秀能

後鳥羽院口伝に

又、寂蓮・定家・家隆・雅經・秀能等なり。寂蓮はなほざりならず歌よみしものなり。あまり案じくだきし程に、たけなどぞかへりていたくたかくはなかりしかども、いざたけ有歌よまむとて、たつたのおくにかゝる白雲、と三體の歌によみたりし、おそろしかりき。おりにつけて、きと歌よみ、連歌しの至狂歌までも、にはかの事も、ゆへ有樣にありしかたは眞實堪能とみえき。家隆は、若かりしおりはいときこえざりしかど、建久のころほひよりことに名譽も出きたりき。歌になりかへりたるさまかひがひしく、秀歌どもよみあつめたるおほき、誰にもまさりたり。たけもあり心もめずらしく見ゆ。雅經はことに案じ、かへりて歌よみしものなり。いたくたけ有歌などは、むねとおほくはみえざりしかども、てだりとみえき。秀能は身の程よりもたけありて、さまでなき歌も殊外にいでばヘするやうにありき。まことによみもちたる歌どもの中には、さしのびたる物どもありき。しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。女房歌よみには、丹波やさしき歌あまたよめり。

とある。

しか有を、近年定家無下の歌のよしと申ときこゆ。

を、普通は、

秀能は、「無下の歌の由」(まったくひどい歌である)と定家が最近言っていた、

と解釈するらしい。私には、

さまざまな歌詠みがいるなかで、最近は定家が疑問の余地なく良い歌詠みであると評判である、

というような意味に思えるのである。この箇所はいろんな当時の歌人らが列挙されているところである。唐突に定家の秀能に対する反論が出てくるのは変ではないか。

定家の禅3

そう、もともとは、定家の禅というタイトルにしようとしていたのだった。定家の禅2、定家の禅。最初は「古今和歌集の真相」の続編で「小倉百人一首の真相」みたいのを書く予定だった。しかし小倉百人一首は100首全部並べるのがじゃまくさいので定家に絞った。定家と栄西というタイトルにしようかとも思った。しかし栄西や禅も話がとっちらかってしまうので定家に絞ったのである。当時の書き出しはこんなふうだったのだ。

初期の日本の禅を理解してもらうため、南宋の禅や栄西についてのイメージをつかんでおいてもらう必要がある。道元、一休、沢庵などの禅師についても、比較のために見ておこう。
栄西が渡ったころの南宋では寒山詩という禅詩が流行っていた。伝説では、寒山や拾得は唐代の風狂僧であるとされるが、そのほとんどの詩は、おそらくもっと後代に作られたもの。

時人見寒山 (時人、寒山を見て)
各謂是風顛 (おのおの謂ふ、これ風顛(ふうてん)なりと)
貌不起人目 (貌(かお)は人目を起こさず)
身唯布裘纏 (身はただ布(ふ)裘(きゆう)を纏(まと)ふのみ)
我語他不会 (我は語るも、他は会せず)
他語我不言 (他が語るを、我は言はず)
為報往来者 (為に報ず、往来者)
可来向寒山 (来たりて寒山に向かふべし)

当世の人々は寒山を見て言う、「この人はフーテンだ。地味な風貌に粗末な布衣。」私は言う、「私の言葉を他人は理解せず、他人の言葉を私は言わない。道行く人々よ、私に会いたければ寒山に来るがよい。」
済公、あるいは道済などとも呼ばれる済顛(さいてん)は、栄西が南宋に渡ったころに実在していた禅僧である。その肖像の画賛に言う、

両隻帚眉、但能掃愁。一張大口、只貪吃酒。
不怕冷、常作赤脚。未曾老、漸漸白頭。
有色無心、有染無著。睡眠不管江海波、渾身襤褸害風魔。
桃花柳葉無心恋、月白風清笑與歌。
有一日倒騎驢子帰天嶺、釣月耕雲自琢磨。

左右の眉は跳ね上がり、口は大きく、大酒飲み。寒くてもいつも裸足。年は取ってないのに白髪。無頓着。何事も気にせず波の上に眠り、粗末な服を着て、風雨に身をさらしている。桃の花や柳の葉は無心、月は白く風は清く、笑いは歌を与える。後ろ向きにロバに乗り山に帰った日には、月を釣り、雲を耕し、自ら修行に励む。
寒山のイメージそのまんまの人だったようだ。済顛は現代中国でも人気で、日本の一休さんのようにテレビドラマの主人公になっているそうである。

今と全然違う。今は道長の話を枕にしている。いずれ栄西については書きたいのだがせっかく書くなら鎌倉の寿福寺や建長寺できっちり取材して書きたい。で、最初から「虚構の歌人 藤原定家」というものを書こうとしたわけではない。承久の乱についても書こうとしたがこれもじゃまなので削った。

この本だが、定家だけではない、九条兼実、良経、道家、式子内親王、後鳥羽院、西園寺公経、北条泰時、宇都宮頼綱らについても今までになかったいろんな見解を書いている。 結局定家に絞り切れてないのである。兼実と良経と式子だけでも独立して一冊の本になるだろう。膨らませるのが苦手なのだが。承久の乱についてはいつか書きたい。

和歌と詩

詩というものはあらゆる時代のあらゆる民族に見られる普遍的なものだ。

詩には長短や強弱などの律(リズム)がある。 或いは押韻がある。 そしてふつうは一番短くても四行くらいはある。 中国の七言絶句やペルシャのルバイなどが典型だ。 この四行を核として普通はもっと長く続く。

ところが日本の和歌はそういう普遍的な詩の概念からはかなり逸脱している。 最初の頃、長歌に反歌を添える形であった頃はまだ和歌は詩であった。 しかし反歌だけが独立し、五七五七七というごく短い定型詩として固定していく。

日本語には基本的には母音の長短は無い。 強弱はあるが、しかし和歌では無視される。 則ち和歌には五七五七七という句の長さ以外にリズムはない。

押韻というのは比較的高度な詩に見られるものだが、和歌にはない。

つまり、和歌はふつう詩がもっているはずの特色をほとんどもっていないのである。 他の詩形と比べてみるとそれが如実である。

和歌は詩というよりはパズルである。 短い形の中にいかに複雑な心象や叙景を盛り込むかというパズル。 その、パズルとしての和歌を確立したのは明らかに藤原定家だった。

和歌は完全な文法をそなえている。 名詞、形容詞、副詞、助動詞、助詞。 そして完全な修辞を駆使できる。 暗喩、反語、対句、倒置、コラージュ、オマージュ、などなど。 言語として完全でありつつ極限まで短い定型のパズルというのが和歌だ。

日本にも歌謡はあったわけである。 和歌はもとは歌謡の一種だったが、そこから分岐して特異な進化をとげた。 さらにそこから分岐してさらに短いパズルとなったのが俳句だ。 俳句は明らかに詩ではない。パズルだ。 少なくとも普遍的概念としての詩ではない。 俳句は文法的・修辞的完全性を捨てた。 俳句は心理描写を捨てた。だから俳句には恋歌が無い。 逆に、俳句になれすぎた日本人は恋歌を詠めなくなった。

天皇の系図

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天皇の系図を見ていると、どうも、応神・仁徳あたりでようやく難波に進出しており、 それまでは九州あたりにいたのではないかと思えてくる。 景行天皇の熊襲征伐、神功皇后の三韓征伐、継体天皇の時代の磐井の乱、 天智天皇の頃の白村江の戦いなど、大きな戦はみな九州か韓半島で起きている。 神武天皇のいわゆる神武東遷という事績は、あったのかもしれないが、 当時大和は一番東の端の辺境であり、神武は陸奥を征伐した源義家のようなものではなかっただろうか。

日本外史の徳川氏の系譜などみていると、 神武から開化までの一本調子で空虚な系譜によく似ている。 徳川氏は自分のルーツを源義家までたどりたかったからああいう無理な系譜ができたのである。 古代なんらかの歴史的できごとはあったのだが、それにルーツを求めようとしてあのような系譜になった。

応神天皇から武烈天皇までの頃、 拠点が難波から大和川をさかのぼって初瀨までのラインに置かれたことがわかる。 応神天皇陵、仁徳天皇陵などは、この時期に断続的に行われた大和川開鑿の土木工事の副産物だ。 しかし継体天皇より後、再び日本の中心と言える場所は揺れ動き始める。 少なくとも初瀨ではなくなる。

神武が橿原で即位したとすることによっていろいろ問題が起きてくる。 ここが日本の中心になったのは天武から後ではなかろうか。 今のロシアもそうだ。 もともとロシアはキエフから来て、キエフは東ローマからきた。 しかしロシアが自らのルーツをモスクワ大公国にたどろうとすることによって、 いろんなゆがみが生じるのだ。

和歌の本

和歌の本にはある一つの定型がある。 歌人の評伝と歌の解釈からなるのが普通。 ところが今回私が書こうとしたのは、 禅と、和歌と、武士というおよそ三つのテーマがあって、 それらが渾然と絡まりながら発展していく、 その中心には定家があり、承久の乱がある。

こういう本は、普通、和歌を学びたいと思っている人が読んでも、 関係ないことばかり書かれていて読めない、ということになる。 承久の乱について読みたい人には関係のない禅や和歌の話が多すぎるということになる。 禅についてもそうで、読者はすでに禅についてのある種の先入観を持って禅の本を手にとるのであり、 それが栄西とか定家とか泰時のことばかり書いてあるとなんじゃこりゃと思うだろう。 禅の本が読みたい人はふつう道元にしか関心がない。 そこを敢えてはずすのが私の本の書き方というか、 普通の書き方なら私以外の人が書けばいいわけで、わざわざ私が書く必要がないと思える。

で、要するに、 本は、和歌なら和歌のことだけ書かなくてはいけないらしい。 和歌と承久の乱に関係があるとしたら、和歌をメインに、 承久の乱は大根のツマくらいに添えないと本という形にならない。 マグロの刺身と大根が皿の上に並べてあっては料理にならないようなものだ。 普通はそれを調和とは言わない。 和歌の話をしながらいつの間にか話題は栄西に移り、栄西から頼朝、頼朝から泰時に移っていく。 私が好きなのはそんな本だ。 ありきたりの本など読んでいるくらいならWikipediaでも読んだほうがましだと思う。 或いは論文かなにか読んだほうがましだ。 たいていはWikipediaとかオープンアクセスの論文読んでれば足りる。 和歌はデータベースで読むほうがはるかに効率が良い。 あとは、『明月記』とか公家の日記なんかが直接読めればそれでよい。 それ以外の本など読むだけ時間の無駄だ。 いや、読む価値がある、書く価値がある本というのは、 私にとってはそれ以上の「新規な知見」があるものでなくてはならない。

道元の話をしてもいいんだが、 道元は村上源氏で久我氏の出でどうのこうの、だから和歌もうまいし漢詩もうまい、 それに比べて栄西は瀬戸内の豪族で材木商で日宋貿易とも関わりが深く、 平頼盛が檀那だったとか、 どうしてもそんな話になってしまう。 普通の人ならちゃんと道元の話しろよと怒ると思う。

定家の禅2

まったく終わる気がしない。すでに四百字用紙換算で300枚超えている。分量はもうそんなに増えないはずだが、書き換えが終わらない。話が収束しない。調べ始めるときりがなく、wikipedia と吾妻鏡の記述に矛盾があったりして困る。

余暇のほとんどを執筆活動に追われて、ツイッターとか書いてるヒマがない、のは良い傾向だ。

wikipedia の日本史は汚染されている。読んでてすごく嫌だ。特に仏教関係には捏造が多い印象。

定家の禅

藤原定家について書いている。タイトルは仮に「定家の禅」。受け狙いでもあり、わりと本気でもある。

さくっと書き終えたと思ったが、調べているうちに知識が増えていき、最初は推測で「かもしれない」などと言っていたところが、確かな証拠を発見したりして、「なのだ」などと断言したり。全体をまんべんなく加筆するのではなく一部がどんどんふくらんでいくので、バランスが崩れていき、全体のテーマ自体が変わっていく。

先に古今集をやったから、次は百人一首の真相みたいなのを書こうかと思ったのだが、定家個人が面白くなってきて、ある意味百人一首なんて、どうでもよくなってきた。だれが読むのだろうか。いずれにしても今回は紙の本で出す予定なので売れないわけにはいかない。こむつかしい本ではなく、ある程度娯楽性のある本を書かねばならぬ。基本的には、定家の時代の歌論書である。

定家が以前は嫌いだった。今は割と好きになった。定家は以前は勉強家の秀才だと思っていた。今はある意味天才だと思っている。少なくとも、若いころに「天命」に目覚めた人である。癇癪を起して、発作的にやってるのではない。すべて確信的にやっている。オタクとか、マニアとか、マッドなわけでも必ずしもない。のめりこむ性格ではあったかもしれないが、必要に迫られて勉学に励んだのだと思う。

編集の人と相談して意外だったのは、私のような門外漢でもネタしだいでは定家の本を書いて出版してもよいということだった。ただ、筆名を田中久三以外にできないかと言われてやや戸惑った。編集の考えることはよくわからん。

九条良経と田安宗武

九条良経と田安宗武。一人は藤原氏で一人は徳川氏だが、この二人はある意味でよく似ている。和歌をダメにした二大元凶といえる。

九条良経は和歌を権威主義のおもちゃにした。田安宗武はそれを武家に都合の良いように作り変えた。一方は惰弱、他方は空元気。

九条良経は歌が下手だったが題詠や本歌取りという手法でとりつくろった。田安宗武も歌が下手だったが、万葉調という手法で取り繕った。それぞれの時代の和歌のわからん連中はみなそれにならった。題詠、本歌取り、万葉調、いずれも歌学者が門人を増やすためにこしらえた方便にすぎぬ。これらによって、和歌は大衆化し、同時に和歌は死んだ。

明治や昭和の歌壇も九条良経や田安宗武がやったのと本質的には同じ過ちを繰り返している。かなり悪質だが、枝葉末節だからこのさいどうでもいいとして、今私たちが和歌がダメだと言っていることの多くは、九条良経と田安宗武という為政者による芸術への介入に遠く起因している。

万葉時代までの原始蓄積を光孝宇多醍醐三代が発展させた。それが和歌の本質だ。

近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり
世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして
山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。