二条天皇

二条天皇はわずか23歳で崩御したのだが、 優れた和歌を残している。独創的で斬新。白河天皇の凡々とした歌とはまるで違う。 崇徳院や後鳥羽院に通じるものもある、といえようか。 二代后など世間を騒がすこともあったようだが、 若々しく聡明で、 優れた君主であったようだ。

われもまた春とともにやかへらましあすばかりをばここに暮らして
雪つもるみねにふぶきやわたるらむ越のみそらにまよふしら雲
などやかくさも暮れがたき大空ぞわが待つことはありと知らずや
ことのねにかよひそめぬる心かな松ふく風にあらぬ身なれど
しるらめやおつる涙の露ともにわかれのとこにきえてこふとは
たれもよもまたききそめし鴬の君にのみこそおとしはしむれ
しら雲にはねうちつけてとぶたづのはるかに千代のおもほゆるかな

清輔に続詞花和歌集の編纂を命じたそうだが、完成しなかったのが実に惜しい。 その歌の多くは俊成が編んだ(後白河院勅撰の)千載和歌集に採られたのだが、その俊成

二条院の御とき、四代まで侍臣なることをおもひてよみ侍りける
いかなればしづみながらにとしをへてよよの雲ゐの月をみつらむ

という恨み節も面白い(四代とは崇徳、近衛、後白河、二条をいう)。 清輔と俊成はほぼ同い年だったと思われるので、清輔に対して俊成が重く用いられなかったことを言っているのだろうと思う。

風雅・玉葉集に採られている次の歌もなかなか良い。 たしかに、京極風の走りと言うこともできよう。 千載和歌集に漏れた(今日に伝わらない)多くの秀歌があるのに違いない。

いかでわれ人を忘れむ忘れゆく人こそかくは恋しかりけれ
空はれし豊のみそぎに思ひ知れなほ日の本のくもりなしとは

次の法印澄憲という人の歌もなかなかしみじみしている。

二条院かくれさせ給うて御わさの夜、よみ侍りける
つねにみし君がみゆきをけふとへばかへらぬたびときくぞかなしき

後白河院はあまりにも無能だったので(鳥羽院も、表向き平穏だっただけでものすごく無能だったと思う。崇徳はたぶん有能だった。しかし何もさせてもらえず、近衛は早逝した。頭が良いかどうかは和歌を見ればわかる。二条と崇徳は歌がうまかった。白河と後白河は平凡。鳥羽には歌が一つもない。まともな言語能力があったかどうかも不明)二条天皇によって強制隠居させられていたのだが、二条天皇が崩御して、後白河院が朝廷に復帰し、清盛を重用、 源平の争乱の原因となった。 二条天皇は後三条天皇の再来であり、また白河院のように聡明であった。 もし二条天皇が白河院や鳥羽院のように長寿であったら、日本の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれん。

勅撰集に載ってない御製を掘り起こすのはとても難しい。 後鳥羽院や順徳院のように御製集が残っていれば良いが、 そうでないと我々素人にはどうしようもない。

白河天皇

白河天皇が和歌が大好きだったのは間違いない。 本人の和歌は、それにしてはあまり知られてない。 どちらかといえば凡庸な歌、下手の横好き的なものだったようだ。

風吹けば柳の糸のかたよりに靡くにつけて過ぐる春かな
春霞立ちかへるべき空ぞなき花のにほひに心とまりて
おしなべてこずゑ青葉になりぬれば松の緑もわかれざりけり
ほととぎす松にかかりて明かすかな藤の花とや人は見つらむ
池水にこよひの月を映しても心のままに我が物と見る

ある意味、後白河院の歌に良く似ている。 こういう歌は、だいたいにおいて、退屈な叙景もしくは心象の歌であり、 天皇で、そうとうたくさん詠んだから、今日まで残っているにすぎないのではなかろうか。 おそらくは後世に伝わらなかった平凡な歌が大量にあるのではないか。

和歌

ふと思えば、一年以上和歌を詠んでない。 いや、『新井白石』の中に出てくる歌は詠んだんだけど。

ひとりもる しづが千代田の 岡におふる まつてふ心 君につげばや

千代田の岡というのは明治天皇が好んだフレーズなんだよな、実は。 他にも孝明天皇の和歌を採り入れた箇所もある。 たぶん言わなきゃ誰も気付かないだろうど。

心不全で入院する直前に詠んだ歌なんだよな、これ。 今みると恐ろしい。

西行の歌

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

詞歌和歌集には読人しらず題知らずで載っている。が、世の中では西行の作だということになっている。私も漠然とそう思ってた。が、「山家集」には取られていない。「山家集」はけっこうな分量の歌集なのに、勅撰集にも取られたような歌を載せないことがあるか。

そう思ってみると、すこし西行にしては言葉が荒すぎる。西行の歌には、感情の起伏の激しいものはあるが、言葉はそれほどきつくはない。

「西行物語」では

世を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

となっているそうだが、こちらの方が意味は通りやすい。「身を捨つる」というのは、出家とは限らない。

そもそも西行の歌が詞歌和歌集に初出で一首だけでしかも読み人知らず。読み人知らずになる理由としては「無名」というのは通りにくい。「罪人」とか時の権力者に背いて忌避されたとか、そういう理由がないとおかしい。

やはりこれは西行の死後にできた伝説に過ぎないのではないか。

蘆庵と宣長

宣長年譜1757年

宝暦7年8月6日 (1757/9/18)
○8月6日 未頃(午後2時頃)より、孟明、吉太郎等と高台寺に萩を見に行く。途中、霊山に登り、四人各一句で五絶詩を作る。正法寺より洛中を眺め、高台寺に廻る。そこの茶店で本庄七郎と連れの男に会い暫く時間を過ごす。その後、孟明と別れ、吉太郎と帰る。祇園町あたりから雨となる。『在京日記』(宣長全集:16-128)。


本庄七郎は、小沢蘆庵。蘆庵は享保8年(1723)生まれで宣長より7歳上。寛政5年(1793)上京の折にも対面、唱和する。その時の宣長の言葉に「この翁は、わがはたち余りの比、あひし人にて、年はいくらばかりにやと、とへば、六十四とこたふ。そのよの人をたれかれとかたりいづるに、のこれる人なし」とある。蘆庵と宣長の接点は不明だが、新玉津嶋神社歌会の森河の所であろうか。森河、蘆庵共に冷泉為村の弟子である。

廬庵は1723年生まれ、宣長は1730年生まれ。当時、廬庵34才、宣長27才(いずれも満年齢)。宣長はもっと早い時期に廬庵と会っていたかもしれない。日記に書かれていないだけかもしれないのだから。宣長は1753年、冷泉為村門下の森河章尹に入門した。廬庵もほぼこれと同時期に為村の門人になった。同じ京都の同じ門下である。これ以後二人がたびたび出会っていてもおかしくない。このとき宣長はまだ23才。まさに「はたち余り」の頃である。月次会の席で、少なくとも年に数回は会っており、場合によっては、個人的に頻繁に連絡を取り合っていてもおかしくない。

廬庵という人の経歴はわかっているようでまったくわからない。宣長の場合こまごまと日記をつけていて、それもふくめて著述のほぼすべてが完全な形で残っており、しかも全集としてまとめられている。正に一次資料・一級資料であり、研究がやりやすいといったらない。しかし、廬庵のよく知られた六帖詠草などは、割と年を取ってからの歌しか採られていないようだ。宣長と出会った30才の頃にどんな歌を詠んでいたか、それもよくわからない。

江戸中後期における三都間の歌壇の対立。ドイツの日本研究者が書いたもののようである。少し面白い。

職仁親王とその弟子である谷川士清や特に言語学者として知られている富士谷成章の流派、武者小路実岳と弟子の澄月や伴蒿蹊の流派、そして冷泉為村と弟子の小沢蘆庵、慈延、涌蓮の流派である。後には為村と実岳が激しく競争するようになったが、弟子の澄月と蘆庵が特に対立的であった。

大坂の歌壇では烏丸家や有賀長因の歌学を受け入れた加藤景範が中心的存在になり、初心者向けの歌学書を出版したり、京都の歌人である長因・蘆庵・澄月などの歌と自詠を歌集に編んだりした。先に述べた、和歌の普及に功績のあった有賀長伯と同じように、通俗歌学書によって大坂での和歌の普及に貢献した。

なるほど、当時の京都・大阪の歌壇とはこうしたものだったのだろう。有賀長因は、松坂に帰った宣長が添削を頼んだ有賀長川のこと。烏丸光栄は為村の師で霊元天皇の弟子。有栖川宮職仁親王は霊元天皇の皇子で光栄の弟子。

谷川士清は宣長と比較的似た経歴の人で、三重県津の出身で京都で医者となり、職仁親王に歌を習って国学者となった、とある。宣長のライバルとして描いたら面白そうな人だな。

加藤景範は医師で薬売り。大阪にいたのだろう。

宣長が有賀長川に添削を頼んだのは、長川が弟子をたくさん取って通俗的な添削などを商売とするような人だった、というだけのことだったのではなかろうか。ある意味、後の香川景樹に似てはいないか。

富士谷成章は京都生まれ、職仁親王の弟子で国学者、宣長は彼を評価していたようである。

武者小路実岳は堂上家。

伴蒿蹊は京都の商家の出。

澄月は子供の頃上洛して比叡山に登り僧となったようだ。慈延も似たような境遇の人のようだ。

涌蓮は伊勢の人で江戸にいたが出奔して京都・嵯峨に住む。

小沢蘆庵の人となり・事績

小沢家は大和宇陀郡松山藩。

享保8年(1723)難波に生まれ、京都に住した

若き時本庄家の養子となり、本庄七郎などと称した。

武技にも長じ、鷹司輔平に仕えたが、致仕後は歌人として一生を送った。はじめ冷泉為村を師としたが、破門後一家の説を立て、巧まぬただ言を主張し、清新平坦しかも雅趣ある作品を残した。

澄月・慈延・伴蒿蹊・上田秋成・入江昌喜・加藤千蔭らと交友があった。

晩年契沖を尊び、その著書を集め翻刻の意があった。静嘉堂文庫蔵『さいうの記』21冊には契沖説の書抜が多い。流布の刊本『六帖詠草』のほかに稿本『六帖詠藻』47冊(自筆本静嘉堂文庫蔵)やその系統の本もまた知られている。著書としてほかに『ふり分髪』『ふるの中道』などがある。※阿部註:編著書類は50書にのぼる。

宇陀というのは、大和の飛鳥の辺り。南紀の山間部、といったほうがわかりやすいだろう。そこの武士の子孫として大阪に生まれ、のちに京都に移り住んだ。
養子となり、士官もしたが、四十代半ばに浪人になっている。
それ以上のことはわからん。

上田秋成との交友とは晩年近くのことだろう。

入江昌喜は大阪の商人で、隠居後に国学を研究した。

加藤千蔭は有名な江戸の文人で、御家人。馬渕や田安宗武などの一派だわな。おそらく書簡上のつきあいで、盧庵と直接会って交友したわけではあるまい。

上の引用の中には入ってないが、香川景樹とも交際があったはずだ。

成島柳北

岩波書店、新日本古典文学大系『漢詩文集』の中の、『新編成島柳北詩文集』を読んでいる。柳北が書いた漢詩と、朝野新聞に主筆として書いた社説(抜粋?)からなる。他に、入手しやすいものとしては、同じく新日本古典文学大系の『柳橋新誌』『航西日乗』。柳北、47歳で胸の病気で早死にしている。嫌な死に方をしやがる。死んだ年にしても病気にしても、今の自分に近い。

朝野新聞は日本ジャーナリズムの黎明期に、柳北を主筆として流行り、柳北の死去によって衰退した。その社説は、なかなか面白い。主筆自ら社説を書き、おかげで牢屋に入れられたり、その話をまた茶化して書いたりしている。実に軽い。今とは時代が違ったといえばそれまでだが。

柳北の文章で手に入るものは、とりあえず全部読んでみることにする。

ここにもややまとまった文章が置いてある。『硯北日録』の一部、柳北が18歳の時の日記があるが、はてこれはどうだろう。

十八歳の時の漢詩を見るに、ちゃんと偶数句の終わりは押韻していて、感心だ(まあ、それが当たり前なのだろうが)。

古詩とかは、字数も韻も好い加減で、だいたい陶淵明くらいの漢詩。楽府にいたっては民謡なので、ルールがほとんどない。頼山陽も最初は韻や字数にこだわった詩を作っていたようだが、だんだん楽府とか古詩とか言い出して適当になっていたったように思われる。というか、江戸時代の漢詩人の中では頼山陽はかなりいい加減な方に入るようだ。

しかし、この人の名が今日まで残って、新日本古典文学大系に採られているのは、明治初期に大新聞の主筆となったからだろう。或いは永井荷風の影響か。『柳橋新誌』や漢詩は面白いが、このくらいの人は当時いくらでもいたに違いない。

勝海舟の和歌

八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。

一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。

八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。 しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。 薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、 高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力であったということ。与力はよほど忙しい役職なのだろう。千蔭は字はうまかったらしい。樋口一葉の字も千蔭流で、中島歌子から習ったという。ほんとだろうか。これも怪しい。どうも一葉に関しては中島歌子の影響が強調されすぎているように思う。字がうまい、特に和歌を書くときの字がうまいのはみんな千蔭流と言われるのではないか。誰かちゃんと検証した人はいるのだろうか。

千蔭の歌は全然良いとは私には思えないのだが勝海舟は評価していたということか。勝の歌のほうがずっと面白いと思うが。

四行詩

オマル・ハイヤームのルバイヤート。岩波書店の。著作権切れなのな。

Rubaiyat of Omar Khayyam rendered into English Verse by Edward Fitzgerald

Wikipedia には

神よ、そなたは我が酒杯を砕き、
愉しみの扉を閉ざして、
紅の酒を地にこぼした、
酔っているのか、おお神よ。

などというのが載っているが、これはどれに該当するのか。さっぱりわからん。 できるだけ原文に忠実なのが欲しい。

酒が無くては 生きてはをれぬ
赤くかもせる えびかづら
ゑひてこよひの よとぎをめせば
いまひとつきと さしいだす

都々逸を二つつなげて四行詩にしてみた。どうよ。 ちなみに「えびかづら」は葡萄を意味する大和言葉。

神はいますか たふとき神は
うつつならぬぞ うらめしき
あるかあらぬか しりえぬかたが
酒と恋路を いましむる

いまいちか。でもこんな感じだろ。

けふこそ春は 巡りくれ
酒を飲むこそ 楽しけれ
とがむなたとひ にがくとも
にがからむこそ いのちなれ

今樣風。けっこう楽しいな。絶句風に韻も踏んでみたし。元ネタは小川亮作訳、

今日こそわが青春はめぐって来た! / 酒をのもうよ、それがこの身の幸だ。 / たとえ苦くても、君、とがめるな。 / 苦いのが道理、それが自分の命だ。

なげくとて のがれらるべき さだめかは
けふは生くとも あしたには われもよみぢを たどるべし
さればわらひて はなをめで
うまざけにゑひ こひにおぼれむ

長歌風。 元ネタは、

さあ酒を酌み交わそう / 運命の車輪は我々の背骨を踏みしだいて回る / 嘆いても笑っても同じなら / せめて花を愛で美酒に酔い恋に溺れよう。

はて、これは誰の訳だ。

ふーむ。だいたいわかってきたぞ。 七五調定型詩を書くとき、いわゆるルバイーイを表すには、 都々逸×2でも今様でも、少々短すぎる。 しかし長歌にすると調べに長短ができて歌いにくい。 どうしたらよかろうか。

紀貫之と吉田松陰と坂本龍馬

坂本龍馬の有名な歌

世の中の 人は何とも 言はば言へ 我がなすことは 我のみぞ知る

については以前も考察した[1,2]。
これは直接には、吉田松陰の歌

世の人は よしあしごとも いはばいへ 賤が心は 神ぞ知るらむ

を本歌とするものだと思っていたのだが、紀貫之の歌に

人知れぬ 思ひのみこそ わびしけれ わが歎きをば 我のみぞ知る

というものがある。古今集に収録されていて、坂本家は一族全員が和歌をたしなんだというから、 坂本龍馬がこの歌を知らなかったはずはなかろう。 紀貫之と吉田松陰の歌から、ほとんど自動的に坂本龍馬の歌が出てくるのは誰の目にも明らかだ。

大岡信氏によれば古今和歌集の系統の新古今和歌集や新葉和歌集を読んだ影響が見られるとのことです

どうなのかなあ。 大岡信という人がどうなのか、はなはだ懐疑的なのだが、 ざっと坂本龍馬の歌を見る限りでは、吉田松陰の影響がかなり強いと思えるし、 たとえば

かくすれば かくなるものと 我もしる なほやむべきか やまとたましひ

これなんかはまったく吉田松陰の歌

かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

そのままだし(しかも「なほやむべきか」は意味不明)、 それ以外ではいわゆる月並な古今調というか、つまりは江戸後期から幕末に流行した桂園派そのもののように思える。 勝海舟もけっこう和歌を詠んだ方なので、多かれ少なかれ影響はあるに違いない。 ただまあ詠草にあれこれ文句を言っても仕方ない。 歌集を出版したというならともかく、詠草というのは未発表の草稿というほどのものだろうから、 それが松陰や貫之の歌にそっくりだったとしても、龍馬が悪いわけではない。

大岡信という人は何を根拠に新葉集やら新古今やらを持ち出してきたのだろうか。 新葉集については龍馬がそれをほしがったという逸話に引っ張られているだけではないか。 具体的に、新葉集のどの歌、どのような歌風と似ていると言いたかったのだろうか。

龍馬と言えば誰もかれも無批判にほめる風潮の昨今。 龍馬は、「文盲」ではなかったかもしれないが、かなりそれに近かった可能性が高い。

桂園遺文

景樹の「桂園遺文」に、

文句は古今に従ひ、都鄙によりてかはりゆくものなれば、たのみがたきものなり。この調べのみは古今を貫徹するの具にて、いささかもたがはざるなり。ひとり大和言葉のみならず、からもえぞも変はらぬものなり。

などと言っている。ここで古今と言っているのは古今集のことではない。語彙や言葉遣いは時代や場所で変わってしまうので、頼りないものだが、調べ(リズム)というものは、時代や地域の違いはなく、言語の違いすらない、などと言っている。

思うに、景樹の歌論にはかなり無理がある。景樹の歌が当時の京都の人々の話し言葉で詠まれているとは誰も思ってないだろう。景樹は確かに俗語や口語を和歌に取り入れてみたが、100%俗語口語で歌を詠んだのではない。今日の、現代短歌のような意味での口語の和歌ではないのは明らかだ。また、誠実に歌を詠めば自然と良い調べの歌になる、というのも単なる精神論にしか思えない。結局何を言いたいのかがわからない。景樹は、歌人としての天性の才があったのは間違いないが、いろんな人の影響を受け、またいろんな人の批判も受け、そのため歌論のようなものを主張しては見たが、そもそもあまりロジカルな考え方をする人ではない、というのがまあ、だいたいの結論と言ってよかろう。

その時代にしか通じない言語で歌を詠んでしまうと、その歌はたちまちに陳腐化する。わずか50年後に見ても何か違和感を感じるだろう。明治期の万葉調の和歌や、戦後の左翼歌人らの和歌、俵万智の模倣者らの歌などがまさにそうだ。ところで景樹の歌などは今から200年ほど前の歌なわけだが、それなりに今でも鑑賞できるし、古今集なども多少古典文法を学んでおけば何の説明もなしにわかる平易なものが少なくない。それは、古典文法や文語文法というものがそのような時代を超えて生き続ける生命力を持っているからであり、だからこそ和歌を文語文法に則って詠む必要があるのだと思う。