村岡典嗣『本居宣長』

村岡典嗣『本居宣長』

自分の門弟たちには、どうも歌文の道を好む人が多く、自分の学問の本旨である、古学をする人のないのは、嘆かはしいことである。それゆえに御身も、先にも言つた様に、神代の道を明らめることを専らとして、歌文といふごとき末のことに心をとめるな

門弟の服部中庸という者に、宣長が死の直前に戒めたことばだというが、とても信じられない。宣長が「歌文といふごとき末のこと」などという認識を持っていたはずがない。これはおそらく服部中庸が平田篤胤とともに謀ったことか、或いは篤胤が服部中庸から聞いたということにして勝手に広めた説ではなかろうか。

とくに平田篤胤は信用できない。

『うひ山ぶみ』を見るだけで明らかなように、宣長は「歌文」について、特に「歌学」についてそうとう細かなことを記している。歌学について書いた分量と他の記述の量を比べてみよ。

いずれにしても、こういう他人の逸話というのは信じるに値しない。宣長は、自分の考えはすべて著書にして遺した人で、門人に何か秘伝のようなことを遺す人ではない。また、宣長の書いたものと、門人が伝えることに齟齬があるとすれば、それは門人が間違っているか、嘘をついているのだ。宣長はそうやっていろんな人に勝手に解釈され利用される人だった。

本居宣長27回

小林秀雄の本居宣長の27回。ここにはほとんど宣長のことは出てこない。 業平と紀貫之のことばかり書いてある。 たぶん小林秀雄は宣長の「あしわけをぶね」を読んでいて、古今集について語りたくなったのだろう。

古今集真名序に出てくる「続万葉集」を貫之が編纂したかどうかはかなりあやしい。 古今集の前の段階、宇多天皇の時代(醍醐天皇が即位するまえ)に編纂されたと思われるからだ。 「新選万葉集」「続万葉集」などは、はっきりとは書かれてないが、 宇多天皇、もしかすると光孝天皇が企画したものだったかもしれない。

小林秀雄は貫之が古今集仮名序を、土佐日記を書く30年ほど前に書いた、と言っているのだが、 私が「古今和歌集の真相」に主張したこととは全然違う。 それは(延喜五年に最初から今のような貫之による仮名序が古今集についていたとする)定説だが、しかし、古今集研究はまずその定説を疑うところから始めなくてはならない。 小林秀雄はそこに踏み込んでない。 「古今集の歌風を代表するのは、六歌仙と言われているひとたちの歌」だと言っているのも、 私の主張とはかなり違う。 六歌仙はどちらかと言えば貫之らよりも数世代前の伝説の人たちであり、 業平は確かに最も重要な古今歌人だが、彼は別格であって古今集の歌風を代表するとは言いがたい。 当代の歌人としては、貫之はともかくとして、紀友則とか源融、伊勢などに焦点を当てるべきである。 そこが少し物足りない。はがゆい気持ちがする。書くなら書くでもう少しつっこんでほしい気がする。 そしてさらに、なぜか歌がまったくでてこない宇多上皇の存在に気づくべきなのだ。

思うに、この小林秀雄の本では、当たり前のことだが、 宣長については非常に詳しく緻密に、網羅的に調べて独自の意見を書いている。 しかし、それ以外に脱線した話題に関しては、随想のように、 割と一般に知られている意見をそのまま紹介している箇所があるようにも見える。 彼に特有のむらっけのようなものを感じる。 小林秀雄という人が、主菜を前にして、それ以外のいろんなサイドメニューをつまみ食いしている感じが見える。 もともとこの本が長期連載の随筆をまとめたものであったから、どうしてもそのような体裁になってしまうのだろう。

本居宣長

wikipedia 本居宣長 を読んでいると非常に腹ただしくもあり、いろいろいじりたくもなるのだが、 いじり始めるときりがないからやめておく。

まず不満なのは17歳の時に和歌に目覚めたこと、 その後も和歌の修行に執心したこと、がまったく書かれてないこと。 京都遊学中に小沢蘆庵と出会ったことも書かれてない。 手落ちだ。

医学を堀景山以外の人に習ったように書かれているが、 堀景山は儒学者というよりは医者であって、 宣長は医者になるために堀景山に学び、ついでに儒学も学んだのである。 ニュアンスが異なる。

宣長の生涯にわたる恋愛生活は、大野晋により明らかになった面が大きい。

これは大野晋の妄想なのだが(彼の妄想癖は有名。日本語なんとか起源説、とか)、これを読んだ人は鵜呑みにするだろう。

紀州徳川家に「玉くしげ別本」の中で寛刑主義をすすめた。

これのどこがそんなに重要なんだ。

当時の江戸までの道中の地図資料のいい加減なところから、「城下船津名所遺跡其方角を改め在所を分明にし道中の行程駅をみさいに是を記」すとして「山川海島悉く図する」資料集の『大日本天下四海画図』を起筆した。

いやおまえ、そんな些細なことはどうでもいいからさ。 そんなことまでいちいち書いてたらほかにもいろんなことかかなきゃならなくなるよ。

要するにこれを読んで宣長のことは半分もわからん、むしろおかしなステレオタイプを覚えてしまう、ということだ。 なんだろね。 日本史の教科書の記述ってしょせんこんなもんなの?

たぶん書かねばならないことは、宣長が松坂の木綿商の次男に生まれ、
11歳の時に父が死んだということ。
15歳で1年ほど江戸の叔父の店で修行したこと。
17歳で和歌を学びはじめ、
18歳で紙商の養子になった(次男だからだろう)こと。
20歳で養子を離縁されたこと。
21歳で兄が死んで家督を継いだこと。
22歳で医者になるために京都に遊学。
堀景山に医学の他、四書五経や漢詩などを学ぶ間、契沖を知り、和歌を学び、小沢蘆庵と知遇を得て、 日本文化に心酔して仏教や儒学から距離を置くようになる。
京都で医者になろうとした(医者の娘と結婚して養子になろうとした)がかなわず、 堀景山が死去すると、27歳で帰郷して医者を開業する。
30歳の時に商家の娘と一旦結婚するが離婚。
32歳で京都時代の学友の娘と再婚。

まあ、こんなところではあるまいか。

彼は武家とははなはだ相性が悪かったが、商家とも悪かった。 どのへんが気に入らなかったかというところが非常に気になる。

いやね、 本居宣長は、 自分で、契沖に影響を受けました、ということは書いているんだが、 堀景山や荻生徂徠に影響を受けました、なんてことは書いてないと思うんだ。 荻生徂徠や伊藤仁斎に影響を受けただろう、ということは小林秀雄がそう書いてるだけでね。 しかも本論とあんま関係ない薀蓄たれてるだけなんでね。

宣長の学問の形というのは徂徠がどうのこうのと言わなくても契沖だけでほぼ完全に説明できると思うんだ、 その古文辞学的なところとか。 宣長学というのはつまるところ契沖学の延長なんだよね。 もし他に影響を与えた人をあげるなら藤原定家とか紫式部とかだろ。

宣長は真淵を師と呼んでいて、別に影響を受けなかったというつもりはないが、 宣長は真淵に会う以前にすでに完成していたのだから、その影響を完全に除外しても宣長は宣長なんだよなあ。

なんでそういうふうに宣長を説明したがるのかね、みんな。

だいたい小林秀雄という人は、雑な性格の人で、良く言えば芸術家肌なんだが、仕事にむらがある。 くだらん老人の蘊蓄を垂れている箇所と、鋭い指摘をしてるところが混在している。 伊藤仁斎の箇所なんて頼まれ仕事で仕方なく文字数埋めるためにわざと脱線してなんの関係もない蘊蓄を垂れているだけなんだが、 わかる人はそういうところはよけて読んで、面白いところだけ拾い読みすれば良い。 中国のお土産は必ず良いものと不良品を抱き合わせにして売っている。そんなもので、 不良品を捨てて良品だけ拾えばよい。 小林秀雄自身もここは脱線してるから本論とは関係なしに雑談として読んでね、っていうヒントはちゃんと出してるのに、 わからんやつにはわからん。よけいなんかありがたがっちゃう。
ああ、宣長の本を読んでてついでに仁斎の話まで読めちゃうなんて。なんてお得、とか思っちゃう。 小林秀雄著『本居宣長』を読んでる側にしてみれば、 本居宣長が伊藤仁斎から何かすごく影響を受けたように読んでしまう。 読者というものは、だいたい誤読するものである。

本居宣長を誤読しさらに小林秀雄も誤読するからもはや宣長の原型を留めていない。 自分で勝手に宣長ってこんな感じとか思っちゃう。

平田篤胤なんかも本人の許可無く勝手に誤読して自分が一番の弟子とか言い出す。

ガンダムやマクロスの二次創作もそうだが、 ともかく読者というものは業が深い。 私も自分の小説をいつも誤読されるので、よく知ってる。

たぶん小林秀雄は出版社から借金の穴埋めかなんかに原稿料を前借りして (或いは一晩で遊蕩して)、宣長について五十話書く約束をしちゃったんだが、 宣長だけでそんなたくさん書けないし書く気もない。 仕方なしに松坂に取材に行った。 それから徂徠や仁斎の話で煙にまいといて、 ほんのちょっぴり、きらっとしたことを書いたら、 もう全然書くことがなくなってしまって、 後半は古事記伝の解釈をいやいやだらだら書いて埋めた、 そういう本だと思うよ、『本居宣長』は。

本居宣長

筑摩書房の「本居宣長全集」第2,15,18巻、それと小林秀雄「本居宣長」を借りてくる。 全集の解題は大久保正という人が書いているが、 中野重治が

あんなおかしな歌を何年も何年もこりずに書いたような精神のある面が、その面は詩には無関係のものだったが、とにかく、宣長の学者としての仕事を支えていたのだと思う。

だとか、大久保氏自身も

宣長の和歌は今日すでに文学の化石となっている
彼の夥しい作中から強いて秀作を拾おうとする試みは、ここでは、それほど意味があるとも思われない
宣長の詠風が十年一日の如くで、極めて変化に乏しかった

などとぼろくそと言って良いほどにけなしている。小林秀雄も

その歌の内容を問うよりも

などと暗に歌そのものとしての評価を避けようとしている。

本居宣長は自画像も描いているのだが、確かに平凡な絵ではある。 同じことは歌にも言えるのだろうとは思う。 また遺言書に自分の墓の絵まで描いて事細かに指示してあるのはやはり何か異様なものを感じる。

その歌というのが一万首近くもあって、多くの人にとってはそれは過ぎ去った過去の学者の習作か詠草であって、 詩的な、今日的な価値はない、と言いたいのだろう。

しかし、本居宣長の歌でおもしろいものはかなり多い。 少なくとも宣長よりも下手な歌詠みはたくさんいる。 なぜみんな宣長の歌をほめようとしないかというとただ単に戦後民主主義的な雰囲気が妨げているだけではないかとさえ思える。 宣長が、ことあるごとに「やまと」「こま」「もろこし」などを歌に詠みたがるのが煙たいのだろう。 国学として、歌論としてそういうことを言っている分には良いとして歌に詠まれるのが憎らしくはがゆいのではないか。

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり
忘るなよわがおいらくの春までも若木の桜うゑし契りを
この花になぞや心のまどふらむわれは桜の親ならなくに
桜花ふかき色とも見えなくにちしほに染めるわが心かな
さし出づるこの日の本のひかりよりこまもろこしも春を知るらむ

小野小町を詠める:

今もなほながめせしまのおもかげは露けき花に見るここちして

紫式部を詠める:

言の葉に染めずばいかでむらさきのふかき心の色は見るべき
言の葉はたぐひなき名の立田姫いかに染めける錦なるらむ

確かに秀歌というかどうかはともかくおもしろい歌は多い。

待ちわぶる桜の花は思ひ寝の夢路よりまず咲きそめにけり
のどかなるあたら春日を花も見で咲くを待ちつついくか経ぬらむ

「のどかな春の日を、花も見ずに過ごすのはもったいない、もう何日花の咲くのを待ちながら日が経っただろうか」、 という実に素直な歌だ。

朝な朝な庭のもみぢの色見れば賤き心のはづかしきまで
いくばくもあらぬさくらの花ざかり雨な降りそね風な吹きそね

これはわざとこういうふうに詠んだのだと思うよ。 なかなか味があるじゃないか。どうよ。 宣長は学者だったから、素人が歌を詠む手本になるよう、 わざと教科書的な歌をを詠んだと思う。同じことは明治天皇にも言える。 自分で歌を詠もうと思ったときにこれほどたくさんサンプルがあると便利。

つまり、本居宣長とか明治天皇の歌というのは、純粋なミネラルウォーターのようなもので、 本人が詠んだことが確実で、文法的にも間違いがなく、かつ量が多い。 初学者がそのまま何の疑いもなく学ぶことができる。 こういう純度の高い歌集は勅撰集以来そうざらにはなかったものである。

ところが江戸時代の武士の歌などは個々の歌人のものはサンプル数も少ないし、 真作と偽作が混ざり合い、 文法もいい加減で、 見た目はとっかかりよさそうに見えて、 これらを手本にして和歌を学ぶなどということは不可能であり、 できは良くても狂歌や戯れ歌などであったり、 むしろ玄人が慎重により分けないとまともに鑑賞することすらできない、というわけだ。 だから私は、宣長の一万首の歌は今日的にも非常に価値が高く、 宣長の著述の中でけっして軽んじることのできない部分だと思う。