雲居に紛ふ沖つ白波2

雲居に紛ふ沖つ白波再説

高橋睦郎「百人一首」p.152

わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣こと藤原忠通。

詞花集「新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給ひけるによめる」

保延元(1135)年4月の内裏歌合で詠まれたものであるらしい。 新院とはここでは詞花集の勅撰を命じた崇徳院で、位におはしましし時とは在位中(1123-1142)という意味。 ま、ともかく 1135年のことと考えてよいだろう。

忠通は藤原忠実の長男。 忠実の次男が頼長。 この三人と、 本院(白河)、新院(鳥羽)、天皇(崇徳)が絡んだ複雑な政争を詠んだものだと高橋睦郎は言う。 はてそうだろうか。

1135年当時、白河院はすでに崩御(1129)している。 なので、崇徳天皇が在位中で、鳥羽院が院政を敷いていた状態。 崇徳天皇が鳥羽院によって近衛天皇に譲位させられるのは1142年のこと。 しかし近衛天皇が生まれるのは1139年だし、 頼長は1120年生まれ、1135年でまだ15才にすぎない。

でまあ、1135年当時どのような政争があったかといえば、 鳥羽院は(祖父の白河院から押し付けられた中宮待賢門院藤原璋子を嫌っていて?) 1133年に忠実の要望をいれて忠実の娘(つまり忠通と頼長の姉)高陽院藤原泰子を入内させる。 泰子は当時すでに39歳でのちに皇后になっている。 まあこういう例は珍しくない。 皇子を産んでもらうというのでなしにただ形だけ有力者の家から皇后を立てる。

また1134年から美福門院藤原得子(近衛天皇の生母)が鳥羽院の寵愛を受けるようになっているが、 この時点で美福門院の影響は考えなくてよかろう(得子の父・長実は生前は正三位・権中納言だから大した公家ではない。藤原定家くらい)。

つまり、この時期は鳥羽院と忠実の全盛期であって、 忠通が崇徳天皇になにやら怪しげな、諫言めいた歌を奉るなどということに、 ほとんど何の意味もない。

のちに頼長と崇徳院が組み、忠通が後白河天皇と組んで保元の乱が起きたが、 それは1156年、21年後のことなのである。 その保元の乱のイメージでこの歌を鑑賞するというのは、 後代の人にありがちなこじつけというしかない。

同著の中で、

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

の「来ぬ人」は後鳥羽院、待つ海女は定家だとみなしているのだが、 これもひどいこじつけだ。 また

待賢門院璋子と北面武士佐藤義清(西行)の十七歳違いの例もあり、

式子内親王の忍ぶ恋の相手は定家ということも、「考えられないことではない」とする。

そのほかあげればきりがない。 また高橋睦郎という人がそういう人だから仕方ないのかもしれないが、 ギリシャやローマやそのほか西洋の話にいちいち絡めてくるのが邪魔というよりない。 またこの人も「王朝を埋葬」したい人らしい。 確かに定家は朝廷から幕府に実権が移った時代に生きた人だから、 定家や百人一首を王朝の鎮魂歌とみなしたい気持ちはわからんでもないし、 実際そのように後世考えられるようになった。 後鳥羽院と順徳院の歌が末尾に付加されたのはその意味にちがいない。 しかしそれは定家とは直接関係ないことだ。

雲居に紛ふ沖つ白波

藤原忠通

わたの原 漕ぎ出てみれば 久方の 雲居に紛ふ 沖つ白波

「くもゐにまがふ」だが、これ自体は珍しいのだが、検索してみると「かすみにまがふ」という用例がある。「花のためしにまがふ白雪」などというものもある。「しらがにまがふ梅の花」というのもある。

「かすみにまがふ」とは「霞と見間違う」という意味ではなく、「かすみに紛れてよく見えない」という意味だ。

かざしては 白髪にまがふ 梅の花 今はいづれを 抜かむとすらむ

こちらは白髪と梅の花が紛らわしいという意味だ。

いずれにせよ「雲居に紛ふ沖つ白波」とは雲か波か見分けがつかない沖の白波という意味だろう。

詞花集には関白前太政大臣という名で二首続けて載る。

左京大夫顕輔あふみのかみに侍りける時、とほきこほり(遠き郡)にまかれりけるにたよりにつけていひつかはしける

おもひかね そなたのそらを ながむれば ただやまのはに かかるしら雲

藤原顕輔は詞花集の選者。

新院位におはしましし時、海上遠望といふことをよませ給けるに

わたのはら こぎいでてみれば ひさかたの くもゐにまがふ おきつしらなみ

新院とは詞花集の勅撰を命じた崇徳院のことで、位におはしましし時だから、在位中の 1123年から 1142年の間に詠まれたことになる。この時期まだ一院である鳥羽院が存命で、新院である崇徳院は完全に鳥羽院の院政の下にあったわけだ。ところで「雲居に紛ふ沖つ白波」とは、保元の乱(1156)で敵味方に分かれて戦った弟の藤原頼長のことだという説があるようだ。帝位を伺う佞臣に気をつけてくださいと、忠通が崇徳院に注進したというのだが、まあ時期的にあり得んだろそれは。崇徳天皇在位中、頼長は3歳から22歳の間。頼長が周囲と対立して悪左府と呼ばれるようになるのは、1151年以後。左府(左大臣)となったのでさえ 1149年。藤長者になったのは1150年。

忠通はこのときすでに摂政も関白も太政大臣も歴任済み。順調に出世していて特に政敵がいるようにも見えない。

百人一首をおかしなふうに解釈してるやつは一つ一つつぶしていかにゃならん。そうやって、なんら根拠のないこじつけをありがたがる風潮がある。室町時代の古今伝授と何も違わない。現代人は室町時代・江戸時代の無知蒙昧を笑えない。

「沖つ白波」の沖は隠岐であり、後鳥羽院を鎮魂しているという説。まあ、無視してよかろう。

百人一首の並びで、前と後が、忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊、崇徳天皇)であるという説。これもどうでも良い話。ていうか基俊はただの歌人だと思うのだが。なんなんだろうか。忠通とはむしろ近かったはずだ。

和歌と詩

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。 或いは押韻がある。 そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。 中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。 この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。 最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。 しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。 強弱はあるが、しかし和歌では無視される。 則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。 他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。 短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。 その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。 名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。 そして完全な修辞を駆使できる。 暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。 言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。 和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。 さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。 俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。 少なくとも普遍的概念としての詩ではない。 俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。 俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。 逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

和歌の本

和歌の本にはある一つの定型がある。 歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。 ところが今回私が書こうとしたのは、 禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、 それらが渾然と絡まりながら発展していく、 その中心には定家があり、承久の乱がある。

こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、 関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。 承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。 禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、 それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。 禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。 そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、 普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。

で、要するに、 本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。 和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、 承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。 マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。 普通はそれを調和とは言わない。 和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。 私が好きなのはそんな本だ。 ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。 或いは論文かなにか読んだほうがましだ。 たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。 和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。 あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。 それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。 いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、 私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。

道元の話をしてもいいんだが、 道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、 それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、 平頼盛が檀那だったとか、 どうしてもそんな話になってしまう。 普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり
世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして
山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。

新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の新類題和歌集をだらだらと読んでいたのだが、 後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父) などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、 通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、 勅撰集には当たらないとされているのだが、 私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。 21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。 後水尾院の歌は確かに良い。

梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。 しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。 皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。 武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、 幸仁親王がただ幸仁、 太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。 普通勅撰集には官職名を添えるものだ。 藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、 藤原定家が権中納言定家となるようなもので、 中には官職しか書かれない場合もある。 実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。 親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。 霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。 そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。 和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、 どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、 近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。 windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。 なんとかしてもらわないと困るのだが。

和歌とプロパガンダ

伊東静雄の詩を読むと、 当時の日本人の昂揚と、そこから突き落とされた絶望が刻まれていてつらい。 伊東静雄は戦前はドイツ語訳風な漢語調の硬派な詩を作った。 しかし戦中は大和言葉で詩を作った。 戦後、ふつうの話し言葉で詩を書くようになった。

伊東静雄もまた国粋主義に振り回された一人だった。

国威高揚のための国粋主義は極めて危険だ。 大和言葉もファナティックな思想の道具とみなされてしまった。 非常に不幸なことだ。 上田秋成も本居宣長も大和言葉や和歌がプロパガンダに使われるとは思ってもいなかっただろう。

私の祖父も戦中に大和言葉で和歌を詠んだ。 伊東静雄とまったく同じだと思った。 戦争だから和歌を詠むというのはあまりにも悲しい。 戦後和歌が忌避され、醜悪な現代短歌が生まれたのは、和歌をプロパガンダに使ったせいだ。

ツイッターでわざと歴史的仮名遣いを用いたり、 天皇は万世一系でうんぬんと賛美したりするのを見るのはつらい。 我々は一度挫折と失敗を経験したのだからそこから学び、その経験を活かすべきではないのか?

和歌の詠み方

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。

奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。新しい言葉を造ることは凡人には無理である。なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。「反る」は「せる」。安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美知乃久能みちのくの 安太多良末由美あだたらまゆみ 波自伎於伎弖はじきおきて 西良思馬伎那婆せらしめきなば 都良波可馬可毛つらはかめかも

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。