法皇

以前書いた逆転の日本史を読んでいて思ったのだが、確かに霊元上皇以後、法皇という称号は使われなくなった。出家した上皇はいたはずだが、法皇を称さなくなった。

法皇一覧など調べてもなかなか出てこない。

霊元院を霊元法皇ということはあったのかもしれないが、あまり使われなかったように思えるし、後水尾院を後水尾法皇という例もほとんどないようにおもえる。

これはやはり家康以来、徳川幕府が仏教が大好きで、仏教に何かと口出ししたがったからだろうと思う。法皇というと日本仏教界の頂点に天皇が君臨しているようにみえるが、沢庵和尚の紫衣事件などみるに、宗教上の権威に対して徳川は異様に敏感だった。幕府や老中、摂家の頭越しに上皇が僧侶に称号や特権を与えることを嫌った。幕府がというより、摂家にそれだけの権力があったせいではなかろうかと思える。徳川宗家が浄土宗を保護し、浄土宗がやたらと力をもったせいもあるかもしれない。

あとやはり、法皇というと白河院や後白河院を連想するので摂家は嫌がったのだろう。

家隆による土御門院への合点

藤原家隆が土御門院の歌に合点(ごうてん)(判定)した珍しい例がある(『歴代御製集2』)。承久3(1221)年というからまさに承久の乱が起きたその年に詠まれている。

春(はる)の野(の)の 初(はつ)子(ね)の松(まつ)の 若(わか)葉(ば)より さし添(そ)ふ千代(ちよ)の 影(かげ)は見(み)えけり

子の日の歌には一句一字おろかならず候、但さりとては此の中には可爲御地候歟(おんぢとなすべくそうろうか)。

一字一句おろそかにしていないのは良いが、他の歌と比べると普通だと言っている。十首などまとめて詠んだ歌のうち優れているものを「文の歌」と言い、劣っているわけではないが引き立て役になっているものを「地の歌」と言うようだ。

伊勢(いせ)の海(うみ)の あまのはらなる 朝(あさ)霞(がすみ) そらに塩(しほ)焼(や)く けぶりとぞみる

余勢、姿、心巧みに無申限候歟(まをすかぎりなくそうろうか)。

勢いも、姿も、心も巧みで、申し分ありません。

霧(きり)にむせぶ 山(やま)のうぐひす 出(い)でやらで 麓(ふもと)の春(はる)に 迷(まよ)ふころかな

山のうぐひすの心、尤(もっと)もよろしく候

「霧にむせぶ」が字余りだが、心がこもっていて良い、ということか。こんな石原裕次郎が歌う歌謡曲みたいなフレーズを土御門院が使っていたとはちょっと意外だ。

しろたへの 袖(そで)にまがひて 降(ふ)る雪(ゆき)の 消(き)えぬ野原(のはら)に 若菜(わかな)をぞ摘(つ)む

麗しく、一句無難優美に候

麗しく、無難で優美だと言っている。

堂上公家による和歌指南というものは、明治に至るまでこんなようなものだったのだろう。善し悪しは直接言わず、悪いときは地の歌だと言ったり、姿が悪いときは心が良いとだけ指摘したりする。

リアリズムとファンタジー

鴬(うぐひす)の 涙(なみだ)の雨(あめ)も 紅(くれなゐ)に 落(お)ち添(そ)ふ梅(うめ)の 花(はな)の下露(したつゆ)

見(み)しやいつ 咲(さ)き散(ち)る花(はな)の 春(はる)の夢(ゆめ) 覚(さ)むるともなく 夏(なつ)はきにけり

賑(にぎ)はへる 民(たみ)の家(いへ)居(ゐ)を 空(そら)に見(み)て 煙(けむり)の上(うへ)に 月(つき)や澄(す)むらむ

定(さだ)めなく しぐるる空(そら)は 世(よ)の中(なか)の 人(ひと)の心(こころ)や 雲(くも)となりけむ

これら正徹の秀歌はどれも絵画的で浪漫的だ。紅梅に春雨が降り、鴬もまた紅涙(可憐な女性の涙)を流しているように見える。技巧は凝らしているが、曖昧さはない、くっきりと鮮明な、意図のはっきりした素直な歌だ。

リアリズムとファンタジー。必ずしも相容れぬものでもない。少なくとも創作の世界に完全なリアリズムもなければ完全なファンタジーもない。高畑勲はどちらかといえばリアリズムをエンタメ化するためにファンタジー要素を加味する人だ。一方、宮崎駿は空想の産物に生々しい血肉を与えるためリアリズムの力を借りる人だ。では正徹はどちらかと言えば、明らかに高畑勲側の人だったと思える。

歌はごまかしが効かない。詠む人の心根がそのまま出てしまう。歌を飾り取り繕おうとすればそれは詞のぎこちなさやつながりの悪さ、気持ち悪さとなって歌を損なってしまう。だから嘘をつこうとしてもすぐにバレる。

正徹は夢の歌ばかり五百首ほど詠んでいて、中には良いものもある。「見しやいつ」「春の夢覚むるともなく夏は来にけり」「人の心や雲となりけむ」と来るところなどなかなか良い。独特の風情、余情がある。

氏姓

氏(うぢ)は朝鮮語(ul)、モンゴル語(uru-g)、ツングース語(ur)、トルコ語(uru)などと共通で、血縁、同族という意味で、地名や職業を一族の名としたもので、おそらく古代には女系の家系を言っていたのではないか。

これに対して姓(かばね)は屍、つまり死骸を意味する大和言葉であり、天皇から下賜される政治的な名であった。明らかに氏のほうが姓よりも古い。

族(やから)は家(や)+血縁(から)の意味で、(たね)とも訓む。

漢語の氏はおそらくもとは丘という意味(岐阜の阜に同じ)であって、丘の上に村が形成されたため氏族の意味になったのだろう。族は旗と矢からなり、明らかに軍事集団のことを言うようだ。姓は最も古くて、漢民族がかつて女系社会だった頃からある宗族のこと。

漢族の社会が女系から男系に変わった時期はよくわからないが、古い姓以外に、多くの氏や族ができてきて、それらは農耕共同体であり、軍事集団でもあったから、指導者を男から男へ継承する必要が生まれた。その継承ルールから姓以外に雑多な氏族が生まれ、姓もその中に飲み込まれて、すべての氏姓、宗族が男系に転じたが、女系の頃にあったイクソガミー(外婚)制度はそのまま男系にも引き継がれたのだろう。

頓阿と後村上天皇

草庵集玉箒を読んでて思ったのだが、

一木まづ 咲きそめしより なべて世の 人の心ぞ 花になりゆく

この頓阿の歌

一木まづ 霧の絶え間に 見えそめて 風に数そふ 浦の松原

この後村上天皇の歌によく似ていないだろうか。さらに

夏草の 茂みが下の 埋もれ水 ありと知らせて 行く蛍かな

この後村上天皇の歌は

草深み 見えぬ沢辺の 埋もれ水 ありとやここに 飛ぶ蛍かな

この頓阿の歌とあまりにも似すぎてはいないだろうか。

頓阿は北朝の征夷大将軍足利尊氏の近習であり、しばしば尊氏邸の歌会に参加している。また従一位摂政関白太政大臣二条良基にも歌の師と仰がれていた。ところがどうやら頓阿は南朝の後村上天皇とも近しかった可能性が極めて高い。

後村上天皇が僧侶のなりをして頓阿という名で北朝に出入りしていた、としたらちょっと面白い話になるかもしれないが、二人の歌風はまったく異なるので、同一人物ということはあり得ないと思う。

頓阿は後深草二条、つまり『とはずがたり』の作者ともつながりがあったと私は見ているのだが、そのことについてはまた改めて書きたいと思う(最近頓阿についてだいぶ調べた。頓阿の本を一冊書けと言われればたぶん書けるだろう)。

私は「埋もれ水」とは頓阿のこと、「蛍」は後村上天皇のことを暗喩しているのではないかと思っている。つまり頓阿は南北朝間を行き来する密使だったのだ。

今ははや心にかかる雲もなし

花山信勝『平和の発見 巣鴨の生と死の記録』を読んだ。私がわざわざこの本を図書館から借りてきて読んだのは、東条英機の辞世の歌

今ははや 心にかかる 雲もなし 心豊かに 西へぞ急ぐ

を調べるためであった。この歌は実はすでに『虚構の歌人 藤原定家』にも載せていたのだが、その頃から、この歌が和歌についてそれなりにある程度学んだ人でなくては詠めない歌であることに気づいていた。戦時中、日本人はみんな和歌を詠んでいた。本土決戦が迫ってきて、敗戦の恐怖におびえ、人々は日本古来の和歌を心のよりどころとするようになって、私の祖父でさえも和歌を一日一首詠んだ日記を書いていたのである。

この東条英機の歌は、『虚構の歌人』を書いていた時には気づいていなかったのだが、実は足利尊氏が詠んだ

今ははや 心にかかる 雲もなし 月を都の 空と思へば

の本歌取り、というよりも露骨な焼き直しなのであった。しかしそのことについて私は東条英機を咎めるつもりは毛頭無い。なにより歌をまったく詠めない現代人よりはずっと優れている。東条英機は素人歌人に毛の生えた程度の人だっただろう。同じ時に詠んだ辞世「さらばなり 有為の奥山 今日越えて 弥陀のみもとに 行くぞうれしき」「明日よりは 誰にはばかる こともなく 弥陀のみもとで のびのびと寝む」など見ると、大田南畝の狂歌に近い歌を詠む人だったことがわかる。ならばパロディに近い本歌取りも芸のうちだったわけである。

尊氏の本歌は中先代の乱の最中に関東で詠んだものと思われる。決して戦の歌には見えない。武士の歌にも見えない。しかしながらこれほどよく出来た武士の歌がまたとあろうかと思えるほどよくできた歌である。これほど武士らしい歌はない、とも思えてくる。

もののふの 矢並つくろふ 籠手の上に あられたばしる 那須の篠原

なるほどこの歌は実によく出来ている(正岡子規『歌詠みに与ふる書』「もののふの矢なみつくろふ」の歌のごとき鷲を吹き飛ばすほどの荒々しき趣向ならねど、調子の強きことは並ぶものなくこの歌を誦すれば霰の音を聞くがごとき心地致候、等々)。この源実朝の歌(おそらくは贋作)は武士の歌の絶唱とされている。しかしいかにもわざとらしくしつらえてある。実朝がこんな歌を詠むはずがない、と私には思える。それにくらべて尊氏の歌はどれも素晴らしい。なぜみんな実朝の歌を褒めて、尊氏の歌の素晴らしさに気づかないのだろう。ほんとに不思議だ。

夜空には一点の雲もなく月が明るく輝いている。都で眺める月も、今こうして戦場で眺めている月も同じ月であるから、どこにいようと同じである。尊氏はそれほど京都に執着も愛着もなかっただろう。足利氏の頭領であるからにはどちらかと言えば北関東の足利よりも京都に住むことが多かったのだろうけれども。

アメリカでは従軍聖職者のことをチャプレンという。死刑執行に立ち会う聖職者もチャプレンと言う。死刑囚がキリスト教徒の場合は神父か牧師、ユダヤ教徒の場合はラビ、イスラム教徒の場合にはイマーム、仏教徒の場合には僧侶、などと宗教や宗派によって変わるというのが、宗教国家アメリカの古くからの習わしなのだという。いわゆる教誨師というのもまたチャプレンだが、東京裁判における死刑囚の場合には僧侶が呼ばれた。それが著者の花山信勝であった。彼は死刑囚がみな死ぬ前に仏教に帰依したと書いているのだが、それはある程度割り引いて考える必要があると思う。

死とは単に生の終わりに過ぎない。死後の救いとか魂の不滅など虚構だ。なるほど宗教には美しい側面もあると思うが、死んだ後にも天国があるだの地獄があるだの生まれ変わるだの奇跡があるだの、根も葉もない作り話をでっち上げて、人の精神的な弱さにつけこんでたぶらかすのもいい加減にしろと言いたい。

私ならば死ぬ間際に宗教に頼りたいとは思わない。できれば無神論者として死にたいと思う。死の恐怖を宗教なぞで紛らわしたくない。死ぬと決まってから悔い改めたくはない。教誨師に懺悔して死ぬなんてまっぴらごめんだが、それはまあおいといて、東条英機もまた仏教くさい辞世をいくつか詠んでいる。この「西へぞ急ぐ」も明らかに死後浄土で救われることを願ったものだ。

「これ(「今ははや」の歌)はこの前のものです」と東条英機は言っている。「この前」がいつかはわからないが、死刑判決の言い渡しは昭和23年11月12日には済んでいるのだが、12月6日にアメリカ大審院が訴願を受理しており、死刑執行は自動的に停止された。ところが20日になって訴願を却下し、これによって最終的に死刑執行が行われることになり、23日に執行された。

いずれにせよ、東条英機は12月22日16:00より前に「今ははや」を詠んでおり、他の(思いつきで詠んだ)辞世の歌よりも前に詠んでいたにもかかわらず一番最後にこの歌を取り上げたということは、この歌が自分の辞世の歌であるということを意識して、じっくり考えて用意したものだと思われるのである。いや、この歌がそんな簡単に、即興で詠めるはずがないのである。

戦前教育では南朝が正統で北朝の尊氏は逆賊とされていた。わざわざその尊氏の歌を引いて自分の辞世の歌としたことにはそれなりに深い意図があったのだろう。尊氏の立場と、謀反人、逆賊、戦犯として死んでいく自分の立場に通じるものがある。死を宣告され、歴史の皮肉、真相というもの気付いていたに違いない。

ともかくも、尊氏の本歌は仏教臭さなどない、きりっとした、武士らしい良い歌なのだが、東条英機の歌はそれを仏教くさい、抹香臭い歌に作り替えてしまった。そのことに私は不満なのであるが、しかしそれでも、これはよく出来た歌だと私は思う。和歌としてはともかく狂歌としてみれば相当優れた歌だ。これほどの歌を詠める人はそうたやすくは見いだせまい。

平淡美

藤原為家は「平淡美」を理想としたとか「平淡美」を主張したとか、「平淡美」の理念を説き、などといろんなところに書いてあって、その根拠となるのが彼が書いた歌論書『詠歌一体(八雲口伝)』であるというのだが、この『八雲口伝』を読んでもどこにも「平淡」が良いなどとは書いてないように思える。たとえば『日本歌学大系 第三卷』の解題、これはおそらく編者の佐佐木信綱が書いたのだと思うが、

平淡美を理想とした彼の態度もよくあらはれて

とあるのだが、これは佐佐木信綱がそう思ったというだけではなかろうか。そして佐佐木信綱がそう書いたことを孫引きしてみんなが為家は平淡美なんだと思い込んでしまったのではなかろうか。

『八雲口伝』だが、まず「題をよくよく心得解くべきこと」とあり、題詠するときには与えられた題をおろそかにしてはならんというようなことが書いてある。次に「歌も折りによりて詠むべきさまあるべきこと」として、百首の歌を詠むときには中には地歌(平凡な歌)が混じっても良いが、二十首、三十首を詠むときには(ちゃんと精選して)良い歌だけを詠むべきだ、歌合では晴れの歌だけを詠め、などと書いてある。

三つ目は「歌の姿の事」。「詞なだらかに言ひくだし、きよげなるは姿の良きなり。」同じ風情でも悪く続けては台無しになる。同じ詞でも「聞き良く言ひ続けなす」のが上手、聞きにくい詞は三十一文字をけがす。

春立つと 言ふばかりにや みよしのの 山もかすみて 今朝は見ゆらむ

ほのぼのと 明石の浦の 朝霧に 島隠れ行く 船をしぞ思ふ

すべて優れたる歌は面白き所無き由(と『九品十体』で)申すめり。

『九品十体』は何のことかよくわからないが、藤原清輔あたりだろうか。ここで優れた歌と言っているのは上品な歌、下品ではない歌という意味だ。「春立つと」は壬生忠岑の歌。「ほのぼのと」は『古今』詠み人知らずの歌。為家は下品な歌の例として

世の中の 憂きたびごとに 身を投げば 深き谷こそ あさくなりなめ

を挙げている。この例の対比から彼が何を上品、何を下品と言っているかはわかるだろう。下品とは要するに狂歌のような歌、俳諧歌、戯れ歌という意味だ。面白くても戯れ歌ではダメだよと言っているだけのことだ。ちなみに中品の歌として

春来ぬと 人は言へども うぐひすの 鳴かぬかぎりは あらじとぞ思ふ

を挙げている。為家が上品として挙げた例は確かに平淡な歌と言って良いのだけれど、思うに佐佐木信綱は為家を平淡で単調でつまらない歌を新古今以降に流行らせた張本人だと決めつけているだけのように見えるのだ。まして私には彼が平淡を理想としていた、とはとても思えない。それは彼が詠んだ歌を見ればわかることだ。そして、佐佐木信綱だけでなくありとあらゆる人が「平淡美」「平淡美」と口をそろえて為家を評するのは滑稽というしかない。為家の歌論に「平淡」を言及した箇所が無いとはいわないが、彼は必ずしもそこばかりを強調したわけではない。もっといろんなことを言っている。

満(み)つ潮(しほ)の 流(なが)れ干(ひ)る間(ま)も なかりけり 浦(うら)の湊(みなと)の 五月雨(さみだれ)の頃(ころ)

早苗(さなへ)取(と)る 賤(しづ)が小山田 (をやまだ)麓(ふもと)まで 雲(くも)も降(お)り立(た)つ 五月雨(さみだれ)の頃(ころ)

為家は非常に用心深く技巧を凝らした跡を残さぬようにしている。それゆえ一見平淡にも見える。しかしそこにあるのは絵画のような美麗な世界であり、動きがあって、匂いや温度や風の流れさえも感じられて、自然描写ですら、宮殿に飾られた風景画のようにゴージャスで、絢爛で、妖艶と言っても良いくらいだ。定家が選んだ『新勅撰集』が平淡だったからそれにならって為家も平淡なのだという主張もまったく見当違いだと思う。

平淡美とはあまり為家には当てはまっていないと思う。

定家の『新勅撰集』や為家以降の二条派など、特に三条西実隆あたりにはふさわしい形容かもしれないが、為家は違うだろう。もっとほかに適切な評価のされ方があると思う。後世の二条派の悪いところを全部為家のせいにしている、為家は濡れ衣を着せられている、そんなふうにも思える。

家康の和歌

井上宗雄『中世歌壇史の研究 室町後期』、明治書院改訂新版とあるがところどころに誤字など残る。あるいは改訂後の加筆か。近衛信尹の「姉前子」とあるが、これは妹でなくてはならない。前子は信尹より10才年下のはずだ。

「近衛殿、様狂気に御成候、竜山様、御子様の事也」「宮中、異形にて御注進也」「以外之儀間、九州薩摩へ御下被成」

などと書かれていて笑う。

「近衛殿は海上にて生害了と」「実否は知らず」

とはつまり海上で自殺したと言われているが真否はわからんなどとも書かれている。

信尹の側近が作ったという『犬枕』という仮名草子があるそうだ。『犬之草紙』というものもあるらしい。

p.657 天正16年8月15日「衆妙集によると家康のは幽斎の代作であった。」p.673「その晴れの歌の一首が幽斎の代作であることは分かっている」

などと書いているのだが、根拠はあるのだろうか。『衆妙集』は細川幽斎の歌集だが、いったいどこにそんな話が載っているのだろう。たしかに『衆妙集』には「人々にかはりて」詠んだ歌というものがいくつも載っているが、家康の歌と同じものはないように思う。

松平上総介

海舟座談については前にも書いたのだが、松平上総介とは松平忠敏のことで、石高はよくわからないが、およそ二千石くらいの旗本であったらしい。明治になると御歌所の歌道御用掛となって、ウィキペディアには高崎正風を投げ飛ばしたなどと書かれているが出典が良くわからない。

松平忠敏はまた勝海舟に歌を詠むよう盛んに勧めたというがこれも明治になってからのことだろう。いろいろ調べてみるとなかなか面白い歌を詠んでいるようだ。たとえば、

事(こと)しあらば 草(くさ)むす屍(かばね) 事(こと)しあらば 水漬(みづ)く屍(かばね)と 思(おも)ふばかりぞ

何事(なにごと)も 憂(う)しと思(おも)へば 憂(う)かりけり 楽(たの)しとのみや 思(おも)ひ渡(わた)らむ

などなど。

五月雨の頃

「さみだれのころ」を最初に詠んだのは西行であろうと思う。それを俊成が真似て、さらに後鳥羽院や良経が真似た歌が『新古今』に採られることで世間に知れ渡ったのだと私は推測する。まずは西行の歌を見るが、それらはほぼ、彼の家集『山家集』に見られるだけで、『新古今』には採られていない。

西行は明らかに「水」が大好きだった。西行は「花の歌人」として名高いが、実は「水の歌人」と呼んでも良いくらい水の歌を多く詠んでいる。雨、五月雨、時雨、初時雨、村時雨、冬時雨、嵐、雫、雲、雲居、白雲、八雲、雲路、浮雲、横雲、瀧、滝川、瀧枕、池、沼、沢、川、入江、菖蒲(あやめ)に真菰(まこも)。春夏秋冬、ありとあらゆるパターンの水に関わる歌を詠んでいる。清少納言が「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬は早朝(つとめて)」というなら、西行は「春は春雨」「夏は五月雨」「秋は時雨」「冬は雪」と言うに違いない。

「五月雨の頃」以外に「五月雨の空」「五月雨の晴れ間も見えぬ雲路」「五月雨に水まさるらし」「その五月雨の名残りより」「五月雨は野原の沢に水越えて」「五月雨に小田の早苗やいかならむ」「五月雨に山田の畦の瀧枕」「五月雨は行くべき道のあてもなし」「五月雨の軒の雫に玉かけて」「五月雨の頃にしなれば」「五月雨に干すひまなくて」「五月雨はいささ小川の橋もなし」「水底に敷かれにけりなさみだれて」「五月雨の小止む晴れ間のなからめや」「五月雨に佐野の浮橋うきぬれば」「五月雨の晴れぬ日数のふるままに」「五月の雨に水まさりつつ」「五月雨の晴れ間たづねてほととぎす」などなど。いやはや驚くべき執念だ。