宣長の歌

宣長が和歌に志し、『和歌の浦』を執筆し始めたのは延享4 (1747)年11月14日のこと。 生まれた日は享保15 (1730) 年5月7日なので、満17歳の時。 『玉勝間』巻3「おのが物まなびの有りしやう」

十七八なりしほどより、歌よまゝほしく思ふ心いできて、 よみはじめけるを、それはた師にしたがひて、まなべるにもあらず、 人に見することなどもせず、たゞひとりよみ出るばかりなりき、集どもゝ、古きちかきこれかれと見て、かたのごとく今の世のよみざまなりき

宣長が初めて歌を詠んだのは、延享5 (1748) 年正月のこと。

此道にこゝろさしてはしめて春立心を読侍りける
新玉の春きにけりな今朝よりも霞そそむる久方の空

寛延2年3月20日 (1749/5/6)
> 同二年【己巳】従三月下旬、詠和歌受宗安寺〔中ノ地蔵立〕法幢和尚之添削【自去年志和謌、今年ヨリ専寄此道於心】また、三月下旬ヨリ、宗安寺ヨリ歌ノ直シヲ受ル、「杉ナラハ、「ハル/\ト、「カクヲシム、「ナニハヱノ、「池水ノ、始テ五首ヲツカハス

この法幢和尚というのが、初めて宣長が歌を添削してもらった人、 つまり最初の師匠ということになる。 どんな人かはそれ以上はわからない。

寛延2年9月10日 (1749/10/20) 定家の歌論書『詠歌大概』『秀歌体大略』などを筆写する。

なぜ和歌に興味を持ったのか、いろいろ理屈を考えてみたが、京都に行ったり、 父が商売していた江戸に行ったり、 また吉野や伊勢神宮に参拝したりなどして、自然と和歌に関心をもった、 という程度のものなのだろう。

宝暦2(1752)年3月上京。上京というのはこの当時は当然京都へ行くこと。

母なりし人のおもむけにて、くすしのわざをならひ、又そのために、よのつねの儒学をもせむとてなりけり
景山先生と申せしが弟子になりて、儒のまなびをす

堀景山とは儒学者で医師。 また、契沖の研究者で、景山の紹介で契沖の『百人一首改観抄』を読む。 宣長は契沖を高く評価しているがそれは師匠景山の影響だろう。

宝暦2年9月22日、新玉津嶋社を訪い社司森河章尹に入門、 新玉津嶋社和歌月次会に約1年ばかり出席するようになる。 この森河章尹という人が、法幢に続いて宣長の二番目の和歌の師範となる。

宝暦2年11月 (1753/1/3)

年ころ此道に志ありてたえすよみをける言の葉もはか/\しくよしあし見わくる人もなき事をうらみて同し題(浦千鳥)にておもひをのへ侍りける/和歌浦たちよるかたを浪間にそ夜半の千鳥の鳴あかすなる/浜千鳥鳴こそあかせ和歌の浦やたつらんかたもなみのよる/\

と言った具合に、宣長は森河章尹という人が歌の良し悪しもわからぬ人だと言っている。 森河は藤原氏であり、冷泉為村の弟子である。 為村(正徳2年1月28日(1712年3月5日) – (安永3年7月29日(1774年9月4日))は正真正銘、 堂上家の歌人であり、霊元天皇(承応3年5月25日(1654年7月9日) – 享保17年8月6日(1732年9月24日))に古今伝授を受けた。 霊元天皇が添削した詠草が現存するらしい。 冷泉家というのは定家の唯一の直系の家系でもある。

宣長が、『排蘆小船』で古今伝授のことを激しく攻撃しているのは、 この森河や為村のことを指している、と言って間違いなかろう。 古今伝授がでっちあげだと初めて主張したのは契沖で、 宣長も全面的に賛同している。

小沢蘆庵は為村の弟子だったが破門された。 宣長と蘆庵は、宣長が京都遊学中、宝暦7年8月6日(1757/9/18)出会っている。 蘆庵と宣長の接点は森河か為村しかない。 為村は当時まだ存命中だ。 新玉津嶋社和歌月次会で顔見知りになったと考えるのが自然だ。 この年には師匠の景山が死去し、宣長はただちに帰郷している。

宝暦8年2月11日地元松坂の嶺松院歌会に初めて出席し、有賀長川に添削を受けている。 つまり彼が宣長の三番目の歌の師範となる。 長川は有賀長伯という比較的有名な二条派の歌人の嗣子。 松坂に住んでいたのでなく、おそらく大阪か京都に居て、宣長は書簡で添削を受けたのだろう。

宣長の結婚

宣長が京都に五年間も遊学していて、宝暦7年9月19日 (1757/10/31)には師事していた堀景山が死去する。それでようやく宣長も松坂に帰郷して、医者を開業し、嫁をもらうことになる。景山の葬儀が宝暦7年9月22日 (1757/11/3)、その10日後には、暇乞いをして帰郷の準備を始めている。この年はずっと景山の容態が悪く、宣長もかねて覚悟を決めていたのだろう。

翌宝暦8年、宣長は京都の医家へ養子となる運動を始めている。養子ということは、普通に考えれば婿養子になるということだろう。娘が居るというのと、跡取り息子が居るというのはだいぶ違う。まったく子供ができずに養子を取ることも、もちろんあっただろうが、その場合でも結婚相手はなおさら自分では決められないだろう。実の娘はなくても、おそらく親戚の娘か何かと結婚させられるだろう。

宣長はできれば郷里の松坂ではなく京都で開業したかった。しかし、それらの運動はうまくいかず、宝暦9年10月 (1759/12/18)、同じ町内の大年寄、つまり松坂の名家の村田彦太郎の娘ふみとの縁談が起こる。

宝暦10年4月8日 (1760/5/22) 村田家に結納。宝暦10年9月14日 (1760/10/22)、ふみと婚礼。宝暦10年12月18日 (1761/1/23) ふみと離縁。宝暦11年7月 (1761/8/29) 景山の同輩草深玄周の妹で、草深玄弘の娘・多美との縁談が起こる。宝暦11年11月9日 (1761/12/4) 深草家と結納。宝暦12年1月17日 (1762/2/10) 多美と再婚。

思うに、当時、結婚してみたけどダメだったので離婚した、ということは、比較的簡単にできたように思う。今の感覚とはだいぶ違うのではないか。どちらかといえば、ふみの方が宣長を見限ったのではないのか。京都で修業した医者の卵というので期待していたが、学問ばかりしていてつまらぬ男だと。

確か、『家の昔物語』だったと思うが、宣長は、松坂には非常に富裕な農家がたくさんあり、贅沢に暮らしている、などと書いているが、村田家もそうだったのではなかろうか。
妻が贅沢で金遣いが荒い。そして結局離縁していった。だからわざわざ書き残したのではないか。宣長の方は家は借金で整理して、江戸の店もたたんで、医者の仕事はまだ駆け出しで、趣味の世界ばかり熱中している。しかもヘビースモーカーだ(笑)。こんな亭主なら見限りたくもなるのではなかろうか。

たとえば、宣長の妹も、宝暦6年12月12日 (1757/1/31)に結婚し、宝暦8年8月28日 (1758/9/29) に男子を生んでいるが、宝暦8年11月20日 (1758/12/20)に男児は死去し、宝暦9年1月 (1759/2/26) には離縁しているが、8月には復縁している。なんだかよくわからない。

宝暦6年4月20日 (1756/5/18) 宣長は、まだ京都で遊学していた最中、法事のために松坂に帰省するが、途中、津の草深家に立ち寄る。宝暦6年5月10日 (1756/6/7) 復路再び草深家に立ち寄る。縁談話が持ち上がる前に草深多美と出会う機会はこの二度しかなかった。当時宣長は満26歳、多美は満16歳。大野晋はこのとき宣長が多美に一目惚れした、多美を忘れられなかったので、わざわざふみと離縁してまで再婚したのだ、というのだが、ほんとうだろうか。宣長が多美と出会った翌宝暦7年春、多美は津の材木商藤枝九重郎という人と結婚しているが、彼は宝暦10年4月26日に病死している。多美が独身になったのは、宣長と村田ふみが婚約したのの直後ということになる。

宣長はそんなに多美と結婚したかったのだろうか。少なくとも、多美を忘れられなかったから結婚しなかったのではなかろう。宣長としては、京都に住み続けたかったから、京都の医師の娘と結婚しようとしていたのであり、そのことの方がより重要だったと思う。五年も京都に遊学してたのも、単に学問が好きだったというよりも、婿養子先ができるのを待っていたのではなかろうか。要するに今で言う就活だ。婿養子になる場合それと婚活が合わさる。

また、初婚に失敗した宣長と、同輩の妹で後家の多美の縁談が持ち上がったのも、自然のなりゆきという以上の理由はないのではなかろうか。たった二度しかあったことの無い人とそんな簡単に恋に落ちたりするだろうか。

状況証拠的に言えば、学業を終えてこれから家を構えて自分で飯を食っていかなくちゃならないので、まず京都の医者の娘と結婚しようとしたが、うまくいかなかった。仕方ないので地元の金持ちの商家の娘と結婚したが、やはりうまく行かなかった。仕方ないので、京都遊学時代の同輩の妹で、出戻りの女と再婚した。と考えるのが普通ではないか。

仮に、宣長が、そんなドラマみたいな大恋愛をしたとすれば、それはおおごとだ。国学界のコペルニクス的転回と言っても良いくらい、大変なことだ。

しかし、宣長の場合はいつの時代にも、誤解・誤読されてきた。戦前も戦後も、今現在も同様だ。時代ごとにその誤読のされ方が違うだけだ。何でもかんでも「もののあはれ」という「イデオロギー」で解釈してしまって良いのか。それは危険ではないのか。大野晋とか丸谷才一のように、この体験によって『源氏物語』を読み解く目が開けた、「もののあはれ」を知った、などと言えるだろうか。

丸谷才一『恋と女の日本文学』

それまでの経過を通じて宣長は、恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知ったでしょう。また、人妻となった女を思い切れず、はらい除け切れない男のさまを、みずから見たでしょう。その上、夢にまで描いた女に現実に接するよろこびがいかに男の生存の根源にかかわる事実であるかを宣長は理解したにちがいない。また、恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに違いありません。
この経験が宣長に『源氏物語』を読み取る目を与えた。『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あわれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文学の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ないと、私は思ったのです。

どうもこの丸谷才一という人は、『新々百人一首』を読んでいても思うのだが、たんなる妄想・憶測を、事実であるかのように断定する傾向にある。ちょっと信じがたい。というか、もし間違ってたらどうするつもりなのか。そりゃまあ、ひとつのフィクションとして小説に仕立てるのなら、十分アリだろうけどさ。しかし、リアリティに欠けるなあ。大野晋にしても、「日本語タミル語起源説」とかかなり無茶な学説を提唱してたりするから。もしかしたら嘘ではないかもしれないが、あまりにも強引過ぎる。

どちらかといえば、「もののあはれ」というのは、何かの観念にとらわれずに、リアリズムとか、心に思うことをそのまま表現すること、という意味だと思うのだよね。それは契沖から学んだ古文辞学的なところから導かれるもののひとつに過ぎないと思うよ。なんかの恋愛観のことじゃないと思う。恋愛感情が一番、心の現れ方が強く純粋だと言ってるだけでね。『源氏物語』を仏教的に解釈したり儒教的に解釈するのではなく、ありのままに、人間の真情が、そのまま記されたものとして鑑賞しましょうよ、と言ってるだけなんじゃないかなあ。「もののあはれ」っていう信仰とか哲学があるわけじゃあないと思うんだ。

宣長記念館では、

離婚の理由は不明。草深たみへの思慕の情があったという人もいるが、恐らくは、町家の娘として育ったふみさんと、医者をしながら学問をやる宣長の生活には開きがあったためであろう。またこの結婚自体が、ふみさんの父の病気と言う中で進められたこともあり、事を急ぎすぎたのかもしれない。嫁と姑の問題も無かったとは言えまい。真相は誰も知らない。

離婚から1年半、宝暦11年7月、草深玄弘女・たみとの縁談話起こる。たみは、京都堀景山塾での友人の草深丹立の妹である。いったん他家に嫁いだが、夫が亡くなり家に戻ってきていた。宣長も宝暦6年4月20日には京からの帰省途中、草深家に遊び、引き留められ一宿したことがある。顔くらいは知っていたであろう。

などと書いているが、「草深たみへの思慕の情があったという人もいる」というのは大野晋と丸谷才一のことだろう。その説も知った上で、上記のような判断をしていると思う。宣長と多美は顔くらいは知っていた、程度の知り合いだった。至極もっともな解釈だと思う。

文学部唯野教授2

引き続き、第2講「新批評」。

マックスウェーバーが「典型的かつ大量に行われる社会的闘争はながい間には結果的に、重要な個人的性質を持つものを淘汰するに至る」と言っているらしいのだが、これは ピーターの法則 のことではないのか。よくわからんがとりあえず備忘録代わり。

うーむ。ヴィトゲンシュタインという哲学者は「すべてのものを正確にあるがままの形でほったらかしておくものだ」と言っていて、それはつまり「文学作品を解剖するのは人間の体を切り刻むのと同じ非道な行為」だからで、「ちょい本居宣長」だと言っている。なぜそこでまた本居宣長。本居宣長は、そんなこと言ってないよ全然。筒井康隆の中では本居宣長っていう人はどういう人ということになっているのかなあ。「ちょい小林秀雄」、という意味でなら少しは当たってるのかな。小林秀雄は、よくわかりません、なんでゴッホとかモーツァルトとかまで口出ししてるのか。全然わからん。で、小林秀雄と本居宣長は全然別の人格だと思うんだけど。

「新批評」は「科学合理主義のパロディ」「技術優先」「判断停止」ふーん。とりあえずメモ。

文学部唯野教授

なんとなく手持ちの本を読み始める。

『文学部唯野教授』第一講「印象批評」。

ここで、筒井康隆は、「印象批評」とは、「神様並みの常識持」つ人にしか出来ないことで、日本人ならば小林秀雄や本居宣長くらいだ、などと言っていて、妙に感心してしまったので、久しぶりにここに書いているのだが。

さらに「神様並みの常識持」つ「印象批評」をする人でも「小説は無秩序だから面白い」とか「登場人物の性格が行き当たりばったりだからこそ自然に見える」などと言っている。うーむ。たぶん、いや確実にだが、筒井康隆は、きちんとプロットを考えて、登場人物の性格もきちんと設定して、小説を書いているにもかかわらず、「あなたの小説はカオスなところが面白いですね」とか「登場人物の性格が破綻しているから面白いですね」などと言われて頭に来たのだろうな。はははわかるわかる。

国文科は小林秀雄の『本居宣長』を半強制的に読まされるのか。以前この部分を読んだときは、そもそも小林秀雄も本居宣長も読んではいなかったので、ちんぷんかんぷんだったのだが、今ならだいたいわかる。小林秀雄の『本居宣長』も、本居宣長の著作も、精読した(つもり)だからだ。

で、本居宣長の「されば、緒の言は、その然云フ本の意を考えんよりは、古人の用ひたる所を、良く考へて、云々のことは、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし」を原文密着主義、などと筒井康隆は言っているのだが、はて、そうだろうか。まず、もとの本居宣長の引用だけど、「用ひ」などの仮名遣いが間違っていて、しかも送りがながひらがななところを見ると、たぶん岩波文庫版の『排蘆小船』から引いたものだろうと思うのだが、だとしても、宣長が言いたかったことは単に、古語で意味の通らない言葉が出てきたときには、その事例をできるだけたくさん調べて、意味を解読する必要があるよ、ということだろう。言葉の意味の本質などというものをいくら考えても無駄で、できるだけたくさんの文献に当たって用例を調べて類推しろと言っているだけだ。これをひとことでなんと言い表すかは知らんが、それを「神様並みの常識を持つ人の印象批評」とか「原文密着主義」などと言ってよいのだろうか、と疑問に思ってしまうわけだ。

享和元年宣長上京の理由

あいかわらずのネタ。
宣長日記享和元年三月十六日(グレゴリオ暦1801年4月28日)、

公卿勅使花山院右大将殿(愛徳卿)御参向、今夕当所御泊。
藤浪殿亦御参向、一時許先給、同泊。
抑、公卿勅使参向者、去寛保元年有之(庭田宰相殿)。
其後今度也、尤珍。

さらに十八日

公卿勅使御還向、当所御休。

この十日後の二十八日に宣長は京都に向かっている。

花山院愛徳は当時、右近衛大将、従三位くらいだったと思われる。藤波家もまた公家。御参向、御還向とは、伊勢神宮に勅使が行き帰りしたという意味だろう。「当所御泊」の「当所」とは文脈的に宣長宅とは考えにくく、単に松坂のどこかの宿に宿泊したということだろう。「一時許先給同泊」とは、一時的に先に行くことを許されたがやはり同じく泊まった、というような意味か。

勅使が松坂を行き来したことは書かれているが、勅使と宣長が面会したかどうかまでは書いてない。 面会したとしてどちらがどちらを訪れたか。 だが、宣長の上京がかなり長期にわたり、また入門や講義などの準備がかなり周到で、 公卿らの表敬訪問や歌会などもあったことを思えば、 ただ単に京都から来た勅使を見て宣長が急に京都行きを思い立ったというよりも、 京都の公卿か富裕な町人たち(富小路貞直、服部敏夏らか)から勅使に託して宣長宛の招待状のようなものがもたらされて、 もともとそういうことは好きなたちの宣長が、では京都にいこうかとなった、というのが真相なのではないか。 当時の宣長の名声からしてあり得ないことではない。 だが、日記にもどこにも明記されてはいない。 なんか微妙な事情があってその辺は日記に残したくなかったのかもしれんし。 宣長が、松坂に宿泊した勅使のもとをおとづれて、宣長の京都での評判などを聞いて、その気になった、という可能性もあるし、 逆に、勅使が行き返りわざわざ宣長に念押しした、とも考えられるわな。

勅使が寛保元年以来だと書いているが、1741年から1801年まで、60年もの間、 京都と伊勢神宮との間の勅使の往来が途絶えていたという意味か、 単に松坂を勅使が行き来したのが60年ぶりという意味か。 京都・松坂・伊勢の位置関係からして、伊勢に行くには必ず松坂を通るに違いなく、 わざわざ松坂を迂回する意味も見あたらないし、「尤珍」という言い方からしてどちらかといえば前者の意味か。庭田宰相とは時代的には庭田重熈か。

宣長の遺品は奇跡的にほぼ100%残されているそうだ。 なので、普通なら残ってないようないろんなディテイルまでわかってしまう。 だが、ディテイルがわかればわかるほどさらにその先のディテイルまで知りたくなる。 宣長上京については、いろんな日記が残されているが、 当たり前のことだが、自分の関わった部分、自分に関心のある箇所しか残ってない。 香川景樹とやりとりした歌は景樹の歌集や遺稿にしか残ってない。 ホスト役の公卿や町人の日記も当時は存在していたかもしれないが、今は残ってない。 それらをすべてつきあわせたらきっともっといろんなことがわかるのに。

享和元年上京日記

宣長は十代後半から二十代後半まで、京都遊学のために何度か京都と松坂を往復している。その後では、寛政二年(1970)、寛政五年(1973)、享和元年(1801)の三回しかないようだ。寛政二年の上京は、御遷幸、つまり新築された御所に、天皇が仮御所から帰るところを見物に行ったものと思われる。

宣長晩年の上京は四月十五日賀茂祭から六月初旬祇園祭までの長期間で、知人宅に泊まるというのでなしに、四条通東洞院の宿に宿泊し、なかなか豪勢な旅だったように思われる。四月十五日の賀茂祭の日には小沢蘆庵宅をたずねている。「京みやげ」という記録に

賀茂の祭りを見奉りて 宣長
四十とせはよそに過ぎぬる神わざにまたもあふひのけふのたふとさ
蘆庵
ちはやぶる神のみわざのたふとさになほよろづ世もあふひとを知れ
返し 宣長
よろづ世も八百万世も君も我もともにあふひのよはひともがな

とある。さらに「鈴屋大人都日記」には、蘆庵の門人の小川布淑が

めづらしくけふぞあふひのもろかづらもろともにませ八百万世も

と詠んだとある。これはなかなかの壮観ではなかろうか。

錦小路室町の服部五郎左衛門敏夏(服部敏夏)が四月早々に宣長に入門している。五月十八日の円山の饗宴はこの人の主催だったというから、京都のお金持ちだったのだろう。「鈴屋大人都日記」「京みやげ」にもいくつか歌が記録されている。京都における宣長の重要なパトロンだったに違いない。

「鈴屋大人都日記」

敏夏がいざなひきこゆれば、午時ばかりより、泉涌寺にまうで給ひて・・・、かくて未時ばかりに、円山にものしつるに、人々つどひゐて出迎ふ。そもそも、この円山と言ふは、東山の寺なるを、鰭の広もの狭ものを調じ出づれば、京人田舎人雅びたるたはれたる、絶えず遊びをものする所なりけり。けふは敏夏があるじにて残るくまなく心をし用ひければ、まづ南面払ひ開けさせて、日影さすかたには幕引きはへしつらへたれば、吹く風もことに涼しくなむ、松杉など生ひ茂り、作庭のさまおかしうしなしたり。すのこより見やれば、京の町々西山かけて見えわたるもえならぬながめなり。

香川景樹も出迎へて、御旅ゐにものすべう思ひわたり侍れど、とやかくやとことしげくてなむ、けふここへものし給ふことを嬉しく思ひ給へて、ふりはへてものし侍り。著し給へる御書どもは、早う見奉りてみかげをかうぶる事少なからず、いとめでたくなむなど言ふ。師もなにくれと語らひ給ひ、人々酒のみ歌いののしり、心々に歌をも詠みて、暮れ深く帰り給ふ・・・

「都日記」を書いた石塚龍麿は香川景樹とほぼ同世代で、すでに知り合いでもあったかのような書きぶり。

「享和元年上京日記」同じ箇所

今日、服部敏夏のあるじにて、円山に到り、終日饗宴、日暮れて帰る。香川式部、対面。右の人、予、旅宿へ訪ね来たき由かねがね望まるる所、今日ここへ来訪なり。

宣長は「対面」と言っているので、入門したわけでも教えを受けたわけでもなく、この若輩の歌人に、一応対等の立場で応対したのだろう。景樹がすでに宣長の著作を読んで勉強しており、なんとしても面会したいと押しかけてきたという感じがややおもしろい。

寛政五年上京日記

あいからわずのネタ。

宣長の寛政五年(1793)上京日記(全集第16巻)。四月十一日(陽暦5月20日)、蘆庵宅訪問。

蘆庵

来む年を契りおけども老いぬればけふの別れをしばしとぞ思ふ

かへし。宣長

しばしとて立ちもとまらば松陰に千世や経なまし飽かぬ心は
千世八千世長らへて待てながらへて我もとひ来む来む年ごとに

また別の箇所に

道のついでに小沢蘆庵といふ歌人の岡崎なるいほりにとぶらひものしてたるに軒ちかくたてる松はわかの浦よりうつしたるなりと聞きて、あるじの雅びを思ひよせて
宣長
思はずも都ながらにわかの浦のこ高き松をけふ見つるかも
この庵南に向かひて東山の見わたさるるいとおもしろし
見るか君ひむがし山の花の春月の秋をも宿のものにて
とよみけるに
本居翁のことの葉は松のおもておこしなめればこの庵に残してむと思ふついでに
蘆庵
春ごとに松はみどりもそへてけり年のみ高き我や何なる
とぞうめかるる庵の見わたしはげに四の時うつりゆくをりをり飽かぬことなくなむ
蘆庵
わがものの君に贈らで悔しきは野山をいるる庵の明け暮れ
とありけるかへし
宣長
年のみと何かはいはむ君が名は松より高く聞こえける世に
春秋の野山をいるる言の葉にその月花も見るここちして

亡くなった年は同じだが、蘆庵の方が宣長よりもだいぶ年配なので、常に宣長が蘆庵を敬っている雰囲気が伝わってくる。

他にやりとりした歌があるかどうかわからない。六帖詠草の方には宣長の歌は見あたらないようだ。がしかしもう少し調べてみる。

願はくは花のもとにて

西行

願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月の頃

宣長

願はくは花のもとにて千代も経むそのきさらぎの盛りながらに

特徴出てるなあ。西行の方がはるかに厭世的で破滅的。宣長はあくまでも現世肯定的だし、花の盛りが永遠に続けば良いというところなどは相当ファンタジー入ってる。

いまだにうだうだ考えているが「大和心」というものを掘り返したのは宣長で、「敷島の大和心」などという言い回しを使い始めたのも宣長で、しかも「敷島の大和心」という言い回しを宣長は他の歌には使ってない。従ってこのフレーズを宣長がずばりどういう意味で使ったかという確証がなかなか得られない。

外国との対比で使っている可能性は高く、また

めずらしきこまもろこしの花よりも飽かぬ色香は桜なりけり
さくらなきこまもろこしの国人は春とて何に心やるらむ

これらの歌から推測すれば、「敷島のやまとごころを人とはば朝日に匂ふ山桜花」は「桜を好むのが日本人の性格なのだ」などという解釈も成り立つわな。

小林秀雄

最近は adobe も microsoft も認証方法が難しくて、ライセンスを買ってメディアを持っているだけではインストールできない。実に困ったことだ。microsoft office も最近は実に洗練されてきていて、継続は力と言うしかない。openoffice.org と違うのはこれだけの長きに渡って開発され、多くのユーザを抱え、そして多くのお金と人が関わって、洗練されてきたということで、もうこれは簡単に挽回しようがない。すべてソフトウェアというものはそんなものだろう。

それはそうとおもしろくていまだに小林秀雄の「本居宣長」を読んでいるのだが、ネットをざっと検索してみた限りでは、では小林秀雄という人が世間一般でどのような評価をされているのか、具体的に彼の評論のどこが優れているのかということがさっぱりわからない。もしかするとみんな漠然となんだか偉い人だみたいな評価をしているのだろうか。

つまり、何が言いたいかと言えば、だいたいみな本を読んだらブログなどにその感想を書くではないか、たとえばこのブログのように。あるいはゲームで遊んだり、映像作品を見たりしたらブログに書くではないか。そのような他人が小林秀雄について書いた文章を読んでみたいのだが、案外、これがまたほとんどまったく見あたらない。実に不思議な光景だ。まさか私だけがそんな無謀なことをやっているのだろうか。

小林秀雄は手っ取り早く文芸批評の方法論とか、あるいは本居宣長について講演で話すよう頻繁に頼まれていたようで、それはもっともな話であって、私だってまずは小林秀雄とはどんな人か、本居宣長とはどんな人か、できるだけかいつまんで知りたいと思う。だいたい本居宣長について書かれた著書がまた長いし、10年以上に渡って書かれている。多少要約して話してくれても良いではないかと普通なら思う。しかし小林秀雄はそれを拒否し、また怒る。本居宣長もまたそのように弟子たちに性急に頼まれて仕方なしに「うひ山ぶみ」を書いたが、ところが誰もその最後に添えられた歌「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」を読んでない。

この歌の意味とはつまり、広い山裾から山頂までははるかに遠いがその一番最初の浅いすそ野の道しるべ代わりに「うひ山ぶみ」を書いたのであって、残りは全部自分らで少しずつたゆまず時間をかけて勉強しなさい、一度に山頂を目指すな、低いすそ野をまず固めてから徐々に登りなさい、この広いすそ野を怠らず学んでおいてこそ山頂にはたどり着けるのであって、低いところをおろそかにすれば高いところはなおさら身に付かず、結局何もならないということだろう。いろんなところを読んで総合すればそういう意味になる。

「いったい宣長の文章ってものは無駄なんてものは一つもないんです」とは自分の長大な著作についても言っているに違いない。自分の文章には無駄はない。だらだらと長くて無駄なように見えるがかいつまんで要約できるような箇所などない。それなのにみなは自分の文書をとばしとばし読んで、学問の方法論だけを知りたがる。と言っているようにみえる。実におかしい。

正直なところ小林秀雄や吉本隆明などの文章は読んでもほとんどわからん。吉本隆明に至ってはちんぷんかんぷんだ。江藤淳はある程度わかる。丸谷才一はほぼ言いたいことはわかるつもり。小林秀雄の「本居宣長」は良くわかるつもり。で、世間一般の人たちは結局正直なところ小林秀雄という人をどういう風に見ているのか。さっぱりわからない。

思うに、小林秀雄というひとは、短文で要約した文章を書くとちんぷんかんぷんで良くわからん文章になってしまうのではないか。だから、10年以上かけてだらだら書かれた「本居宣長」などの方が、実はわかりやすいのではないか。短く書こうとすると批評文に特有のよくわからん専門用語や外来語を使ってしまいよけいにわからんようになるのではないか。

だんだん気になって来たので小林秀雄の「実朝」をもう一度読み直してみるか。

できるだけ見ないように見ないようにしているのだが新聞など読んでいるとときどき現代短歌が載っているのが目に入ってしまう。それを読むとほんとうに暗澹たる気持ちになる。

本居宣長続き

旅

春の野の岡辺の道のつつじ花手折りて行かなたびのなぐさに
里しあらば宿借らましをあしびきの山路まどひて行き暮れにけり
あまざかるひなのあら野のあら草を枕にまきて旅寝す我は
あしびきの山松が根に旅寝してあらし吹く夜は家をしぞ思ふ
草枕たびと思へど浪の音のとよむ浜べはいねがてぬかも
ぬばたまの夜は明けぬらし磯の海人のあご整ふる呼び声聞こゆ

「あご」は「網子」(あみこ)。網を引く人。「大宮のうちまで聞こゆ網引(あび)きすと網子ととのふる海人の呼び声」(万葉集238)。

我が旅は日長くなりぬあらたまの月日よみつつ妹待たまくに
草枕たびの日長み家の妹が縫ひて着せたるきぬ垢つきぬ
うちなびく草香の山をけふこえて難波の海を見さけつるかも
波の上にうき寝我がする明石潟浦吹く風の寒きこの夜を
豊国の夕山雪の日長くは家なる妹が待ちやかねまし

桜

春の雨の晴れてといはば散りぬべしけふ見に行かな山の桜は
近からば吉野の山の桜花きのふもけふも行きて見ましを
いかならむ吉野の山もこの頃や桜の花の盛りなるらむ
朝日かげにほへる山の桜花千代とことはに見ども飽かめや
思ふどちいざ見に行かな春山に咲ける桜の花の盛りを
立ち出でてふりさけ見ればあしびきの山は桜の花盛りなり
みやびをの春のかざしと桜花野にも山にも咲きにけるかな
あらたまの春立ちしよりいつしかと待ちし桜の花咲きにけり
山づとに見せむと思ひて桜花道の長手を手折り持ち来ぬ
おのづから人ぞ訪ひ来る山里も春は桜の花見がてらに

迷い、悟りと言ふことをことごとしく人の言ふに
悟るべき事も無き世を悟らむと思ふ心ぞ迷ひなりける

わろす。

述懐

いたづらに年ぞ六十になりにけるなすべきわざは未だならずて
思ひ出づる三十の春も三十とせのかすみ隔たる花のおもかげ

山家水

世の中の憂きこと聞かぬ住まひかなただ山水の音ばかりして
明け暮れに汲むとはすれど谷水になほすみ果てぬ我が心かな

山家松

軒の松むかしの友と言ふばかり我が山住みの年も経にけり

山家

厭ひてもものの寂しき夕暮れは憂き世恋しき山の奥かな
ある時はありのすさびの世の憂さもまたしのばるる山の奥かな