、二条派を貴び京極派を嫌うあまりに、古今伝授とは京極派の属性であって、京極派が堕落したのは古今伝授のせいだと思いこもうとした。しかるに二条派の歌人らも古今伝授を信じていたのである。小倉色紙を信じるところをみても、宣長にまともな客観性や批判精神が無いことがわかるのである。我々はむしろ、宣長の嗜好偏見から、明確に、何が二条派で、何が京極派であるかを見分けることができる。宣長の好きなものは二条派であり、嫌うものが京極派なのである。これがもっとも簡単な、二条派と京極派を見分ける方法だ。

私が宣長を疑ったのは、一つには彼が幽斎を理解しえないことだった。幽斎はどうみても優れた歌人であるが、宣長はそれを否定しようとする。今から思えば幽斎が二条派ではない、つまり京極派だからなのだ。そして中根道幸氏の明確な指摘によって最終的に宣長の欠点を理解した。しかし世の中に京極派と二条派の違いのわからぬ人は多い。理論的にはともかく宣長の嗅覚はここでも非常に鋭かったことがわかるのである。

宣長は京極派は廃れたことにしてしまいたかった。しかし京極派は、正統な和歌からは外れていったが、厳然として生きており、のちに連句や俳句、あるいは狂歌として残ったのであり、或いは江戸期の浄瑠璃や都々逸などにも影響を与え得ただろう。勅撰二十一代集が廃れたのは京極派が和歌から離脱していったせいでもあろう。そして和歌が再び隆盛に転じるのは、江戸後期に、国学の充実によって二条派、京極派がそれぞれ充実してきて、再び接点を見出したためではなかろうか。
保守的な二条派的なものと、前衛的な京極派的なものが互いに影響しあってよい歌が生まれる。そしてその二つが分岐したのは、歴史をさかのぼってみれば、その分岐点は定家だった、ということもできる。

柿園

加納諸平だが、『柿園詠草』巻頭

うぐひすの 今朝鳴く声を 糸にして 霞の袖に 花ぞ縫はまし

こういう歌を好む人もいるのだろうが、私にはいかにもあざとく見える。

心して 風の残せる 一葉すら もずの羽吹きに 誘はれにけり

絵はがきの挿絵のような、安っぽさがある。 こういうものを明治の歌人が詠んだならば、まあ仕方ないと思うかもしれんが、 景樹の桂園派と何か無理に張り合っているような感じがする。 江戸時代も安政くらいまでくると和歌もだいぶ雰囲気が変わってくる。 歌というものはある程度きどってて、かっこつけてるものなんだが、加納諸平のはそれが、嫌みに感じるのだ。

夕かけて 小雨こぼるる たかむらの 蚊のほそ声に 夏を知るかな

こういうものであれば好感もてる。

棹ふれし 筏は一瀬 過ぎながら なほ影なびく 山吹の花

おそらくこの歌は、景樹の

山吹の 花ぞひとむら 流れける いかだのさをや 岸に触れけむ

に対抗したものではなかろうか。「柿園」というのも景樹の「桂園」に対抗したもののように思われるし。 加納諸平という人は紀州の加納家の養子となり、 やはり和歌山で紀伊徳川家に仕えていた本居大平(宣長の養子)に入門して国学をまなんだ。 つまり宣長の孫弟子に当たるわけだが、 宣長や大平とはまるで歌風が違う。

宣長の初めての歌

新玉の 春来にけりな 今朝よりも かすみぞそむる ひさかたの空

宣長が19歳の時に、最初に詠んだ歌。 ちょっと検索してみると、いろんなことがわかる。

「春来にけりな」という歌は無い。 普通は「春は来にけり」と言うところだがなぜ「春来にけりな」?

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

やはりこれの影響か。「来にけりな」であれば後鳥羽院

昨日まで かかる露やは 袖に置く 秋来にけりな あかつきの風

或いは寂連の

吹く風も 松の響きも 波の音も 秋来にけりな 住吉の浜

がある。 いずれも「秋来にけりな」の形。 いずれにしてもあまり事例は多くない。 「あらたまの」は普通は「年」にかかるが「春」も無くはない。 「今朝よりも」これもあまり用例はない。初出は凡河内躬恒

七夕の 飽かで別れし 今朝よりも 夜さへ飽かぬ 我はまされり

普通は「春立ちぬ」などというところだが、「春来にけり」「春は来にけり」も少なくはない。

「かすみぞそむる」これも用例がない。まあ、普通ならば「かすみそめたる」などとやるところだ。

「ひさかたの空」これもなくはないが用例は少ない。 初出は西行の

うき世とも 思ひとほさじ 押し返し 月の澄みける ひさかたの空

であるらしい。

これらは主に新古今時代の歌だが、新古今やその他の勅撰集に出ているわけでもない。 宣長はどうやって和歌を勉強したのであろうか。
もう少しほかの宣長の初期の歌に当たってみる必要がありそうだ。

今朝よりや 春は来ぬらむ あらたまの 年たちかへり かすむ空かな

似てる歌を探してみた。 これは二条為世。まあ、普通の歌人の歌だわな。 そうだなあ。私なら、もとを活かして

あらたまの 春は来にけり あしたより かすみそむらむ ひさかたの空

或いは

あらたまの 年のたちぬる あしたより

などと直すだろうか。いずれにせよ私はこんな歌は詠まないけど。

竜田川と神奈備の杜

万葉集には「たつたがは」が一つも詠まれていないという宣長の指摘は大発見であった。
古今集ですでに竜田川が奈良の龍田山に流れる川であるという誤解が生まれていたのにもかかわらず。 その歌はもともと読み人知らずだったはずだが、 柿本人麻呂や平城天皇の歌であろうと推定されたのである。

題しらず 読人不知 この歌は、ある人、ならのみかとの御歌なりとなむ申す
竜田河 もみちみだれて 流るめり わたらば錦 なかやたえなむ
題しらず 又は、あすかかはもみちはなかる
読人不知 此歌右注人丸歌、他本同
たつた河 もみちは流る 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

ある人の説によれば、とこの頃はかなり消極的である。業平の歌

二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風にたつた河にもみちなかれたるかたをかけりけるを題にてよめる
ちはやふる 神世もきかず 竜田河 唐紅に 水くくるとは

ただし、『伊勢物語』106番

むかし、男、親王たちの逍遥したまふ所にまうでて、龍田河のほとりにて、
ちはやぶる神代も聞かず龍田河からくれなゐに水くくるとは

こちらがおそらく古い形だろう。男とは業平、親王たちとは惟喬親王らと考えれば、
ぴったりくるのである。

神なひの山をすきて竜田河をわたりける時に、もみちのなかれけるをよめる
深養父
神なびの 山をすぎ行く秋なれば たつた河にぞ ぬさはたむくる

私はずっと、竜田山こと神奈備山は、京都と大和の往還の途中にあるのだと思っていた。 しかし、奈良であればともかくとして、京都から大和へ行く用事がそれほどあるとは思えない。 京都から奈良に行くには竜田山を通るはずもない。 それに対して京都から西国へ下っていく途中で必ず山崎は通るのである。 山崎はずばり地峡という意味である。 巨椋池から淀川が大阪平野に流れ出す地峡であり、 おそらくかつてはここに急流があった。

竜田川は今の水無瀬川だということを先に書いた。 そして神奈備山はその川の上流であったろうし、 神奈備の杜はこの川の流域の森であったはずだ。

秋のはつる心をたつた河に思ひやりてよめる
貫之
年ごとに もみち葉ながす 竜田河 みなとや秋の とまりなるらむ

これを見るに竜田川には港があったことになる。『土佐日記』

九日、心もとなさに明けぬから船をひきつつのぼれども川の水なければゐざりにのみゐざる。
(中略)かくて船ひきのぼるに渚の院といふ所を見つつ行く。その院むかしを思ひやりて見れば、おもしろかりける所なり。しりへなる岡には松の木どもあり。中の庭には梅の花さけり。ここに人々のいはく「これむかし名高く聞えたる所なり。故惟喬のみこのおほん供に故在原の業平の中將の「世の中に絶えて桜のさかざらば春のこころはのどけからまし」といふ歌よめる所なりけり。(中略)こよひ宇土野といふ所にとまる。

十日、さはることありてのぼらず。

十一日、雨いささか降りてやみぬ。かくてさしのぼるに東のかたに山のよこをれるを見て人に問へば「八幡の宮」といふ。これを聞きてよろこびて人々をがみ奉る。山崎の橋見ゆ。嬉しきこと限りなし。ここに相應寺のほとりに、しばし船をとどめてとかく定むる事あり。この寺の岸のほとりに柳多くあり。

十二日、山崎にとまれり。

十三日、なほ山崎に。

十四日、雨ふる。けふ車京へとりにやる。

十五日、今日車ゐてきたれり。船のむつかしさに船より人の家にうつる。

というわけで、山崎から先は都から車を取り寄せて、車に乗り換えて移動したらしい。

山崎橋は桓武帝即位三年に作られたという。 八幡の宮とは男山の石清水八幡宮のこと。 相應寺というのは石清水八幡宮の対岸に位置した寺で今の離宮八幡宮。 男山八幡宮こと石清水八幡宮は清和天皇の御代に宇佐八幡宮を勧進したものであるという。 清和天皇は惟喬親王と同様に文徳天皇の皇子だから、渚の院も同じ頃に作られたということか。 平安遷都があってからこの山崎、男山、そして渚の院などは西国旅行の要衝となり、 竜田川の歌も詠まれ始めた。 ところが嵯峨天皇の御代にはすっかり和歌は宮廷から遠ざけられていて、 初期の竜田川の歌は誰が詠んだのかわからなくなってしまった。 それで奈良時代の歌と勘違いされたのだろう。

思うに竜田川(水無瀬川)が淀川に合流するあたりに山崎宿があり、 また山崎港などと呼ばれた港があり、 渚の院はそのすぐ側にあったのだが、惟喬親王が没落して、 貫之の時代にはすでに廃れていたのだろう。

後撰集

御春有助(みはるのありすけ)
あやなくて まだきなきなの たつた河 わたらでやまむ 物ならなくに

西国に派遣されるのに通る場所だったということだ。

しのびてすみ侍りける人のもとより、かかるけしき人に見すな言へりければ
藤原元方
竜田河 たちなば君が 名を惜しみ いはせのもりの いはじとぞ思ふ

岩瀬の杜は奈良にあるという。 ただ、このころにはすでに竜田川が大和にあることになっていたから、 単に詠み合わせただけかもしれない。

拾遺集

奈良のみかど竜田河に紅葉御覧しに行幸ありける時、御ともにつかうまつりて
柿本人麿
竜田河 もみち葉ながる 神なびの みむろの山に 時雨ふるらし

これは古今集の歌の再録である。 かなり附会が進んだ形だと言える。

源のさねが、筑紫へ湯浴みむとてまかりけるに、山ざきにて別れ惜しみける所にて詠める
しろめ
いのちだに 心にかなふ 物ならば なにか別れの かなしからまし
山ざきより神なびのもりまでおくりに人人まかりて、かへりがてにして、わかれ惜しみけるに詠める
源さね
人やりの 道ならなくに おほかたは 生き憂しと言ひて いざ帰りなむ
今はこれより帰へりねと、さねが言ひけるをりに詠みける
藤原兼茂
したはれて きにし心の 身にしあれば 帰るさまには 道も知られず

これらは古今集に出てくる、
京都から筑紫へ旅立つ人を見送りに、山崎から神奈備の杜で別れを惜しんだという一連の歌。

源実(みなもとのさね)は嵯峨天皇の曾孫。昌泰三(900)年没。 嵯峨天皇第六皇子・源明(あきら) – 長男・源舒(のぼる)– 三男・源実。 宇多天皇から醍醐天皇に代替わりする頃に死んでいるから、 おそらく古今集が編纂されている最中に収録された歌なのだろう。

「しろめ」は謎だが、山崎宿あたりにいた遊女ではなかろうか。

雲居に紛ふ沖つ白波2

雲居に紛ふ沖つ白波再説

高橋睦郎「百人一首」p.152

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。

詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」

保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。 新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。 ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。

忠通は藤原忠実の長男。 忠実の次男が頼長。 この三人と、 本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。 はてそうだろうか。

1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。 なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。 崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。 しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、 頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。

でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、 鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?) 1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。 泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。 まあこういう例は珍しくない。 皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。

また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、 この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。

つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、 忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、 ほとんど何の意味もない。

のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、 それは1156年、21年後のことなのである。 その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、 後代の人にありがちなこじつけというしかない。

同著の中で、

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、 これもひどいこじつけだ。 また

待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、

式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。

そのほかあげればきりがない。 また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、 ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。 またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。 確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、 定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、 実際そのように後世考えられるようになった。 後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。 しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。

父の歌など

柳田国男『故郷七十年』「父の歌など」

はかなくも 今日落ちそむる ひとはより 我が身の秋を 知るぞかなしき

ここで父とは柳田国男の父・松岡操のこと。彼もまた桂園派の歌人であった。

「ひとは」とは普通に考えれば「一葉」なのだがこれには「一歯」がかけてあり、
秋の葉が落ちるように自分の歯も抜け始めたということが言いたいのである。

奥山は 住み良きものを 世に出でて 立ち舞ふ猿や 何の人まね

これらはどちらかと言えば狂歌に近いけれども、こういう皮肉で自虐的な、人を馬鹿にしたような歌というのも香川景樹と桂園派の歌の特徴といえる。

夜光る 白玉姫を 見てしより 心そらなり つちは踏めども

山なしと 聞く武蔵野の 夏の夜に 吹くやいづこの 峰の松風

これらは景樹が京都から江戸に下って浅草に私塾を開いた頃の歌であるという。

私は明治にあつて、まだ生々とした江戸文化の残り火に肌ふれることができたのであつた。

ついでながら近世和歌史についても一言いつておきたいことがある。それは景樹翁が亡くなつてから、歌が衰へたといふ説があるが、それは誤りであつて、加藤千蔭や村田春海が亡くなつてから、かへつて歌はよくなつてゐると、私は見るのである。

後になつて落合直文や与謝野鉄幹らが出て来て盛んになつたのは、時代の機運に乗じたのであつて、それ以前の和歌がまづかつたためではない。

その間の四、五十年といふのは、じつは歌が良くなつた時代であつた。関東においても千蔭が力を揮つた時代よりも、歌は良くなつてゐる。

加藤千蔭や村田春海というのは賀茂真淵の影響下にあった(つまり万葉風の)江戸歌壇の歌人らであり、景樹はわざわざ本拠地京都から江戸に下って彼らに勝負を挑んだのだが、結局京都に戻り天保年間に亡くなった。柳田国男が真淵よりも景樹のほうが歌はましだったと擁護しているのがおかしい。落合直文や与謝野鉄幹、そして続く正岡子規らもあきらかに真淵のますらをぶりを継承している。柳田国男が正しく江戸文化、とりわけ桂園派を理解し、その擁護者であったことを示す文であるといえる。

柳田国男はある意味私に良く似た人である。彼に関する誤解は、彼自身というよりも、彼の言葉を引用して、それを自説に都合良く解釈する人たちのせいのようだ。

故郷七十年

大塚英志『キャラクター小説の作り方』の続きなのだが、 この中に「柳田国男による古典文学批判」として出てくるのは、 「頓阿の草庵集」というごく短い文であり、 『定本 柳田国男集 別巻3』に載っている。 この『別巻3』は『故郷七十年』『故郷七十年拾遺』からなっていて、 柳田国男が神戸新聞の求めに応じて、口承で残した自伝であるという。 序に昭和三十四年とあるから、1959年、柳田国男84歳、死去する3年前に出版されたことになる。

明治20年というから、柳田国男が12歳の時に、 彼は故郷の播州を、兄・井上通泰とともに離れる。

私は早熟で子供ながらに歌をやつてゐた。私の家に鈴木重胤の「和歌初学」といふのがあり、四季四冊のほかに恋、雑の上・下など七冊になつてゐた

などとあり、香川景樹の

しきたへの 枕の下に 太刀はあれど 鋭(と)き心なし いもと寝たれば

が引用されている。 12歳にして景樹のこの歌を暗唱していたとは確かに早熟である。 鈴木重胤は江戸時代の国学者というか、平田篤胤系の神道家のようである。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

俊成

藤原俊成は葉室家の養子だったとき、葉室顕広と名乗った。葉室家の養父は葉室顕頼と言ったから、養父から「顕」の字をもらった。

葉室顕頼の没年は1148年。俊成が美福門院加賀と結婚したのは、長男・成家の生まれた年(1155年)から推測するに、顕頼が死んでだいぶしてからだろう。俊成1114年生まれ。41才にしてやっと跡継ぎ出生というのはずいぶんおそい。家族も養えないくらいに冷遇されていたということだろうか。美福門院加賀が連れ子で再婚、俊成が初婚というのも思えば不可解だ。

俊成の姪にあたる徳大寺忻子が後白河即位とともに入内したのが1155年(当時忻子21歳。妹多子は15歳)。俊成の運はこの前後から好転し始めたはずであり、やっと一家をかまえ、妻を持ち、子を産む経済的余裕がうまれたのに違いない。

葉室家を離れたのは俊成と改名した1167年頃であったはずだ。明らかに俊成の亡父・俊忠から「俊」の字をもらっているのである。このとき成家は12才、定家は5才。

俊成の長男・成家だが、明らかに俊成から「成」の字をもらっている。今日的感覚で言えば成家が俊成の嫡男ということになる。成家は55才で正三位だからそれなりの出世だ。