九条良経と後鳥羽院

九条良経の歌というのは、今で言えばファッション雑誌を見て、どこかのシャレオツな店のマヌカンに選んでもらって、金持ちのボンボンだからいくらでも高い買い物ができる人が着るような服、といえばわかり良いだろう。そして世の中にはそんな金持ちの慶応ボーイみたいな歌が好きな人が一定数いて、それなりの需要はあるのだ。それはそれとしてそういう歌をうまいとか絶唱とか褒めるのはやめてもらいたいと常々思っている。ジャニーズのイケメンがかっこいいのは当たり前じゃないか。

九条良経の四歳下の妹任子は後鳥羽院の中宮なので良経と後鳥羽院は、血はさほど近くはないが義兄弟である。この二人の歌は良く似ている。ほとんど区別できないこともあるが、だいたいにおいて後鳥羽院のほうがうまい。後鳥羽院は後鳥羽院で、それなりに苦労はしているので、そうした生まれ育ちが歌に微妙な屈折を与えている。良経にはその屈折とか鬱屈というものがまるで無いように見える。

後鳥羽院にはあの腹違いの兄安徳天皇がいるわけだから、それが性格に暗い陰を落とさないわけがない。後鳥羽院は生涯九条家と鎌倉武士に頭を押さえつけられて生きていた。京都武士に多少そそのかされたということはあったかもしれないが、後鳥羽院が自ら倒幕などという大胆な改革を思いつき実行しようと企んだということはほとんど考えにくいと思う。それに京都武士らにそそのかされたのはむしろ順徳院であって、後鳥羽院は息子と取り巻き連中の暴走を制御できなかった、というのが正解であるはずだ。

疑似文語

1月27日に1年、いや1年半かけて書いた本の最終原稿を提出して、もちろん校正段階で手直ししたり差し替えたりということもできなくはないのだが、それはもうやらず、最小限の修正に留めて、余計に書きたくなったらここのブログに書いていこうと思う。そういう文章が溜まっていってまた本にまとめるかもしれないし、しないかもしれない。

短歌の表記について:文語・口語のこと

あざやけし・やすらふ(1)

あざやけし・やすらふ(2)

あざやけし・やすらふ(3)

江戸時代にあったのは国文(くにぶみ)であり、国文には和文(やまとぶみ)と漢文(からぶみ)があった。『平家物語』や上田秋成の『雨月物語』のような和漢混淆文もあり、本居宣長の『玉勝間』などを見てもわかるが、散文に関していえば、和文だけでは語彙が足りないから適宜漢語を混ぜて書いていた。その書き言葉を記したものを文語というのであれば、確かに文語は江戸時代からあった。

この江戸期にすでに確立されていた文語を逸脱したものを擬似文語と言いたいわけだが、より狭義に言えば、口語、話し言葉にはあるが、文語にはない語を文語風に造語し補完したものを擬似文語と言いたいわけなのだが、今どき散文を文語で書く人など皆無であるから、疑似文語の問題はただ、俳句とか近現代短歌のコミュニティだけで見られるものである。

一番わかりやすい例でいえば「大きい」。古語には「おほし」しかなく、「多し」「大し」「大きなる」などとしか言わなかった。「おほきなる」から口語の「大きい」が出来て、「大きい」を文語化すると「大きし」となるが、「大きし」などという古語の用例はない。

同じく「近しい」という現代語はあるが「近しし」という古語は存在しない。

「おだやかな」という言葉はあるが「おだやけし」という形容詞は存在しない。「おだし」という言葉は『源氏物語』にも見える。ただし私の知る限りにおいて「おだし」が和歌に用いられた例はないように思う。話し言葉には用いても和歌に用いられない言葉というのはよくある。よく知られているのは、係り結びで「ぞ」「こそ」は使うが「なむ」は話し言葉にしか使わない、など。

同じように「あざやかな」とは言うが「あざやけし」とは言わない。古語には「あざらけし」という言葉があって、「あざらけし」というのが正しい、などという人がいるが、それもどうだろうか。「あざらか」は『土佐日記』に用例があるらしいが、「あざらけし」の用例は非常に少ない。まして和歌に用いられた例はなかろうと思う。

「たけのこ」は「たかむな」「たかうな」とも言う。『源氏』には「たかうな」と出る。和歌に使われるのは圧倒的に「たけのこ」であって、私は特に理由が無い限り「たけのこ」と言うべきだと思う。

「ずき」「ずけり」などは万葉時代には使われていたらしい。「見れど飽かずけり」など。しかしこれも、「ざりき」「ざりけり」と言うべきだと思う。もし文字数の制約で、或いはわざと万葉調にするため、或いは単に奇をてらってそうするというのは慎むべきだと私は思うし、私ならば絶対やらない。

「悲し」「悲しむ」という古語があるのだから、「寂しむ(さびしむ)」「愛しむ(いとしむ)」「侘びしむ(わびしむ)」「激しむ(はげしむ)」などという語があってもよかろうという人はいるかもしれない。実は「侘びしむ」は『岩波古語辞典』にも載っているれっきとした古語である。崇徳院に

いかでいかで 嘆きを積みし 報いとて 逢ひ見てのちに 人をわびしむ

また西行に

寝覚めする 人の心を わびしめて しぐるる音は 悲しかりけり

がある。「さびしむ」にも用例がある。しかしながら「愛しむ」は「いとほしむ」と言うべきだろう。「激しくする」を「激しむ」というのはおそらく誰もが違和感をおぼえるだろう。

俳句や現代短歌ではこれら疑似文語をしばしば使う。言語というものは移り変わっていくものだから、現代語を現代人が勝手に作り変えて新しい造語を作るのは勝手だという考えもあるだろう。どうぞそうしてかまわないと思う。その代わり和歌とは混ぜないでほしい。

どんどん新しい言葉を作ってその中には後の世に残る良い言葉も含まれているかもしれない。しかし多くの造語は淘汰されて残らない。何十年か後に、昭和の歌人たちはなんてでたらめな言葉遣いの歌を詠んでいたんだろうといわれたくなければそうした珍文語は使わないのが良い。

新語とか造語ではなくて、明らかに単なる誤用という場合もあると思う。「やすらふ」はグズグズする、ためらう、優柔不断、の意味であって「休む」という意味はない。「安心する」という意味も無い。それらの誤用を許容する理由は、現代短歌や俳句ならいざしらず、少なくとも和歌には無いと言ってよかろう。

私が言いたいのはつまり、九州弁と関西弁と東京の標準語を見境なく混ぜて使ってそれがまともな言語といえるか、ということだ。イギリス英語とアメリカ西海岸の英語とインド人の英語を混ぜた英語が許容されうるか。同じことで、万葉時代や江戸時代にはあった言葉を平安朝の言葉に混ぜて使って、そんな言葉で平気で和歌を詠むんですか、ということだ。現代人は古語には語感がきかないからなおのことちゃんと用例を調べて、例えば紫式部の日本語を標準として定めて、そこに併用しても違和感の無い語彙や文法を慎重に選んで和歌を詠むべきじゃないですかと言いたい。

歌道普及会

大正の頃に歌道普及会というところから新派なんだか旧派なんだかよくわからない立ち位置から和歌の本がいくつか出ている。著者や編者が書かれていないので誰が書いたのか不明だが、かなりものを書き慣れた人だろう。明治以前の和歌については漠然とした知識しかない。つまり平安時代から江戸時代までは単なる教養として和歌を詠んでいた、というような雑なイメージしか持っていない。出版社は東盛堂。ここから本を出している人で、黒法師とか匿名とかで本を書いている人がいてこの人があやしい。渡辺霞亭という人のようだ。

かちかちの 山のたぬきは 焼け死にぬ 悪事をなせる 報いなりけり

こんなものを和歌だと言っていたり、和歌は平安朝以来明治初年まで娯楽の文芸として取り扱っていたため、などと書いていたり、どうも歌というものがよくわかっているとは思えない。『和歌の作りやう』という本に「同人」とか「読人知らず」で出ているのがこのひとの歌かもしれない。

埴輪と仏像

日本人が仏像を作り始めるよりもずっと前から日本人は埴輪を作っていた。

そして日本人が仏像を作り始めると日本人は埴輪のような造形を作り出すことをやめてしまった。日本人の創造性が固定化され様式化され、技巧的になり、宗教に絡め取られると同時に、多様性が失われてしまった。自由な創作活動が不可逆的にできなくなった。

もし日本に仏教が伝わらず、仏像を崇め拝むという習俗に染まらなければ、日本人は埴輪的な造形物を作り続けていただろう。仏像は確かに芸術的に非常に価値が高い。洗練されている。しかし所詮仏像は外来のものだ。別に日本で作るまでもない。必要があれば輸入すれば済む話だ(まして奈良の大仏なぞ作る必要はまったくなかった)。日本固有のものは日本でしか作れないのだから、日本はまずもって埴輪を作り続けるべきだった。しかし仏教は伝来し、仏像へ日本人の意識がすべて向けられてしまった結果、仏像以外の造形が絶えてしまったのは非常に惜しいことだと思う。

もちろんこれは仏像に限った話ではない。仏教、儒教、すべてに言える。日本人が日本だけでできたことの多くが外来思想や外来文化によって途絶してしまい、その発展が妨げられた。

実は同じことが明治にも起きたのである。弥生古墳時代には当たり前だった芸術が飛鳥奈良時代に混淆し、平安時代には捨て去られた。明治初期には西洋文芸理論との混淆も見られたが中期以降はただ単に江戸時代の文芸は切り捨てられ西洋文芸理論だけがもてはやされるようになった。

もちろん埴輪と神道は違う。しかし、古代神道と仏教の関係は、埴輪と仏像を見ればだいたい想像がつく。儒教や仏教は、キリスト教やイスラム教に比べればまだ日本と親和性が高く、日本に与えた良い影響ももちろんたくさんある。だが外来宗教には違いない。日本古来の固有の伝統だと言われるのはかなり違和感がある(アザーンはだめだが寺の鐘は良い、など)。

ただ、埴輪にせよ、もとは中国から渡ってきたもので、兵馬俑の模型を真似たものであったかもしれない。或いはもっと近い時代の唐三彩なんかの影響かもしれない。

ついでに言っておくが神社で朝、ブロワーで掃除しているのはなんとかならんのか。うるさくて非常に不愉快だ。別に機械を使って掃除するのがだめだというつもりはない。静かにしてほしい。早朝神社に参拝して清らかな気分になりたいのに、神経を逆なでする。境内を静寂に保つことは神道とは関係ないことなのだろうか?神社の周りを暴走族が取り囲んでエンジンふかしても良いのか?

一葉の歌

をちこちに 梅の花咲く さま見れば いづこも同じ 春風や吹く
春風は いかに吹きてか 梅の花 咲ける咲かざる 花のあるらむ
明日といはば 散りもやすらむ 庭桜 今日の盛りをとふ人もがな
くろづたひ 行く人多く なりにけり 山田の里に 梅咲きしより
楽しさに 里のわらべは とく起きて 若菜摘みにと出づる春日野
降る雨に 濡るとも花を 見に行かむ 晴れなばやがて 散りもこそすれ
咲きにほふ 花にも酔ひて 澄田河 うつし心の 人なかりけり
世の人の 心の色に 比ぶれば 花の盛りは 久しかりけり
ねぜり摘む 里のわらべの かげ絶えて 田河の末に 蛙鳴くなり
月待ちて いざ見に行かむ 角田河 こよひを花は 盛りなるらむ
散りて行く 花もさこそは つらからめ 我のみ惜しむ 風の音かは
散りぬとて 忘られなくに 山桜 青葉のかげの ながめられつつ
水の色も ひとつみどりに なりにけり 夏草茂る 野辺の細川
夏の夜は 短きものと 知りながら 見果てぬ夢ぞ はかなかりけり
夏衣 替へて干す日も なかりけり 降り続きたる 五月雨の頃
帰るべき しほこそなけれ 山桜 暮るればやがて 月の出でつつ
いとどしく 濡れてぞ色は まさりけり 春雨かかる 山桜花
昨日まで 固くふふみし 桜花 今朝降る雨に ほころびにけり
世の人の 宝とめづる 玉もなほ みがきてのちの 名にこそありけれ
世の中の 憂さもつらさも 忘れけり ただ一杯の これのなさけに(酒)
寒けれど 小簾開けてみむ 角田川 漕ぎ行く舟の 今朝の白雪
うつし絵に 見るここちして 箱根山 月こそのぼれ 湖の上に
不忍の 池のおも広く 見ゆるかな 上野の山に 月はのぼりて
風ばかり とふと思ひし 松の戸を こよひは雨も 叩きつるかな
吹き迷ふ 筑波根おろし なほさえて ふもとの野辺は 春としもなし
咲く梅も 月もひとつの 色ながら さすがに折れば まがはざりけり
我が庭は 萩も薄も あらなくに 秋なる風ぞ おどろかし行く
いざさらば 起き居て聞かむ 夜もすがら 寝られぬ閨の こほろぎの声
おもふどち 雪まろげせし いにしへを 火桶のもとに しのぶ今日かな
凍りけむ いささ小川の 細流れ 今朝は音なく なりにけるかな

桂園派批判

国会図書館の本を物色していて、木俣修「日本秀歌 第7 増訂版」春秋社というものを見た。この木俣修という人は北原白秋の心酔者らしいのだが、桂園派についていろんな意味でいろいろひどいことを書いている。およそ明治の歌人らの歌を紹介しているのだが、旧派歌人、桂園派の歌人の歌は一人一首ずつしか挙げておらず、紹介するさえおぞましいといわんばかりだ。一番多く挙げているのは与謝野晶子。なるほどこの人は北原白秋や与謝野晶子のような歌が良い、つまり明星派の歌が好みなのであろう。彼は要するに敵であるところの旧派をけなし、味方であるところの現代短歌を擁護するにあった。

桂園派にはまず高崎正風を筆頭とする御歌所派があり、ほかには井上通泰らによる新桂園派(単に御歌所寄人ではなかっただけでほぼ御歌所派と同じと言って良い)、大八洲学会・東洋学会に属する歌人は古典派と呼ばれたという。民間にいた桂園派としては佐々木弘綱つまり佐々木信綱の父や与謝野礼厳つまり与謝野鉄幹の父などがあったという。

高崎正風が「題詠で終始した」と言っているのは明らかに事実ではない。桂園派歌人がみな春夏秋冬恋雑の歌しか詠まなかったと思っているとしたらおそらくその人は歌を何も知らないのだろう。

朝凪ぎに 沖の鰯や 寄り来らむ しほさき追ひて かもめ群れ飛ぶ

「叙景歌において、一つの事実をふまえて、他を推量するというような手法は、桂園歌風の常套であるから、一読してその固定した歌調の古さにつきあたる」とはひどい言い方だ。新派の歌にだってそんな歌はいくらでもあるだろう。おそらく木俣修という人は、写生の歌、目の前の情景をありのままに切り取った自然主義的な歌が良い、そう言いたいかもしれない。

古今集を宗とする桂園派は、古今集の美意識からほとんど一歩も外に出ることはできなかった。「風雅」という理念にしばられていた彼らは、現実の生活意識や時代感覚などとは全く没交渉であった。中世的な風雅というようなものの生きる現実的な基盤は、すでになくなっていたにもかかわらず、こうしたものの追求をこととし、その境に陶酔していたところに、旧派歌人たちの錯誤があり、短歌が他の文芸ジャンルの進展に添うことのできなかった原因が見られるのである。

これまたひどい。確かに高崎正風などは香川景樹の影響を受けて(事実は八田友則などから聞いた又聞きのたぐいだろう)古今調崇拝であったかもしれないが、香川景樹自身、必ずしも古今調に縛られていたわけではない。桂園派とは万葉調から江戸後期までのすべての古典的和歌を継承したものであって、木俣修は鎌倉、室町、江戸の和歌など何も理解できないのだと思う。

明治に入って新しい文芸ジャンルが次々に生まれてきたのであれば、そちらの新しいジャンルでせいぜい頑張れば良いのであって、和歌にまで口出しされるいわれはない。新派歌人こそ、明治以来の文明開化という理念に縛られていたにすぎないではないか。

正岡子規や伊藤左千夫ら根岸短歌会、つまりいわゆる根岸派、のちのアララギ派のことも、さほど詳しく知っているわけではないようだ。「根岸派は閉鎖的で歌壇的勢力も片隅的なものであった」というのもおかしい。アララギ派は明星派のライバル、新派の二大勢力だったわけで、相手のことを攻撃しているとみられても仕方あるまい。

伊藤佐千夫の歌を見るに、彼はほぼ完璧な大和言葉で歌を詠んでいる。これはまぎれもない和歌である。ごくまれに黒楽とか芍薬などの漢語を用いることもあるが、固有名詞だから、まあ仕方ないともいえる。根岸短歌会を立ち上げた明治30年以降の正岡子規に至っては、漢語はほぼ無制限に使っているから、伊藤佐千夫は子規よりもまだ和歌の伝統を守っていたというべきだ。

木俣修って紫綬褒章もらってるんだなあ。しかも昭和天皇の和歌指導までしている。

カルト

白目が充血しているのは、手で目を無意識のうちにこすっているからではないかという仮説を立てて、意識して目をこすらないようにしてみたのだが、あまり効果はみられなかった。また、夕方よりも、朝起きたすぐのほうが充血が少なかった。

目が充血しているのはパソコンの画面の見過ぎ、目を酷使しすぎているせいだろうと思われる。右目より左目が充血しているのは左目を余計に酷使しているのかと思う。目が疲労して、栄養や酸素が足りなくなり、酸素や栄養を目にどんどん送り込まなくてはならないので、血量が増えその結果白目が充血するのだろうと思われた。

なので、暇な時間にはyoutubeを見るのではなくaudibleを聞くことにしてみた。ところが困ったことにaudible よりもyoutubeのほうが朗読にせよ講演にせよ音源がたくさんある。それでyoutubeで小林秀雄や渡辺昇一などを聞き始めた。

渡辺昇一が騎馬民族征服王朝説はおかしい、江上波夫が文化勲章を受けたのはおかしいと言っていて、その根拠としては古事記をはじめとする日本神話には馬が全然でてこない。出てくるのはスサノオノミコトが天照大御神の家に野生の馬の生皮を剥いで放り込んだという話だけだ、それに比べて神様が海からやってきたとか海の神様の娘と結婚したとか、陸を迂回して海を経由して攻め入ったなどという話はいくらでもある。

そもそも騎馬民族が大陸から渡ってきたのであれば、日本列島が島国であることすらわからなかったはずだ。なぜなら、本州の最北端まで騎馬民族が攻め入るまでは、日本が島でできていることはわからないはずだと。

そりゃまあそうなので、縄文時代からずっと日本は島国だってことは日本人は知っていたはずなので、その後に稲作が入ってきて、かなり短い期間で、稲作が広がっていって、その勢力がじわじわ東を圧倒していったということはあったかもしれないが、日本人というものは基本的には縄文時代と弥生時代では違いがないはずだ。

あと渡辺昇一は、小林秀雄という人は、ボードレールがポーなんかを批評していたのを真似して日本語で批評を始めた最初の人だなどと言っていた。なるほどそれ以前の例えば夏目漱石や正岡子規などの批評というのは荻生徂徠や頼山陽などの論説とほとんど連続していて、その根底には漢文の素養があるわけだ。小林秀雄が面白がられた理由は漢文ではなくフランス語の、当時のフランスの文芸批評の口ぶりをそのままそっくり輸入したからなのだ。

その小林秀雄が戦後敢えて本居宣長を書いた。誰も小林秀雄の「本居宣長」を理解できなかった。その理由の第一は小林秀雄自身にある。彼はもともと洋物の文芸批評をするはずの人だったのにそれがこてこての和物の評論を始めたのだ。しかも、敗戦後、国学などが徹底的に批判されていたときに。どうも小林秀雄という人は周りとことさら違うことがやりたい人らしい。戦前には、漢文調の論評が主流な中で欧文調の批評をやって読書人らに大いに受けた。戦後はその真逆をやってみたが、今度はさっぱり当たらなかった。そりゃそうで小林秀雄のファンというものはみな基本的に西洋かぶれで、和風な評論が嫌いなのだ。なのに、小林秀雄がまじめ腐って宣長を論じた。おもしろいはずがない。ただそれだけのことかもしれない。

それで、連載中は誰も話題にもしなかった『本居宣長』が単行本で出ると書いた小林秀雄本人がびっくりするくらいに売れた。これまたわけわからない。戦後しばらくたって、みんな宣長がわからなくなっていたころ合いに出たから、みんな読んでみようかと買ってみた。買ってはみたものの、結局読まず、まともに論評もされず、みんな書斎の飾りにしてしまった。実にばかげている。

それでも小林秀雄という人は恐るべき人で、本居宣長のかなり本質まで見抜いていた。見抜いていたけれどそれをおフランスの文芸批評の文体と論調で書いたものだから、とてつもなくちぐはぐなものができてしまった。小林秀雄はたぶん、ものすごく地頭(じあたま)の良いひとなのだろう。なんでも直感的に一瞬で見抜いてしまう。しかしそれを論理的に説明できる人では必ずしもない。だから彼の文章は悪文と呼ばれる。論理的に破綻している、または、何を言いたいのかわからない、ただのきどった美文だなどと言われ、私もほとんどの文章はそのたぐいだろうと思う。

江戸天保時代に宣長はあれほどの高さまで到達していたのに、今の人は全然宣長を理解できていないと思う。戦前の国粋主義者らもわかったようで何も理解してなかった。まして戦後の左翼には危険思想としか認識できなかった。小林秀雄はかなりのところまで肉薄していたが、しかしまだまだよくはわかっていなかったと思う。

渡辺昇一は宣長というひとはオカルティズムの人、スピリチュアルな人、精神主義な人であるという。小林秀雄が宣長は精神主義と言ったせいで国粋主義と誤解された、宣長や小林秀雄が言いたかったことはようするにスピリチュアリズムのことだ、などと言っていたがそれはそうだと思う。

宣長がカルトだったことはもちろん事実に相違あるまい。子供のころから仏教や儒教にはまり和歌を詠んだりするのはもともとそういう素養があったからだし、自分は親が神にお祈りして生まれた子だと宣長は生涯信じていた。この信仰心というものは、真正のものであれば仏教でも儒教でも神道でもなんでもよかったのだろう。

宣長に古事記伝が書けたのは、また、古事記を研究したいと思った動機は、彼がカルトだったせいではある。しかし、宣長も古事記もカルトであり、カルトとは古事記時代の原始神道、アミニズムでありシャーマニズムである、ということにはならない。

宣長は、いわゆる霊感の強い人、オカルティズムな人。古代日本のアミニズムのビジョンを見て、共感できる能力がある人だっただろう。しかし宣長の場合はそこで終わりではない。

宣長はもともと仏教にも儒教にもものすごく詳しい人だった。その彼が古事記を読んでいるうちに、さまざまな疑問がわいてきただろう。だから宣長はまず、日本古来の神道というものは本来どういうものであったかを再構築し、アミニズム、シャーマニズム時代の神道というものを仮定し、そこから、外来宗教の影響を受けずに自国内だけで純粋培養したらこうなったであろうという、本来あるべき、ピュアな、理想の神道を作ろうとした。つまり、キリスト教やイスラム教や儒教や仏教のような普遍性のある世界宗教を、それらとはまったく別にもう一つ、純粋に日本由来の素材から作ろうとした。そのためには理論武装しなくてはならない。理論武装した宗教とはすなわちカルトである。

宣長は、ナイーブな、外来思想と簡単に混淆し、免疫を持たなかった神道を作り直して、外来思想と簡単には混ざらない歯止めのある、理論武装した普遍宗教にしようとした。特に仏教やキリスト教に対抗しうる神学を構築しようとした。世界の原始宗教は、ギリシャローマの神話にしても、キリスト教やイスラム教などの普遍宗教によって駆逐されていった。同じことが日本でも、仏教や儒教の伝来によって起こっていた。宣長はそこに危機感をおぼえて、いつ外来宗教に浸食され滅ぼされるかもしれない弱い宗教である神道を鍛えて強い宗教にしようとした。彼はだから、不本意ながら、無理にカルトへ舵を切らざるを得なかったのである。彼はだから、上田秋成のナイーブさ、寛容さが我慢ならなかった。宗教とは不寛容でなくてはならない、さもなくばもっとものわかりの悪い不寛容な宗教、もっと排他的な宗教が現れたときに、おおらかで物わかりの良い寛容な宗教は一方的に浸食され、駆逐され、いつの間にか淘汰されてしまうからだ。つまり、神道もまた、世界の他の宗教と同じ程度には不寛容で排他的にならねばならない。日本人であるからには日本固有の宗教を最も尊び、他の宗教から守らねばならない。そのためには神道にも独自の神学が必要だ。宣長はそのロジックに初めて気づいた日本人であったかもしれない。逆の言い方をすれば宣長という天才が現れるまで、日本人は世界から隔絶していたおかげでそうした危機感をまったくもっていなかったということになる。今、川口市や蕨市で起きているようなことを宣長は天保時代に予見していたのである。宗教マニアの宣長だったからこそ、いちはやく、誰よりも先にそこに気付いた。

宣長が偉かったのはここまで完成度の高い神学理論を創始しておきながら、自分自身が教祖様になろうとは決してしなかったことだ。マルチン・ルターに似ているともいえる。

ところが、宣長の理論は彼の死後いろんな教祖様に利用され、あまたの新興宗教が生まれることになる。宣長にはそこまで制御することはできなかった。そしていまなお宣長は誤解されたままなのである。もし宣長がみずから新興宗教の教祖になっていたらこんな混乱と無理解は生じなかったかもしれない。

鬼坊主の女

私は「鬼平犯科帳」は池波正太郎の原作を、流し読みではあるが一応全巻読んでいて、さいとうたかをのマンガも機会があれば読むようにしているのだが、そのマンガに「鬼坊主の女」というものがあった。原作には見覚えのない話なので(和歌が題材になる話を私が見落とすわけがない)、さいとうたかをのオリジナルかと思ったのだが、調べてみると、もとは「鬼平犯科帳」とは直接関係ない「にっぽん怪盗伝」という、池波正太郎の短編集があり、その中に収録されていたものらしい。「にっぽん怪盗伝」は audible にあったので聞いてみた。

ウィキペディアの鬼坊主清吉によれば、鬼坊主と呼ばれた盗賊は実在していて、獄門にかけられたときに辞世の歌

武蔵野に 名もはびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに かくてしをるる

を詠んだという。これは和歌としてみて、まずまずの出来だと思う。意味も明確だ。1805年6月27日のことだというから、長谷川平蔵は既に死に、松平定信も老中を退いている。旧暦文化2年6月27日をグレゴリオ暦に変換すると1805年7月23日となるから、夏の暑い盛りだったことになる。オニアザミが咲くのは6月から9月。

この話は落語『鬼あざみ』になっていて、その中では

武蔵野に はびこるほどの 鬼あざみ 今日の暑さに 枝葉しおるる

となっている。池波正太郎はこの落語を元ネタにして、「鬼坊主の女」を書いたらしい。

盗賊の頭、鬼坊主は捕らえられたが、子分に命じて、先に盗んで隠しておいた金を使って、辞世の歌を代作してもらって、それを獄門のときに詠じて、役人を驚かせたということにしたのである。この「鬼坊主の女」では辞世の歌は

武蔵野に 名ははびこりし 鬼あざみ 今日の暑さに 少し萎れる

となっている。これを鬼平犯科帳ものに最初に仕立て直したのはテレビドラマで、1970年5月19日放送の「鬼坊主の花」であったという。さらに1993年に再度「鬼坊主の女」としてドラマ化され、2003年にはさいとうたかをによってマンガ化されたらしい。

このマンガでは鬼坊主と一緒に磔にされた手下二人も代作の歌を詠み、しかもこの歌を代作したのが長谷川平蔵やら木村忠吾であったことになっている。

武蔵野に 名を轟かせし 鬼太鼓 罰は受けれど 音のさやけき
商売の 悪も左官の 粂なれば 小手は離れぬ 今日の旅立ち
浄瑠璃の 鏡に映る 入れ墨に 吉の噂も 天下いちめん

こうなってくるともう和歌ではない。狂歌としても、あまり良い出来とはいえない。池波正太郎の原作まではなんとか和歌らしい様式と体裁を保っていたが、おそらく和歌というものの良し悪しのわからぬ人の手によって、テレビドラマ化、マンガ化する段階で誰かが適当におもしろおかしく改作したのだろう。

こうして並べてみると、やはり鬼あざみ清吉本人が詠んだ歌が一番優れているように見えるのだが、あまりに出来過ぎているので、人から人に言い伝えられるうちに上品に洗練されていったのではないかと思われる。あるいは、歌の内容からして、本人が詠んだというよりは、獄門にされた清吉を見た誰かが詠んだ歌にも見える。やはり無学文盲な盗賊がいきなりこのレベルの和歌を詠むということはちょっと考えにくい。ちょうど大田南畝が蜀山人の号を使い始めた頃に当たるから、彼が詠んだとしてもおかしくはない。大田南畝はれっきとした幕臣なので、彼が盗賊に同情的ともとれる歌を詠んではまずいので、盗賊本人が辞世で詠んだ、ということにした、としたらなかなかおもしろいかもしれん。

また、しょせんテレビドラマやマンガを見る人、或いは作る人々には、和歌のよしあしなどわからないのだなという気にもなる。盗賊が辞世にまずい狂歌を詠んだという演出にはおあつらえかもしれんが。

短歌はけっこう流行ってる

短歌は今わりと流行っているらしい。note にも短歌というジャンルがあって、多くの人が歌を詠んでいる。

文芸春秋は俵万智の新作をしばしば載せているし、彼女は4月からNHK短歌の選者になったらしい。俵万智は40年前からずっと歌壇に影響を与え続けてきた人だ。日曜美術館にも時々出ていたようだ。世の中の短歌というものが現在ほとんどすべて、俵万智の亜流の感があるのは当然だと思う。

俵万智は実際非常に優れた歌人である。現代語を用いて詠んだからだけではない。彼女の歌は、赤裸々な不倫の歌であり、シングルマザーの歌である。尋常な歌ではない。人をぎょっとさせる歌である。自分のプライバシーをさらけ出して詠んでるから迫力が全然違う。また、五七五七七の操り方もうまい。彼女はまさしく歌人である、といえる。和泉式部に近い。たぶんこの二人はよく似たキャラクターであったはずだ。もちろん与謝野晶子とも似ている。

俵万智は、もちろんいろんな歌を詠む人ではあるが、本質的には不倫とシングルマザーの歌人であるといってよい。しかしながらそれだけで流行ったのではない。もうひとつ、一般人に、自分もまねできるのではないか、自分でもああいう歌が詠めるのではないか、と思わせた。多くの模倣者を生んだ。このふたつの相乗効果で流行った(ほかにも、佐々木信綱の孫、佐々木幸綱に早稲田で学んだ、ということも割と重要なことであったかもしれない)。

俵万智の歌の面白味というか凄みは、彼女の独特の体験からにじみ出てきたものであって、たぶん彼女はものすごく奇矯な性格の人であって、それゆえ必然的にああいう経験をしてしまうのであり、だからその歌も、ごく普通の一般的な日常を送っている人には決して詠めない類のものである。それをむりやり似せようとすれば、どぎつい、露骨なエロスを詠んだだけの歌になってしまうのではないか。

今の短歌の中にも、現代語特有の語感を活かしたちょっと独特で面白い歌もあるにはあると思う。それ以外はほとんどが俵万智的な何かだ。新しい歌というものはそう簡単には詠めないもので、これまでも、天才が出てそれの模倣者がでて、という歴史を繰り返してきた。みなが勝手に口語で歌が詠めるのではない。

私は口語で歌を詠まないと決めたから、今の短歌と呼ばれるものがどうなろうとしったこっちゃない(たまに詠むとしてもそれは狂歌のたぐいだ)。そういうものをうっかりみてしまうと、何か乗り物酔いか3D酔いしたような気持ち悪さを感じてしまうから、見ないようにしている。ただ、ときどきこわいものみたさでみてしまったりする。なぜいまそこそこ短歌が流行っているのか私にはよくわからない。今の短歌の価値も私にはよくわからない。今の歌人がどういう気持ちで歌を詠み、人の歌を評価し、また自分の歌の良し悪しを決めているのか。まったく想像もつかない。

自分のことを僕と言ったり私といったり俺といったり自分といってみたり。一人称をころころ変えるのは節操がない。歌とて同じことだ。こういう詠み方をすると決めたらずっとそういう詠み方をし続けなくてはならない。ブレがあってはならない。私はそう思っているけれども、人によっては、どんどん詠み方を、自己表現をとっかえひっかえしている人もいるのかもしれない。SNSではいくつも匿名でアカウントをもち、それぞれことなるキャラクターを演じている人もいるのかもしれない。

俵万智のような恋歌は、与謝野晶子の歌もそうかもしれないが、和歌というよりは、江戸時代の都都逸や常磐津のようなあたりからきたものではないかと、私には思える。都都逸には非常に優れた恋歌がたくさんあって俵万智や与謝野晶子もかすむくらいであろうと思う。ほかにも浄瑠璃とかなんとかかんとかとかいろいろたくさんあって、ちゃんと調べると膨大なものがあってそれらを超えることは容易でないと思うのだ。逆にいえばそうした厚みと下地があるからこそ、あのような恋歌は詠めるのだと思う。恋歌とていきなり詠めるわけではない。

そして、恋歌を詠みたいのであれば都都逸とか今様で詠むほうがずっとすっきり詠めるだろうにと思う。五七五七七という形式は非常に詠みにくい詩形で、それをわかったうえで詠んでいるひとは少ないように思う。あとやはり現代短歌はどこか気持ちが悪くて好きになれない。都々逸だと新作でも江戸の粋というものが感じられて気持ち良いものが多い。個人の感想だが。

大和言葉と漢語は普通は混ざらない

大和言葉だけで和歌を詠むのは難しいのではないか、大和言葉だけでは語彙が足りない、表現の幅が狭いので、口語や英語などを混ぜて詠まないと詠めないのではないか、と考える人がいるかもしれない。私も最初和歌を詠み始めたころはそうだった。

私の場合最初は、九州弁と東京弁がまざったような変なしゃべり方をしていたが、やがて普通に東京弁でしゃべるようになり、九州弁は忘れてしまった。しかし九州に帰って周りがみんな九州弁をしゃべっているといつの間にか九州弁でしゃべっている。

英語でしゃべるのも同じで、日本語と英語をごちゃまぜにしゃべるほうが実は難しく、英語をしゃべっているときは人は英語の脳になっているし、日本語をしゃべるときには日本語の脳になっているはずだ。日本語と英語とドイツ語がしゃべれる人がいてもその三つの言語をまぜこぜにしゃべる人はいない。普通は。

和歌もそうで、大和言葉だけで詠むと決めて詠んでいるうちに、口語や漢語なんかは自然と混ざらなくなるはずだ。そのうち漢語を混ぜようと思っても簡単には混ざらなくなる。

語学としてみれば当たり前のことなんだが、和歌もまた一種の語学であり、大和言葉もまた一種の語学のはずなのだが、今の世の中、大和言葉だけでものを読んだり、会話したり、和歌を詠む人がまったくいないので、それがわからなくなってしまっている。

平家物語は和漢混交文ではないかというかもしれないが、あれはあれで一つの特殊な文体なのであって、平家物語の文体を真似てものを書いたりしゃべったりすることはできなくはないかもしれないが、そうではなく、完全にオリジナルに、一から和文と漢文を混ぜてしゃべりなさいと言われても、普通の人がいきなりしゃべれるようになるはずがない。

そもそも大和言葉のすべてが和歌に使われるわけではない。そんなことは誰にもできない。大和言葉のうちから少しずつ、だんだんに歌に使われる歌語というものができていく。詩語というものができていくのである。それは現代短歌でも同じはずだ。口語をそのまま歌にできるわけではない。みんな誰かほかのひとがすでに詠んだ歌から影響を受けて歌を詠んでいる。一から歌が詠めるわけではない。一から歌を詠めるのは天才しかいない。

みんな自由に口語で歌を詠んでいるというのは錯覚にすぎない。