情と詞と体

定家「詠歌大概」冒頭、

情以新為先、詞以旧可用。風体可効堪能先達之秀歌。

情(こころ)は新しきを以て先と為し、詞(ことば)は旧(ふる)きを以て用うべし。 風体は堪能なる先達の秀歌に効(なら)ふべし、と訓めばよかろう。
割註があり、

求人之未詠之心詠之 (人が未だに詠まない心を求めて、これを詠む)
詞不可出三代集先達之所用、新古今古人歌同可用之

古今・後撰・拾遺に先達が用いた言葉以外を用いてはならない。 ただし新古今に採られた古い歌は同様に用いることができる。

不論古今遠近、見宣歌可效其体 (古い新しい、遠い近いをあげつらわず、良い歌を見て、その体に倣うべし)

情と詞の関係はつまり古今集仮名序 「やまと歌は人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」 と同じである。 真名序の 「夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。」 とも同じである。

為世はさらにわかりやすく、「和歌秘伝抄」に 「心は新しきを求むべき」「詞は古きを慕ふべき」と解いている。

思うに、油彩画は油絵の具とキャンバスを使って描く物である。 油絵の具はゴッホの頃は近代化学の最新の産物であったかもしれないが、 今では古典的な画材である。 だがいったん油彩というジャンルが確定したからには油彩画は油絵の具を使い続ける。 アクリルを使えばもはや油絵ではない。

イエスは「新しき酒は新しき革袋に盛れ」「新しき酒を古き革袋に入れるな」という。 新しい酒というのはまだ発酵が終わらず、炭酸ガスを吹き出しているから、 古い革袋にいれると膨張できずに破裂てしまうという意味だ。 まあそれはそれでいい。 新しい思想は新しい技術と相性が良い。それはけっこう。 しかし和歌をたしなむ目的の一つは、古い言葉を通じて古人の心を現代に甦らせることにある。 今の世の中では忘れ去られ感じることが困難になってしまったことでも、 和歌を見ることで古人の心が手に取るように読み取れる。
西行や、実朝や、後鳥羽院や宇多上皇の心までも。

和歌に関して言えば、為世の言うように、

誠に月氏漢朝のわざをよむべきにあらず、 広学多聞を事とすべきにもあらず。 ただ大和言葉にて見る物聞く物について言ひ出だすばかりなり。

という考えに尽きている。 また、

いなおはせ鳥は鳥なりけりとも、雀なりけりとも、 よまぬ上はただ知らず。 よみによみたりとも何の苦しみかあらん

と定家自身が言っていると為世は言っていて、 これ完全に古今伝授を定家自身が否定してるわな。 でまあ為世は割とまともな人だなと思った。 むしろ為兼の歌論はひどい。 歌がつまらぬ人の歌論が優れていて、 歌がおもしろい人の歌論は出来損ないというのは困ったことである。

それはそうと、 「情」「詞」は明らかだが「風体」というのがよくわからん。 「歌風」とも「風姿」と「歌体」もいい、 ただ「体」とも言うのだが、 これがよくわからない。 古今集真名書にも出てくる。

華山僧正、尤得歌躰。然其詞華而少実。

対応する仮名序の箇所は

僧正遍照は 歌の様は得たれども まこと少し

あるいは

文琳巧詠物。然其躰近俗。如賈人之着鮮衣。

文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず。 いはば商人のよき衣着たらむがごとし

また、

大友黒主之歌、古猿丸大夫之次也。頗有逸興、而躰甚鄙。如田夫之息花前也。
大友黒主は そのさまいやし。
いはば薪負へる山びとの 花のかげに休めるがごとし

「歌体」は「さま」と訳されていることがわかる。 あえて現代語で表せば「表現」とでもなるか。

つまり、新しい思いつきを古い言葉を使って、先達の表現(本歌取りを含む)に倣って詠め、ということであろうか。

香川景樹

香川景樹の「新学異見」、ここで新学というのは賀茂真淵の「にひまなび」のことであり、 景樹がそれに反論を試みたものである。 四十代半ばに書いたものらしい。

真淵は例によって万葉集はすばらしい、万葉集をまねて歌は詠め。 古今集をまねてはいけない。 実朝のような歌を詠め、などと言っている。 正岡子規が「歌詠みに与ふる書」に書いているのとまったく同じ論調。 子規がまねたわけだが。 景樹はそれに対して反論する。実朝の歌などは、こころざしあるものは決して見るべきものではない。まして倣ってはいけない、という。 その理由がつらつら書いてあり面白い。 適当に意訳すると、

人が古歌に感動するのは、その言葉がひとえにまごころから出ているからである。 その古人の偽りなきにならうのである。 ところが、実朝の歌は、古調・古言をかすめとったものであり、 古人のように真心を歌ったのではない。 後の人が見れば、ある人は藤原京や平城京の古代の歌に似ていると貴び、 ある人は真情を偽って世を欺く作だと卑しむであろう。 卑しむのはともかくとして、貴ぶなどもってのほかだ。 漢詩を作る人たちが我が国の言葉を捨て我が国の調べを捨てて、 ひたすら外国風に似せようとするのと同じことだ。

実朝の歌にもとときどき良いものはあるが、 万葉調むき出しの詠草のようなものもあるから、 それを言うのだろう。 実際実朝の歌をまねしてはならない。 ろくなものはできないだろう。

万葉調を漢詩にたとえているのが面白い。 景樹が宣長の国学の影響を受けている可能性は非常に高い。 歌風はだいぶ違うが。

でまあ、景樹とか、古今とか、景樹の影響を受けた御歌所長の高崎正風などは、 まず正岡子規に叩かれ、 それからアララギ派の斎藤茂吉や土屋文明などに叩かれ、すっかり悪者になってしまった。 それで大正時代以後完全に香川景樹は廃れてしまったのだが、景樹の言うことはまったくもって正しい。 実朝あたりが遊びで万葉調の歌を詠んだ程度ならともかく、 実朝をまねた下手くそ、例えば田安宗武なんかが出てきて、 そうすると宗武は吉宗の息子だから、みんなそれをよいしょするから、 そもそも歌などわからんやつらがむちゃくちゃにまねし始めて、 まねをするやつほどもとよりは下手だから手がつけられない状態になった。 それで、万葉調の復興というのはおよそ失敗に終わった。

正岡子規は景樹をある程度評価しているのだが、 そのニュアンスは他人には通じなかったと思う。 これまた面白いので引用しておく。

香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。しかし景樹には善き歌もこれ有り候。自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存じ候。景樹の歌がひどく玉石混淆である処は、俳人でいふと蓼太に比するが適当と思われ候。蓼太は雅俗巧拙の両極端を具へた男でその句に両極端が現れをり候。かつ満身の覇気でもつて世人を籠絡し、全国に夥しき門派の末流をもつてゐた処なども善く似てをるかと存じ候。景樹を学ぶなら善き処を学ばねば甚しき邪路に陥り申すべく、今の景樹派などと申すは景樹の俗な処を学びて景樹よりも下手につらね申し候。ちぢれ毛の人が束髪に結びしを善き事と思ひて、束髪にゆふ人はわざわざ毛をちぢらしたらんが如き趣きにこれ有り候。

蓼太とは江戸時代の俳人で大島蓼太という人らしい。知らんな。昔は有名だったが、今は完全に忘れ去られた人、ということか。

苔よりも雪の花咲け塚の上
五月雨やある夜ひそかに松の月
つちくれにうごく物みな蛙かな
世の中は三日見ぬ間に桜かな
かりそめに降り出す雪の夕べかな

確かになんかやらしい感じのする俳句だわな。 都々逸みたいなものだったかもしれんね。
景樹の歌も都々逸っぽいよな。 江戸時代の和歌なんだから仕方ないわけで。

景樹に戻るのだが

歌は、おのが情を枉(ま)げて、古調に似せんとするばかり、巧みの甚だしきはあらざるをや。

自分の真心を曲げてまで古歌に似せるのは技巧がひどすぎると。

未だに解き得ぬ遠御代の古言を集めて、今の意を書きなさんには、違へることのみ多く、誰かはうまく聞きわく人あらん。彼は今にそむくをもて古へとよび、巧みのなれるをもて真心と示し、大御代の平言をばひたすら俗語といやしめて、ただ古き世にのみかへらんとす。そのうたへる歌、つくる文を見るに、もののわかれざるや、うるま人と語らふごとく、事のたがへるや、いるま詞聞くらんここちして、さらにこの大御代心の姿とも思ひなされぬは、浅ましからずや。

景樹の主張をそのまま受け取ると、現代人は現代語で自分の真情を述べるべきだ、 ということになるが、果たしてそこまで言っていたのだろうか。 「短歌」という呼び名は間違っていないが、 「和歌」を短歌というようになって、 「やまとうた」というニュアンスが失われた。 大和言葉だけを使った歌という大前提が失われて、 五七五で季語を入れれば俳句、 季語が入ってなければ川柳、 五七五七七と少し長くすれば短歌、 そんなふうな位置づけになってしまっている。 単なる定型詩の一カテゴリーにされてしまっている。 「和歌」の本質は「やまとうた」であることであり、 形式だけ「やまとうた」を借りた詩は「やまとうた」ではないのではないか。 「短歌」というものをそういうものだと言いたければ言えばよいと思うが、 私はそっちの世界に行くつもりはない。

景樹は「古今和歌集正義」で、紀貫之が

いにしへ今の大和歌をつどへて、それが中より勝れたるを選びて、千首廿巻となし、古今和歌集と名付けて、奉り給ひしより、大和歌の道再び古へに復りて、今におよべり

唐歌大和歌の同じからざるけぢめを知るべく、大御国は異邦の風俗といたく違へる事を知るべきなり

などと書いている。 ここでも和歌は漢詩と対比されているのだが、 今の言葉を無制限に使って良いとは言ってない。 和歌には和歌のけじめがあると言っている。 「大御国の風俗」を大事にすること、それが和歌を詠むということだ。 同じことは宣長にも契沖にも言えるわけだし、 蘆庵も明確には言ってないが同じ思いだと思う。 真淵や宗武はそこからかなり外れてしまっている。 古すぎたり新しすぎたり、外来語を多用して「やまとうた」から逸脱しては元も子もない。

今の世の中外来語や漢語を使わないと詠めない歌はいくらでもある。 私はあえて使わない、敢えて詠まないだけだ。 和歌にはすでに定型詩という制約がある。 そこに語彙の制約を付け足すのになんの問題があるか。 定型が嫌ならやめれば良いだけだ。

歴史小説を書くのにも似ているかもしれない。 時代考証ができなくて歴史物など書けない。 それと同じではないか。

思ふこといはでかなはずそれいへばやがても歌のすがたなりけり

「桂園遺文」にある歌。景樹やっぱすごいな。 それが普通の人にはなかなかできぬ。 景樹の言いたいことを代弁してみると、 中世ヨーロッパには古代ローマ語に基づく正書法としてのラテン語があった。 ラテン語が共通語であった。 日本にも共通語と呼べるのは平安時代に確立した大和言葉であり、 古今集や源氏物語がその規範であった。 景樹にとってみれば正しい大和言葉を学んで真心をそのまま歌うのが、 大和歌だったのだと思う。 景樹の使う言葉は江戸時代の俗語ではない。 平曲や謡曲や俳句に使われるような和漢混交文でもない。 完全な和語である。 きちんと使い分けている。 古典語でもちゃんと熟達すれば話し言葉のように話すことができるし、 歌を詠むことができる。 そう言いたかったんだと思う。

江戸時代でも外来語や新語まじりの歌はいくらでもあった。 しかし和歌は大和言葉以外の語彙を使うことをかたくなにこばんだ。 俳句が語彙にアバウトになっていったのと違う。 ところが短歌というようになってからその制約をとっぱらってしまった。 それが良くない、と私は言いたい。 それはルール違反だ。 短歌は大和歌であることをとっくにやめてしまった。 和歌を大和言葉以外で詠んでいいのなら、 伊勢神宮だって鉄筋コンクリートで建てれば良いではないか。

大和言葉の語彙を広げようと新語や造語を乱造するのは無理があるかもしれない。 ただ大和言葉にも適当な新語はあってよい。 新語は漢語かカタカナ語に限る必要はない。 ただ、日本人にとって大和言葉の新語にはかなりの拒絶反応がある。 なじみ深いから新語は造りにくい。 だがそこはなんとかしなくてはならない。 香川景樹や上田秋成をみよ。 宣長だって、明治天皇が歌に使っている造語だって、そんなひどくはない。 みんな感覚で批判しているだけだ。

鉢木

鉢木という謡曲がある。

のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。 世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。 このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた

ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。 夫を見送る女の歌であるという。 夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。 という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。 おほいまうちぎみとは、時平のことか。 明らかにひるめの歌から派生している。 というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成

こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範

道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、 自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家

駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。 俺がいない間に浮気するなよ、と。 俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、 為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、 そのかげさえ無い、という意味かもしれん。 いや、それが案外正解かもしれん。 「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。 新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。 おそらくは俊成の歌を踏まえて、 佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、 そんな景色すらない、 ということを言いたかったのではなかろうか。

龍ノ口

いま発作的に、「江の島合戦」というのを書いているのだがその取材を兼ねて江の島、鎌倉に遊びにいく。江ノ電の江ノ島駅からすぐに龍ノ口というところがあり、その隣が腰越、その隣が小動岬、その隣が七里ヶ浜、その隣が稲村ケ崎、その隣が由比ヶ浜、由比ヶ浜のどんづまりが材木座海岸。材木座海岸から滑川をさかのぼり、大町大路と若宮大路が交差する下馬という交差点まで、これが今日の散歩道だったのだが、距離にして10kmちょいくらいだろうか。全然普通に歩ける。

一つ確かめたかったのは、龍ノ口というところから狼煙をあげるとそれが平塚から見えるかどうか、であった。龍ノ口の山の上にはかなり目立つ真っ白な仏舎利塔が建っている。なんでもインド首相のネルーから送られた仏舎利を収めているそうだ。仏陀の骨ってどんだけあるんだ。後光明天皇が庭にぶちまけた気持ちがよく分かる気がする。

DSC_0016

そんで平塚のほうを眺めてみたが、ぼんやりしててよくわからん。拡大してよく見ると島か、海に突き出した桟橋のようなものがみえる。これらは茅ヶ崎であるらしい。だから茅ヶ崎まではまあ肉眼でも楽勝で見えるだろう。早朝でガスってなければ平塚だって見えるだろう。夜に火を焚けば当然見えるだろう。というか茅ヶ崎で誰かが中継すれば平塚には届くだろう。むしろ龍ノ口の仏舎利塔がどのくらい離れて見えるかを確かめたほうが話は早かったはずである。書き直すのも面倒なのでそのままにしておく。

龍ノ口は有名な刑場だ。ここで、蒙古人の使者が次のような辞世の詩を残したという。

出門妻子贈寒衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

ウィキペディアの元寇#第七回使節にこれ以上ないくらい見事に現代語訳されている。

さてこれは李白の次の詩に基づくものだと考えられている。

出門妻子強牽衣
問我西行幾日帰
来時儻佩黄金印
莫見蘇秦不下機

意味も言い回しもほとんど同じ。オリジナリティはほとんどゼロだ。辞世の詩というにはちと恥ずかしいレベルだと思う。杜世忠はしかしモンゴル人であるというから、この程度の漢詩が作れるのは、かなりインテリだったということか。

ふと思ったのだが、これが蒙古から日本に来た使者であるとすれば、問我西行幾日帰、ではなく、問我東行幾日帰とひねらねばならぬのではなかろうか。そもそもこの詩はほんとうに蒙古の使者が作ったものなのだろうか。いろいろ不審だ。

DSC_0066

材木座あたりのかつての大町大路はこんな感じなのであるが、
かなり寂れてはいるものの、かなり最近まで商店街であった雰囲気が残っている。道の幅も昔の街道ならこんなもんだろう。

連休間近で人ごみをできるだけ避けて歩いたつもりだったが、やはり鎌倉は人が多い。とても困る。何度も訪れたのでもうだいぶ詳しくなった。やはり面白いところだ、鎌倉は。外国人にもそのへんはよくわかってるらしく、いろんなやつがたくさんたかっている。

切通というのは鎌倉七口といって鎌倉の出入り口、のちの城郭で言えば見附のようなものだといわれているが、単に谷地と谷地を短絡したもののように思えてならない。むろん主にこの切通で敵の侵入を防いだのだろうが、一度に七か所も防ぐことができるのだろうか。かなり謎である。

漫吟集

契沖の「漫吟集」なんだが、これ読むのはかなり骨が折れる。たまに秀歌が混じるが他は凡作としかいいようがない。数が多くてきちんと分類されているから、読んでいるとだれる。全体的に退屈と言われても仕方ないと思う。

菅の根に 雪は降りつつ 消ぬがうへに 冬をしのぎて 春は来にけり

悪くない。「菅の根の」が「長き」にかかる枕詞だと知っていればすんなりわかる。古今集の

奥山の 菅の根しのぎ 降る雪の 消ぬとかいはむ 恋の繁きに

の本歌取りだわな。

うぐひすも 鳴かぬかぎりの 年のうちに たが許してか 春は来ぬらむ

これもまあ、悪くない。「たが許してか」が珍しい。

宿ごとに いとなみたてし 門松の まつにかならず 春は来にけり

どうやらこれも本歌取りらしい。藤原顕季

門松を いとなみたてる そのほどに 春あけがたに 夜やなりぬらむ

ときどきすごく良いのがある。

ねや近き 葉広がしはに 音立てて あられし降れば 夢ぞやぶるる

「夢ぞやぶるる」が良く効いている。

軒ばなる 蛛のいがきは 知らねども 山の嵐に 夢ぞやふるる

なんとこの正徹の歌の本歌取りらしい。

踏めば消え 消ゆれば摘みて 春の野の 雪も若菜も 残らざりけり

少し面白い。

立ち出でて 涼むそともの 木陰より かへりもあへぬ 夕立の空

木陰で涼んでいたら夕立がふりそのまま雨宿りした。なかなか良い歌。

しづのをが 刈りにし跡の 日だに経ず 一つに茂る 野辺の夏草

「一つに茂る」が面白い。

池の上の 菱の浮き葉も わかぬまで 一つに茂る 庭のよもぎふ

この良経の歌の本歌取りか。

おほかたの 常は水無き 山川も 石さへまろぶ 五月雨の頃

「石さへまろぶ」が斬新。

春雨は 今年のみやは 花散らす 昔をかけて 今日は恨めり
霜の上に 寝るここちして 夏の夜の 床に影しく 月ぞ涼しき
なには潟 堀り江にのぼる ゆふ潮の 限り知らるる 朝氷かな
水のおもに 散りて浮かべる 木の葉より まさりて薄き 朝氷かな
諏訪の海の こなたかなたに あひおもふ あまもこほれば かちよりぞ行く

少し面白い。

続後撰集

続後撰集 だが、西園寺入道前太政大臣というのが西園寺実氏で、単に前太政大臣というのが若死にした九条良経であろうか。この二人は太政大臣だから入選が多いのだろうが、非凡な歌もあるようなので、よく調べてみる必要がある。定家がダントツに多いように見えるが、定家は巻頭・巻末には一つもないのにたいして、俊成はなんと春上巻頭、春中巻末、春下巻末、夏巻末、冬巻末に置かれていて、別格の扱いを受けていると言ってよい。

年のうちに 春たちぬとや 吉野山 かすみかかれる みねのしら雪

これはまあ巻頭歌なんでこんなもんだろうが、

つらきかな などてさくらの のどかなる 春の心に ならはざりけむ
ゆく春は 知らずやいかに 幾かへり 今日のわかれを 惜しみきぬらむ
鳴る滝や 西のかは瀬に みそぎせむ いは越す波も 秋や近きと
なかなかに 昔は今日も 惜しかりき 年やかへると 今は待つかな

そうそう。これが俊成。平明で抒情的で優美。さすがに為家はわかっている。でもなんで「西の川瀬」なんだろう。深い意味はないのか。たまたま滝の下流が西だったのだろうか。てことは東山だろうか(追記。鳴滝とは京都の西、嵐山のことであろう。愛宕山の中腹に鳴滝という地名がある)。

思うに、定家は俊成の子だから、俊成のような素直な歌も割と詠んでいる。為家はわざと父のそういう歌ばかりみつくろったのではなかろうか。たとえば

こころあてに わくともわかじ 梅の花 散りかふ里の 春のあはゆき
あとたえて とはれぬにはの 苔の色も 忘るばかりに 花ぞふりしく
小倉山 しぐるる頃の あさなあさな 昨日はうすき よものもみぢ葉

など。あまり定家らしくない(追記。いや、かなりひねくれていると解釈することもできる)。「見渡せば花も紅葉もなかりけり」とか「駒とめて袖打ち払ふかげもなし」みたいに、ひねくれてもいないしいじけてもないし世をはかなんで落ち込んでもいないし、モノトーンでも幽玄でもない。いわゆる、素直な「優なる姿の歌」である。俊成の歌に似ている。

後鳥羽院ほか、順徳院、土御門院など、承久の乱で流された人たちの歌が多いほか、選者の為家、為家の子の為氏の歌も若干入る。

はる風の ふかぬ世にだに あらませば 心のどかに 花はみてまし

これを入れているのもうれしいよね。これ宇多上皇の歌なんだよね、醍醐天皇に間違われてるけど。

ざっと見ただけだが、センスの良い歌の選び方だと思う。さらに詳しく読んでみる。

家康転封

秀吉が家康を東海道から関八州に転封したのは左遷であるとか、居城を鎌倉や小田原ではなく辺鄙な江戸にしたのも秀吉の指図であるとか、いろいろ言われているわけだ。しかし、頼朝が鎌倉に幕府を開いて以来、日本は近畿と関東の二箇所に拠点を置くのが常態となった。室町時代は足利尊氏の子孫を鎌倉公方とした。近畿は西日本から中部まで、関東は甲信越から奥州までを支配下に置く。

これらの流れでみるとき、秀吉が近畿を、家康が関東を押さえるという二局体制にしようと考えたとすべきである。もし家康に異心があれば、彼を関東に放つのは極めて危険である。関東は常に騒乱の拠点となってきたからだ。であればやはり秀吉は生前ずっと家康を信頼し評価していたとすべきではないか。

家康は戦功があるから、三河・遠江・駿河の三国で足りなければではどうするかというときに、関東をまとめて与えようと考えても不思議ではなく、左遷とは言いがたい。秀吉の狙いは明や朝鮮であっただろうし、関東には苦手意識があったと思う。江戸は上杉氏や後北条氏の頃からすでに関東の要衝となりつつあった。小田原や鎌倉は関東全域を治めるにははずれすぎる。室町時代関東は、西の上杉氏と東の古河公方に分かれて対立した。その最前線に太田道灌が築いたのが江戸城と川越城。その前例がある。つまり、関東全域を治めるには、パワーバランス的に江戸川越のラインに主城を置かねばならぬが、江戸は海に面していて物資を調達しやすい。やはり江戸でなくてはならなかった。世田谷城では内陸すぎる。それらの判断はやはり小田原攻めの最中、石垣城において、秀吉と家康の間でなされたのであろう。

なるほど、近畿と関東の二局分割を解消するために、たとえば愛知とか岐阜に首都をもってこようというアイディアもある。しかし今までそれは一度も歴史上実現しなかった。橋下市長のように大阪都を作って二都態勢にするというのが、結局東京一局集中を回避するための現実策ではなかろうか。

詠歌一体2

詠歌一体の前半部分は単に題詠の作法のようなことをうだうだ述べているだけである。藤原清輔が「和歌一字抄」という、一字題の詠み方について書いているのに対して、「池水半氷」のような長い具体的な題をどう詠むか。題のすべてを詠み込むのでなく全部あるいは一部を連想させるようにするとか。初句や上三句にすべての題を詠み込むのは良くないとか。そんな技巧上の話をしていて、為家の趣味や嗜好とは直接関係ないように思えるが、

からにしき 秋のかたみを たちかへて 春はかすみの ころもでのもり

これは「すべて歌がらもこひねがはず、衣手の森をしいださんと作りたる歌なり」と手厳しい。誰の歌かと調べてみると、明日香井雅経。父定家の親友である(雅経は一時鎌倉に住んだので、源頼家、実朝とも親しい。実朝と定家に交流があるのも雅経のおかげである)。定家と雅経は歌風も近い。どちらかと言えばなんかもやっとした、作った歌を詠む人である。これはやはり遠回しに定家を批判していると言えないだろうか。これに対して次の二首

春がすみ かすみていにし 雁がねは 今ぞ鳴くなる 秋霧の上に

これは古今集に出る詠み人知らず。

ほととぎす 鳴く五月雨に 植ゑし田を 雁がね寒み 秋ぞ暮れぬる

こちらは新古今に載る善滋為政の歌。これら二つは雅経の歌と同様に春と秋を一つの歌に詠み込んでいるが、雅経の歌ほどはわざとらしくないから良い、などと言っている。まあそう言われればそうかもしれない。

善滋為政はよくわからん人だが、幸田露伴連環記によれば、善滋は「かも」と訓み、文章博士・陰陽師の賀茂氏で、父賀茂忠行はおよそ醍醐・村上天皇の頃の人、兄慶滋保胤はこれも名字は「かも」と訓むらしく、道長の頃の人。為政の歌は拾遺集に初出だから、やはり道長よりかすこし前の人ではなかろうか。このあたりの時代背景を調べ出すと切りがないな。

中宮の内におはしましける時、月のあかき夜うたよみ侍りける 善滋為政

九重の 内だにあかき 月影に あれたるやどを 思ひこそやれ

宮中ですらこんなに月が明るい夜は、粗末な我が家などはさらに明かりが漏って明るいですよ、というかなりふざけた歌。

「泉」という題で「木の下水」、鹿を「すがる」、草を「さいたつま」、萩を「鹿鳴草」、蛍を「夏虫」などとわざと変名で詠むのは良くないと。なるほどまったくそのとおり。

名所の地名を詠み込むときには必ず有名な地名にしなさい、ただし、旅で実景を詠む場合にはそれほどこだわる必要は無い。これも素直に同意できる。

百首など定数の歌合で最初のとっかかりとなる歌を「地歌」というらしい。歌合の歌はその場の即興で詠むべきものであり、たとえ秀歌であってもあらかじめ用意しておいてはいけない(どうしても場の雰囲気とは違う内容になってしまうからだろう)が、地歌だけはその性格上、先に詠んでおかなくてはならない。後拾遺の能因の歌

ほととぎす 来鳴かぬよひの しるからば 寝る夜も一夜 あらましものを

このようなものが地歌だという。確かに歌合の即興というよりは巧んだ歌な感じだ。

やはり為家はわざとらしく作った歌が嫌いである。雅経や定家の歌風を嫌っていたはずである。そして小倉百人一首は定家の原型を為家が完成させたというのもなんか違う気がしてきた。小倉百人一首はあきらかに為家の趣味ではない(かといって定家の趣味でもない)。

為家が選んだ「続後撰和歌集」「続古今和歌集」の傾向を見ればもっとはっきりしてくるはずだ。それでなんとなくだが、小倉百人一首は定家・為家の二代で完成したのではなく、もう少し後の世に、つまり為氏・為世の時代に、なんとなくもやっと成立したのではないかと言う気がする。

詠歌一体

朦朧趣味を読み返してみると、やはり為家という人は、父定家には似ず、むしろ祖父の俊成に似て、素直なわかりやすい歌を詠む人であったように思う。丸谷才一は定家が好きで為家が嫌いなのだ。だからたぶん俊成もそんなに好きではなかろう。為氏は定家に輪をかけて幽玄チックな人だったらしい。どうも父より祖父が好きになるタイプらしいね、この家系は。だから趣味が代ごとに振動している。為氏の子・為世までくるとかなりもうへろへろになってる感じがする。

為家の歌論に「詠歌一体」というのがある。

和歌を詠むこと必ず才能によらず、ただ心より起これることと申したれど、稽古無くては上手のおぼえ取りがたし。おのづから秀逸を詠み出だしたれど、のちに比興のことなどしつれば、さきの高名もけがれて、いかなる人にあつらへたるやらんと誹謗せらるなり。

俊成・定家・為家・為氏という四代の歌風の変動を見るとき、上の主張はかなり意味深である。「比興」とは「他のものにたとえて面白く言うこと」とあり、つまりは、実景を詠まずに、作り事でおもしろおかしい歌を詠むこと、という意味であろう。まさに父定家や子の為氏はそういう歌を詠むのである。為家はゆえに祖父俊成のような素直な歌を詠みたいと言っているのではないか。しかしただ素直な歌を詠んでいても「上手のおぼえ取りがたし」つまり他人に評価されにくいから、稽古は必要だと。しかしあまり(定家や為氏のように)稽古しすぎると奇をてらいすぎていかんよと。

例に挙げている歌がまた興味深い。

紅葉浮水
藤原資宗
筏士よ 待てこととはむ みなかみは いかばかり吹く 山のあらしぞ

新古今に載る。ここで紅葉とは嵯峨野のことである。

月照水
源経信
住む人も あるかなきかの 宿ならし 蘆間の月の 漏るにまかせて

これも新古今に載る。この二つは題詠の心得のために例示したものであり、前者は題を読まないと何の意味かつかみかねる(おそらく上流で花か紅葉が散っているのであろうと予測されるが春なのか秋なのかはわからない)のだが、題をそのまま歌に詠むのはよろしくないと。後者は「月」は歌に出るが「水」はただ連想させているだけとなる。題に水とあるから蘆間からは月の光だけでなく、露も漏れているのだろう、ということになろうか。

其の所の当座の会などには、只今の景気ありさまを詠むべし。
たとひ秀歌なれども、儀たがひぬれば正体なきなり。

正論である。わざわざそれを言っているのは、正直に詠まず、作って飾って詠む輩が多いからだろう。

雪降れば 峰の真榊 うづもれて 月に磨ける 天の香具山

祖父俊成の歌だ。褒めている。確かにすばらしい。

見渡せば 波のしがらみ かけてけり 卯の花咲ける 玉川の里

相模。まあこれも実景の歌だわな。恋の歌は

しのぶれど 色にいでにけり 我が恋は ものやおもふと 人のとふまで
うらみわび 今はまだしの 身なれども 思ひなれにし 夕暮れの空

が良いらしい。前者は有名だが後者は無名の歌だわな。今はまだ思いが通じていない恋だが、うらみわびて眺めるのに馴れた夕暮れの空、という意味だわな。確かに面白い。

日も暮れぬ 人もかへりぬ 山里は 峰のあらしの 音ばかりして

源俊頼。なるほど確かに良い歌だ。実に単純明快。ま、いずれにせよ、俊頼や俊成、家隆などは褒めているが、定家の歌が良いとはどこにも書いてない。これは愉快だ。暗に父の歌風を批判しているようにも見える。

敷島の道2

敷島の道の続き。

定家の「拾遺愚草」を拾い読みしてたら、飛鳥井雅経が自分の子・教雅の歩き初めに

あとならへ 思ふおもひも とほりつつ 君にかひある 敷島の道

定家かへし

敷島の 道しるき身に ならひおきつ 末とほるべき あとにまかせて

意味は分かりにくいのだが、雅経が教雅の歌の指南を定家に頼み、そのお礼に書道の手本を贈った、それに対して定家は雅経にならって教雅に歌を教えましょうと言った、ということらしい。

歌の配置からみると、定家の子・為家が元服した後の話らしいから、とっくに鎌倉時代に入っているが、承久の乱よりは前だろう。

どうも雰囲気としては「敷島の道」というのは「歌道」というよりも、も少し広く漢学や仏教に対する、日本固有のことについての知識や学問や芸能、つまり国学という意味で使われているような気がする。まあ、国学の中心は、当時としては和歌だったわけだが、神話とか神祇とか祝詞とか、歌物語など国文学全般、仮名文字の書き方、大和心の使い方のようなものまでを包含していたかもしれん。

とか思いつつ広辞苑を調べるとどうやら初出は千載集の序らしい。つまり定家の父俊成だわな。よく調べましょう自分。和歌に出た最初の例はしかし上に挙げた飛鳥井雅経と藤原定家の贈答歌かもしれん。

春の花の朝、秋の月の夕、思ひを述べ心を動かさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉を争ふ。敷島の道も盛りに興りて、心の泉いにしへよりも深く、言葉の林、昔よりも繁し。

うーん。やはり「もろこし」に対する「大和」であり、漢学に対する国学、という意味に使われている可能性は否定できないよね?文脈的には「大和もろこしの歌言葉を争ひ」とは和漢朗詠集や新選万葉集のように漢詩と和歌を並列にあつかったようなものだよね。俊成・定家・雅経には共通認識があったかもしれんが、ちゃんと説明してもらわんとわからんよね。つまり、俊成が作った言葉というより、もともと和歌に限定されない「敷島の道」の用法があって、それを俊成が和歌集の序に使ったかもしれんわけで。