近藤勇の漢詩

近藤勇の漢詩は探すとかなりある。単に頼山陽に心酔し日本外史を愛読していただけでなく、詩もよく作る。

富貴利名豈可羨
悠悠官路仕浮沈
此身更有苦辛在
飽食暖衣非我心

富貴利名豈に羨むべき / 悠悠として官路の浮沈に仕ふ / 此の身に更に苦有りて辛在らんと / 飽食暖衣は我が心にあらず

官途に就いた直後の抱負だろう。文久三(1863)年、浪士組の隊員となったことで、農民出身の近藤勇も晴れて幕臣となったのである。「利名」は普通は「名利」であろう。平仄のため入れ替えたか。

読外史

摩挲源将木人形
自説盛功爾我儔
猶有一般優劣処
鉞矛他日凌明州

源将の木人形を摩挲(ましゃ)し / 自ら盛功を説く爾(なんじ)は我が儔(とも)なり / なほ一般の優劣の処あり / 鉞矛をもって他日明州を凌(しの)がん

源氏の将軍の木人形をなでさすり、その功績を説くあなたは私の友である。私もいずれ武芸によって外敵を討ち、あなたと並び称されたい。

丈夫立志出東関
宿願無成不復還
報国尽忠三尺剣
十年磨而在腰間

丈夫志を立て東関を出づ
宿願成らずんばまた還らず
国に報い忠を尽さん三尺剣
十年磨きて腰間にあり

頼山陽の「遺恨十年磨一剣」に応じているのは明らかである。
「東関を出づ」であるからやはり浪士組隊員として関東を出て京都へ向かったときのことだろう。
「東関」は「関東」と同じだが、やはり押韻のため入れ替えたか。

負恩守義皇州士
一志伝手入洛陽
昼夜兵談作何事
攘夷誰斗布衣郎

恩を負ひ義を守らん皇州士 / 一志を手に伝へ洛陽に入る / 昼夜の兵談何事かなさん / 攘夷誰と斗(はか)らん布衣郎

京都に入ってから議論ばかりしていてらちがあかないと。「皇州士」「布衣郎」いずれも自らのことを言っている。「布衣郎」は粗末な服を着た武士というような意味。

曾聞蛮貊称五臣
今見虎狼候我津
回復誰尋神后趾
向来慎莫用和親

曾て聞く蛮貊五臣を称すと / 今見る虎狼我が津(みなと)を候(うかが)ふと / 回(かへ)りて復た誰か神后の趾を尋ねん / 来りて慎むを向かへ和親を用うなかれ

「蛮貊」は論語に出てくる言葉で「野蛮人」の意味。「五臣」はおそらく、これも論語の「舜有臣五人、而天下治」による。野蛮国にも五人の優れた臣下がいればよく治まるの意味であろう。それらの夷狄が四海から我が国を狙っている。神后とはかつて三韓征伐した神功皇后のこと。かるがるしく和親を結ぶな。「候」は「斥候」「伺候」の「候」。さぐる、うかがう、まつ、さぶらう。

百行所依孝與忠
取之無失果英雄
英雄縦不吾曹事
欲以赤心攘羌戎

百行の依る所は孝と忠なり / 之を取りて失無ければ果して英雄 / 英雄はたとへ吾曹の事にあらずとも / 赤心をもって羌戎を攘んと欲す

「大菩薩峠」にも引用されている詩。すべての行いは、孝と忠に依る。これらを守って過失がない者が英雄である。たとえ私は英雄ではないとしても、真心をもって外敵を払いたい。「吾曹」は「わたし」または「わたしたち」。

有感作(感有りて作る)

只應晦迹寓牆東
喋喋何隨世俗同
果識英雄心上事
不英雄處是英雄

只(ただ)應(まさ)に迹(あと)を晦(くらま)して牆東に寓せん / 喋喋(てふてふ)として何ぞ世俗に隨(したが)ひ同じうせん / 果して英雄の心上の事を識らば / 英雄ならざる處これ英雄

比較的最近発見された詩であるらしい。いつの時期に作ったかは不明だがおそらくは官軍に捕らえられて以後ではないか。

孤軍援絶作囚俘
顧念君恩涙更流
一片丹衷能殉節
雎陽千古是吾儔

孤軍援け絶え囚俘となる / 顧みて君恩を念(おも)へば涙さらに流る / 一片の丹衷よく節に殉ず / 雎陽(すいよう)千古これ吾が儔(とも)なり

俘囚を囚俘としているのは押韻のため。雎陽は文天祥の「正気歌」による。安禄山の乱の将軍・張巡を我が友と呼んでいる。

靡他今日復何言
取義捨生吾所尊
快受電光三尺剣
只将一死報君恩

他に靡き今日また何をか言わん / 義を取り生を捨つるは吾が尊ぶ所 / 快く受けん電光三尺の剣 / 只まさに一死をもって君恩に報いん

平仄押韻もおおむね正確であって、頼山陽が見たらきっと感心しただろう。幕末明治の詩人の中でも一流。昭和の中島敦などは遠く及ばず、永井荷風もかなわないのではないか。

東撰和歌六帖

六帖は単に六分冊となっているという以上の意味はないらしい。

藤原基政の私撰集となっているが、 宗尊親王が鎌倉将軍だった頃に編ませたという性格のものであろう。 割と面白い。 特に北条泰時の歌がたくさん収録されているのがうれしいのだが、 完本は伝わってない。 ということは泰時はもっとたくさん歌を詠んでいたはずなのだ。 北条氏では他には北条重時の歌が多いように思う。

歌の出来は、ごく普通という印象。

ちはやぶる神代の月のさえぬれば御手洗川も濁らざりけり
世の中に麻はあとなくなりにけり心のままの蓬のみして
山のはに隠れし人は見えもせで入りにし月は巡り来にけり

これらは定家が編んだ新勅撰集に採られた泰時の歌。 さすがに定家が撰んだだけあって悪くはない。 泰時が定家の弟子になり和歌を詠み始めたのは承久の乱の後、 六波羅で御成敗式目を作っていた頃か。 残された歌の数から言って、武士にしては割とまじめにやっている。 御成敗式目作っちゃう秀才だから歌も詠めたのだろう。 武人としての能力はどうだっただろうか。 棟梁だから自ら腕力が強い必要はないのだが。

宗尊親王の影響下、鎌倉武士らがかなり本気で和歌を学んだことがわかる。

蓬生法師という人が東撰和歌六帖にも新勅撰集にも出てきて、 泰時と同時代人だったと思われる。 熊谷直実は蓮生と呼ばれる。 蓬生も蓮生も法然の弟子になったと書かれていて非常に紛らわしい。でもまあ全くの別人だと思う。 熊谷直実にしては歌がうますぎる。

このへんのよく知られてない歌集のことは調べようとしてもよくわからん。 少なくともネットをぐぐっただけではわからん。 こういう和歌の分野では大学紀要というのは馬鹿にならんのだが、 ネットで調べられるようにならんものだろうか。 調べてみたい気はあるのだが、 調べるのに要する気力に見合うかどうか。

新類題和歌集2

角川の新編国歌大観の新類題和歌集をだらだらと読んでいたのだが、 後水尾院、仙洞(霊元院)、後西院、幸仁(宮将軍に擁立されようとした有栖川宮幸仁親王。後西院の皇子)、東山天皇、中御門天皇、基熙(近衛基熙。将軍家宣の正室熙子の父) などの歌が収録されており、新井白石を調べて書いた私には非常に興味深かった。

霊元院が編纂させたこの新類題和歌集というものは、 通り一遍には当時流行していた類題集のたぐいであって、 勅撰集には当たらないとされているのだが、 私が読む限りではこれは紛れもない霊元院によって編まれた勅撰集である。 21代集と同じくらいに注目されて良いはずだ。

歌の出来は、ぱっと見そんなすごくない。 後水尾院の歌は確かに良い。

梓弓やまとの国はおしなべてをさまる道に春や立つらむ

たが里ももれぬめぐみの光よりおのがさまざま春を迎へて

いつもの名調子である。 しかしその他の歌は、うーん、どうなのかこれはというのが多い。 皇族とその近臣らの歌だけが目立つ。 武家の歌はなさそうだが、しかし一度ちゃんと読む必要はある。

編まれたのは中御門天皇の代らしいのだが、 幸仁親王がただ幸仁、 太政大臣の近衛基熙が単に基熙と記されているのが驚きである。 普通勅撰集には官職名を添えるものだ。 藤原俊成が皇太后宮大夫俊成と呼ばれ、 藤原定家が権中納言定家となるようなもので、 中には官職しか書かれない場合もある。 実朝を鎌倉右大臣と言うようなものだ。 親王、法親王、内親王などの称号は必ず添えられる。 霊元院の意向らしいが非常に奇妙だ。 そして自らのことは仙洞と言っているわけだが、なぜなのだろう。 和歌とはあまり関係ないところがいろいろ不思議だ。

新類題集に関する論文は大学紀要などにあるらしいのだが、 どうやって見ればいいのかわからん。国会図書館に行けばいいのだろうか。

それはそうと新編国歌大観のCD-ROMで検索しようと思ったのだが、 近所の図書館で見ようとしたらCD-ROMが読めなくなったという。 windows xp とともに逝ってしまわれたらしい。 なんとかしてもらわないと困るのだが。

和歌とプロパガンダ

伊東静雄の詩を読むと、 当時の日本人の昂揚と、そこから突き落とされた絶望が刻まれていてつらい。 伊東静雄は戦前はドイツ語訳風な漢語調の硬派な詩を作った。 しかし戦中は大和言葉で詩を作った。 戦後、ふつうの話し言葉で詩を書くようになった。

伊東静雄もまた国粋主義に振り回された一人だった。

国威高揚のための国粋主義は極めて危険だ。 大和言葉もファナティックな思想の道具とみなされてしまった。 非常に不幸なことだ。 上田秋成も本居宣長も大和言葉や和歌がプロパガンダに使われるとは思ってもいなかっただろう。

私の祖父も戦中に大和言葉で和歌を詠んだ。 伊東静雄とまったく同じだと思った。 戦争だから和歌を詠むというのはあまりにも悲しい。 戦後和歌が忌避され、醜悪な現代短歌が生まれたのは、和歌をプロパガンダに使ったせいだ。

ツイッターでわざと歴史的仮名遣いを用いたり、 天皇は万世一系でうんぬんと賛美したりするのを見るのはつらい。 我々は一度挫折と失敗を経験したのだからそこから学び、その経験を活かすべきではないのか?

文学全集を立ち上げる

以前に京極派 で、丸谷才一は京極派というものがまるでわかってないんじゃないかと疑いを持ったのだが、この「文学全集を立ち上げる」という本を読んでますます疑念は深まった。

日本文学全集に古今集と新古今集と風雅集と玉葉集を入れるという。なぜよりによって21代勅撰集からこの4つを選ぶのか。

p124

三浦 「玉葉」「風雅」は「新日本古典文学大系」にも入っていないでしょう?
丸谷 あの二つはいまだに虐待されているだよ。なぜ虐待されるかというのは、二つ理由が考えられる。一つは、折口信夫が絶賛したから(笑)。
三浦 本当の話ですか(笑)。
丸谷 それと、あの二つは北朝の文学なんです。「風雅」は明らかに北朝、「玉葉」も北朝の色が濃厚ですね。国文学者たちは北朝には触れたがらないんだよ。
鹿島 いまだにそんなことがあるんですか。
丸谷 少なくとも僕は、そうなんじゃないかなと思うんだ。岩佐美代子さんのように、「北朝が正統なんだということを政府ははっきりせよ」と言う学者もいる。でも、男の国文学者でそんなこと言う人は誰もいないんだよ。国文学者はつまり官僚なんだもの。仕方ないさ。

つまり丸谷才一は「玉葉」「風雅」は北朝の勅撰集で虐待されている。北朝が正統だと言っているのは岩佐美代子くらいで男にはいない。だから男の自分がやってやる、そう言っているだけにしか読めないのである。

一応丸谷才一は京極派を研究している岩佐美代子という人を知っているらしい。しかしほんとに理解しているのだろうか。岩佐美代子が北朝が正統だなどとほんとに主張しているのか。そう言いたいのは丸谷才一だけなんじゃないのか。南朝とか後醍醐天皇とか楠木正成とか太平記が嫌いで抹殺したいだけじゃないのか。当時の二条派とか京極派とかいうコンテクストを無視して単に政治的理由で北朝を応援したいだけなんじゃないの?まさに邪道。

丸谷才一という人はやっぱり和歌なんて何もわかってないんじゃなかろうか?

「玉葉」「風雅」が異端視されたのは、京極派だからだ。伝統を破壊する、前衛だったからだ。主流は保守的な二条派に収束していった。なぜ二条派が主流になったか。北朝が正統でなく、南朝が正統だからなのか?そんなこと考えてた江戸時代までの国学者は一人もいないと思う。宣長はそんなこと一言も言ってない。

ついでに皇統の正統性 というのも読んでみてほしい。

文学のレッスン2

文学のレッスンの続き。長くなるので記事をわける。

p151

色好みの話で、こういうエピソードがあります。本居宣長が亡くなったとき、弟子たちが本居家に集まって、酒を飲みながら口々に先生の偉大さをたたえ、あんな偉い学者はもう出ないみたいなことを語りあっていた。そしたらお酒を運んでいた本居家の女中の一人がワーッと泣きだした。みんながどうしたんだと問いただしたら、その女中いわく、「そんなに偉い先生だとはわたしは知りませんでした。毎晩のようにわたしの部屋に来て、一緒に寝ようというのを、わたしは邪険に断ってばかりいました」って。

― それはどこかに書いてあるんですか(笑)。

岡野弘彦さんから聞いたんです(笑)。

岡野弘彦は三重県の神主の家に生まれたので、もしかすると実話かもしれない(笑)。 丸谷才一より一才年上で存命。 でもなんとなく、 国学者や神道家のコミュニティーの中で自然と広まったゴシップのような気がするなあ。本人ご存命なのだから聞いてみたい気はする。

私は、宣長の恋歌をみていて、ただ観念的に恋を歌ったのではなかろうとは思っていた。ある程度事実に基づく心情が盛り込まれているのではないかと。ただ、七十近くのおじいさんが毎晩女中をくどくということと、青年時代に色好みであったということは必ずしも結びつかないと思う。

いずれにしてもどうでもよい話ではある。単なるエピソードとして紹介してみたかったのだろう。

文学のレッスン

丸谷才一「文学のレッスン」を読んだ。丸谷才一はもうなくなってしまったが、ものすごい長寿で、死ぬまで執筆活動をしていた幸運な人だ。この本もインタビューという形で2007年頃から始めて2010年に出たものだが、80才をとっくに越えていた。「文学概論」のようなものというのをうたっているが、いろんな作家や作品が羅列されているがその一つ一つについて解説しているわけでなはい。体系的とも言いがたい。エッセイのたぐいというべきだろう。

短編小説のことをスケッチと言うと書いてある。私も「川越素描 (a sketch of kawagoe)」というのを書いた。しかし私の書いたものの中では「川越素描」は一番の長編と言ってよい。長編だけど普通の長編小説みたいな構成にはなってない。千一夜物語のようなつもりで書いたもので、その個々の要素は素描にすぎない、と言いたいわけである。長編小説というのは今で言えば指輪物語やハリーポッターみたいなのを言うのだろう。どちらもイギリス人の作家だ。丸谷才一もフランスは短編、イギリスは長編が発達したと言っている。なるほどなと思う。ましかし、フランスでも「レ・ミゼラブル」やスタンダールなんかは長編だわな。私はたぶん、長編を書こうとしても書けないんだと思う。書こうとすると「川越素描」や「司書夢譚」のような短編を束ねたようなものになるか、束ねきれずに「エウドキア」「ロジェール」のような中編小説の集合体のようなものになってしまうだろう。書こうとしたけど書けなかったというのは一つの成果だと思う。

丸谷才一はモーパッサンは短編(どの作品がとは言ってない。脂肪の塊や女の一生は明らかに短編ではない)、永井荷風の「墨東綺譚」を中編と言っていて、私にしてみるとどちらも短編のような気がするが、気分としてはたしかにモーパッサンは短編であり永井荷風は中編の人な気がする。志賀直哉がスケッチがうまいというのは分かる気がする。「小僧の神様」「清兵衛と瓢箪」「剃刀」「万暦赤絵」・・・。

p117

「太平記」という歴史物語が日本の国運を左右したというのが僕の前々からの説なんだけれども、「太平記」というのは、怨霊がいかに世の中を乱すか、要するに後醍醐天皇や楠木正成の怨霊が怖いという話ですよね。それを読んだ人たち、階層的にいうと一番上の徳川光圀や頼山陽から、「太平記読み」の講釈を聞いた庶民まで、みんなそろって正成は偉いし南朝は尊い、彼らの怨霊は怖いから大事に祀らなくちゃね、そういうイデオロギーを持っていた。

丸谷才一は戦後民主主義の文化人で、太平記とか頼山陽とか徳川光圀とか本居宣長などを徹底的に抹殺しなきゃならないと考えていた一人だ。むろん現代的な意味において太平記や日本外史や大日本史や古事記伝などはナイーブで脚色されているわけだが、それを言うなら源氏物語だって平家物語だってそうだ。太平記のせいにして議論を終わらせるのは単なる思考停止にすぎぬ。

南北朝や室町時代は難解だが非常に重要な時代である。それがわからんから降参しますというのが嫌で全部太平記のせいにする。太平記に影響を受けたであろう徳川光圀や頼山陽のせいにしようとする。それではだめだ。南北朝がわからねば天皇はわからん。南北朝がわかってる日本人がどれほどいるか。だから日本人のほとんどは天皇とは何かがわかってない。天武天皇や天智天皇とか古代の天皇のことをいくら学んでも天皇のことはわからん。藤原、北条、足利、徳川がどのように天皇を利用してきたかということがわからんと天皇はわからん。天皇がわからんというのは南北朝がわからんというのとだいたい同じだと私は思う。太平記のせいにしないでほしい。

和歌の詠み方

和歌の詠み方に関するメモ というものを読んだ。 なるほど確かによくまとめてある。 だが一方で、これでは結局現代人が歌を詠もうと思って詠めるようにはならんと思う。 頭でっかちになるだけで、今の時代を生きる自分が、どのような歌を詠めばよいのかという指針にならない。 これはどちらかと言えば和歌の詠み方というよりは和歌の鑑賞の仕方というべきだろう。 実際に和歌を詠まない人が古典的な和歌を鑑賞するにあたり、 知っておくべき歌論というのにすぎない。 歌論を知った上で歌人は実際に自分の歌を詠まねばならぬ。

戦後和歌はあまりにも変わってしまった。 現代短歌と古典的な和歌は別物といってよいほど違う。 まず、自分は、現代短歌を詠みたいのか。それとも古典的な和歌を詠みたいのか。 その選択をしなくてはならない。 現代短歌にも良いものはある。 たとえば俵万智を評価しないわけにはいかない。 私も俵万智には大いに影響されたが、しかし、結局はそこから離れた。 現代短歌を詠みたい人は詠めば良い。

で、古典文法に則った古典的和歌を詠みたいのだと覚悟を決めたとしたら、 アララギ派(万葉調)が好きなのか、 それとも桂園派(古今調)が好きなのか、 どちらかを選択しなくてはならない。

和歌とはまず第一にやまと歌である。 古典的な大和言葉で詠むものがやまと歌である。 五七五七七の定型詩を和歌ということはできない。 それは必要条件に過ぎない。 古い言葉を用いて新しい心を詠むのがやまと歌である。 敷島の道である。 和歌を詠むということは、歌道というものは、国学の一部である。 国学を学ぶ気がないのなら最初から和歌など詠まない方がよい。 国学の要素がほとんど完全に欠落しているのが現代短歌である (左翼は国学が嫌いだ)。 国学を尊重していてもアララギ派には古今調がよくわかってない正岡子規みたいなやつが多いので要注意だ。

では古ければ古いほどよいのかとか、中世や近世の言葉がよいのかというと、 そのどちらもよくない。 古典的な大和言葉が一番充実し厚みがあるのは源氏物語が成立した時代である。 古今と新古今の間だが、どちらかと言えば古今に近い。 韻文も散文もこの源氏物語の時代が一番用例が多く、完成度が高い。 用例が多い、つまり、サンプリング数が多い、ということは非常に重要である。 言語というものは曖昧だが、用例が多ければ、正しい用法を確定できる。 奈良調以前の言語ではそれが難しい。 あまり古すぎる言葉を無造作に使うのは危ない。

我々は古典語の基準をこの平安朝中期に求めるべきである、と私は思う。 この時代にも奈良時代の言葉遣いが残存している。 そのある種のものは不協和音になるので、使わないほうがよい。 奈良時代と平安時代ではすでに母音や子音などが変化しているので、 文法的にも無理のある言葉(特に助詞や助動詞)が少なくない。私が万葉調を敬遠するのはまず第一にこの平安朝の言葉遣いとの不整合にある。

奈良朝の言葉と平安朝の言葉を完全に分離して操れる人だけが、つまり、奈良朝の和歌を完全に再現できる人だけが万葉調で歌を詠む資格がある。しかし万葉調を好む人というのは往々にして見境無くいろんな時代の言葉を混ぜ合わせ、それだけでは飽き足らず、自分で勝手に新しい言葉を造ったりする。そのだらしなさ、無節操さが気持ち悪いのだ。新しい言葉を造ることは凡人には無理である。なぜ無理かがわからぬから凡人なのだ。

たとえば、助動詞は、 なんでもかんでも「り」を使うのではなく、 状況に応じて「ぬ」「つ」「たり」を使い分けるべきであり、 それが平安朝の大和言葉というものだ。 平安朝の助詞や助動詞をうまく使いこなすということは極めて重要だ。 俳句にはそれがない。というのは、俳句は体言の配列によってできていて、 用言の組み合わせに無頓着だからだ。
正岡子規もそこがよくわかってない。 なんでもかんでも「り」を使うのは例えば文語訳の聖書などがそうだ。 もし「ぬ」「つ」などをうまく使いこなしていたらもっと王朝文学のような訳になっていただろう。

釈教歌などでは古くから漢語も容認されていた。 外来語は絶対和歌に使ってはならない、とは言わない。 しかし普通は使わない。 純血主義というのとも少し違う。 平安朝の口語との相性が悪いからだとしか言いようがない。

では平安朝の言葉を用いて五七五七七の定型で詠めば和歌かと言えばこれも違う。 春夏秋冬花鳥風月を詠めば和歌かと言えばそれも違う。 情と詞と体に書いた通りなので繰り返さないが、 今まで歌に詠まれたことのないような心情を敢えて古い詞で言い表すのが和歌である、 と私は思う。 古い心を古い言葉で歌ったり、 新しい心を新しい言葉で歌うのは和歌ではない(それを現代短歌だと言ってもよい)。 たとえば新しい心を現代語で歌うには私は都々逸が比較的適していると考えている。

平安朝に日常的に使われていた言語に対するリスペクトがなければ和歌は詠めぬ。 赤染衛門の歌が非常に役に立つ。 当時の俗語を使って、極めて俗物的な歌を詠んだのが赤染衛門であるが、 彼女の歌にはまれにたまたま風雅な歌が混じっていた。 ただの偶然だろう。 浪速のおばちゃんでもたまにどきっとするようなうまいことを言うことがあるようなものだ。 少し時代が下るが、俊成や定家は言葉を巧まずにうまい歌を詠む人だった。 参考になる。

現代語で現代の心を詠んだってそれは普通だ。 あえて古語で現代の心を詠むからそれは和歌となるのだ。 そのためには当時の言葉で自然に歌を詠んだ人たちの詠み方にひたすらなじむのがよい。 それが風体というものだ。 ひたすら赤染衛門や西行や俊成の歌を学ぶ。 そのうちふと巧まずにそういう歌が詠めれば完成である。

歌を詠もうと思うと歌は詠めない。 まず何かに心が動かねばならない。 つまりは写生だ。 実体験、実景に基づかない歌はすなわち自分の頭の中から出てきたものであり、 限られた狭い世界から無理矢理こしらえたものであり、たいていつまらない。 外の世界の方がずっと情報量が多くて意外性があり、新しい発見があり、 新しい可能性がある。 心が動いたらそれをなんとかして歌という形に整えてみる。 それが詠歌というものだ。

鎌倉時代や室町時代ともなると、すでに、 みな大和言葉を自然に話すことも、和歌を自然に詠むこともできなくなっていた。 すでに大和言葉は古典語になっていたからだ。 このころの和歌を見るとどれも詠み手の苦心がにじんでいる。 だからこそ、たとえば江戸時代に巧みに古語で歌を詠む人はさすがにひと味違う。 上田秋成などは実に巧みだった。 要するに、国学者でなくては歌は詠めないのであり、 ただ学問好きなのではなく感動することのできる心と表現力がなくては歌は詠めぬ。 本物の国学者だけがその苦心のあとを残さず、 まるで平安時代の庶民が現代にタイムスリップしたかのような自然な和歌が詠めるのである。

日常語から離れて古典語で歌を詠むのは難しい。 美しいと自分が思ってないことを美しいと歌に詠むのは歌では無い。 そんなものはすぐにばれる。 感動の少ない人、というより、感動というものを誤解している人には歌は詠めぬ。 美しいと思ったことをそのまま言葉に表すのではなく、 定型の古典語に翻訳してみるのが和歌だ。

安積

たまたま郡山に行っていたのだが、郡山と言えば安積(あさか)である。

安積山かげさへみゆる山の井の浅き心をわが思はなくに

極めて古い歌である。

安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國
右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時國司祗承緩怠異甚 於時王意不悦怒色顕面 雖設飲饌不肯宴樂 於是有前采女 風流娘子 左手捧觴右手持水撃之王膝而詠此歌 尓乃王意解悦樂飲終日

この葛城王とは橘諸兄のことであるという。 聖武天皇の時代。 ほかにも、古今集に

みちのくの安積の沼の花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらむ

とあるが、これもおそらくかなり古い歌である。 芭蕉の奥の細道で有名。

伊勢物語の

みちのくの信夫もぢずりたれゆゑに乱れそめにしわれならなくに

これも相当な古歌であろう。安積が郡山とすれば、信夫(しのぶ)は福島である。

みちのくの 安達太良真弓 弦はけて 弾かばか人の 我をことなさむ

みちのくの 安達太良真弓 はじき置きて 反らしめきなば 弦はかめかも

弦は「つら」と言ったらしい。「はく」は弓に弦を「付ける」。「反る」は「せる」。安達も信夫も安積もほとんど同じところ。

これらの歌がリアルタイムで現地で詠まれたとすると、 聖武天皇から桓武天皇の頃までであろう。 白河の関の外ではあるが、坂上田村麻呂は多賀城まで征服したのだから、 安積や信夫はすでに前線基地というよりはそれより後方の兵站基地であったろう。 このみちのく征伐に常陸や下野の関東武士が動員されたのは当然あり得ることである。 将軍クラスは大和の人たちであり、和歌くらいは詠めたのに違いない。

上記の歌は本来はえぞみちのくという外征先から大和にもたらされた音信のようなものであっただろう。 光孝天皇によって平安朝に和歌が復活した以後には単に歌枕となってしまい、 実景を詠む人はいなくなってしまった。 いたとしても頼朝くらいだが、 頼朝は自分で白河の関を越えてはいない。

西行は信夫佐藤氏であろうとされている。 佐藤は藤原氏である。 関東や陸奥の藤原氏はみな藤原秀郷の子孫を称するが、 秀郷は下野の人である。 下野を拠点とした藤原氏が朝廷の外征に従って、 白河の関を越えて安達、安積、信夫と勢力を広げていった、 と考えられる。

西行は二度も京都からみちのくに下っているのだが、単なる郷愁であったのか。 それとも何かの仕事か。 二度目は東大寺の大仏が焼けたので平泉に大仏を再建するための金を勧請に行ったのだという。 しかしこのころ安達・安積・信夫は奥州藤原氏の支配であって、 頼朝とは白河の関で対峙し、京都とつながり、義経を匿っていた。 頼朝は藤原氏によって背後をうかがわれていたのである。 結局頼朝と京都は和解し、孤立した奥州は頼朝に討たれてしまう。

西行は奥州藤原氏に連なる人なのだが、 頼朝はよく彼を通したと思う。 西行は明らかに頼朝の敵である。 西行が京都・頼朝連合側の間諜だった可能性もあるかもしれん。

美知乃久能みちのくの 安太多良末由美あだたらまゆみ 波自伎於伎弖はじきおきて 西良思馬伎那婆せらしめきなば 都良波可馬可毛つらはかめかも

弓の弦をはずしてそらしっぱなしにしておくと弦が付けられなくなるよ、 あまりほったらかしておくと、元の仲に戻れないよ、という意味。 安達太良真弓は非常に強い弓であったとされる。 「めかも」は反実仮想だわな。

皇統の正統性

状況証拠的に見ると大化の改新というものはなかった、と言って良いだろう。中大兄皇子と中臣鎌足が謀り、皇位簒奪をもくろんだ蘇我氏を滅ぼしたことになっている。

皇族と蘇我氏の間で紛争があって、蘇我氏が排除され、孝徳天皇が即位した、という以上の意味はないと思う。

大化の改新は、天武天皇のもとで最初の太政官となった藤原不比等の創作であろう。私が思いついたというより、wikipediaに挙げられている説の中で、私が一番もっともらしいと思うものである。

なんと言えばよかろうか。皇族というか、天皇家というか、王家といおうか。おそらく、天武天皇までは、日本の王というのは、抜き身の武力に基づく勝者以外の何物でもなかっただろう。強い者が王となる。強い一族が王家となる。日本で一番金をもって土地をもったものが王となる。それがなんとなく天照大神の時代までさかのぼることができるが、連綿と続いてきたものなのか、いろんな断続があったものなのか、確かな記録がなくてよくわからない。ただまあ継体天皇以後はだいたい続いているらしい、ということがわかるだけだ。

藤原不比等は、皇統というものをコントロールして、自らを天皇の第一の臣下と位置づけることによって、大陸から輸入した舶来文明を模倣することによって、自分の一族を安定にすることを発明した最初の人だったはずだ。藤原氏が天皇家に対して行ってきたことは結局はそれだ。つまり、万世一系とか皇統というものは、藤原氏によって初めて創作されたのである。天皇が自らそう主張したというよりも、藤原氏が天皇家と外戚関係を結んで自分の地位を確立するために皇統というものを必要としたのである。

力が強いものが天皇になれば良いのならば外戚なんて無意味だ。皇統と外戚は同時にできた。外戚を藤原氏が独占したから他の氏族は枯死してしまった。というより、藤原氏が一族を挙げて守った皇子が皇統ということになってしまう。それ以外の皇子やそれ以外の氏族は死んでしまう。それだけ藤原氏の一族の結束は強かった。当時、政治的に結束できる一族は藤原氏以外いなかった。天皇家にも藤原氏以外の氏族にも、そんな強固な団結なんてものはまるで見られなかった。藤原氏以外の王家や氏族はみな砂のようにばらばらだった。藤原氏に匹敵する結束というものは、のちに在郷武士の間から芽生えてくる。

王家だけを他の氏族より突出させるというマジックを演出したのは藤原氏であった。天皇家はこの時代そんな器用なことはできない。とにかくやたらとたくさん妃を持ってたくさん皇子や皇女を生ませた。皇子は父親に似てみな遊び人でやはりたくさん妃をもってたくさん皇子や皇女を生ませた。まさにカオス。源氏物語の光源氏をみよ。嵯峨天皇や文徳天皇や清和天皇や陽成天皇らの皇子たちを見よ。天皇家が子孫を自分でコントロールできるようになったのは白河天皇になってから。白河天皇は皇太子以外の皇子をみんな出家させてしまう。法親王というやつ。法親王は一生独身。彼一人多少贅沢したところでたかが知れている。皇室財産は自然と本家に集約し、分家は消滅する。皇太子が誰を妃とするかもコントロールできる。つまり外戚をコントロールできる。白河院は天皇家の長老として完全に一家をコントロールする。気づいてみれば当たり前のことだ。なんだ自分でやればできるんじゃないの、ってことは白河天皇になってからで、それ以前はそんな当たり前なことすらやってなかった。

ともかく、奈良平安時代に、外戚と皇統をリンクさせて臣下として権力を握るってことを明確に意識していたのは藤原氏だけだった。天皇家すらそんなことは考えすらしなかった。だから、皇子たちは一致団結することなく、藤原氏によって各個撃破されてしまった。

天武天皇は戦争ばかりやっている人だった。嵯峨天皇はやたらと皇族を増やして分家を作った。清和天皇もかなりむちゃくちゃだ。陽成天皇までの天皇というのは、ただ日本の王様というだけであり、何か具体的に世の中を治めたり、王位継承や皇統というものをコントロールしたという形跡がない。王位継承に介入し、王位というものに権威付けをしたのはもっぱら藤原氏である。

天皇家の皇統に着目して藤原氏がその外戚となって権力をふるったのではない。藤原氏が皇統を発明したのである。その戦略は嵯峨天皇の皇統に介入した藤原冬嗣、その子の良房、その養子の基経らによって確立された。つまり摂関政治というやつだ。藤原氏は天皇家を搾取しつつ、天皇家にとって変わることはしなかった。そのかわり一族を挙げて自分らと血縁関係のある皇子を守り、それ以外の皇子を排除した。そうして実利を得た。この構図はおおよそ道長の時代まで続いた。

白河院はおそらく藤原氏を観察した結果、皇統というものを天皇家が自分で管理すれば藤原氏要らなくね?ということに皇族で初めて気がついた人だっただろう。このとき初めて自分の一家は自分で制御しなくちゃならないという意識が天皇家に生まれたのだ。つまり天皇家は皇統とはどうあるべきかということを外戚の藤原氏から学んだということになる。

それ以前の宇多上皇は白河院ほどではなかったにしろある程度その必要性には気づいていたと思う。宇多上皇は自分の皇子の醍醐天皇に確実に皇位を伝えるために生前に譲位した。平城天皇や嵯峨天皇も上皇になったのだが、そのことをわかってやったのかどうかよくわからない(皇統は決して安定せずコントロールもできてなかったから)。後三条天皇や二条天皇も、取り巻きの下級公卿と組んで藤原氏を排除し、中央集権を目指した形跡がある。この二人は名君であった可能性もあるがその治世はあまりに短すぎた。

藤原氏の次に皇統を管理しようとした臣下は北条氏だった。北条氏は三種の神器に皇位の正統性があると主張した最初である。そんなことは藤原氏は発明してない。藤原氏にとって自分たちの権力の正統性とは、先祖の中臣鎌足と天智天皇が起こした大化の改新というもの、藤原が天皇家の外戚であること、皇統は大事ですよということ、ただそれだけだ。そして藤原氏は自分たちが拠って立つところの大化の改新なるものが、まったくの虚構であることも十分承知していたはずである。

北条氏はこんどは三種の神器という虚構を創作して、仲恭天皇を廃し、後堀河天皇を立てた。今度もまた、皇統というものをコントロールし、皇統のルール付けをしたのは臣下の北条氏であった。天皇もしくは上皇による宣旨以外に、神器の正統性というものが北条氏によって追加されたのである。当時の天皇や上皇が神器は大事だよ、なんて言うはずがない。後白河法皇は神器など無視して後鳥羽天皇を立てたではないか。だが、北条氏にしてやられた天皇は、今度は神器を逆手にとって北条氏に楯突いた。俺は神器を持ってるし譲位もしないよと言ったのは後醍醐天皇である。いや、おそらくはそのブレインであった北畠親房である。神器に権威が生まれたのは北条氏と北畠親房のせいだ。そして神皇正統記は親房のプロパガンダだ。北条氏は自分が作った虚構に縛られて滅亡した。

次に皇統のルールを書き換えようとしたのは足利尊氏である。尊氏は後醍醐天皇から没収した三種の神器の権威によって北朝第一代光厳天皇を立てる。ここまでは北条氏と同じである。北畠親房も困った。権威の源泉と自ら認めた神器をとられちゃったんだから。神皇正統記にもそのへんのことはしどろもどろ。「神器?神器にも権威はあるよ、もちろん」みたいな書き方をしている。

その後、神器は南朝に奪われ、上皇も天皇もみな南朝に連れ去られた。尊氏は、北朝第四代後光厳天皇を、神器もなく、天皇もしくは上皇による宣旨もなしに即位させたのである。廷臣に擁立されて即位した継体天皇の先例に倣う、という理屈しか付けられなかった。説得力ゼロ。いくらなんでも、継体天皇の前例持ち出されても誰も納得しない。このことが北朝にとっては致命的な痛手となる。

北朝第六代後小松天皇は南朝の後亀山天皇から神器と皇位を譲られる。これによって南北朝の合一はなったのであるが、北朝第四代後光厳天皇と第五代後円融天皇には皇統の正統性がない。このことは明治になって蒸し返されて、北朝ではなく南朝が正統であるとされた。北朝すべてに正統性がなかったというよりも、後光厳と後円融に正統性がなかったというべきだ。

ここで勘違いして欲しくないのは、国権というものをマネージメントしていくために皇統というものが必要とされたのであり、万世一系の皇統から国権が派生したのではないということである。国権とは日本の政治的権限の中心をどこにどういう形で定めるかということであり、そのために皇統というものが長い年月をかけてじっくりと形成されてきたのである。イングランド王の王位継承ルールが異様に複雑なのは、イングランド王国の国権がどのように継承されていくかを明確に定める必要があったからである。ルールが不確かだとすぐに国王が複数立って継承戦争がおきてしまう。血統が大切なのではない。継承戦争が起きないようにするために血統がその根拠とされたのである。欧州の継承戦争を良く学ぶと良い。南北朝の騒乱を良く学ぶと良い。そうすれば血統がなぜ重要かわかる。他にとって代わる土地相続の方法論が、当時はなかったのだ。欧州ではキリスト教というファンタジーが血縁をオーバーライドしてくれたがその実効性にも限度があった。ヨーロッパ人もそこまで信心深くもなかった。他にはもう切り札はない。

藤原氏によって王家から大臣や官僚というものが分離され、北条氏によって皇統というものが「血の通わぬ」神器というアイコンに移された。要は、天皇の歴史とは、武家の歴史とは、皇位継承というものが王族の恣意によるものから、政治権力に関わるもの全体のパワーバランスと、合議と、客観的な手続きに移行していくという、至極当然な過程なのだ。

国権に皇統なんて必要ないと言ったとたんに日本の歴史は天智天皇や天武天皇より前にさかのぼってしまう。奈良平安時代に営々と築き上げた王朝の伝統はすべてご破算になる。
強いやつが自分の都合で天皇になればいいといったとたんに継体天皇の時代まで戻ってしまう。さもなくば中国の易姓革命の思想を輸入する必要があっただろう。日本人はそのどれも採用しなかった。自らの国に続く皇統というシステムを現実に即するよう作り替え整えていくことにしたのである。

こうしてみていくと、皇統の正統性は、いつの場合も、天皇や上皇が自ら主張しているというよりは、皇室を擁立する公家や武家がルール作りをし、コントロールしようとしていることがわかるのである。藤原氏は天智天皇までさかのぼった。北条氏は天智天皇より昔の皇室伝来の神器に正統性を求めた。足利氏は仕方なくそれよりもまえの継体天皇までさかのぼって正統性を求めたが結局うまくいかなった。後からルールを追加する者ほど古い神話時代の権威を掘り起こしてこなくてはならなかった。本居宣長の国学はある意味で神話時代を掘り返した北条氏や足利氏などの武家の理論武装に利用されたのである。藤原氏にとって神話時代のことなどどうでもよかったと思う。藤原氏には天智天皇という自分たちだけの偶像がいればそれで十分だったのだ。それ以外の権威を持ち出されても藤原氏には不利なだけだ。

明治維新はさらに神武天皇や天照大神まで皇室の権威をさかのぼろうとする。別に近代人のほうがそれ以前の封建時代の人より信心深いというわけではない。新しい時代ほど、まだ手垢のついていない古い権威を必要としただけのことである。また古い権威を創作するための学問や想像力も、それ以前の時代より発達していた。

藤原氏や北条氏、足利氏、徳川氏などは、神武天皇や天照大神がどうこうなどということは考えてもみなかっただろう。どんなものか想像すらできなかったし想像してみる必要性も感じなかった。空想力がそこまでいたらなかったはずだ。家康は自らを東照神君と呼んだ。明らかに天照大神とタメをはろうとしている。家康はまた天台宗にも凝った。かなりやばい人だが要するに宗教も神話もよくわかってはいなかったのだろうと思う。周りの人もやはりわからなかった。誰もわからないからダメだししなかっただけだと思う。

国粋主義によって国家が生まれるのではない。産業革命によって近代国家がうまれ、近代国家というのは王室を持つにせよ共和国であるにせよ、国民万能主義であるから、国民の要請によって国粋主義が生まれるのである。国粋主義は往々にして太古の昔の神話を必要とする。近代考古学によって箔付けされた神話を。ヒトラーが「アーリア人がー」と言ったのにも似ている。イタリアルネサンスもキリスト教以前の多神教を必要とした。トルコからギリシャが独立するのにもヘレニズムやそれ以前のギリシャ神話を必要とした。国粋主義者は国粋主義がどのようにして生まれてきたかをしらない。国粋主義者は国粋主義に「酔う」が故に国粋主義の本質が見えぬ。国粋主義とは何かということは覚めた目で見なくてはわからぬ。本居宣長の理論も、日本に産業革命がおき、近代国家が成立したから必要とされたのである。国学という国粋主義が発展して国民国家ができたのではない。国民国家ができたから国粋主義が必要になったのである。たぶん日本の国をありがたがっている人たちはなぜ日本という国がありがたいのかよくわかってない。天皇をありがたがってる人たちも、ほぼ誰も天皇を知らない。天皇を知るには藤原氏や北条氏や足利氏を知る必要がある。南北朝の歴史を知る必要がある。しかし日本人のほとんどは南北朝音痴なのだ。歴史はつねに緩慢に連続的に進化していく。あるとき急に完成した形で生まれるのではない。急に過渡的に突然変異したように見えても、そう見えるのにはしばしば何か見落としがあるのだ。ちゃんと調べれば連続性はあるものだ。些細で不確かなものが、次第に明確でしっかりしたものに成長していくのだ。日本はその歴史を一応独力で今日まで、地道に地道に、積み重ねてきた。しかしその長い長い過程をきちんと連続して観察し理解するのは一般人には無理だ。だから学者が要領よく整理して見せてやらねばならぬ。しかし現代の学者は通史というものが苦手であり、日本史なら日本史、世界史なら世界史。その中の特定の時代しかやらない。完全にたこつぼにはまってる。司馬遼太郎の如きは幕末維新と戦国時代しかやらない。歴史のつまみ食い。これでは歴史はわからない。

明治天皇や昭和天皇も、また敗戦当時の右翼(山本七平の言説を見よ)らもみな、いわゆる「天皇制」というものが一種のファンタジー(虚構)であることは十分承知していた。従って、人間宣言というものがあのような形で出た。その内容は極めて妥当なものだった。昭和天皇は「天皇制」にまとわる虚飾を捨て去りたかった。

朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス
(We stand by the people and We wish always to share with them in their moments of joys and sorrows)。

朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ (The ties between Us and Our people have always stood upon mutual trust and affection. They do not depend upon mere legends and myths)。

朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ
(We expect Our people to join Us in all exertions looking to accomplishment of this great undertaking with an indomitable spirit)。

これが天皇と日本国民の間で新たに結ばれた契約であって、またしても敗戦とGHQという外圧によるものであったのは皮肉であるが、皇統のルールが更改(再認識)されて、明文化されたのだ。しかるに右翼はこの人間宣言を認めず過去のファンタジーに固執し、左翼は鬼の首を取ったように勝ち誇って「天皇制」という右翼を攻撃するための偶像を捏造しようとし、今日に至っているのである。