『宣長さん』2

小林秀雄は宣長の桜に対する異様な愛着に気付いていたが、 中根道幸は、宣長が自らを「神の申し子」と信じ切っていたことによる、と断言する。 つまり、子の授からなかった宣長の父母が、吉野水分の子守明神に願掛けをしたことによって宣長を儲けたことを言う。 水分(みくまり)は「みごもり」、子授け、子育ての神として、 『枕草子』にも「みこもりの神またをかし」と書かれているそうだ。

また、p. 17

サクラも歌も物のあわれもヤマトゴコロも紫式部も、アマテラス男神説をふんがい排撃するのも、

宣長が父を失った「母子家庭」であり、「母性原理」によるのである、というのだ。 これらは小林秀雄よりもはるかに踏み込んだ言及である。

父母の むかし思へば 袖濡れぬ 水分山に 雨は降らねど
みくまりの 神のちはひの なかりせば 生まれ来めやも これの吾が身は
鳥虫に 身をばなしても さくら花 咲かむあたりに なづさはましを
したはれて 花の流るる 山河に 身も投げつべき ここちこそすれ

一方、宣長の桜に対する思いを詠んだ歌として、小林秀雄は次のような歌を挙げている。

めづらしき こまもろこしの 花よりも 飽かぬ色香は さくらなりけり
忘るなよ 我が老いらくの 春までも 若木の桜 植ゑし契りを
我が心 休むまもなく 使はれて 春はさくらの 奴なりけり
此の花に なぞや心の 惑ふらむ 我は桜の 親ならなくに
桜花 深き色とも 見えなくに 血潮に染める 我が心かな

私も、宣長の一番わかりにくい、というかつまらないところはその非常に女性的なところである。 私には『源氏物語』はよくわからない。『和泉式部日記』なら面白いが。

「もののあはれ」というのも俊成や西行の言うようなものならわかる気がするが、『源氏』がどうという気にはならない。 和歌の趣味に至っては、私とは部分的に全然違っている。

宣長の和歌はいわゆる二条派の和歌であって、 彼が二条派固有の古今伝授を批判するのも、 公家と坊さん趣味の二条派の系譜に、戦国時代になって東常縁や細川幽斎などの武将が連なるようになったのが気に入らないだけではなかろうか。 古今伝授がいかんのであれば三条西実隆もダメなはずだが、公家の三条西には非常に同情的なのだ。 また京極派が嫌いなのも、京極為兼がかなり異常な公家であったからかもしれない。 ともかくいわば女々しい公家文化から少しでも外れてしまうと宣長は全然拒絶反応を示してしまう。

宣長の神霊思想についても、『古事記』についても、私はあまり興味がない。 「天地初発之時」を

あめつちはじめてひらけしとき

と訓もうが、

あめつちのはじめのとき

と訓もうが、私にはどちらでも良い気がする。 「天地が開く」という言い方は古文に見えないので「開く」と解釈してはならないというのが宣長の意見で、 まあそうかもしれないとは思うが、私にはそれほど重要だとは思えない。 「あめつちおこりしとき」と訓む人もいるらしい。 宣長は学者として極めて卓越した研究能力を持っていた。 そして仏教系・儒教系、垂加神道や度会神道などもよってたかって宣長の研究成果を自分たちの教義に取り込み、 自分たちに都合良く解釈するためのソースにしてしまった。

『宣長さん』中根道幸

小林秀雄の『本居宣長』を読み返すのと平行して、宣長について書かれた本を一通り読んでいる。

子安宣邦という人が宣長の本をたくさん書いている。 どうもこの人は平田篤胤との関係で宣長を論じたいところがあるようだ。 宣長に関する本では小林秀雄と中根道幸という人が書いたものが良いと言っており、 小林秀雄について言及している点や、 この中根道幸を紹介してくれたことはたいへんありがたいと思うのだが、 子安氏本人の主張に関してはどうも頭に入っていかない。

村岡典嗣は1911年に宣長の本を出した先駆的な人。 宣長その人というよりはその周辺のことを良く調べて書いてある。 加納諸平という歌人を教えてもらった。

吉川幸次郎。『漱石詩注』『宋詩概説』『元明詩概説』などは読んだが宣長はまだ読めてない。 しかし明らかに宣長の専門家ではないし、たぶん荻生徂徠がらみで何か書いているのだろう。

その他何冊か読んでみたがどれも大したことはない。 どれもよくわからないことが書いてある。 たぶん著者がよくわかってないのだろう。

子安氏が主張しているように、 小林秀雄著『本居宣長』と 中根道幸著『宣長さん』 を合わせ読みすれば必要十分であると感じる。 『宣長さん』は比較的最近(といっても2002年)出たもので、 著者が専門の研究者ではないせいもあるのだろうが、ほとんど世間に知られてないのだが、 これはすごい本だ。 この本を読まずして宣長を語るのは、もぐりであると言って良い。 早く出会えてよかった。

p. 319

結論として、端的に問題を提起しておこう。宣長さんは、定家、新古今をカンちがいしてはいなかったか、または新古今の行きづまりを打開するための写実ということに無感覚だったのであろう。

こういうことをさらっと言ってのけるのは相当の自信だ。 宣長と定家の両方をきちんと学んでなければ言えないことだ。

中根道幸は定家の私家集と宣長の『古今選』を比較している。 そして定家の好みと宣長の好みに大きな隔たりがあることを発見している。 宣長は定家を高く評価しているにもかかわらず、定家の好みを理解していない。それはそうだろう。 宣長は他の人よりも定家の歌を一番多く『古今選』に採っている。 しかし、その定家の歌というのが、『新古今』より後の、

多く二条派の目で拾われた定家なのである。

私は、宣長は契沖と出会う以前に、頓阿や三条西実隆の影響をうけたのではなかろうかと感じていた。 宣長は頓阿や叔父・察然和尚のように、或いは最初に歌の添削を受けた法幢のように、 浮き世離れした僧侶になろうと思ったのではないか、と思った。 宣長という人は、若い頃に書いた『おしわけ小舟』から晩年の『うひ山ふみ』までほとんど思想的な変化がなかった人だ。 途中、真淵の弟子になっているが、そのことが宣長の思想に与えた影響は軽微である。 真淵は宣長よりずっと年上であったから、自然弟子入りという形をとったまでだと思われる。 宣長はある日突然何かの思想にかぶれたり、またそれを捨てて別の思想にのめり込んだりというような、 スクラッチ・アンド・ビルドな人では決してないのである。 だからこそ、少年の頃の宣長を丁寧に調べてみる価値がある、と私は思っていた。

宣長が契沖によって国学に志し『おしわけ小舟』を書き、その後のことはだいたいはっきりしている。 その前、十六、七歳ころに和歌を詠みたいと思い始め、十九から自ら和歌を詠み始めた、 その理由はなぜだろうということを調べたいと思った。 『宣長さん』はその頃のことを非常に詳しく調べてある。 まさに私が読みたい本だった。 宣長が若い頃に誰と会ったか。 どんな本を読んだかを緻密に調べ上げている。 結論としては、宣長が育った松坂というところが、俳諧や和歌が盛んな土地柄であったから、 宣長も自然と感化されたのであろう、ということだった。 この「松坂文芸」は、 京都から松坂にやってきて、和歌、連歌俳諧、伊勢物語を講義した北村季吟という人によって基礎づけられた。 その「松坂文芸」が宣長という人を生んだというのである。

本居、宣長という名を選んだことについても興味深い考察がある。 最も注目すべきは、宣長が、単に経済的理由で紙商の養子になったのではないという指摘である。 「養子留学」であったというのだ。

なぜ山田へ、跡目を継ぐあてもない養子に出かける気になったのか。

養子といえば普通は子の無い家の息子となって跡取りとなることだが、そうではなかった。

学業の飛躍を願い、父母先祖への謝恩の念とは別に、小津の家を捨て、進んでこの道を選んだ

実際宣長は、後に遊学先の京都で医者の養子になろうと運動するが、失敗している。
彼にとって養子縁組みとは就活のことであり、学者として生きていくための生計を立てることなのである。

今井田家であるが、従来紙商とされてきていて、それをあながち否定するわけではないが、私は妙見町に13軒あった御師(檀家数23000余)の中でも有力な家と考えている。

御師とはつまり伊勢神宮の檀家衆(宿屋など)をまとめる役職だ。その養子となって、
宗安寺住職・法幢に付いて和歌を学び始めた(宗安寺は伊勢市内の中ノ地蔵にあった浄土宗の寺)。 つまりは、僧侶になるというよりは御師の仕事を手伝いながら、学者になろうとしたわけだった。 そして養子が離縁になったのも、紙卸という商売が嫌になったからではなくて、 今井田家での学問に限界を見たからだろう。

宣長は、松坂に生まれ、江戸にも暫く住み、京都には何度か遊学し、山田(つまり今の伊勢市街地)にも養子に出た。 そうしてどっぷりと当時の「二条派」の歌風に親しんだ。 この「二条派」趣味は、生涯決して抜けなかった。 「二条派」に呪縛される余りに古今伝授批判などもやらかしたのだが、 宣長という人は、かなりの程度、和歌音痴であったと思われる。 定家を賞賛し、玉葉や風雅集を批判するのだが、ではそのどこが優れ、どこが悪いのか、 具体的にこの歌のここが良い悪いというような歌論を展開したのを見たことがない。 特に京極派に対する批判に具体性が欠けている。異風だというだけ。 二条派と違うからダメだと言っているだけのように見える。 二条派から離れることを異風に落ちると言っているだけ。

二条派がなぜよいか、それが正風だからだ。 京極派がなぜ悪いか、それが異風だからだ。
この宣長の主張には意味が無い。 二条派と京極派の歌を比較してその差異を指摘し、どちらがどういう理由で優れているかを分析してみせなくてはなるまい。 実際、二条派と京極派の違いを理路整然と指摘できる人はほとんどいない。 わかっているようでわかってない人がほとんどだ。 中野道幸氏や、京極派の研究者の岩佐美代子氏は例外的にわかっている人だ。

宣長はまた、細川幽斎の良さがわからない。 幽斎は古今伝授とは無関係に、明らかに優れた歌人である。 たぶん式子内親王も西行もわからないのに違いないし、俊成についても誤解していると思う。 そして、幽斎はダメだが頓阿が良いなどと言っているところなどもうどうしようもない感じがする。

いとはじよ 老いの寝覚めのなかりせば このあかつきの 月を見ましや
憂きことは 身をも離れず みそぎ川 かへらぬ水に 払ひ捨てても
いかにして 人にむかはむ 老い果てて かがみにさへも つつましき身を

これらは幽斎の歌だが、実に巧みだ。

正徹は読んだらしい。定家や頓阿についての知識は『正徹物語』から得た形跡がある。 しかし正徹の歌についての言及が見られないのは不思議だ。 たぶん正徹の理論はわかるが歌が理解できないのだろうと思う。 正徹は有名な定家崇拝者だが、正徹の歌は独特な、独立独歩のものだ(むしろ京極派と言ってもよい)。

宣長は、源氏物語や古事記を、原典に直接当たって読めと言っている。 古今伝授に騙されるなとか、古今集を参考にせよと言っている。 しかしその宣長が、二条派というフィルターを通して定家を眺めているのである。 明らかに定家そのものを見ているのではない。 それほどまでに宣長における二条派の呪縛は強かった。 しかしそれは説明の付かないことではない。 宣長が古事記と出会ったのは学者として分別がついてからのことだ。 しかし宣長が和歌を詠み始めたのは契沖と出会う前のことだ。 若い頃に染みついてしまった嗜好を除去することは困難だった。 また、和歌は余りにも宣長の日常と密接に結びついてしまっていて、 古事記や源氏物語を見るときのような客観的な目で見ることができなかったのだろう。

中根道幸は宣長に固有な「神秘主義」についても言及している。

p. 15

終生宣長さんの神秘主義とかかわる、この申し子意識はいつごろ確定したものだろうか。

宣長が、吉野、水分(みくまり)、そして桜に異様な執着をしたこと、 仏式と神式の墓を別々に作ったこと、 『直毘霊』や「日神論争」などに見られる宣長の依怙地で理解困難な思想とは、おそらく関連があるのだろうし、 これらもまた契沖と出会う以前の若い日の宣長の中ですでに完成されてしまっていて、理性による変更が効かなかったのに違いない。

p. 75

一見整った優等生の歌だが、よく見れば、モチーフは雅、片々たることばをつなぎ組み立てた。パズル歌。職人的機巧さが見える。

宣長の初めての歌についての講評。 これも宣長の歌について、そして和歌について、よく知っていなければ言えないことだ。 他の人たちが単に「契沖のように退屈な歌」とか言っているのと同じなんだが、もう一歩踏み込んでいる。 まあ、確かにそうなんだよな。どの時代の誰というのでなく、あちらこちらから影響をうけて、それらをパッチワークのようにつなげた歌。 上にあげた幽斎の歌のように、思いをそのまま一気に歌にしたのではない。 つまり、幽斎の歌は写生なのだ。自分の心の動きを観察しているもう一人の自分がいて自嘲している。 こういう歌は宣長にはあまり無い(たまにはある)。 宣長は、基本的にはいろんな既存の歌のパーツを組み合わせて、技巧だけで作っている。 本居宣長の漢詩についても、ほぼ同様のことが言える。

村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

語釈は緊要にあらず

小林秀雄『本居宣長』二十三

契沖も真淵も、非常に鋭敏な言語感覚を持つてゐたから、決して辞書的な語釈に安んじてゐたわけではなかつたが、語義を分析して、本義正義を定めるといふ事は、彼らの学問では、まだ大事な方法であつた。ところが宣長になると、そんな事はどうでもよい事だと言ひ出す。

「語釈は緊要にあらず、(中略)こは、学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これに、さのみ深く、心をもちふべきにはあらず、こは大かた、よき考へは、出来がたきものにて、まづは、いかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりても、さのみ益なし。されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし。言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也。然るを、今の世古学の輩、ひたすら、然云フ本の意を、しらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬひがこと多きぞかし。」(「うひ山ぶみ」)

これと殆ど同じ文が「玉勝間」(八の巻)にも見えるところからすると、これは、特に初学者への教へではなく、余程彼の言ひたかつた意見と思はれる。古学に携る学者が誘はれる、語源学的な語釈を、彼は信用してゐない。学問の方法として正確の期し難い、怪し気なものである以上、有害無益のものと断じたい、といふ彼のはつきりした語調に注意するがよい。契沖、真淵を受けて「語釈は緊要にあらず」と言ふ宣長の踏み出した一歩は、百尺竿頭にあつたと言つてよい。

ここで玉勝間八の巻というのは、

言の然(シカ)いふ本の意をしらまほしくする事

物まなびするともがら、古言の、しかいふもとの意を、しらまほしくして、人にもまづとふこと、常なり。然いふ本のこころとは、たとへば天(アメ)といふは、いかなる意ぞ、地(ツチ)といふは、いかなる意ぞ、といふたぐひ也。これも学びの一ツにて、さもあるべきことにはあれども、さしあたりて、むねとすべきわざにはあらず。大かたいにしへの言は、然いふ本の意をしらむよりは、古人の用ひたる意を、よく明らめしるべき也。用ひたる意をだに、よくあきらめなば、然いふ本の意は、しらでもあるべき也。そもそも万ヅの事、まづその本をよく明らめて、末をば後にすべきは、論なけれど、然のみにもあらぬわざにて、事のさまによりては、末よりまづ物して、後に本へはさかのぼるべきもあるぞかし。大かた言の本の意は、しりがたきわざにて、われ考へえたりと思ふも、あたれりやあらずや、さだめがたく、多くはあたりがたきわざ也。されば言のはのがくもんは、その本の意をしることをば、のどめおきて、かへすがへすも、いにしへひとのつかひたる意を、心をつけて、よく明らむべきわざ也。たとひ其もとの意は、よく明らめたらむにても、いかなるところにつかひたりといふことをしらでは、何のかひもなく、おのが歌文に用ふるにも、ひがことの有也、今の世古学をするともがらなど殊に、すこしとほき言といへば、まづ然いふ本の意をしらむとのみして、用ひたる意をば、考へむともせざる故に、おのがつかふに、いみしきひがことのみ多きぞかし。すべて言は、しかいふ本の意と、用ひたる意とは、多くはひとしからぬもの也。たとへばなかなかにといふ言はもと、こなたへのかなたへもつかず、中間(ナカラ)なる意の言なれども、用ひたる意はただ、なまじひにといふ意、又うつりては、かへりてといふ意にも用ひたり。然るを言の本によりて、うちまかせて、中間(ナカラ)なる意に用ひては、たがふ也。又こころぐるしといふ言は、今の俗言(ヨノコト)に、気毒(キノドク)なるといふ意に用ひたるを、言のままに、心の苦きことに用ひては、たがへり。さればこれらにて、万の言をも、なずらへ心得て、まづいにしへに用ひたるやうをさきとして、明らめしるべし。言の本にのみよりては、中々にいにしへにたがふことおほかるへしかし。

ここでもまず宣長の頭にあるのは詠歌のことだ。なぜあれほど宣長がつまらない歌を大量に詠んだのかといえば、それは詠歌すること自体が詠歌の訓練だからだ。正確に、即興で、優れた歌を詠むために、常日頃から歌を詠む訓練をしていた。歌を正確に詠もうと思えばその正しい語義を知らねばならぬ。しかし語義というものは時代や文脈によって変わっていくものだから、まずその用例をしらねばならぬ。そういう用例というものをはなれて言葉の本義などというものを知ろうとしても無駄だと言っているのである。

もちろん宣長は語義なんてどうでもよくて用例さえ調べりゃ良いと言っているわけではない。むしろ宣長ほど根掘り葉掘り語義を調べる人はいない。しかしそんな宣長だからこそ、語義というものは往々にして知り難いものであるから、たくさん用例を見ろよと言っている。宣長が古学を好んだのは詠歌が好きだったからだ。詠歌のために古文を学び、或いは源氏物語を読み、とうとう古事記を解き明かしたのである。宣長がどれほど和歌が好きかということを知らずに宣長を理解することは不可能だ。

そして小林秀雄はそんな宣長をきわめて正確に理解している。

つまり筒井康隆は宣長だけでなく小林秀雄をも誤解していたということになる。

小林秀雄の『本居宣長』がつまらないとかわからないという人は、要するに、宣長に興味がないか、宣長がわかってないのだ。ただ小林秀雄のファンであるだけで宣長がわかるはずがない。

文学のレッスン2

文学のレッスンの続き。長くなるので記事をわける。

p151

色好みの話で、こういうエピソードがあります。本居宣長が亡くなったとき、弟子たちが本居家に集まって、酒を飲みながら口々に先生の偉大さをたたえ、あんな偉い学者はもう出ないみたいなことを語りあっていた。そしたらお酒を運んでいた本居家の女中の一人がワーッと泣きだした。みんながどうしたんだと問いただしたら、その女中いわく、「そんなに偉い先生だとはわたしは知りませんでした。毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたしは邪険に断ってばかりいました」って。

― それはどこかに書いてあるんですか(笑)。

岡野弘彦さんから聞いたんです(笑)。

岡野弘彦は三重県の神主の家に生まれたので、もしかすると実話かもしれない(笑)。 丸谷才一より一才年上で存命。 でもなんとなく、 国学者や神道家のコミュニティーの中で自然と広まったゴシップのような気がするなあ。本人ご存命なのだから聞いてみたい気はする。

私は、宣長の恋歌をみていて、ただ観念的に恋を歌ったのではなかろうとは思っていた。ある程度事実に基づく心情が盛り込まれているのではないかと。ただ、七十近くのおじいさんが毎晩女中をくどくということと、青年時代に色好みであったということは必ずしも結びつかないと思う。

いずれにしてもどうでもよい話ではある。単なるエピソードとして紹介してみたかったのだろう。

本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。 業平と紀貫之のことばかり書いてある。 たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。 古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。 「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、 宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、 私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。 それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。 小林秀雄はそこに踏み込んでない。 「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、 私の主張とはかなり違う。 六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、 業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。 当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。 そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。 そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、 宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。 しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、 割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。 彼に特有のむらっけのようなものを感じる。 小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。 もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

日の神論争2

久しぶりに小林秀雄の本居宣長を読んでみたのだが、なるほど、本居宣長と上田秋成の論争のことは、第40回あたりにちゃんと書いてある。しかし、小林秀雄は「日の神論争」などという言葉は一切使ってない。

「日の神論争」という言葉には「治天の君」と同じような気持ちの悪さを感じる。たぶんこれらの用語を使い始めた仕掛け人は同じ世界にいる。私はそこになにか戦後左翼の悪意のようなものを感じるのだ。私は自分の嗅覚には自信がある。日本戦後民主主義の欺瞞には敏感だと自負する。

本居宣長と上田秋成の論争はつまりは、宣長は天照大神は人格神ではなくて太陽そのものであると言いたいわけである。秋成は、古代の神話は不可知であるから、太陽そのものであるとか実はなにかの人格神を太陽になぞらえたとか、そんなことには言及しないのが良い、と言っている。つまりは、天照大神が人格神か太陽そのものかという論争。秋成には宣長への愛を感じる。宣長はたぶん秋成を好きではなかっただろう。秋成の宣長への片思い。私にはほほえましく思える。

しかし、それに「日の神論争」という名前を与えた誰かがいる。大きなお世話である。宣長も秋成も、愛するものたちが交わした恋文のような、二人の論争にそんなへんてこな名前を付けられるのは嫌だろうと思う。不愉快だろうと思う。秋成にはたしかに「日神」という文字は見える。しかしそれを「日の神論争」という言い方をするのに、少なくとも私は不快を感じる。

私は宣長の原理主義は間違っていると思うし、秋成の方がまともなことを言っていると思うが、しかし、宣長の弁護もしたいと思う。つまり、当時の人たちは、新井白石もそうだが、何かといえば、神話を自分の考え方で解釈しようとする。それは戦後日本においてもそうだし、平成26年の今日でもそうだ。そのときどきの時代の常識で神話を解釈しようとすれば必ず間違う。秋成は、だから、神話は不可知であると言う。いろいろと判断を加えてはならないと。宣長は、神話は神話としてそのまま記紀に書いてある通りに解釈すべきだという。私にはその二つは似ていてどちらも好ましく感じる。宣長は、神話を勝手に解釈するくらいならそのまま書いてある通りに信じる方がましだと言っているだけに思える。

戦後日本が戦前の日本の国学を否定して、源平合戦を治承・寿永の乱とか言い直したりする。治承・寿永の乱、くらいまではまだ許せる。そう言いたければ言えばいい。しかし、治天の君は私にはただ不愉快なだけだし、おそらく仕掛け人は同じところにいると思うと、日の神論争という言い方にも同じ不快感を感じざるを得ない。宣長が反発したのと同じことを今の学者もやっているのだ。昭和や平成の解釈で神話をいじくるくらいなら、宣長のようにそのまま神話を信じる方がましだと言いたい。ずっとましだ。或いは秋成のスタンスも私は好きだ。或いは、小林秀雄のように批評とはアートであり直感だから、好きに言いたいように言えばよい、というアプローチも好きだ。この三つは私には好ましいし似通ってみえる。一番遠いのは、分かったような用語を後付けして、分かったようなカテゴライズをして、分かったような解釈をすることだ。そんな解釈は100年もたない。判断しないこと、そのまま信じること、アートとして鑑賞すること、これらは100年でも1000年でも保つのだ。

恋と女の日本文学

丸谷才一『恋と女の日本文学』は、簡単に言えば本居宣長を攻撃するのが大好きな丸谷才一が宣長を攻撃するために書いた本である。丸谷才一という人は、戦後民主主義のホルマリン漬けみたいな人であって、思想的には大江健三郎や井上ひさしなんかに近い。國學院大學にいて国文学にものすごい影響を受けているくせに左翼だからものすごく屈折している。

で、本人は本居宣長を攻撃しているつもりなんだが、誰も怒ってくれない、放置プレイ状態だからますます彼の論説は過激になっていく。

宣長はただ一般論として儒学を攻撃しているのではない。彼は実際に講義を受けた堀景山を批判しているのだと思う。彼は凡百の儒者に過ぎなかった。その講義があまりにもつまらなかった。堀景山は反面教師としてそうとう宣長に影響を与えたのだろうなと思う。

中国人は偽善者で嘘つきだ。それが中国文学の原理である。
p.72

ここで「中国人」を「堀景山」に読み替えると意味がすんなり通ると思う。当時の儒学者、武家というものは、多かれ少なかれ偽善者で嘘つきだった。「蘆わけ小舟」は景山に学んだ宣長の卒業論文のようなものだった。普通は恩師のことを褒めなくてはならないのだが、宣長は景山の人柄はともかくとして学問や思想に決して共感できないところがあり、
それを批判したのだろうと思う。もちろん、宣長は景山なくして契沖に出会うことはなかった。ただそれだけでも、宣長が景山を尊敬していたことは間違いない。

丸谷才一は、儒教文化と日本文化を対比させて話をしたがるのだが、日本はインドからも大量の説話を輸入していて、そこには男女の愛憎や肉欲なんてものは、いやというほど描写されている。日本文学は中国と比べれば退廃的かもしれんがインドと比べれば全然清楚なほうだ。日本はただその両極端を知識として知っていただけだろう。

宣長の歌がからつ下手で
(p.63)
宣長の生涯には不思議なことが一杯あるが、とりわけすごいのは、どうしてあんなに和歌が下手だつたのかといふことである。『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたいと念じながら生き、学び続けた人なのに、本当に才がなかつた。才のなさが凡庸ではなかつた。しかもさういふ人の歌のなかでもとりわけひどいのが人口に膾炙することになつた。言ふまでもなく山桜の歌だが、
(p.86)

などと書いているのだが、思うに、定家全集なんか読んでいると定家もそうとう大量の退屈な歌を詠んでいる。実際定家の歌で面白い歌なんてのはめったになく、たまたまあっても奇をてらった嫌みなやつか、本歌取りのきどったやつ。見えてくるイメージは学者の家に生まれ育った秀才、というのみ。父親の俊成のほうがずっと歌はうまいと思うのだが。で、

『新古今』が大好きで、何とかしてああいふ歌を詠みたい

などとは宣長は思ってない。京極黄門藤原定家のような歌が詠みたい、と思っていただけであり、後鳥羽院や西行みたいなぶっとんだ歌が詠みたいと思っていたわけではない。これらの天才肌の感覚派の歌は後世の京極派に通じるところがあって、むしろ宣長は嫌っていた。霊感によって自由自在に詠む歌というものを宣長は否定している。

定家の地名百首みたいなつまらん屏風歌みたいのを大量生産するのが宣長の好みであった。宣長はかなり忠実な定家の追随者だと思う。

俊成や後鳥羽院や西行の歌を、普通の歌人は真似ることはできない。方法論がない。天才の歌を凡人が真似ることは不可能だ。しかし、定家の歌を真似ることはできる(追記。下手くそな歌詠みのために定家が作ってやったテンプレをみながありがたく使うという意味)。ピアノで言えばバイエルみたいなもん。だから定家は家元になり得たし、信者を大量に獲得できたのである。その一人が宣長だったのにすぎない。それは宣長自身が言っている。京極派を毛嫌いするのもそこだろう。京極派を学んでも凡人は京極派の歌を詠むことはできない。しかし二条派の歌なら詠める。

本居宣長

wikipedia 本居宣長 を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、 いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、 その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。 京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。 手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、 堀景山は儒学者というよりは医者であって、 宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。 ニュアンスが異なる。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。 そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。 なんだろね。 日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、 日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、 堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。 どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、 本居宣長は、 自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、 堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。 荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。 しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、 その古文辞学的なところとか。 宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。 もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、 宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。 くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。 伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、 わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。 中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、 不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。 小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、 わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。 小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、 本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。 読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。 自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、 ともかく読者というものは業が深い。 私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして (或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、 宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。 仕方なしに松坂に取材に行った。 それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、 ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、 もう全然書くことがなくなってしまって、 後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、 そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。

宣長の結婚2

やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。 大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、 さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。

まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、 1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。 その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。

『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。 こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。

大野晋は、

外にとりたてた証拠はないのです。

と断っているし、丸谷才一もまた、

小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。

と言い訳めいたことを書いている。 つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。 でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。 特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。

私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、 なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。 きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。

宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、 と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。 宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。 無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。 さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。 私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、 単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、 結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。 京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。 松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。 それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。 仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。 そう考えるのが一番自然だ。

大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。 しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、 多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。

さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、 『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、 そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。

宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、 信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。 白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、 徹底的に弾圧し得たのか。 信長が天才だったからだろう。 そうとしか言いようがない。

宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。 さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。 その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。 少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。 そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。 また、国学の祖といわれる契沖は、 定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、 宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。 宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。 源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。

蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。 医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。 仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。 学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。 宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。 そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。

さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。 必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。 誰も彼もが心を縛られているのではない。 宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。 ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。 仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。

宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。 一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。 それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。

熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。 しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、 当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。