人斬り鉤月斎

「人斬り鉤月斎」というものを書いているのだが、またどこかの新人賞に応募すると思う。百枚ぎりぎりくらい。

タイトルどおり普通の剣豪小説、時代小説のたぐいなのだが、自分的に剣豪小説書くのはすごく珍しい。たぶん初めて。書いてみるとわかるが、普通の陳腐な剣豪小説と差別化するのが難しいってのと、膨大な過去の蓄積があるから、やっぱどうしてもそれと比較されるのでやはり書くのがむずかしい。同じことか。これ普通の剣豪小説とどこが違うのとか言われそうで怖い。

自分なりに分析すると、戦前の菊池寛あたりの剣豪小説というのは古き良き体制的な剣豪小説であるが、戦後はそれを否定した反体制的、つまり、幕府とか主君というものに反抗するとか、庶民の目線でとか、個人主義的なとか、そんな剣豪小説が流行った。

しかし今の自分にとってはそういう反体制的な匂いのする剣豪小説というものがすでに、鼻もちならん説教臭のする陳腐な話なのであって、その否定、つまり、反反体制的、みたいな。しかし、反反体制的だからといって体制的でも戦前的でもないみたいな。あれ、なんかポストモダンってもしかしてこんな話なのかな。ポストポストモダン、みたいなもんかな。まあともかく、既存の戦後民主主義的テレビドラマ的時代小説を破壊したくて書いてみました(笑)これまで、時代小説というか歴史小説みたいなの書いて、チャンバラが出てこないのはそういうのに反発感じてたからだと思う。

三月末までにもう一本くらい書けそうな気がしてきた。

マイエンフェルト駅は無かった?

ハイディのドイツ語原文を検索しても、Bahnhof Maienfeld というものは出てこない。
Bahnhof という単語は一箇所だけ出てくる。ドイツ語の Wikipedia を調べていると、どうもマイエンフェルト駅とかラガーツ温泉駅などというものは当時はなかったらしく、最寄り駅としては Bahnhof Landquart というものがあるのみ。この Landquart というのはマイエンフェルトからライン川をさかのぼって支流がドムレシュクとプレッティガウに分かれる分岐点にある。ていうかマイエンフェルトというよりはプレッティガウという方が近いと思う。思うのだが、Maienfeld と Landquart の間に Malans とか Jenins という小さな集落がある。これらがデルフリのモデルなのだろう。そして、山小屋からデルフリを抜けてLandquart駅に向かったとすれば、Malans が一番デルフリの場所としてはふさわしいように思われる。

Landquart駅が出来たのは1858年だが、このときグラウビュンデン州の州都Churからサンクトガーレン州までライン川沿いに鉄道が延びただけであり、途中 Sargans からチューリッヒまで鉄道が延び、これによってフランクフルトとマイエンフェルトの間が鉄道で結ばれたのは 1875年のことらしい。

ラガーツ温泉ができたのは 1870年のことである。フランクフルトからお金持ちがラガーツ温泉まで保養にきたというのは鉄道できたのに違いなく、それは1875年から後となる。となるとハイディがアルムおじさんに預けられたのは1876年以降となり、このときハイディが8才であるから、ハイディの生まれた年はやはり1868年くらい、ということになる。

まあともかくクララのおばあさんは開通したばかりの鉄道でラガーツまで遊びに来ていたというわけだ。観光客はたぶん、Landquart駅ではなくて Sargans駅からラガーツに馬車か何かで移動したのだろうと思う。


追記: Bahnhof Maienfeld ができたのは 1858年である。ハイジの発行は1880年と1881年。

白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。ネットで検索しても何もわからんのだが。このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。案外何もわかってないのだなあ。

メディアリテラシー

まあこんなことをぶつぶつ書いてもしょうがないのだろうが、NHKのニュースで、手術前に点滴を打たなくても同じ成分の生理食塩水的なものを口から摂取してもよくなりましたというのをやっていた。まあそれはよい。しかし、病院というところはたいていのばあい手術前だけでなくて、三日とか七日とかぶっとおしで点滴を打つものだ。たまたま手術前に絶食して点滴する、それをしなくてよくなりましたというのは、そうだな、一部の外科の患者だけのことであり(たとえば痔の手術などがその典型だろうか)、それ以外の場合、長い長い闘病生活の中の一部に過ぎない。むしろ、手術前は、食事を抜いて点滴を打って、気持ちの切り替えをしたくらいでちょうど良いと思う。手術というのはつまり電気メスなんかで体を切りひらくのであろう。点滴の針を打つのとはわけが違う。

手術前に点滴を打つか打たないかというのは要するにそのくらい些細なことにすぎない。
まあお暇なら私の書いたもの(安藤レイ)でも読んでください(※現在非公開)。闘病生活に関してはだいたい実話だから(笑)。

しかしそんなどうでも良いことをわざわざ大げさにものすごく画期的なことのようにデフォルメしてニュースにする。なぜそんなことをするのか。だれがうれしいのか、そんなことをして。

たぶんこれを作ったプロデューサーは自分が入院したことがないのだろう。私がインタビューを受けたら、きっと「そんな一度点滴をさすかささないかなんて誤差に過ぎませんよ。」とでも答えるだろう。しかし、そういう答えはニュース構成を破綻させるから没になり、私はめでたくテレビには映らないことになるだろう。

以前もなんか、癌か何かを早期発見するかしないかとかそんな話題があった。見てる感じでは、まだ実験段階で、実用化されるには十年以上はかかりそうな話で、しかも適用範囲がとても狭い。そんなものをまるでプロジェクトXか何かのように報道していいのか。

NHKというのは国会で予算が組まれる国営放送なのだから、他の民放などが利益のためにはやらせくらいは当たり前なのとは違って、きちんと国民に対してメディアリテラシー教育を行う義務がある。Aという「個人の感想」があればAとは反対のBという「個人の感想」を伝えねばならない。しかし、報道に都合の良いAという意見だけを、皆同じ意見であるかのように作る。そんな番組を作ってはいけない。

それから最近NHKは電波塔の話ばかり流しているが、地デジなんてものはそもそも不要であり、電波なんて競売にして、それでも必要なやつが勝手に自分の金で電波塔を建てればよいのだ。それをまるで国家プロジェクトでもあるかのように毎日のように報道しやがる。やれ花見だやれ地域活性化だとか。たかが電波塔に大騒ぎするなという意見、特に携帯電話などの業界の意見も採りあげるんならまだバランスが取れるかもしれんが、まるで地デジや電波塔は国是でもあるかのような錯覚を起こさせる、プロパガンダ放送はやめるべきだ。

NHKがきちんと教育放送でメディアリテラシーの番組も流すならほめてやろう。それも大学生向けとかではなく小学生くらいからばんばん教育するのだ。そうすりゃ民放もずいぶん迷惑するだろうし、NHKの株はさらに上がると思うのだが。だいたい国家や営利企業の言うことを鵜呑みにするから戦争になるのだ。そういう大衆を扇動しかねないメディアがいかに危険かということをきちんと教育するのが、不幸な戦争や事故を二度と起こさないようにするほんとうの方法だ。

ところで一部で話題になっている、受託開発を振り返って というネタだが、思うに、「コンシューマゲーム開発におけるモラル」(なんだそりゃ)というものがどんなものかは知らないが、

上司の機嫌一つでころころ指示内容は変わるし、実際スケジュールも容量も当初の契約の倍以上に膨れ上がりましたし、果てはそれを「フレキシブルな裁量」と胸を張る始末。

上司が仕様変更を認めちゃうんだから仕方ないよなあ。自分ところの上司のせいだなそれは。仕様変更を認めてあげるのもサービスのうちだと思ってるんだなその上司は。じゃあ仕方ない。商売の一つのやり方としてそんなサービスを提供するのは有りだ。私はもちろん嫌だが。

ライターにもよると思いますが、私は何百枚、何千枚という原稿を書いても、「この一言を伝えたかった」という一瞬のために物語を書いています。けれどその一言(どころかシーン丸々)、小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪されている箇所が多々ありました。

それは、ライターなんだからしょうがないんじゃないの。「小学生が書いた作文のような稚拙な文体で、薄っぺらい内容に改悪」というのはしょせん主観に過ぎないし。ていうか、プロのライターのくせにそんなくらいの妥協・打算も経験したことがないのか、そのほうが不思議だ。

評価は気にする必要ありません。売れた本数が全てです」と豪語されて

それは、「豪語」ではないよな。小学生みたいな文体にした方が受けるとプロデューサーが判断したまでではないのか。

いずれにしても、多少クリエイティブな業界にシンパシーを感じている人間にとっても、共感は得られない話だなあと思った。そんな話はいくらでもあるし。こちとら毎日NHKのニュース見ててもいらいらしてんのに。もうニュースすら見ない方がいいのかな精神の平安のためには。まして民放のバラエティなんて見ようもんなら発狂しそうになる。

中島敦ですらあの程度の扱われ方しかしてない。まして普通のライターや作家がどんな目にあってもおかしくない。

リソルジメント

イタリア統一戦争はイタリア語では il Risorgimento と言い、英語で The Resurgence (再起、復活) と言う意味であり、Italian unification と訳されることもあるようだ。英語版 wikipedia を良く読むと、ガリバルディ軍は、イギリスによるサポートを受けていた。

イギリスはなぜスペイン・ブルボン家が治める両シチリア王国ではなくて、ガリバルディを助けたのか。これも英語版には書いてある。まず、シチリアのブルボン家は地中海に進出してこようとしていたロシア帝国とつながろうとした。ロシアが黒海から地中海へ出てシチリアを拠点とすると、イギリスは困る。スエズ運河の権益は絶対手放せない。シチリア島は、地中海の戦略的拠点であるから、イギリスはガリバルディに恩を売ろうとした、ブルボン家を懲らしめた、ということらしい。もしかするとロマノフ家とブルボン家の間に縁組でもあったのかもしれんが、よくわからん。


イギリスはガリバルディを援助して彼に両シチリア王国を攻めさせました。なぜイギリスはガリバルディに加担したのですか。何か密約のようなものがありましたか。イギリス海軍に対する利権とか?

1860年、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる千人隊(赤シャツ隊)がシチリアに上陸して両シチリア王国を打倒した際、イギリスが彼らを暗黙のうちに支援・保護したのは歴史的事実です。

しかし、ガリバルディとイギリスの間で特定の密約や海軍基地などの利権取引があったわけではありません。イギリスの支援は、より広範な地政学的・経済的戦略と、当時の世論・自由主義的同情に基づいたものでした。

イギリスがガリバルディ(イタリア統一)を後押しした理由

1. 地政学的なパワーバランス(フランスとロシアへの牽制)

当時のイギリス(パーマストン男爵内閣、パーマストン首相とパーマストン外交を主導したパーマストン/パーマストン卿・パーマストン伯ではなく、首相パーマストン卿と外相ジョン・ラッセル卿)にとっての最重要課題は、地中海における覇権の維持でした。

  • フランス(ナポレオン3世)の拡大阻止: サルデーニャ王国は1859年のイタリア統一戦争でフランスの支援を受ける見返りに、サヴォイアとニースをフランスへ割譲しました。イギリスは「このままではイタリア全土がフランスの傀儡(かいらい)になる」と強く警戒しました。自立した強い親英的な統一イタリア王国が誕生すれば、地中海でのフランスの勢力伸長を食い止める防波堤になると考えたのです。
  • ロシアの地中海進出阻止: 両シチリア王国(ブルボン家)はロシア寄り・親オーストリア的な姿勢をとっており、イギリスにとっては都合の悪い存在でした。

2. イギリス海軍の直接的介入(マルサラ上陸時)

1860年5月11日、ガリバルディ隊がシチリア島のマルサラに上陸した際、イギリス海軍の軍艦2隻(「インテリジェント」と「アルゴス」)が港のすぐ近くに停泊していました。

両シチリア王国の海軍警備艇はガリバルディの船を砲撃しようとしましたが、「港にいるイギリス艦やイギリス人の命・財産を傷つける恐れがある」として攻撃をためらいました。結果としてガリバルディ隊は無傷で上陸を完了できました。これは公式には「自国国民保護のための駐留」ですが、実質的にはガリバルディを援護する意図的な示威行為でした。

3. 硫黄(硫黄鉱山)の経済的利権と貿易問題

質問にある「利権」に最も近いものとして、シチリアの硫黄問題(Sulfur Crisis)があります。

  • 当時、シチリアは火薬や化学工業の原料となる硫黄の世界的な一大産地でした。
  • 1830〜1840年代、両シチリア王国が硫黄の専売権をフランス企業に与えようとしたため、イギリスとの間で激しい外交摩擦が起きていました(イギリス海軍による封鎖手前まで発展)。
  • ブルボン家の旧態依然とした保護貿易や独裁体制に対し、イギリスの産業界・商人層は強い不満を抱いており、自由貿易を推進する新しい政権の誕生を望んでいました。

4. 世論と親英派ガリバルディの人気

イギリス国内では、ブルボン家による両シチリア王国の専制政治(政治犯への苛烈な弾圧など)が「欧州で最も野蛮な政権」と激しく批判されていました。

対してガリバルディは、自由と民主主義のために戦う「2つの世界の英雄」としてイギリス国民から絶大な人気を集めていました(後に彼がロンドンを訪問した際は数十万人の群衆が歓迎しました)。民間からの義援金や義勇兵も多く集まり、政府もこれを公然と容認していました。

まとめ

ガリバルディとイギリスの間に「海軍基地を与える」といった具体的な密約があったわけではありません。むしろガリバルディ自身は共和主義的な熱情で動いていた人物であり、個人的な利権のために動くタイプではありませんでした。

イギリス側から見れば、「ガリバルディを利用してブルボン家を倒させ、サヴォイア家(カヴール男爵)のもとで親英・自由主義的な統一イタリアを作らせることが、地中海での自国の覇権と貿易益に最も叶う」という計算が合致した結果の支援だったと言えます。

両シチリア王国はスペインブルボン家ですよね。ブルボン家はイギリスに非協力的だったのでしょうか。

はい、おっしゃる通り両シチリア王国を治めていたのはスペイン・ブルボン家の分家(シチリア・ブルボン朝)です。

そしてご推察の通り、両シチリア王国のブルボン家はイギリスに対してきわめて非協力的かつ対立的でした。イギリスがガリバルディの征服運動を暗黙のうちに後押しした最大の動機は、まさにこの「反英的なブルボン政権を退場させたかったから」にあります。

両シチリア王国のブルボン家がなぜイギリスと決定的に対立するようになったのか、その背景には歴史的経緯、経済対立、そして政治体制の相違という3つの大きな理由がありました。

1. 経済的対立:シチリア「硫黄危機」(1838年〜1840年)

最も露骨に利権が衝突したのが、火薬や工業原料として当時絶大な価値を持っていたシチリア産の硫黄をめぐる対立です。

  • イギリスの利権確立: 19世紀前半、イギリス企業はシチリアの硫黄採掘に巨額の投資を行い、事実上の独占的取引権を握っていました。
  • 国王フェルディナンド2世の反発: 1838年、両シチリア国王フェルディナンド2世は、イギリスの経済的影響力を排除して自国の収入を増やすため、イギリスとの条約を一方的に破棄し、フランスの商社に硫黄の専売権を与えてしまいました。
  • 軍事衝突寸前の危機: これに激怒したイギリス首相パーマストン卿は、軍艦を派遣してナポリ湾を海軍封鎖し、両シチリア王国の船を拿捕・押収する強硬手段に出ました(最終的にはオーストリアの仲裁でフランス専売が撤回されました)。

この事件以降、ブルボン家は「イギリスは自国の主権を脅かす強圧的な存在」とみなし、イギリス側も「ブルボン家は約束を守らない不誠実な政権」と深く敵視し合うようになりました。

2. 外交的対立:親ロシア・親オーストリア路線

当時のヨーロッパ地政学において、イギリスの最大のライバルはロシア帝国とフランス(および旧態依然としたオーストリア)でした。

両シチリア王国は、イギリスやイギリスの主導する自由主義勢力に対抗するため、ロシア帝国やオーストリア帝国との関係を急速に深めました。

特にクリミア戦争(1853–1856年)において、英仏がロシアと戦っている際、両シチリア王国は中立を装いつつロシアに好意的な態度をとりました。地中海の要衝であるナポリ・シチリアが親ロシア的な拠点となることは、地中海の覇権を握りたいイギリス海軍にとって耐え難い安全保障上のリスクだったのです。

3. 政治体制の対立:「ヨーロッパで最も野蛮な専制政治」

イギリスは立憲君主制と自由主義貿易を推進していましたが、両シチリア王国は厳格な絶対王政(暗黒政治)を貫いていました。

  • 1848年の革命を、フェルディナンド2世は自国市民への艦砲射撃によって凄惨に鎮圧しました(これにより彼は「爆撃王=Re Bomba」と悪名高く呼ばれるようになります)。
  • 政治犯に対する凄惨な拷問や投獄が横行し、後にイギリス首相となるウィリアム・グラッドストンは1851年にナポリの刑務所を視察した後、両シチリア王国の統治を「神に対する冒涜を制度化したもの(The negation of God erected into a system of Government)」と痛烈に批判する公文書を発表しました。

イギリスの世論や政治家にとって、ナポリのブルボン家は「打倒されるべき野蛮で不快な絶対君主」であり、彼らを追い払うことは国際政治上の正義でもあったのです。

まとめ

もともとナポレオン戦争期(19世紀初頭)には、イギリス海軍はブルボン家を保護してナポレオンからシチリアを守ってあげた経緯がありました。

しかし、その後のブルボン家が「反英・親ロシア」「自由貿易の拒否」「凄惨な弾圧政治」へと舵を切ったため、イギリスにとって両シチリア王国は「地中海における邪魔者」へと変わってしまいました。

だからこそ1860年、ガリバルディがブルボン家を倒すためにシチリアへ乗り込んだ際、イギリスは待ってましたとばかりに彼を後押ししたのです。

イギリスがシチリアにいやがらせをしたので、シチリアはロシアを頼らざるを得なかったのではないでしょうか。

非常に鋭く、歴史の本質を突いたご指摘です。

おっしゃる通り、歴史を「シチリア(ナポリ・ブルボン家)の視点」から捉え直すと、「イギリスの強権的な外交圧力(イギリス側から見れば利権の防衛、シチリア側から見れば強圧的な嫌がらせ)によって追い詰められた結果、生き残りのためにロシアを頼らざるを得なかった」という側面は間違いなく存在します。

歴史はどうしても勝利者(イギリスや統一イタリア王国)の記録や視点で語られがちですが、当時の両シチリア王国の立場に立つと、状況は以下のように見えていました。

1. 「恩人」から「支配者」へと変貌したイギリス

ナポレオン戦争期、ナポリを追われたブルボン家は、イギリス海軍の保護のおかげでシチリア島だけは死守できました。この時、イギリスはシチリアに駐留し、実質的な保護国のように振る舞いました。

しかしナポレオン敗北後、イギリスはシチリアの自治を認めた「1812年憲法」の維持を反故にし、ブルボン家がナポリとシチリアを統合して絶対王政(両シチリア王国)に戻るのを容認・放置しました。ブルボン家から見れば、イギリスは「助けてくれたと思ったら、都合よく自国の地中海戦略に利用し、経済的に買い叩いてくる圧迫者」と感じられるようになっていきます。

2. 硫黄問題に見る主権の侵害

「硫黄危機」の際、国王フェルディナンド2世が目指したのは、自国の資源(硫黄)をイギリスに安く買い占められる構造から脱却し、フランス企業も参入させて競合させることで「国家の自主権と財政収入を取り戻すこと」でした。

しかし、これに対するイギリスの反応は、外交交渉ではなく「軍艦を派遣して港を封鎖し、民間船を拿捕する」という露骨な砲艦外交でした。小さな独立国であった両シチリア王国にとって、超大国イギリスのこの態度は「横暴な嫌がらせ・主権侵害」そのものであり、絶大な恐怖と激しい反英感情を植え付けることになりました。

3. 大国間のバランスを取るための「ロシア接近」

イギリスから軍事的な圧力をかけられ、なおかつ北からはオーストリアの影響力に脅かされていた両シチリア王国にとって、自国の独立とブルボン家の王座を守るための選択肢は多くありませんでした。

当時、地中海への進出(南下政策)を狙っていたロシア帝国は、イギリスに対抗できる唯一の超大国でした。

ブルボン家にとってロシアに頼ることは、単なる反英感情だけでなく、「イギリスという巨大な覇権国に対抗するために、別の超大国(ロシア)を引き入れてパワーバランス(勢力均衡)を保つ」という、小国として生き残るための合理的な外交戦略だったと言えます。

結論:卵が先か、鶏が先か

イギリスと両シチリア王国の関係は、相互の不信感が螺旋のように深まっていった結果でした。

  • イギリス側の言い分: 「ブルボン家が不当に約束を破り、親ロシア路線をとって地中海の安全保障を脅かしたから圧力をかけた」
  • シチリア側の言い分: 「イギリスが経済利権を振りかざして主権を脅かし、不当な圧力をかけてきたから、ロシアに助けを求めざるを得なかった」

歴史の客観的な構図としては、「イギリスによる過度な干渉と圧力が、両シチリア王国を反英・親ロシアへと追いやった」という見方はきわめて妥当であり、当時のブルボン家が抱いていた強い被害意識と危機感を的確に捉えた視点だと言えます。

そういえばサヴォイヤ公国はイギリス側について露土戦争に兵を送っていますよね。ということは、カブール首相も、ガリバルディがシチリアを攻めることに同意または許容していたのでしょうか。

結論から言うと、カヴール首相はガリバルディのシチリア遠征を公式には「黙認・表面上は制止」、裏では「許容・利用」という二枚舌の態度をとっていました。

サルデーニャ王国(サヴォイア家)がクリミア戦争(露土戦争の局地戦)に参戦した経緯と、ガリバルディの遠征に対するカヴールの計算は、すべて彼の徹底した現実主義(リアリズム)外交という一本の糸でつながっています。

1. クリミア戦争への参戦(1855年)と英仏への「貸し」

サルデーニャ王国が直接的な利害のないクリミア戦争に1万5,000人規模の軍隊を派兵したのは、イギリスやフランスに大恩を売り、イタリア統一問題(オーストリア排除)を国際社会の議題に乗せるための壮大な投資でした。

この参戦によって、カヴールは以下の手札を手に入れました。

  • パリ講和会議(1856年)での発言権: イタリアの統一を求める主張を英仏に公式にアピールできた。
  • イギリス・フランスとの信頼関係: 特に親英・親仏のポーズを深め、列強の好意的な中立(あるいは裏での支援)を確保した。

2. カヴールとガリバルディの複雑な「確執と共犯関係」

1860年春、ガリバルディがジェノバからシチリアへ向けて千人隊(赤シャツ隊)を出航させようとした際、カヴールはきわめて複雑な立場に置かれました。

【カヴール(冷徹な政治家・外交家)】
  ├─ 共和派のガリバルディを警戒(独走されて共和制国家を作られるのを恐れる)
  ├─ 列強(フランス・オーストリア等)に「無許可の侵略行為だ」と批判されるのを恐れる
  └─ しかし、成功すればサヴォイア家のもとで南イタリアを併合できる最大のチャンス

【ガリバルディ(情熱の革命家・軍人)】
  ├─ ニースをフランスへ割譲したカヴールを激しく憎悪
  └─ カヴールの意向は無視し、独自に千人隊を率いてシチリアへ進撃

カヴールがとった「二重の戦略」

カヴールは表向きと裏で正反対の対応をとりました。

  • 表向き(外交ポーズ):「サルデーニャ政府はガリバルディの無謀な遠征とは一切無関係である」「海軍に遠征船を阻止するよう命じた」と列強(特にオーストリアや両シチリア王国)に釈明しました。
  • 裏側(本音と許容):実際には出航を力づくで止めることはせず、武器の入手などを暗黙のうちに容認・放置しました。さらに、イギリス海軍がマルサラ港周辺に展開してガリバルディの上陸を実質保護することも事前に想定・織り込み済みでした。

3. 「ガリバルディが勝ったら横取りする」カヴールの土壇場での逆転劇

ガリバルディが予想以上の大勝利を収め、シチリアからイタリア本土(ナポリ)へと破竹の勢いで進撃すると、カヴールは焦り始めます。ガリバルディがそのままローマ(教皇領)まで攻め上ると、カトリック国であるフランス(ナポレオン3世)が介入して統一事業が崩壊する恐れがあったためです。

そこでカヴールは、国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルデーニャ正規軍を南下させ、ローマの手前でガリバルディと合流させました。

ガリバルディは個人的な野心を捨て、「私たちが勝ち取った南イタリアを、国王陛下(サヴォイア家)に捧げます」として征服地を献上しました(テアーノの会見)。

まとめ

サヴォイア公国(サルデーニャ王国)がクリミア戦争でイギリス側について戦ったことで、「イギリスの地中海戦略」と「カヴールのイタリア統一戦略」は見事な利害の一致を見せました。

カヴール自身はガリバルディの独走に戦々恐々としていましたが、「ガリバルディが成功すれば南イタリアを獲得し、もし失敗したら『狂信的な革命家が勝手にやったこと』として切り捨てる」という計算のもと、イギリスの援護射撃を利用しながら遠征を黙認・許容していたのです。

カヴールとガリバルディの対立のきっかけとなった、フランスへのニース割譲(サヴォイア・ニース割譲条約)について詳しく教えてください。

カヴールとガリバルディの確執を決定的なものにした「サヴォイア・ニースの割譲(トリノ条約)」は、冷徹な外交官であるカヴールの「現実主義(リアリズム)」と、熱血な愛国者であるガリバルディの「情熱と故郷愛」が真っ向から激突した、イタリア統一史最大のドラマの一つです。

1. なぜ割譲されたのか:プロンビエールの密約(1858年)

1858年、カヴール首相はフランス皇帝ナポレオン3世と密かに会談(プロンビエールの密約)を行いました。

当時、北イタリアを支配していたオーストリア帝国を追放し、サルデーニャ王国(サヴォイア朝)主導でイタリア統一を進めるには、どうしてもフランス軍の強大な軍事力が必要でした。

  • ナポレオン3世の要求: 「オーストリアとの戦争でフランス軍を出す見返りに、サルデーニャ王国の領土であるサヴォイアとニース(ナッツァ)をフランスへ割譲せよ」
  • カヴールの決断: カヴールにとって、この条件はきわめて苦しいものでした。しかし「イタリア統一という大事業を成し遂げるためなら、一部の領土を差し出すのもやむを得ない」と割り切り、この密約を結びました。

1859年のイタリア統一戦争(第二次イタリア独立戦争)を経て、1860年3月のトリノ条約により、サヴォイアとニースのフランス割譲が正式に決定・実行されました。

2. ガリバルディ激怒の理由:「故郷を外国に売り渡した」

この割譲に誰よりも激怒したのがガリバルディでした。理由は単なる政治的対立にとどまらない、個人的かつ象徴的なものでした。

① ニースはガリバルディの「生まれ故郷」だった

ガリバルディは1807年、ニースで生まれました。彼にとってニースは愛する故郷であり、自らが命をかけて戦ってきた「イタリアの土」そのものでした。それをカヴールがフランスとの外交取引の手札としてあっさり手放したことは、「故郷を外国に売り渡された」という深い侮辱と裏切りに感じられたのです。

「カヴールは私を外国人に仕立て上げた」

(※ニースがフランス領になったことで、イタリアの英雄である自分が、書類上「フランス生まれ」になってしまったことを嘆いたガリバルディの有名な言葉)

② サヴォイアは王家の発祥地だった

サヴォイア(サヴォワ)は、サルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の家系(サヴォイア家)の千年の発祥地でした。王家の祖先の地すら取引材料にしたカヴールの冷徹さに、ガリバルディをはじめとする多くの愛国者・共和派が強いショックを受けました。

3. ガリバルディの反撃と「シチリア遠征」への転換

激怒したガリバルディは、ニースを力ずくで奪還しようと計画します。彼は義勇兵を集め、ニースへ乗り込んでフランスによる併合住民投票を力ずくで阻止しようと動きました。

もしガリバルディがフランス兵の駐留するニースを襲撃していれば、できたばかりのフランスとの同盟関係は崩壊し、ナポレオン3世の怒りを買ってイタリア統一事業そのものが潰れていたでしょう。

この危機的状況の最中、シチリアでブルボン家に対する反乱が起きたという報が届きます。

カヴールや側近たちは、ガリバルディの意識をニースから逸らすためにも、「ニースではなく、南のシチリアへ向かってブルボン家を倒してくれ」と彼のエネルギーを南へと誘導しました。

こうして結成されたのが、あの「千人隊(赤シャツ隊)」であり、ガリバルディは故郷ニース奪還を断念してシチリア遠征(1860年5月)へと舵を切ることになったのです。

まとめ:二人の対立がもたらした帰結

人物立場ニース割譲に対する考え
カヴール冷徹な現実主義者(外交官)大業(イタリア統一)のためには、フランスへの領土割譲という外交的コスト(犠牲)は不可避である。
ガリバルディ情熱的な理想主義者(革命家)1インチたりともイタリアの土を外国に渡すことは許されない。故郷を売るなど政治的背信行為である。

ガリバルディはその後、南イタリアを征服して国王に献上し、イタリア王国成立(1861年)に決定的な貢献をしました。しかし、彼がカヴールに抱いた激しい嫌悪感と不信感が消えることはなく、二人が和解することはついにありませんでした(カヴールは統一直後の1861年6月に50歳で急逝します)。

ニース割譲という「泥をかぶる決断」をしたカヴールと、それに激怒しながらも南イタリアを勝ち取ったガリバルディ。この二人の強烈な対立と互いの役割分担こそが、皮肉にもイタリア統一という奇跡を完成させる推進力となったのです。

イタリア統一戦争

調べれば調べるほど、ナポレオン戦争からイタリア統一戦争までのイタリアの歴史は面白いのだが、なぜ塩野七生は小説に書かないのか。十字軍書くよりずっと良いと思うが。いや、つまり、古代ローマの話はイタリア視点で書いてもいいかもしれん、ヴェネツィアとオスマントルコの戦いも。しかし、十字軍は、それよりずっとでかい話で、イタリア史観に無理やり押し込めて書くことは不可能だと思うのよね。

それはそうと、ガリバルディはなぜあんな短期間に両シチリア王国を滅ぼせたのか。英語版の wikipedia を読むと、シチリア島の首府パレルモに進軍するときに、イギリス軍が休戦を調停したとある。また、シチリア島からメッシーナ海峡をイタリア本土に渡るときに、イギリス海軍が助けた、とも書いてある。つまり、ガリバルディは、たった千人のイタリア人の義勇軍で両シチリア王国を倒したのではなく、当時の超大国であるイギリスの支援を受けたから成功したのである。なんだ普通のパワーポリティクスじゃんか。日本語版を読んでいるだけではその辺の事情がよくわからない。

ところで英語版では、イタリア統一戦争を Italian War of Independence と表記している。イタリア独立戦争。いったい何が何から独立するというのだろうか。どうもアメリカ人は、ひとつの国家ができる戦争を独立戦争と呼びたがるようだ。実に funny だ。そんなら、プロイセンが主導したドイツ統一はなんというかと調べると今度は Unification of Germany とある。意味わからん。

ふむ。イタリアはオーストリアから独立したことになっているのか。違うだろ、それは。
それは北イタリアの一部の話であり、全体としてみるとイタリア統一戦争と言うしかないだろ。そんなこと言うのならドイツ統一だってオーストリアからの独立戦争じゃんか。

両シチリア王国

『アルプスの少女デーテ』を手直ししているのだが、『ハイジ』は1880年に書かれていて、この年にハイジが10歳くらいだとすると、トビアスが生まれたのは1850年くらいとなる。
アルムじいさんはナポリで傭兵になったというが、このときナポリは両シチリア王国の首都。君主はブルボン家。このブルボン家はスペイン・ブルボン家だが、もとはフランスのブルボン家の分家。フランスとスイスは深い関係があり、スイスから直接ナポリに傭兵になりに行ってもおかしくはない。

しかし、両シチリア王国ではこの時期何も戦争が起きてない。近いのは1816年、ナポレオンの没落とウィーン体制確立のとき。次は1860年、ナポリがガリバルディ軍によって陥落してイタリア統一がなった時。

ナポリはそんな大きな国ではない。平時からうじゃうじゃ常備軍や傭兵が居たとは思えない。ガリバルディが攻めてきたときの負けっぷりからして、よほど油断していたか、そもそも軍備らしきものがなかった、とさえ思える。

それで、仮にボナパルト失脚時にアルムじいさんが従軍したとすると、ハイジがフランクフルトに行って帰ってきたのは1850年くらいのことになる。ちと時代設定が古すぎる。また、1860年に従軍したとすると、ハイジのフランクフルト行きは1890年くらいのことになり、時期的に遅すぎる。

それで、ハイジの作者は、執筆時の20年くらい前に起きた、比較的記憶に新しいイタリア統一戦争を漠然とイメージして書いたのではないか、時期的に合わないけど、という仮説が成り立ち得ると思う。そうすると、アルムおじさんの祖先がナポレオンのアルプス越え(1799年)に参加して傭兵で成り上がった、という話につながりやすい。先祖が1848年のウィーン体制崩壊のとき、ルイ・ナポレオンに従ったとすると、アルムじいさんのお父さんの時代になってしまう。まあ、それでも話は作れるのだが、ちとせわしすぎる。

アルムおじさんが1860年に両シチリア王国の傭兵だったとすると、ガリバルディによって征服される敗軍の中にいたことになる。それも話としてはおもしろい。今は、最初フランス・サルディーニャ連合軍に居て、それからサルディーニャ軍に編成された、という設定になっているのだが。さて、どうしたものか。

そもそも、アルムおじさんとハイジは1830年に書かれた別の話から借用したものであり、おじさんが傭兵にいこうがいくまいが、時代が合わないのは当たり前であるといえる。

私は『ハイジ』の中でデーテだけが実在のモデルに基づいて書かれている、と思っている。つまり、『ハイジ』は1880年当時のデーテ系のソースと1830年当時のアルムおじさん系のソースをミックスして作ったものなのだ。そうすると、1860年代にナポリで生まれた傭兵の子供というのが実はハイジなのではないか。傭兵に行ったのはトビアスなのではないか。デーテは何かの理由で、トビアスからハイジを預かることになり(トビアスが死んだので遠縁ということで引き取ることになったのかもしれない)、10歳くらいのその子をフランクフルトに連れていったけど、都会生活にうまくなじめなかった、その話を聞いたのがだいたい1875年頃、とすればうまく辻褄があう。

病中手記

『安藤レイ』は『病中手記』というタイトルに変えようと思う。
最初はたわいない闘病記のようなものが次第にSFになっていく、という意外性のためだ。
「病中記」「病中日記」などは、事例が多い。
「病中手記」だと、少なくともすでに有名なものはないようだ。
「獄中手記」に似ているのもよい。
また、詳しく書きこんでいるところとさらっと流しているところの差が大きいのだが、
さらっと書いているところは、さらっとしか書けない、よく知らないからなのだ。
それをごまかすには、やはり闘病記の体裁にしておくのがよいかとおもう。

けっこういろんなしかけをしかけてあって、なかなか収束しない。
重複してる記述箇所を整理したり。
すでに二百枚超えた。でも三百枚にはならないと思う。
も少ししたら公開できると思う。

たぶん世間一般ではSFと風俗小説をミックスしたようなものは誰も読みたがらない、
というかこれまでなかったのではないか。
SFを読みなれた連中は中年のどろどろした恋愛を気持ち悪く思うだろうし、
逆に私小説風味な風俗小説好きには、科学とかフィクションのあたりに虫酸が走る思いだろうと思う。
女子供向けの漫画やアニメ、ラノベ全盛の今、
だから私がそれをわざとやってやる。そういうところが自分では痛快なのだが。
わかってもらえるだろうか。
潜在的なファン層はいるはずだが。

「SFと風俗」の延長という意味でも、『スース』に一番似ている。
『スース』を実体験を元に闘病記にしてフィクション要素を加えた感じ。

「歴史小説と現代小説のミックス」というのがこれまでのマイブームだったが、そちらはしばらくお休みする。
壮大な歴史小説をいくつか構想中だが、ちゃんと調べないと書けないんだよな。
一つは、美濃の外様大名と、関東の旗本(元は下総千葉氏)と、板橋の町人と医者が出てくるという話。
そのうち幕末になって長州や薩摩もでてくる。
むずい。書けないよ。

Chronographia Book 7

エウドキアの話はクロノグラフィア第七巻に出てくる。

On this occasion he entrusted all his duties to his wife, Eudocia. In his opinion, she was the wisest woman of her time and he thought that no one was better qualified to educate his sons and daughters.

結構長いな。冊子印刷してじっくりと読むか。英語版 wikipedia のソースに相当するのだろうが、今更 wikipedia の記述とそんなに差がないことを祈る。