情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。 風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、

求人之未詠之心詠之 (人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む)
詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。 ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

不論古今遠近、見宣歌可效其体 (古い新しい、遠い近いをあげつらわず、良い歌を見て、その体に倣うべし)

情と詞の関係はつまり古今集仮名序 「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と同じである。 真名序の 「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」 とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に 「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。 油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、 今では古典的な画材である。 だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。 アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。 新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、 古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。 まあそれはそれでいい。 新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。 しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。 今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、 和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、 広学多聞を事とすべきにもあらず。 ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。 また、

いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、 よまぬ上はただ知らず。 よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、 これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。 でまあ為世は割とまともな人だなと思った。 むしろ為兼の歌論はひどい。 歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、 歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、 「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。 「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、 ただ「体」とも言うのだが、 これがよくわからない。 古今集真名書にも出てくる。

華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

文琳巧詠物。然其近俗。如賈人之着鮮衣。

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。 いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而甚鄙。如田夫之息花前也。
大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。 あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、 景樹がそれに反論を試みたものである。 四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。 古今集をまねてはいけない。 実朝のような歌を詠め、などと言っている。 正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。 子規がまねたわけだが。 景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。 その理由がつらつら書いてあり面白い。 適当に意訳すると、

人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。 その古人の偽りなきにならうのである。 ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、 古人のように真心を歌ったのではない。 後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、 ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。 卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。 漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、 ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、 万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、 それを言うのだろう。 実際実朝の歌をまねしてはならない。 ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。 景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。 歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、 まず正岡子規に叩かれ、 それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、すっかり悪者になってしまった。 それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、景樹の言うことはまったくもって正しい。 実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、 実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、 そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、 そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、 まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。 それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、 そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。 これまた面白いので引用しておく。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。知らんな。昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

苔よりも雪の花咲け塚の上
五月雨やある夜ひそかに松の月
つちくれにうごく物みな蛙かな
世の中は三日見ぬ間に桜かな
かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。 都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。 江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、ただ古き世にのみかへらんとす。そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、 ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。 「短歌」という呼び名は間違っていないが、 「和歌」を短歌というようになって、 「やまとうた」というニュアンスが失われた。 大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、 五七五で季語を入れれば俳句、 季語が入ってなければ川柳、 五七五七七と少し長くすれば短歌、 そんなふうな位置づけになってしまっている。 単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。 「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、 形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。 「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、 私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。 ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、 今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。 和歌には和歌のけじめがあると言っている。 「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。 同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、 蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。 真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。 古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。 私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。 和歌にはすでに定型詩という制約がある。 そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。 定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。 時代考証ができなくて歴史物など書けない。 それと同じではないか。

思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。 それが普通の人にはなかなかできぬ。 景樹の言いたいことを代弁してみると、 中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。 ラテン語が共通語であった。 日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、 古今集や源氏物語がその規範であった。 景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、 大和歌だったのだと思う。 景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。 平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。 完全な和語である。 きちんと使い分けている。 古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、 歌を詠むことができる。 そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。 しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。 俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。 ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。 それが良くない、と私は言いたい。 それはルール違反だ。 短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。 和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、 伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。 ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。 新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。 ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。 なじみ深いから新語は造りにくい。 だがそこはなんとかしなくてはならない。 香川景樹や上田秋成をみよ。 宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。 みんな感覚で批判しているだけだ。

鉢木

鉢木という謡曲がある。

のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。 世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。 このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。 夫を見送る女の歌であるという。 夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。 という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。 おほいまうちぎみとは、時平のことか。 明らかにひるめの歌から派生している。 というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範

道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、 自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家

駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。 俺がいない間に浮気するなよ、と。 俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、 為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、 そのかげさえ無い、という意味かもしれん。 いや、それが案外正解かもしれん。 「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。 新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。 おそらくは俊成の歌を踏まえて、 佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、 そんな景色すらない、 ということを言いたかったのではなかろうか。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

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そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

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材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

西行

小林秀雄「西行」を読んでいて思うのだが、小林秀雄は、知ってか知らずか、西行の歌の真作、偽作かまわず、西行の歌と言われている歌すべてを対象にして、西行という人を鑑賞しようとしている。その態度はある意味潔いが、当然のことながら西行の実像を濁らせてもいる。

小林秀雄は後世のフィクションを取り除いて真実の西行を見極めようとしているのではない。小林の態度はむしろ真逆で、もとの西行はともかくとして、後世作られた二次創作をさらに誇張しようとしている。その虚像をさらに膨らませ、偶像の一人として彼をパンテオンに祀ろうとしているのだ。小林はもともとそうした評論家であった。彼は事実よりもフィクションのほうが好きなのである。少なくともそれを彼は自分の商売とした(より正確に言えば、読者を獲得する必要があった若い頃の小林は、というべきかもしれない)。

小林秀雄ですらそうなのだからそれ以外の人たちは、ほぼ皆、西行の伝説に惑わされている。あまりにも古びて改変されてしまっていて、江戸時代の古い写真や、中世のはげかかったフレスコ画を見ているようなものだ。それは生きている西行からはほど遠い。ごく一部の疑い深い学者しか西行の歌の真偽については考慮してない。

西行の歌はいくつか分類して考えねばならない。出家前に詠んだ歌(もしあれば)、出家直後に詠んだ歌、晩年の歌、そして後世の偽作。

西行は多作だったので、確実に真作であろうと思われる歌を集めるのはそんな難しくない。

詞花和歌集に初出の歌は33歳までに詠んだわけである。

身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

小林秀雄はこの歌を「作者の自意識の偽らぬ形」「こういうパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み」などと言っている。つまり禅問答的な形をとった過剰な自意識の発露だといいたい。詞花集には読み人知らずとして載ったわけだが、もしかするとそのころはまだ俗名で、しかも勅撰集に名を出すにはおそろしく身分の低い武士だったのだろう。

「捨てぬ人」とはまだ出家してない西行自身のことであって、自分は在俗のまますでに身を捨てたようなものだが、出家して世を捨てたと言っている坊さんたちは、ちっとも世の中など捨ててないように見える(権力や名誉に執着している)、ということか。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」という強い言い方、おまえら、ほんとに身を捨てたのかよ、そんなんじゃ身を捨てて救われようとは思えんね、みたいな軽蔑の感情を感じるのは私だけだろうか。あなた方は行い澄まして世の中を捨てたなぞとうそぶくが、私のほうこそ、俗世の中にいて、深い絶望を抱いているのだ、と。

あるいは、出家することを身を捨てるというのは間違いで、身を捨てない人の方が、後生に障るから実は身を捨てているのだ、と解釈する人もいる。「身を捨ててこそ 身をもたすけめ」が西行の真作ならば、その解釈であっているかもしれない。「身を捨つる人はまことに捨つるかは」はその場合お坊さんが檀家の人に説教をしている口調、身を捨てるというのは、ほんとうに身を捨てたことになりますか、いえ、ちがうんです、みたいにも思えてくる。西行がただの坊さんならばこの解釈であっていると思うのだが。西行は、坊さん臭い、説教臭い和歌は詠まなかった人だと、私は考えている。

勅撰集に「詠み人知らず」としか載らない身分の低い私でも出家すれば名前がのこるようになる、と解釈する人もいる。なるほどいろんな解釈があるものだ。

西行の他の歌も参考にしつつ考えると、西行は出家はしたものの普通の人と同じような生き方をした。花をめで、歌を詠み、京都市内に住んだりした。出家した後も悟りは得られず、一生悩み苦しんだ。そのことと関係あるんだろうが、よくはわからん。

まともかく西行は普通の坊さんと違うので、解釈が難しい。「パラドックスを源泉」と言えばそうなのかもしれない。

追記: 以前に似たようなことを書いていた。西行の歌。そうだな。この歌は変に説教臭いし、同時代の人がこれを西行の歌と認めたのならともかく、どうも「西行物語」に詠み人知らずの歌が西行の歌として載ったから、西行の歌ってことになった、と解釈した方が話は簡単だ。少なくとも確実に真作とは言えないだろうな。ま、これ以上この歌だけに関わっても仕方ない気はする。

彼ほどに真に悟りを必要とした人は、その当時にも滅多にはいなかっただろう。それほど深い苦しみを抱いてた。早く楽になりたかったが、なれなかった。そこへいくと慈円なんかは何の悩みも迷いもなく僧侶となり、のほほんと一生を送ったのに違いない。

世の中に未練のあるような歌は他にもある。

はらはらと 落つる涙ぞ あはれなる たまらずものの 悲しかるべし

物思へど かからぬ人も あるものを あはれなりける 身の契かな

捨てたれど かくれてすまぬ 人になれば 猶よにあるに 似たるなりけり

数ならぬ 身をも心の もち顔に うかれてはまた 帰り来にけり

捨てしをりの 心をさらに あらためて みるよの人に 別れはてなん

まどひきて 悟りうべくも なかりつる 心をしるは 心なりけり

など。こういう歌を、小林秀雄は「西行が、こういう馬鹿正直な拙い歌から歩き出したという事は、余程大事なことだと思う」などとからかっている。しかし果たして、「馬鹿正直な拙い歌」なのだろうか。

世の中を 捨てて捨て得ぬ ここちして みやこはなれぬ 我が身なりけり

などは、確かに誰にでも詠めそうな、しかし西行にしか詠めなさそうな歌ではある。普通の僧侶はこんな歌は詠まない。同時代の慈円なんかは絶対詠まない。

心なき 身にも哀は しられけり 鴫たつ沢の 秋の夕ぐれ

世をいとふ 名をだにもさは とどめおきて 数ならぬ身の 思ひ出でにせむ

うらうらと 死なむずるなと 思ひとけば 心のやがて さぞとこたふる

そらになる 心は春の かすみにて よにあらじとも おもひたつかな

世のなかを そむきはてぬと いひおかん おもひしるべき 人はなくとも

山里に うき世いとはむ 友もがな 悔しく過ぎし 昔かたらむ

古畑の そはの立つ木に ゐる鳩の 友よぶ声の すごき夕暮

ここらも、未練を断ち切った、というより、未練たらたら、という感じの歌。まあ先の歌と同じ心境を詠んだもの。意味もさほど難しくない。西行には大胆な字余りの歌があって驚く。

世の中を 思へばなべて 散る花の 我が身をさても いづちかもせむ

わきて見む 老木は花も あはれなり 今いくたびか 春に逢ふべき

吉野山 やがて出でじと 思ふ身を 花ちりなばと 人や待つらむ

花みれば そのいはれとは なけれども 心のうちぞ くるしかりける

春風の はなをちらすと 見るゆめは さめてもむねの さわぐなりけり

春と桜の歌。最後のやつは宣長の

待ちわぶる 桜の花は 思ひ寝の 夢路よりまず 咲きそめにけり

にも似るが、両者それぞれの個性が出てるわな。

いとほしや さらに心の をさなびて 魂ぎれらるる 恋もするかな

こころから 心に物を 思はせて 身をくるしむる 我が身なりけり

あはれあはれ このよはよしや さもあらばあれ 来む世もかくや くるしかるべき

わればかり 物おもふ人や 又もあると もろこしまでも 尋ねてしがな

はるかなる 岩のはざまに 独り居て 人目思はで 物思はばや

恋の歌。

おそらく偽作と思われるのは

何事の おわしますをば 知らねども かたじけなさに 涙こぼるる

うき世をば あらればあるに まかせつつ 心よいたく ものな思ひそ

惜しむとて 惜しまれぬべき この世かは 身を捨ててこそ 身をもたすけめ

その他、聞書集に載る、

うなゐ子が すさみに鳴らす 麦笛の 声におどろく 夏のひるぶし

すさみすさみ 南無ととなへし ちぎりこそ 奈落が底の 苦にかはりけれ

たらちをの ゆくへを我も 知らぬかな 同じ焔に むせぶらめども

などはほぼ間違いなく後世の創作であろう。説教臭く、坊さん臭い。おそらく西行は「たらちを」とか「うなゐご」にはほとんど何の関心もなかったと思う。小林秀雄はそこに後の良寛を見るが、良寛と西行は坊さんで歌人という以外には何の共通点もない人たちだと思う。

留置まし

反実仮想まとめが良く読まれているのがおかしいのだが、 たぶん「反実仮想」「まとめ」でググって来ているのだろう。 記事のタイトルに「まとめ」といちいち入れるとアクセスが増えるかもしれない(笑)。

これは先にましとも・・・まし、 というのを書いてさらに調べたものを追加してまとめたという意味。もとはといえば、 吉田松陰の

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂

という歌の解釈が難しいからである。 それでまあ、今改めて考えてみるに、 幕末は武士の勇ましい和歌が流行していて、 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも」「大和魂」などはまさに当時の志士が好んだ言い回しなのだが、 なぜか「留め置かまし」の部分だけが非常に雅びで女々しい。 そうするともしかして「大和魂」もまた、 源氏物語に出てくるような女々しい意味で使われているのではなかろうかという疑いが出てきて、 この歌は実はかなり弱音を吐いた歌なんじゃないかと思えてくるのである。

でまあ吉田松陰がそこまで意図してこの歌を詠んだかどうかわからんのだが、 この歌は幕末の殺気だった雰囲気と平安朝の雅びな雰囲気が混在していて、すごく違和感がある。
すごく困惑させられる。 で、以前にも書いたように、私なら、「留め置かまし」ではなく「留め置かばや」とか詠むだろう。 「まし」だと「まほし」の誤用ではないかと誤解される可能性がある。 そう思われるのが怖いからたぶん私は「ばや」にするだろう。 「留め置かむ」が良いが字足らずで「留めて置かむ」ではなんか力が抜ける。 「留め置きてむ」は強いがちょっと違う。 「留め置かなむ」だと「留めおきたいなあ」みたいな感じで変。

川越素描では、吉田松陰の歌を元にしつつ、やはり「ばや」で受けた。

資長のアリア(I)
おお、佐枝、無念なり 忠勤尽くせし我が君に
謀反の疑念をいだかれて 今こそ我は討たれたれ
願はくはこの魂魄を 東(あづま)の国にとどめおき
憎(にっ)くき仇(かたき)上杉の 子孫の胤(たね)を絶やさばや

まあこれだと紛れもない武士の歌である。
でも完全な武士の歌にしてしまうと物足りなくもあり、味気なくもある。
だから、吉田松陰の歌は「留め置まし」でなくてはならず、
そうでなければ維新となって爆発する内部応力をこの歌は持ち得なかっただろう。

後拾遺和歌集

そんでまあ、 たいへんありがたいことに、 後拾遺和歌集 はネットで読めるのであるが(よく見たら途中までだった(笑))、 それで序文を読んでみたが、 言ってることはごくまともで、 古い歌はもう古今・後撰・拾遺でみな拾われていて、 その後のひと、たとえば赤染右衛門とか和泉式部とかはとらねばならんわけで、

世にある人きく事をかしこしとし、見る事をいやしとすることわざによりて、近き世の歌に心をとゞめんことかたくなんあるべき。しかはあれど、後みん爲に、吉野川よしといひながさん人に、あふみのいさら川のいさゝかにこの集を撰べり。

つまり、世の中の人というのは、とかく、古いことを聞くと偉い、すごいと思い込み、今目の前に見えるものは大したことないと思いがちである。 だから最近の歌というものに注目するのは難しい。 だが、後世の人たちに見せるために、この集を選んだ、 などといっているわけである。

撰者の藤原通俊はまだ若く35歳くらいで白河天皇の勅命を受けている。 重鎮たちは面白くないわな。

世もあがり人もかしこくて、難波のよしあし定めん事もはゞかりあれば、これにのぞきたり。

これはまあつまり、位の高い人たちのうたは良し悪しをとやかくいうのははばかりがあるから採らなかったなどと言っているわけだが、 実際には公任はすごいとか褒めてて採ってるわけだから、 要するに採録するほど大した歌がなかったってことだろ。 その言い訳だわな。 そりゃ位の高い人たちは怒るわな(笑)。

そんで、私の予想だと、古今集の仮名序とか真名序なんてものはもともとなかったから、
勅撰集に最初に和文で序文を書いたのはこの通俊さんだったと思う。 偉大なる先駆者。パイオニア。 これまたカチンとくるわな。 勅撰集の頭に選者の歌論のごときものを載せたわけだから。なんだこのわかぞう生意気なということになるわな。

それで、古今集仮名序は本朝文粋にも採られていて成立は後拾遺集より前らしいんだが、
たぶん、序文としてではなく古今集縁起みたいな感じの解説として書かれてたと思うんだよね。 それとは別に仮名序に出てくる六歌仙の紹介みたいのは、すでに別にあった。

後拾遺集の序文にファピョった連中が、 なら俺が古今集の仮名序書くべえというので、 そういう真名序以外のいろんなソースを適当にミックスして、 元永本古今和歌集という伝本の巻頭にのっける。 この伝本というのがウィキペディアで見るとわかるが、

赤、緑、黄、茶、紫などの色変わりの染紙を料紙とし、表面は唐草、菱、七宝などの文様を雲母(きら)刷りにした唐紙で、裏面は金銀の切箔、野毛、砂子を散らす

とかいう豪華なものであって、要するに、 どうだ俺のほうがすごいだろうって匂いがぷんぷんする。 古今集を権威づけようとする強烈な悪臭がする。

その上、古今集仮名序というのは、この上ない駄文悪文である。 そうとう頭の悪いやつが書いたのに違いない。 誰だか知らないが。 『難後拾遺』を書いた源経信かね?
それに比べると、藤原通俊が書いた後拾遺集の序文はさらっと読めて全然普通。
ま、そんなふうにして古今集の仮名序というのは成立したんだと思うよ。

この歌集は、絢爛たる王朝文化が衰退しはじめた頃、華やかなりし昔を振り返ったともいうべきものである。

これ書いたひとは、後拾遺集のこと、なんもわかっとらんと思うよ。 「絢爛たる王朝文化」ってなんだよ。 新古今は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。 そもそも白河院の時代は「絢爛たる王朝文化」ではないのかよ。

後拾遺集は画期的な勅撰集なんだ。勅撰集の中でも最高峰の一つだと思う。 まだ序文しか読んでないけど(笑)。 つか後拾遺集がなければ勅撰集なんてほんとはなかったんだよ。

和泉式部とかを発掘しただけでも偉いと思う。 この人たち多分身分低いわな。 ここで取り上げられなかったら、後世どうなってたかしれんよ。

古今和歌集の真相

古今和歌集 は醍醐天皇の勅令によって、 延喜五年に完成したことになっているのだが、どうもこれはおかしい。

まず、延喜五年では醍醐天皇は二十歳になったばかりで、勅撰集編纂を命じるはずがない。 普通二十歳くらいは和歌を一生懸命学んでいる年であって、歌のよしあしなどはわからないのが普通。 宇多上皇ならばあり得るだろう。 宇多上皇は醍醐天皇よりも長生きしているくらいだ。 仮名序を読んでみて必ずしも今上帝、つまり醍醐天皇による命令、とはどこにも書いてない。 なぜこんな自明なことが今まで指摘されなかったのか。

今日知られているいわゆる延喜の治というものは、 そのほとんどすべてが宇多上皇によるものであると、見たほうがよい。

亭子院歌合 というのから古今集に採られているのだが、 これは延喜13年3月13日に行われたことがほぼ間違いないわけだが、 古今集成立のずっと後である。 これも、よく知られた事実らしいのだが、あまり問題視されてはいないようだ。 後から付け足したのだろうと。

亭子院とは宇多上皇の院御所だから、宇多上皇によって催されたと考えてよいと思う。 でまあ、紀貫之集第十雑という、貫之集の一番後のあたりに、

亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れとあるに、

桜ちる 木の下かぜは さむからで 空にしられぬ 雪ぞ散ける

とあって、その次に

延喜御時やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ始の月夜ふくるまでとかくいふあひだに御前の桜の木に時鳥のなくを四月六日の頃なればめづらしからせたまてめし出し給ひてよませ給ふに奉る

こと夏は いかが聞けん 時鳥 こよひばかりは あらじとぞ思ふ

とある。 延喜御時とあるから延喜帝、醍醐天皇だと考えるのは短絡的で、 このときもやはり宇多上皇だったのではないか。 そんでまあかりに古今集仮名序や真名序が後世の偽書であったとしても、 この部分でもって、貫之に勅撰の命令があって、それが古今集として伝わっているのだ、 と解釈は可能なんだが、 貫之集の中の歌の並びからいけば、 この宇多天皇からの院旨は、 亭子院歌合の後だったんじゃないか、 延喜十三年以後だったのではないか(延喜の御時だから、延喜年間より後ではない)、 と思われるのである。 というかそう考えるのが一番自然だ。

でまあ、仮名序が最初に現れるのは元永本古今和歌集 という写本で、 恐ろしく非常に豪華絢爛な製本。 時期的には後拾遺集と金葉集の間くらい。 つまり白河天皇が一生懸命勅撰集という者を編纂していた頃なのだ。

私はつねづね、事実上勅撰集というものを創始したのは白河天皇だろうと思っている。

で、今回古今集を調べてみて思うのは、 古今集の最初の形態はおそらく後撰集や拾遺集と大差のない、ざっとした歌集だったのではないかと思っている。 それで、仮名序が一番先に作られたのが後拾遺集であり、 そこからさかのぼって古今集の仮名序が書かれたのではなかろうかと思っている。古今集は確かにすごい、すばらしい歌集であるが、仮名序はひどい。支離滅裂だ。あんまりひどいので後世の人が手直ししてるのが丸わかりなのだが、
どういうわけかこれを全部紀貫之一人が書いたのだと考えられている。

亭子院歌合を読んだ。 なるほど日記文学風の序がついている。 伊勢によるものだと推測されているが、実際そうかもしれん。 こんなふうに歌合に仮名序をつけたものの延長として、 ちょっとした文章が、古今集と一緒に流布していたのかもしれんし、それは確かに貫之が書いたかもしれん。 しかしそれを今伝わるような形にリライトしたのはずっと後の人であって、 おそらくは白河天皇がコミットしていると思う。

つまりは古今集を勅撰したのも事実上は白河天皇なのだと思う。

これまで後拾遺集や金葉集はあまりにも軽く見られてきた。 白河天皇の関与というものも。 しかし実際には非常に重要なものであり、 もっときちんと調べなくてはならないことだ。

もう一つ、古今集は、巻一春上、巻二春下あたりに、要するに前半部分に、 良房や基経の歌がいくつも出てくる。 しかも詞書きが異様に丁寧。 宇多上皇も醍醐天皇も初出は後撰集であって古今集には採られていないのに。 このことはすなわち、 古今集が成立するより前に、基経によって編纂された歌集の原型があっただろうということだ。 それをもとに、宇多上皇の勅命によって、もっと大部なものが作られたのではないか。 それがまあつまり、宇多天皇とか平城天皇とかあるいは光孝天皇の時代の歌が古今集の大半を占めていることの理由ではなかろうか。

さらにもう一つ、 亭子院歌合のとき貫之はまだ殿上人ではなかった。 だから、 「亭子院の御門の歌合し給に歌ひとつ奉れ」の時にはおそらく地下にいた。 「歌一つ奉れ」と言ったのは殿上にいた誰か、貫之に屏風歌を詠ませた主人だ。 だが、 「やまとうたしれる人々いまむかしの歌たてまつらしめ給て承香殿のひんがしなる所にてえらばしめたまふ」 の時には明らかに昇殿しているのである。 このときは正式な勅命を受けていると思われる。 それは従五位下に昇進し、貫之自身が殿上人となった、延喜十七年以後のタイミングであろうと思うのである。

本居宣長の漢詩

在京時代の本居宣長の漢詩が二十数編残されているが、 凝り性な宣長君らしく、平仄は完璧。

春日早朝
鶏鳴九陌報清晨
初日纔昇映紫宸
金殿出霞花気暖
玉楼経雨柳條新
群臣集奏千秋寿
蛮客貢陳四海珍
且識天杯元承露
聖明恩沢更含春

新年の御所の様子を詠んだものと思われる。 悪くはないが、装飾過多、という印象。宝暦6年1月11日か。この漢詩を作ってみて宣長はよけいに漢学では日本文化の良さを表現できない、と悟ったのではなかろうか。

読書
独坐間窓下
読書欲暁星
孜々何須睡
一任酔群経

独り窓下の間に坐し、読書、暁星を欲す、孜々として、なんすれぞすべからく睡るべし、もっぱら群経に酔ふに任せん、 と訓めば良いか。

夜独りで窓の下に坐って読書していると、すでに夜が明けようとしている。 一心不乱、どうして眠れようか。 ただ膨大な量の経典に酔うのに任せよう。

いやー。 宣長らしい詩ではある。「群経に酔ふ」がいかにも宣長だ。

宣長、普通の江戸時代の文人並みには漢詩が作れたようだ(乃木希典レベル。中島敦よりはずっとうまい)。 そのまま励めばわりかし良い線いったんじゃないか。 でも、和歌のほうが好きだったんだよなあ。 どんな違いがあったのだろう。知りたい。

上巳
元巳春風暖
桃花照錦筵
麗人更勧酔
流水羽觴前

上巳は桃の節句であるから今の暦では四月中旬、元巳はその別名。 春風は暖かく、桃の花が錦のむしろに映える。麗人、更に酔いを勧め、羽觴(さかづき)の前には水が流れている。 明らかに曲水の宴で作った詩であろう。

後三条天皇

後三条天皇の御製を探しているのだが、なかなか無い。 『新古今集』

みこの宮と申しける時、太宰大弐実政学士にて侍りける、甲斐守にて下り侍りけるに、餞たまはすとて
後三条院御歌
思ひ出でて おなじ空とは 月を見よ ほどは雲居に 巡りあふまで

しかし、これは『拾遺集』の歌にあまりに似ている。

橘の忠幹が、人のむすめにしのびて物言ひ侍りける頃、遠き所にまかり侍るとて、この女のもとに言ひつかはしける
忘るなよ 程は雲ゐに なりぬと も空行く月の めぐり逢ふまで

『伊勢物語』第十一段にも、同様の歌が見える。

むかし、男、東へ行きけるに、友だちどもに道よりいひおこせける
忘るなよ ほどは雲居に なりぬとも 空ゆく月の 巡りあふまで

『読史余論』では、『古事談』に出てくる話として、やはり後三条天皇の御製として

忘れずは おなじ空とは 月を見よ ほどは雲井に 巡りあふまで

とある。思うに、初出は伊勢物語であろう。意味も一番素直でわかりやすい。後三条天皇御製はひねってあってやや意味が通りにくい。『玉葉集』

御前に菊をおほく植えさせ給へりけるを、弁乳母申しけるをたまはせざりければ、
ほしとのみ 見てややみなむ 雲のうへに さきつらなれる 白菊の花
と申して侍りければ、後三条院
色々に うつろふ菊を 雲の上の ほしとはいはで 人のいふらむ

「星」と「欲し」をかけている。星のように美しい菊を欲しいと天皇に請うたがもらえなかった。後三条の歌はおそらく、欲しいと言ってくれたらやったのに、後からほしかったことを人から聞いた、というような意味だろう。

後三条の御製集というものがあったのだろうか。